二
私は立ち止まって胸に大きく息を吸い込んだ。
この季節、久しぶりに仰ぐ青い空が気持ち良い。ここのところ執筆活動に没頭していて、昼間に太陽を見上げる暇などなかった。駅までの道のりが華やいだ気分になるのは、一番お気に入りのプリーツスカートを穿いてきたからか。
意味もないのに振り返ってみてスカートの揺れを楽しんでみる。陽光を照り返すアスファルトにヒールの音を高く響かせる。
大手広告代理店で働く多聞に迷惑をかけるわけにはいかない、と出来るだけ清楚で可愛らしい恰好をしてきたつもりだ。水が出ないからシャワーも浴びておらず、ぼさぼさの髪もブラシで梳いてバレッタで止めただけだが、首筋になじませた香水が微かに漂って良い女を演出できている気がする。公園に立ち寄ってタダで水を飲み顔を洗うこともできたので少し気持ちもシャキッとしている。
しかし、駅の目の前まで歩いてきて不意に嫌なことに思い至る。
多聞の勤務場所までは私鉄と地下鉄を乗り継いで片道で五百円近くかかるだろう。たかが五百円。されど五百円。出来ることなら避けたい出費だ。
ムムム。
しかし、どう考えても歩いて行ける距離ではない。仕方ない。必要経費だ。
それでも私は踏ん切りがつけられず、取りあえず駅の周囲を一周してみた。近くに設置されている全ての自動販売機の釣銭返却口にさりげなく視線を飛ばす。
「そう簡単に落ちてるわけないっか」
這いつくばって自動販売機の下のわずかな隙間まで覗きこみたいところだが、明るい昼間にさすがにそこまでの度胸はなく、諦めて駅の構内に足を向けた。
財布から虎の子の千円札を取りだす。己の肉を削ぐような痛みを覚えるが、最後は目を閉じ歯をぎりっと噛みしめて券売機に挿入した。
切符を買い、お釣りを確実に財布に仕舞い改札に向かう。
改札の手前にホワイトボードが立っていた。何気なく通り過ぎようとしてギョッと立ち止まる。そこにあってはならない文字を見た気がしたからだ。一、二歩戻ってボード上の貼り紙を読んでみる。
「不通」という熟語を見つけた瞬間、目まいのような血の気の引く感覚に襲われる。
何とか腹に力を入れ直して目を見開き、最初から文字を辿ってみる。
信号機の故障で電車が不通になっているとのことだった。繰り返し何度も読み返す。しかし、何度読んでも電車が止まっていることに変わりはない。
ホンジツ、ゴゼンジュウジゴロ、シンゴウキガコショウシタタメ、ゼンセンデ……。
声に出して読んでいると次第に腸が煮えたぎるぐらいに怒りが込み上げてきた。
この手にある切符はどうなるのか。まさに断腸の思いで手放した野口英世をどうしてくれるのか。多門との約束は。部屋の水道は。これからの私の人生はどうなってしまうのか。小説だってこんなひどい展開にはならないぞ。
そこへどこからともなく制服を着た駅員が小走りに現れた。
「ちょっとぉ」
私は怒りをそのままぶつけるべく駅員に近寄って声を掛けたが、駅員は忙しそうにあっさり私の脇を通り抜けてホワイトボードの前に立った。
「ちょっと、あんたねぇ」
私はさらなる怒りで肩を震わせて駅員を振り返った。
駅員はホワイトボードの紙を剥がして新たな紙を貼り付けている。私はその駅員の背中を睨みつけながら呪詛を念じた。
コノキップドウシテクレル。カネカエセ、バカヤロウ。ツイデニメイワクリョウ、ゴセンエンヨコセ、コンチキショウ。
貼り終えて立ち去ろうとする駅員の前に、私は胸を張って立ちはだかった。
「ちょっとぉ、この切符どうしてくれるわけ?」
「電車は動き出しましたので、そのままご利用ください」
「へ?」
駅員は軽く一礼すると、あっという間に私の前から消え去った。
ホワイトボードには、「信号機の修理が終わり電車の運行は再開しましたが、ダイヤは大幅に乱れております。お忙しいところ大変ご迷惑をお掛けしますが、何卒ご容赦ください」とある。
電車が動いている以上文句は言えない。怒りが急速に萎えていく。仕方なく私は改札を通り、ホームへ続く階段に向かった。
階段を下る中途でホームを見渡して、私はうんざりして項垂れた。
ホームにはうじゃうじゃ人がいた。まさに立錐の余地もない状態だ。前もって復旧の見通しがアナウンスされていたのか、みんな運行が再開される前から辛抱強く電車を待っているのだ。
向こうの方で黒々と固まっているのは、どうやらそろいの制服を身にまとった中学生の集団だ。社会見学にでも行くのだろうか。ピーチクパーチク騒がしい。彼らはこの手持無沙汰の時間でさえもクラスメイトと喋っているだけで楽しいのだろうが、ついてないのはそれ以外の乗客だ。ただでさえ混んでいるのに、落ち着きなくやかましい中学生どもと一緒に鮨詰めの電車に乗り込むことになるとは。
この小さな駅ですらこの数だ。他の駅ではもっと大勢の乗客が電車を今や遅しと待ち構えているに違いない。これは超が付く満員電車に揺られることになりそうだ、とげんなりする。
すぐに駅の近くの踏切からカンカンカンと音が聞こえてきた。私が乗るのとは反対向きの電車が来るようだった。
やがて電車が到着しドアが開く。待ってました、とばかりに乗り込もうとする客の列を裂くように何人かの客が降りてきた。
そのときホームに待つ人たちが何か異様な雰囲気を察して、一様に端に分かれ道を作る。
用意された花道のような通路を歩いてきたのは体格の良い男性二人と、その二人に挟まれてしょんぼりとうなだれるサラリーマンだった。
私も反射的に道を開け三人を階段に通す。
三人が過ぎていくと、その後ろを何が気に入らないのか我々傍観者に対して敵意むき出しの視線を投げかける女子高生が駅員に付き添われて階段を上がっていった。
「痴漢だってよ。あの短いスカート見たら、そりゃムラムラするわな」
誰かの嘲笑の響きのある一言が耳に届いて、私はハッと階段を振り返った。
上っていく女子高生の短いスカートが揺れて、チラチラと赤い下着が見え隠れする。
なるほど、あれはそういうことなのか、と掌に拳を叩く。
痴漢の現行犯であるサラリーマンと、取り押さえた二人。屈強そうな外見はもしかすると私服刑事のコンビだったのかもしれない。
「可哀そうに。自業自得だが示談に高い金を積むんだろうな」
私の耳が電車待ちのサラリーマン同士の声を潜めた会話の中の「金」という言葉に敏感に反応する。
ふむふむ。痴漢とは金で解決するものなのか。
「高いって幾らぐらいなんだ?」
「丁度こないだ週刊誌で読んだけどよ、相場は大体五十万ぐらいだってさ。だけど場合によっては百万とか二百万とかもあるんだって」
「ケツ一撫でで五十万か。ぼろい商売だ」
「俺も女に生まれりゃよかったなー」
私はさりげなく自分のお尻に手をまわした。そっと擦ってみる。自分で触っても何ということはないが、これを他人がやると五十万円という大金が動くことになるらしい。
五千円に必死なのに、尻一撫でがその百倍。訂正シール五十万枚貼るのと同じ収入をもたらすということだ。私は並んでいる前の客の背中を睨みつけ、頭の中で素早く色々な要素を計算し始める。
「痴漢で訴えられたら九十九%が有罪なんだってよ」
「それだけ反証するのが難しいってことなんだろ」
私は決意新たに顔を起こし両の拳を握りしめた。
肩から掛けたバッグからサッと携帯電話を取り出し耳に当て、誰かに電話を掛けるふりをしながら電車を待つ人の列からさりげなく離れた。そのまま階段の陰に隠れるとすぐに携帯電話をバッグに仕舞う。
周囲に視線を飛ばし誰も見ていないことを確認して素早くスカートの腰の部分を二回折り返す。腹周りがきつくなり、自然に丹田に力が入る。私は「ヨシッ」と一発気合を入れて頷くと、何食わぬ顔で乗車待ちの列に戻った。スカートの裾は膝上十センチメートルほどのところをひらひらしている。
電車の到着を知らせるアナウンスがホームに流れる。
緊張で尿管が縮みあがるような感覚が下腹部に蠢く。しかし、後ろ暗い気持ちはない。言ってみれば一点買いの馬券を握りしめ、競馬場のスタンドでファンファーレを聞くようなものだ。競馬なんてやったことないけど。
やってやる。五十万馬券だ。ついでに小説のネタにもなりそうだ。
電車がホームに進入し強引に空気の流れが作られる。露わになった太ももを風が乱暴に吹き抜けていくが、高ぶって電車のドアしか見えていない私にはスカートの裾を抑えるようなしみったれた発想は無縁だった。