三
鼻息荒く電車に乗り込んだ私はすぐに意気消沈した。車内があまりに混み過ぎていて身体の自由が全然きかないのだ。
事前に考えていたストーリーはこうだった。
満員電車に乗る。人の流れを利用して気の弱そうな乗客のそばに立つ。ターゲットに背中を見せるようにして身体を押し付け、電車の揺れにあわせて軽くお尻を手に触れさせる。駅が近づいてきたら突然その人の手を掴まえて決め台詞。あなた、お尻触ったでしょ。
しかし、初っ端から私の甘い目論見は見事に崩れ去った。
まず自分が人混みに埋もれてしまい、見えるのは目の前の乗客の肩だけ。一人ひとりの表情を確認して気弱そうなターゲットを見つけることなど無理な芸当だ。それに乗り込こもうとする人々の圧力が強すぎて、思うようなポジション取りができない。私は濁流に飲み込まれた小枝のように抗うすべもなく周囲に翻弄されながら、気がつけば鮨詰めの車内のどこに自分がいるのかさえ理解できない状態に陥っていた。満員電車に慣れていない私はまさに立っているのがやっとだった。電車が動き出すと、ちょっとした揺れで起こる人の流れに体重の軽い私の身体は簡単に浮き上がり、右へ左へ弄ばれる。
そんな車内では絶えず全身が周囲の誰かの身体に接触していて四方から圧迫されているようなもので、押し潰されて死んでしまうのではないかという危惧すら頭に浮かんでくる。こんな状況では胸を揉まれた、尻を撫でられたなどという感覚的な判断力など持ち合わせようもなく、既に乗り込んだときから胸も尻も誰かの何かによってむにゅむにゅにひしゃげられてしまっていた。
この状況下では極論を言えば誰もが痴漢であり、「この人、痴漢よ!」と訴えても、「お前こそ、身体を押し付けてきた痴女だろ」と返されたら抗弁できないのではないか。
今は加齢臭の漂うおじさんの赤茶けた首筋が目の前にある。逆にそれ以外何も見えていない。
視界が狭い。畜生。これではスカートを折り返して露出度を高めた意味が全くない。
そんなことを考えている間に何もできないまま電車は次の駅に到着してしまった。出来物がつぶれたときの膿のように乗客がブチっと車外に吐きだされ、ホームの何人かが城攻めのために石垣に飛びつく雑兵よろしく果敢に電車に乗り込んできた。
間もなく電車が動き出す。先ほどの駅で中学生の集団が降りて行ったらしく、少しだけだが周囲からの圧力が和らいだようだ。
私は諦めかけていた気持ちを引き締め直した。
顔を左右に振るぐらいの余裕ができて、自分の身体が車両のどこに位置するのか把握できた。両手も少し動かせる状態になっている。
気持ちは固まった。
都心に向かう電車なので、今後駅に着く度に混雑度は増していくだろう。つまり、待っていても今の状況が改善されることはない。となればチャンスは次の駅の手前しかない。こうなったら誰でも良い。
気持ちはサバンナのハイエナだった。シマウマの群れに襲いかかり、手当たり次第に喰らいつくのだ。弱肉強食の世界にルールなどない。捕まった者、すなわち敗者だ。狩れるときに狩らなければ、飢えてこちらが草原の片隅に屍を晒す憂き目に遭う。大げさでも何でもない。事実、今の私の財布には千円も入っておらず、家の蛇口を捻っても水は一滴も落ちてこない。
私は己の背後に神経を集中した。
視線の届かないそこに獲物が蠢いている。捕らえるべき腕が間違いなくそこにある。
緊張と高揚が入り混じり、濃密な人いきれに耐えきれず口を開けて喘ぐ。激しく上下する胸の動きが前に立つサラリーマンの背中を叩きそうなぐらいだ。じっとりと汗が滲み出た両の掌をスカートに押しつける。冷静さを保とうと下唇を強く噛んだ。
やる。私はやる。
私は肩から掛けたバッグの持ち手を強く握りしめた。
電車がスピードを落とした。ブレーキがかかり身体が慣性の法則に従って進行方向に流れる。
駅は近い。ここが勝負どころだ。両手を背中に回してそこにある手を掴むのだ。
しかし、頭は命令を下しても手が言うことをきかない。バッグを握りしめたまま動かすことができない。私の身体はカチンコチン。マネキンのように固まってしまっていた。
今や胸を締め付けるのは緊張以外の何物でもなかった。
私がやろうとしていることは犯罪ではないか。このまま電車に揺られていれば取りあえず多聞から一万円を借りることはできる。何もそんな危険を冒してまでして、あぶく銭を掴もうとしなくても良いのではないか。
そう思った瞬間、何かがお尻に押し付けられた気がした。それは人間の指に近いような感覚だった。一瞬の出来事だ。中指らしきものが尻の谷間に割り込んでくるや否や遠ざかっていく。
途端にスイッチが切り替わった。冷え冷えとした緊張が一瞬にして滾る怒りに変貌した。
私のお尻を触っておいて、金も置かずに立ち去ろうとは許せん。それが故意であろうが電車の揺れによる不可抗力だろうが関係ない。手だろうが傘だろうが許しはしない。触ったという事実に代価を払ってもらおう。万が一、男の一物で触れていようものならギャラは三倍に吊り上げる。
私の身体を縛り付けていた目に見えないワイヤーが切れ、自由を得た両の手は猛り狂って走り出した。
私は指先に全神経を集中して必死に両手を動かした。指に何かが引っかかった感触があった。何でも良い。たとえ指が千切れても離しはしない。
私は掴んだものを手繰り寄せ、そのままがっちりと両の小脇に抱え込んだ。
「痴漢です!」
私がそう叫ぶと、超がつくほどの満員だった車内に突然道ができた。まるでモーゼの十戒だ。サッと人が割れ私の前に栄光の扉が現れる。ドアが開き祝福の光が私の前途を照らすように車内に差し込んでくる。勝利のラッパを吹き鳴らす天使の舞いが見えるようだ。
周囲の人間が強者を称え敬うように整然と並ぶその前を私、長尾真琴は前に進む。両の脇に抱えているのは間違いなく人間の手。勝ったのは私だ。生命の糧となる獲物を捕らえたのだ。右と左に一本ずつある。
ん?一本ずつ?
ホームに降り立つと私は右と左の背後を順に見遣った。
右の後ろには岩を連想させる坊主頭があった。ちょっとふっくらした体型の眼鏡男で年齢不詳だ。一見四十がらみにも見えるが、顔の肌艶は良いので三十歳でも通りそうだ。薄暗い色合いのネルシャツと何の変哲もないジーンズ。そしてレンズの向こうにある不機嫌そうに細められた一重の目がオタクっぽい。大きなスポーツバッグを抱えているが一体何が入っているのだろうか。
反対側に首を振る。
そこにはひょろりと背の高い二十代後半ぐらいの男がいた。鼻筋が通っていて均整のとれた顔立ちだが、いかんせん顔色が悪い。そりゃ腕を掴まれて痴漢呼ばわりされれば誰だってこういう青ざめた表情をするのだろう。臙脂がかった赤いジャケットに淡い水色のズボンという色遣いは流行の一歩先を進んでいるようでもあり、三歩ほど後退しているようでもあった。
それにしても幾ら必死になって腕を伸ばしたとはいえ、二人も掴まえてしまうとは……。
どちらも女性でなくて良かった。考えようによれば五十万円をもらえる可能性が二倍に高まったということでもある。五十万円はもう手にしたようなものだと思うと、笑いをかみ殺すのも必死だ。
背後でドアが閉まる音がして電車が離れていく。
麗らかな昼時の日差しが跳ね返る駅のホームには私たちの他に人はいなかった。
長年風雨にさらされてくすんだ灰色のホーム。ポツンと寂しそうに立っている青い自動販売機。どこまでも果てしなく延びる赤茶けた線路。
私は二人の男の腕を両脇に抱えたまま、この後どうすべきか考えていなかったな、とその場に立ち尽くしていた。一陣の風が吹き抜けて私は心細さに胴ぶるいした。