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本編の始まりです。

 今、眠りの向こうでチャイムが鳴り、ドアがノックされたような気がした。

 あれはうちのドアだったろうか。たぶんうちだろうな。

 そう頭で理解していても、私は眠りの沼から這い上がることができなかった。

 いや、やろうとすればできたのかもしれない。しかし、どうすべきかと考えたときには、心は抗いようもなく睡眠という名の甘美な魔手に絡めとられていた。

 まあ、いいや。

 我が家を訪れる人といえば新聞か宗教の勧誘と決まっている。そう言えば、こないだ変なおばちゃん三人組につかまりかけたっけ。日曜日の早朝に集会所に集まり、みんなで座禅を組んで自然のエネルギーを体内に取り込むことで一週間の活力を得る。そういうことを目的とした会に入らないか、と勧誘されたのだ。

 どれだけ説明されても趣旨に賛同できそうな部分が一ミリもなかった。お金くれるならいくらでも参加しますって答えたら三人とも鳩が豆鉄砲食らったような表情を浮かべていたっけ。

 私はそのときの三人組の間の抜けた顔を思い出して、唇をにやっと歪めながら再び意識を睡魔の手に委ねたのだった。

 次に目を覚ました時、気分は幾分すっきりしていた。寝不足による頭痛も和らいでいた。漸く人心地つけた感じだった。

 昨日はある文学賞の応募締切りの日だった。ほぼ丸三日間一睡もせず自分を追い込んで何とか作品を書き上げた。日没間際、這うようにして郵便局に原稿を持ち込み、東の空から忍びよる夜の闇から懸命に逃れるように半分意識を失ったような状態で部屋に帰りつくと、そのままベッドに倒れ込んだ記憶が微かに残っている。

 軽く頭を起こして壁時計に目をやる。

「まだ十時か」

 カーテンの隙間から陽光が鋭く差し込んでいる。朝のうちに目が覚めるとは、思いのほか身体が眠りを欲していた時間は短かったようだ。人間、寝だめはできないということか。それとも三日間の徹夜でも実はそれほど疲れていなかったのか。私ってまだ若さに自信を持って良いのかもしれない。だってまだ二十五歳なんだもの。

 二度寝に入ろうかと目を閉じかけた瞬間、猛烈な尿意が下腹部から湧きあがってきた。突然の発現だが、気付けばもう身体は我慢の限界にまで達しているようだった。私は脂汗が額から滲み出るのを感じながら、ガバッと布団をめくり上げ一目散にトイレに駆け込んだ。

 ふぅー。

 何とか粗相せず用を足し水を流す。便座の蓋を閉めながら私は小首を傾げた。

 あれ?何かいつもと違う。

 しかしその何かが分からなかった。何だろう。あってしかるべきものがない物足りなさ、不完全さに私の脳が警報を発している。しかし、私の脳内メカニズムはまだ起動途中で、その警報が何に起因して鳴っているのかまで特定するには時間が掛かりそうだった。私は強制的に警報を解除するようにトイレのドアを閉めて洗面台の前に立った。

 ひどい顔がそこにあって、我ながら一瞬怯む。

 髪がぼさぼさに乱れている。肌は粉をふいたような荒野だ。目がひとまわり小さくなったように腫れぼったい。疲れが抜けきっていないのか頭の奥の奥に重さが残り、視界もどことなく膜がかかっているようでピントがあっていない感覚がある。

 顔を洗ってシャキッとしよう。

 レバーを上げ蛇口の下に手を差し出す。

 シーン。

 まさに「シーン」だった。漫画で見るあれだ。出るはずのものが出ず、聞こえてくるはずの音が聞こえてこない。「シーン」の文字が差し出した両の掌に浮かび上がって見えるようだった。

「そうか」

 そこで思い当たった。先ほどのトイレでの違和感はこれだったのだ。確かにタンクから便器に水は流れた。しかし、タンクには一滴の水も補充されず、普段なら聞こえてくるはずのジャーという音がなかったのだ。

 私は慌てて玄関に向かった。ドアポストを開けるとピザのチラシや地域の広報紙に混ざって、私宛の緑色の封筒を見つけた。そこには大きく「水道局」の文字。

 震える手でビリビリと乱雑に封を切ると、中に入っていたのは一枚の紙片だった。「給水停止のお知らせ」という文字が目に飛び込んできて、その場にへなへなと座り込む。

 停止日は今日になっている。今十時を過ぎたところだからまだ停められてほやほやということなのか。

 ふと記憶の片隅に残っていた眠りの縁で聞いたチャイムの音が甦る。あれは水を停めに来た水道局の職員だったのか。あのとき頑張って起きていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。そう思って下唇を噛みながら、その紙片をもう一度良く読むと、私が滞納している料金は五千円を超えていることが分かる。

 私はチラシと広報紙を小脇に抱え、部屋に戻り財布の中を検めた。

 中には小銭が少しと千円紙幣が一枚だけだ。これではあのとき頑張って目を開けても同じことだっただろう。だからと言って得をしたという感覚は私の心の乾いた井戸の底に一滴も落ちることはないのだが。

「あーあ」

 財布をちゃぶ台に放り投げ、床にごろんと身を投げ出す。「いよいよ、ここまで落ちぶれたかー」

 水道を停められてしまうというのは、なかなか惨めなものだった。空気のようにあって当然と思って享受していたものすら、いとも簡単に取りあげられてしまう現実に、自分の人間としての価値が損なわれてしまったような気持ちがした。こんなことが両親に知れたら大目玉だ。人一倍世間体を気にする繊細な性格の母親はきっと泣き叫び思い詰めて体調を崩してしまうだろう。

 まいったな。

 しかし、ぼんやり寝転がって天井を見上げていても蛇口から水は流れてこない。とにかくお金を手に入れないと。少なくとも五千円。

 通帳は気が滅入るから見ない。見なくても残高が五千円もないことは百も承知だ。

 私はチラッと部屋の隅に山積みしてある紙の束を眺めた。

 とある会社のパンフレットとシールの山だ。印刷されたパンフレットの内容にミスがあり、そのミスの上に訂正シールを貼る。塵も積もれば山となる方式の在宅ワークの典型とも言えるアルバイトだ。応募原稿が書きあがったら取りかかろう、と思っていたので、まだ一枚も仕上がっていない。一枚で一円という契約なので、当然ながら五千円稼ぐには五千枚のチラシを訂正することになる。水も飲まずにそんなの無理だ。

 先月で交通整理のバイトも辞めてしまっている。自慢にもならないが、この先給料というものが入る予定が皆無だった。となるとここはお金を貸してくれそうな人間を探すのが一番手っ取り早い。

 のそのそと身体を起こし携帯電話に手を伸ばす。

 誰に掛けようか。

 ため息をつきながら眺めた待ち受け画面に私は慄然とした。

 画面に現れた日付が自分の感覚と一日ずれている。携帯電話の方が一日先に進んでいるのだ。そんな馬鹿な。携帯が壊れたのか。それとも水が停まった代わりに時の流れは倍のスピードで進んでいるのか。いや、そんなはずはない。

 冷静に考えれば分かることだった。つまり私は昨日丸一日ぶっ続けで眠り通したということなのだ。

 私はもう一度「給水停止のお知らせ」を手にした。何度確認してもその日付は携帯電話が示している今日の日付の一日前になっている。つまりは昨日ということだ。

 ハハハ。停められてまだほやほやだと思っていたが、実は既に丸一日水なしで過ごしていたことになる。面白過ぎる。小説のネタにしてやろう。

 自嘲気味に力なく笑って私は携帯電話に目を戻した。画面が一瞬曇る。画面だけではない。視界が全て水に溶けたように歪んだ。

 おっと勿体ない。蛇口を捻っても水は出ないのに、自分の身体から出してしまうところだった。私は手の甲で目尻を拭い、ツーンとしている鼻の奥の感覚が治まるのをしばらく待った。水道が停まったぐらいでいちいち嘆いてはいられない。そんなのは武士の刀傷と同じで、ある種勲章みたいなものだ。

 視界がはっきりしてきて、携帯電話の画面でまず最初に目が留まったのは、やはり幼馴染の成瀬琴美の名前だった。

 彼女は小学生のころから気の弱いいじめられっ子で、私は何度となく彼女をいじめっ子から守ってやった。友情とか公平さとかいう理屈以前に私は彼女を助けていた。名前に同じ「琴」が付く彼女がいじめられているのが、私自身を貶められているようで気に入らなかったのだろうか。あるいはいじめっ子のリーダーが私と同じぐらい可愛かったからかもしれない。殴られても蹴られても私は彼女のために身を挺し、抵抗の証のような目つきで相手を睨みつけた。琴美はそのたびにぐずぐずに泣いて私に礼を言ったものだった。

 そんな琴美は私が金を貸せと言えば、断らないし断れない。

 しかし、今彼女に助けを求めるのは憚られた。彼女には先月も用立ててもらっていて、借金の累積は既に十万円を超えているからだ。そしてそれについて私は一度も、部分的にも返済していない。

 これからも彼女に援助を請う場面が出てくることは想像に難くない。それなのに毎月のように無心して、これ以上彼女の心証を悪くしたくはない。彼女を頼るのはもう少しほとぼりが冷めてからにしないと。

 喉が渇いていた。しかし、潤すものは今の私には水さえない。当然冷蔵庫は空っぽだ。袋小路に追い詰められたような苛立ちと焦燥感で胸から喉にかけてカッと焼けたように熱が広がる。

 携帯電話に登録している友人知人の数は少ない。頼れそうな人間はほとんどいない。

 気が付けば私はしばらく長尾多聞の名前を見つめていた。

 従兄だ。小さい頃から彼のことは実の兄のように、いや、ある種それ以上に慕っていた。彼に対しては自分でも上手に説明できないが、おそらく恋情と呼べるようなものを抱いていた時期もあったように思う。そんな彼に金をせびるのは気がひけた。

 しかし、お金がない。世の中、何をするにもまずお金がいる。ずっと寝ていたから何十時間もお腹に食べ物を入れていない。募る空腹感はさらに私を焦らせた。くそっ。背に腹は代えられない。

 躊躇したのはほんの数秒。今は恋心がどうのこうのなんて言っていられない。

「真琴か?どうした?」

 多聞はすぐに電話に出てくれた。しかし、声は潜められ、しかも少し早口だ。あまり機嫌が良くないのだろうか。

 そうか。今日は平日だった。多聞は仕事中なのだ。さすがに申し訳なさすぎて言葉の矛先が乱れる。

「あ、ごめん。忙しいよね」

 取りあえず一旦切ってしまおうか。

「ちょっと待て」

 駆ける靴音が聞こえて、やがてドアが開閉される音がした。「もういいぞ、真琴。久しぶりだな。どうした?」

 口調は私の知っている多聞に戻っていた。妹分から電話があって少し喜んでいるようにも聞こえる。

「あ、いや。その……」

 お金貸して、を少し婉曲的に表現するには、どういう言葉が適当なのか。

「はっきり言えよ、真琴らしくもない。わざわざ平日の朝っぱらに電話してきたんだ。余程切羽詰まったことがあるんだろ?俺は叔父さん、叔母さんから面倒見てやってくれって頼まれてるんだからさ。遠慮なく言えよ」

 それは私も同じだった。都会で一人暮らしするときに山里の田舎に住む両親から「いざという時は多聞を頼れ。あいつはお前を助けてくれる」と言われていた。叔父、叔母から見ても多聞は娘を託すに足るしっかり者なのだ。

 多聞の声を聞いていると身を預けたくなるような安心感に包まれる。女として自分は多門には不釣り合いだと私は思った。そう割り切って恋愛の対象としてさえ見ないようにすれば、彼は実に頼りがいのあるお兄ちゃんだ。

「それにしても今までよく電話してこなかったな。真面目に働いてるのか?少しは俺を頼ってもいいんだぞ」

 私の親から私が就職していないことを聞かされているのだろうか。多聞の口調にはこちらの生活ぶりを探る気配がある。

 しかし、今は親から私のことをどう聞かされていようが関係ない。妹がお兄ちゃんに甘えることは権利でもあれば義務でもある。兄は妹に頼られてこその兄なのだ。ここは一つ兄のために猫なで声を出してやろう。

「財布なくしちゃってさ」

「へぇ。そりゃ大変だな。警察には行ったか?」

 多聞は全く驚きを示さない。完全に嘘と見破られている気がする。確かに「財布をなくした」なんて言い訳、古典的過ぎて誰も信じてはくれまい。恥ずかしくて穴があったら入りたい気分だ。しかし、それでも後には退けない。とにかく今はお金だ。

「う、うん。もちろん行ったよ。でもたぶん返ってこないって。運よく財布は返ってきても、お金はまず無理だって。で、急に当面の生活費にも困っちゃってるんだよね」

「そうか。可哀そうにな」

「だから、その……。一万円貸してくれない?」

「もちろんいいぞ。ただ、申し訳ないけど、ちょっと会社から脱け出せないから取りに来てくれるか?二時から外回りだからなんとかそれまでにな」

 多聞の声には優しさが溢れていた。嘘と分かっていながらも話を合わせてくれる兄としての優しさだ。

 こりゃいつまで経っても女として多聞の横を歩くことはできないな。

 私は電話を切りながら初恋のほろ苦さと空虚感を思い出していた。


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