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二十六

 私は床で眠りこけている北条を叩き起こしてから、聡子と入れかわるようにすぐに部屋を辞した。

 北条夫婦がこれから話す内容には非常に興味があったが、私たちのことは気にせずにどうぞとはいかない。しかし、聞きたい。聡子の嘘とは一体何なのか。そこに今回の離婚騒動の核心が潜んでいるはずだから。

 ドアに耳を当て部屋の奥に神経を集中させたが、外に聞こえるほど大きな声で会話をしているはずもなく、上杉に反対の耳を掴まれて、無理やりドアから引き離されてしまった。

 渋々ドアから離れマンションの前で上杉と別れた私は「あっ」と大きな声を上げてバッグの中をまさぐった。イヤホンを取り出し耳に差し込むと、北条の部屋の本棚に仕込んでいたプリペイド式の携帯と私の携帯がつながっていた。

 振り返ると上杉の車は既に走り去った後だった。

 上杉がいたら携帯電話を取りあげられてしまう。ホッと息をついてから両方の耳にイヤホンを差し込むと、微かに二人の会話が聞こえてくる。私は辺りを見回し、小さな公園を見つけてそこへ走り込んだ。

 公園には先客がいた。丁度北条夫婦と愛子ぐらいの年格好の親子三人だ。父親と娘が一緒に滑り台で遊び、それを母親が微笑みながら見つめている。

 私はその様子を眺めながらベンチに腰掛けると、イヤホンの向こうの会話に耳をそばだてる。

「突然ごめんね」

 聡子の震えそうな声から彼女の緊張具合が伝わってくる。

「いや」

「いい絵ね」

「ああ。ありがとう」

「これまでの北条君の作風とは違うわ。新境地って感じ。さすがね」

「苦労したよ」

「あまり寝てないのね」

「分かる?」

「誰が見たって分かるわよ」

 そうか、と北条が頭を掻いて苦笑いする様子が私の目に浮かぶ。

 二人の会話はまだ探り探りといった感じだ。離婚調停中だからか。あるいはこれが二人のいつもの調子なのかもしれない。それにしても聡子が北条のことを「北条君」と呼んでいることが不思議だった。北条もそれに対して特にこだわることなく会話を続けていることから、これが普段の呼び方なのだろう。しかし、夫に対して名字で、しかも「君」づけは少し余所余所しくないか。

「さっきの人たちは誰?」

「誰って、……友達」

「私のこと知ってるの?」

「さあ」

「私の名前、知ってたわ」

「……いろいろ相談に乗ってもらってるから」

「いろいろって?」

「それはその……」

「……ごめんなさい。北条君を困らせに来たわけじゃないのに、私ったら」

 どうも会話が弾まない。部屋の重苦しい雰囲気が伝わってきて、離れたところで聞いているだけの私もため息をつきたくなってくる。しかし、この空気の重量感は北条だけのせいではない。離婚を求めている聡子が今日わざわざ会いにきた。それはなぜなのか、と北条が構えるのも無理はない。そして会いに来た以上、聡子も夫に調停の場ではなく二人きりになって伝えたい何かがあるということだ。今後の二人の未来を左右する何かが。

 イヤホンの向こうでは沈黙が続いている。しかし、それが永遠ではないことは同じ空間にいない私にも分かる。黙っているということは語る準備をしているということだ。何も話すことがないのなら、会話が終わった時点で帰れば良いのだから。私としては聡子の勇気が満ちるのを待つだけだ。北条も同じ気持ちだろう。

 やがて聡子がぽつりと口を開いた。

「私ね。もう耐えられないと思ったの。頭がおかしくなりそうだった」

 期待していたものとは正反対の趣旨の言葉が耳に飛び込んできて私は慄然とした。

 これは最後通牒だろうか。北条との生活が、夫婦としての関係が耐えられないと彼女は言っているのか。精神が病みそうになるぐらいに北条との毎日は苦痛だったのか。

 私は二人の問題を安易に考えていたことに思い至った。深く考えもせず彼らの深い部分に足を踏み入れ、その結果、北条が愛妻の口から最も聞きたくない類の言葉を直接聞かされることになってしまったのではないか。

「そんなにまで……」

 北条の声は弱々しくかすれていた。妻の気持ちが自分からあまりに遠く離れてしまっていることに驚きと混乱を隠しきれない様子だ。

 私は目を閉じて瘧のように震える自分の身体を強く抱きしめた。自分が聡子にショックを与えたことで、事態は最悪の様相を呈している。私は北条を立ち直らせるどころか、画家生命に終止符を打つほどの致命的な深手を与えてしまったのではないか。

「ごめんなさい。違う。そういうことじゃないの」

 聡子の声は慌てていた。自分の言葉足らずを補おうという必死さがあった。「悪いのは北条君じゃない。悪いのは私」

「……どういうこと?」

 北条の問いは当然のように思えた。似た者夫婦なのか、聡子の言うことも断片的で全体が良く分からない。

 聡子はまた貝のように押し黙った。しかし、それはただ言葉を慎重に選んでいただけのようで長くは続かなかった。

「私、嘘をついてたの」

「嘘?」

「ええ」

 次に黙ったのは北条の方だった。ただ単純に憤りに任せて聡子が言う嘘の内容を質すのではなく、自分でも二人の生活のどこに嘘があったのか静かに内省している様子が私には好ましく思えた。

「それはきっと、嘘じゃないよ」

 全くこの二人の会話は真意が掴みづらい。聡子が嘘をついたと言うのはその自覚があるからだろうに、嘘をつかれた側の北条が否定するというのはどういうことか。

「どういうこと?」

 聡子に問い返されて今度は北条が言葉を選んでいるようだった。

 足利が言うようにこの夫婦は言葉が足りない、と私は思った。不十分な言葉のやり取りだけでは今日のように意思疎通ができなかったり、誤解を招いたりすることが頻繁にありそうだ。

「嘘をつくって事実じゃないことを言うってことだよ。君は嘘はつかなかった。ただ……黙っていたんだ」

「……知ってたの?」

 夫婦のことは夫婦にしか分からない。これも足利が言っていたことだ。このことが真理であるなら、北条と聡子はれっきとした夫婦だ。私には分からなくても、当の二人にとってはしっかり会話が成立しているようだった。

 そして私も前々からそうではないかと考えていたことが、どうやら正解だったと確信し始めていた。

「あの日の数日後に荷物が届いた。覚えてるよね?僕が受け取って君に渡したあの小包。君は差出人の名前を見て、ひどく悔しそうで哀しそうな瞳をしてた。そして次のゴミの日に出されたごみ袋の中に君のバッグが捨てられてた。それで僕は全て分かった気がしたんだ。あのバッグは君がよく使っていた、あの日も持って行って、そして持ち帰らなかったバッグだよ」

 あの日とは聡子が雨の中、放心状態で歩いていた日で間違いないだろう。あの日失ったバッグが聡子の知り合いから小包で送られてきたということになる。つまり、聡子は知らない男にレイプされたのではなく、付き合っていた男に無残に捨てられたということのようだ。

 北条は優しい男だ。最初のうちから気付きながら、傷ついた女が作った演出に騙された振りをし続けられる。そういう人間なのだ。

「馬鹿」

 服を叩くような音が聞こえた。きっと聡子が北条を叩いているのだ。

 馬鹿、馬鹿、馬鹿。

 聡子は言いながら何度も叩いている。その声は潤んでいるように聞こえた。泣きながら夫を叩く妻は最後に「ほんとに馬鹿ね、私って」と言ったあと、子供のように「わーん」と大きな涙声を上げた。

「ごめんね。だけど、知ってるよって言うのも変だと思ったから」

「馬鹿ぁ」

 聡子はもう一つ北条を叩いた。それまでよりも強い音がした。「私、ずっと悩んでたんだからね。一緒にいるうちに北条君のことどんどん好きになっていって、余計に騙してるのがつらくって、でも今さら言えなくて……。私なんかいなくなった方がいいと思って」

「ごめん」

 衣擦れの音がした。北条が聡子を抱きしめたのだろうか。私はそうであってほしいと思った。「でも、良かったと思ってたんだ。愛子が君が愛した人との子であることを。だからこそ僕も愛子を愛することができるから」

 やがて聡子は「本当に私、馬鹿だったの」と落ち着いた声で語り出した。

 相手の男が聡子にとって初めて付き合った男性だったようだ。まさにのめり込むようにその男を愛し、身も心も彼に捧げたいと想っていた聡子。しかし、やがてその男には妻子がいることが分かった。聡子が問い詰めたところ、男は騙しきれないと悟ったのか、冷たく彼女に別れを告げた。そしてすがる彼女を突き飛ばした。

 自分が妊娠していると分かったとき、まず聡子が考えた事は「これで復讐できる」ということだった。その一方で男が返ってきてくれるかもしれないという期待もどこかにあったらしい。北条に対して悪いことをしているという自覚もあったが、北条が性癖を打ち明けたことでその罪の意識は軽くなった。当時は相手の男の目をどうやってもう一度自分に向けさせるか、ということだけが聡子の頭を占めていたようだ。

 しかし、彼女の気持ちはやがて同居人北条に移り始めた。北条への想いが強くなるにつれ、罪悪感は聡子の胸に激しく迫り、彼女の心を掻き乱す。そして彼女は一つのことを決心した。

 彼女は北条を本当に好きだからこそ、愛子を連れ北条のもとを去ったのだった。

「苦しんでたのは僕だけじゃなかったんだね……」

 今度は北条が語り出した。

 気持ちが移ったのは北条も同じだった。北条も生活を共にしているうちに聡子に異性として好意を抱くようになっていた。しかし、彼女を好きになればなるほど一つの考えが北条を苦しめるようになる。

 聡子は他の男を愛していて、その男の遺伝子を持つが故に愛子を深く愛している。

 聡子の気持ちの変化に気付くことなく、北条はその考えだけに縛られていた。それは誰にも打ち明けることのできない苦しみだった。苦悩は彼から創作への意欲を奪い去った。そしてさらに愛する妻子が姿を消してしまい、一方的に離婚を迫られ、彼は何も手につかない状態に陥ってしまった……。

 私はそっとイヤホンを耳から外した。次の瞬間、トントンと肩を叩かれ、私はびっくりしてその場で立ち上がった。

「何泣いてるんだ?」

 そこにいたのは上杉だった。

 上杉に言われて自分が泣いていることに初めて気がついた。手の甲で頬を拭い、「何よ、何か用?」と突き放すように言った。

「あの部屋に携帯電話を仕掛けてたのを思い出してな。お前が盗み聞きしてるのを止めようと思ったんだが……どうやら全部聞いちまったようだな」


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