二十七
電話が掛かってきて席をはずした上杉がふんふんと鼻歌を歌いながら戻ってきた。何か良いことがあったに違いない。
「何よ?」
私は咎めるように訊ねた。
「いや、何でもない」
上杉は無理やりのように渋面を作る。
「何でもないはずがないじゃない。何かいい連絡があったんでしょ?言いなさいよ」
「実はな」
上杉はすぐに相好を崩した。どうやら実際は話したくて仕方がないようだ。「以前から依頼していた絵本作家がうちで本を出してくれることになったんだ」
言いながら上杉はボディバッグのファスナーを開いた。中から出てきたのは案の定、例の馬の置物と毘沙門天だった。馬の置物は透明プラスチックのケースに仕舞われている。上杉はその二つの置物に向かって合掌し真言を唱え始めた。
私は満足そうな上杉の顔に腹が立ち、近くを通りかかった店員をつかまえ「とりあえず瓶ビール三本とグラス三つね」と注文した。
すると上杉が慌てたように「おいおい」と口を挟む。
「勝手に頼むな。俺は日本酒だ」
そう言って上杉はメニューから冷酒を選んで注文した。
「あんたねぇ。乾杯は普通ビールでしょうが」
私が「ねぇ」と北条に同意を求めると、「僕は何でも」と予想通りの答えが返ってきた。
「誰がそんなこと決めた?酒は越後の冷酒と相場が決まってるだろう」
「越後とか言ってまた上杉謙信?へべれけに酔っぱらっても介抱してあげないからね」
「誰がお前なんぞの手を借りるか」
まあまあ。北条がどんどん険悪になっていく私と上杉をなだめに入る。
飲み物が届くと簡単に乾杯を済ませて、さっさとビールを喉に流し込む。
クー。乾いた喉を潤すにはビールに限る。今日の昼間は火で炙られているような強烈な日差しだった。どれだけでもビールは身体に浸みこんでいくような気がする。
「しかし、良かったな。北条」
上機嫌でおちょこを傾け舌を鳴らす上杉。玄人ぶって手酌で冷酒を注ぐ仕種がどうも私は気に入らない。
キタジョウです、と口の中でもごもごと訂正した北条は啜るようにちびりとビールを飲んだ。
真琴は二人の様子にさりげなく注視しながら、素早くネギマを口に突っ込み串から引き抜く。なかなか美味い。口に残った塩味をビールで喉の奥に流し込むと思わず唸ってしまうほどの心地良さだ。やっぱり熱い焼き鳥にはビールがよく合う。
ここは北条の家のそばにある焼鳥屋だ。窓も壁も天井も一様に黒く煤けている。店外に出っ張っている換気扇のフードは長年油混じりの煙に燻され続けてきたからか、元の色が分からないほどの汚れ具合だ。店に並んだ日曜大工で作れそうな四角いテーブルには至る所に煙草で焦げた痕。背もたれのない安物の丸椅子は座面が破れていないのを探す方が難しい。おしゃれとは真逆にあるようなこの店が何故か結構な客入りで、会社帰りのOL三人組といった様子の小奇麗に決めたお姉さんグループもいたりする。
「ねえねえ。ああいうのよく見るけど、ビールジョッキと水着女子って取り合わせは不自然だと思わない?」
私は裸になった串で壁を指し示した。そこには昔ながらの居酒屋には定番の、日差したっぷりの浜辺に膝立ちの若い女性が水着姿でジョッキを握り会心の笑みを浮かべているポスターが貼ってある。
「今はそんなのどうでもいいだろ。お前も北条に何か言ってやれよ」
キタジョウです。律義に北条は訂正を繰り返す。その口ぶりにも以前にはなかった力強さがあるような気がする。
「はいはい。おめでと。よかったね」
言いながら不貞腐れたようにササミをしその葉で包んだ串に齧りついた。不貞腐れて見せたのはもちろん演技だ。上杉の反応を予想してくだらない話題を振り、自然な流れで焼き鳥を口にする。私は内心してやったりでササミを味わった。
アルコールはすぐに体外に排出されてしまうし、栄養もない。飲んでいる振りをしながら、どれだけつまみで満腹になれるか。私は今日それだけを考えている。
「ありがとうございます」
計算ずくの私にも北条は馬鹿丁寧に礼を言うので今度は本心で、「本当に良かったね」と祝ってやった。
北条の絵がコンクールで賞を取ったのだ。愛娘を描いたあの絵だ。そして今回の賞がきっかけで北条の個展が開かれることになった。
「それにしても、奥さんとお子さんが帰ってきて、描いた絵は賞を取って、それが認められて今度は個展。こんなこともあるのね」
人生の花が開くとはこういうことなのだろう。私はその一部始終を目の当たりにしてきたのに、どこか信じられない思いがしていた。目の前の北条が私の知っている北条ではないような気がしてしまう。私もいつか北条のように自分の周りの殻を割って翼を広げ大空にはばたくときが来るのだろうか。
「なんか、怖いです」
「実力よ」
バシッと北条の肩を叩くと北条は少しだけ口元を緩めた。ほんのり頬が赤いのは照れているのか、それとも単に酒に弱いのか。
酔うとどうなるか興味がわいてきて私は北条のグラスにビール瓶を傾ける。そう言えば一つだけ北条の口から訊いておきたいことがあったのだ。
北条もおめでた続きで気分が昂揚しているのか、徐々にペースを上げぐびぐび飲み始めた。しかし、やはりそんなに酒に強いわけではないようで、すぐに目がトロンとなってくる。何やらニタニタし出してちょっと気持ちが悪い。
「ところでさぁ」
私はさらに北条のコップにビールを注ぎ足しながら、北条の耳に顔を近づける。「その後どうなの?あっちの方は」
琴美との会話の中で聡子が北条とのセックスを求めていることが伝わってきた。女なら一つ屋根の下に好きな男と暮らしていれば、その男と結ばれたい、一つになりたい、と思うのは当然だ。今回、聡子が戻ってきてその問題が解消されたのか、解消されたのならバイセクシャルの北条はどのような精神状態で事に及んでいるのか。私は北条の性生活に興味津々なのだ。
「何です?あっちの方って」
舌足らずな感じで問い返してくる北条に少し苛立ちを覚える。ただでさえ会話に不自由さを感じる北条を酔わせてしまったことに少し後悔が芽生えた。しかし、北条相手では、そもそも素面ではこんな話題に触れようがない。
「だから、あれよ。夜の方よ」
「夜の方ってどっちの方角ですか?」
「そうじゃなくて……。あーもう、イライラする。夜にベッドですることよ。男と女がオスとメスになってすること」
「お前なぁ。他人の私生活に立入るなよ」
暖簾に腕押しのやり取りで少し声が大きくなってしまったのか、上杉に咎められてしまった。
「いいじゃない、それぐらい訊いたって。私たち、今回のことには一役買ってるんだから」
「それぐらいってお前、そこはかなり深いとこだろ。どうしてお前はそうやって見返りを求めるんだ」
「代価を払った方が気楽だってこともあるのよ」
互いに顔を寄せ合って睨み合う上杉と私の間に「まあまあ」と北条が赤い顔で割り込んでくる。
「で、結局長尾さんは僕に何を訊きたいんですか?」
まだ趣旨を理解できていない北条に、どれだけ鈍感なんだと私は呆れ果て、上杉は「こりゃいいや」と腹を抱えて笑った。
私は景気づけにグッとビールを呷ると、口の横に手を当て声が漏れないようにして北条の耳にあてがった。
「聡子さんとセックスしたの?」
途端に北条は俯いてしまった。ほんのりだった朱色がみるみる濃くなり耳も首筋も真っ赤になる。答えは明白だった。
「お前も分かりやすい奴だな」
私の気持ちを上杉が代弁していた。
北条は恥ずかしさで居たたまれないのか、おしぼりをあてがって顔を隠した。
これで二人は本当の夫婦になれたんだ、と私は漸く心から北条を祝福できるような気持ちになれて、ビールを追加オーダーした。
私が勧めると北条は恥ずかしさで喉が渇いて仕方ないのか、どんどんコップを空けた。そして突然何か良いことを思い出したようでニタニタ笑いだしたかと思うと、自分の携帯電話を私の眼前に突き出してきた。そこには愛子の写真があった。「可愛いでしょ。昨日撮ったんです」と画面にキスをする。
親馬鹿の北条にうんざりして、私は壁のテレビに目を向けた。
「あ!あれ」
私はそこに現れた映像に目を瞠り、指を差した。
「何ですか、そんな声出して」
北条は私の声に驚いたように赤ら顔をテレビに向け「あっ!」と私よりも大きい声をあげた。
テレビではニュースが流れていて、見覚えのある顔が大きく映し出されていた。
「あいつだな」
上杉だけが妙に落ち着いた様子で冷酒を口に運んでいる。
テレビに映っているのは駅員直江だった。帽子と制服がないからか若く見えるが、間違いない。
直江は逮捕されたようだった。テレビには「本庄拓哉容疑者」と出ている。直江は偽名ということか。容疑は窃盗。鉄道会社の制服を盗んだとのことだった。盗んだ制服を着て駅員になりきるのが楽しかったらしい。自宅から何点も制服が見つかったことから、余罪も追及されるようだ。
私は直江(本庄)の駅員姿を思い出していた。どことなくおどおどして見えたのは本物じゃなかったからなのか。そう言えば直江(本庄)は最後まで警察を呼ぶことに首を縦に振らなかった。偽者なら呼べるはずがない。
「本当は駅員じゃなかったんですね」
まだ驚きから脱け出せないのか、ぼんやりした表情でぼそっと北条が呟く。
「駅員になりきって何が楽しいんだろ」
私が焼き鳥を銜えながら小首を傾げると、「人それぞれだからな」と上杉は直江(本庄)を擁護するようなことをいう。そう言えばこの人コスプレ好きだった。
「実は俺はそうじゃないかと最初から疑ってたんだ」
少し得意げに口元を緩めて上杉が冷酒を呷る。
「あっそ」
私は冷めた目で上杉を見た。
「信じてないだろ。だがな、これは本当だ。どうも胡散臭いと思って、あの鉄道会社に問い合わせたんだ。お前のところに直江って言う駅員はいるかってな。それで分かった。直江という駅員は確かにいる。しかし、そいつは俺みたいな坊主頭で、眼鏡を掛けているらしい。しかもあの日は非番で、翌日出勤したら制服がなくなってたんだとさ。この直感も毘沙門天のご加護だな」
そう言って上杉は瞑目して、また例の真言を唱えだした。
「それにしても、なりきってましたね」
北条は感心しきりだ。
「そう言えば」
上杉は片眼を開けると挑戦的に私を見据えた。「あのときのでっち上げの痴漢騒ぎから全てが始まったようなもんだな」
こいつまだ根に持ってるのか。
「被害者と容疑者がまさかこんなところで酒を酌み交わすことになるとはね」
売られた喧嘩は買うしかない。私はコップに残っていたビールを一息に飲み干して上杉を睨みつけた。
「お前、まだ被害者面するのか。示談金目当ての三文芝居だったくせに」
「人聞き悪いわね。私は本当に触られたの!」
確かに何かが私のお尻に触れた。示談金目当てかどうかは置いておいて、それだけは断言できる。
「触ったのとぶつかったのは違うんだぞ」
「何それ。言い訳のつもり?」
「誰もお前の尻なんか触らん」
「そんなことないわよ。あのコスプレ大会忘れたの?私、審査員特別賞をもらうぐらいに魅力あるんですけど」
審査員特別賞の件は上杉に効果的だ。大会で認められたという事実は揺るぎない。
「今となっちゃ当時のことは誰にも分からない。そういうことにしといてやるよ」
上杉はつまらなさそうに斜めを向いて足を組んだ。
何がそういうことにしといてやる、だ。逃げを打った上杉に追い打ちを掛けようと私が首を伸ばして口を開きかけたとき、北条が突然ゴツンと額をテーブルにぶつけた。
「破滅願望だったんです」
「は?」
上杉に対して挑みかかった顔を私は北条に向けた。どういうこと?
「終わらせてしまいたくなったんです」
「何を?」
私は北条が言っていることがよく分からなかった。
北条はチラッと私の顔色を窺うように顔を起こした。先ほどまであんなに赤かった顔が青ざめている。
「人生を」
「何で?」
「絵は描けないし、妻と子は出ていくし、離婚調停で色々訊かれるのが本当に苦痛で」
「それでこいつの尻を触ったって言うのか?」
「いっそ痴漢で捕まったらせいせいするかなって。手を伸ばしたら電車が揺れて、慌てて手を引っ込めたんですけど間に合わなくって」
「北条、お前なあ!」
「あんたねぇ」
二人から怒りの顔で睨み付けられ、北条は顔を引きつらせて再び頭を下げた。
「すいません。ここはおごりますから」
「当たり前だ!」
「当たり前よ!」
上杉は冷酒の入った二合の小瓶に口をつけて一気に飲み干し、私は両手に串を握って焼き鳥に齧りついた。
怒った顔をしたが、私は内心すっきりしていた。美しいものが好きだ、と言う北条が選んだのが私のお尻じゃなく、この眼鏡坊主のつまらない手だということがどうしても納得できていなかったのだ。これでこの芸術家の審美眼を信用することができる。プレゼントしてもらう約束の次作が今から楽しみだ。その絵はきっと五十万円以上の価値があるに違いない。
「ビールおかわり!」
私は遠慮することなく高らかに声を張り上げた。
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。