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二十五

 二度、三度とチャイムを鳴らしたが、北条はなかなか姿を見せなかった。イライラしてきた私はインターホンのボタンを「オラオラ」と連打した。

「おいおい。壊れるぞ」

「出てこない方が悪いのよ」

 指が疲れてきたので今度は足のつま先でドアを蹴る。それでも中から返事はない。「本当に昨日、電話で約束したの?」

「嘘ついてどうする」

 上杉が心外だというように眉間にしわを寄せる。「だからこそ居留守使ってるのかもな」

「どういうこと?」

「一晩経ったら自信がなくなっちまってさ。俺たちに合わす顔がないってことかもよ」

 上杉が言うには、昨日北条から、「新作が出来上がったから、出来栄えを見てほしい」と連絡があったらしい。自分ではそこそこ納得できるものが描けたつもりなのだが、他人がどう評価するか聞いてみたい、ということのようだ。それで上杉が私を誘い、二人は今北条の家の前にいる。

「じゃあこれ、どうする?」

 私と上杉の手には来る途中に寄ったスーパーで仕入れた食材があった。調理に手間のかからないカップラーメンやらカレーのレトルトやら缶詰やらがぎっしりだ。きっと寝食を惜しまず筆を握っていただろうから、と差し入れのつもりだ。もちろん、代金は全て上杉が支払った。言い出したのは上杉なのだからお金を出すのも上杉でしかるべきという私の考えなのだが、さすがに少しばかり心苦しい思いがあって、三つある袋の一つを手に持っている。

「ドアノブに引っ掛けとくか」

 このまま私が持って帰っても良いのだが、という気持ちは大いにあったが、一銭も出していないのにいくらなんでもそれは虫が良すぎる、ということは私にも理解できる。北条の絵を見ながら、どさくさに紛れてカレーライスでもお相伴にあずかるつもりだったのに。残念という思いを押し殺して上杉の言うとおりにレジ袋をドアノブに掛けようとしたとき、中から急にドアが開いた。

 ドアの隙間からぬっと顔を出したのは当然のことながら北条だった。

 しかし、私の知っている北条ではなかった。端正な顔立ちの清潔感あるいつもの雰囲気は微塵もない。

 ぼさぼさの髪。よれよれのシャツ。獣を連想させる無精髭。落ちくぼんだ眼窩。

山で遭難し三日三晩彷徨って、命からがら下山してきたような外見になっている。黒々と密集して生えている髭は彼が少なくとも機能の面では男性であることを証明していた。

 へー。ゲイでも髭は生えるんだ。

 私は北条を見ながらそんな感想を抱いていた。

 あまりの変貌ぶりに言葉もなく立ち尽くす訪問者を置き去りにして、北条は眠そうな眼を擦りシャツの下から手を入れて腹を掻きながら無言で部屋の中に戻っていった。

 私は上杉と顔を見合わせると、恐る恐る北条の背を追って部屋の中に足を踏み入れた。

 初めて入る北条の部屋の空気は妙な濃さを帯びていた。もちろん絵具のにおいは強烈だったが、それだけでは為しえない粘り気さえ感じさせる目に見えない空気の淀みが堆積していた。部屋の中に何日も新鮮な外気が入りこんでおらず、北条が放出する呼気や汗や体臭で汚染され、そこに埃が溶け込んで腐敗も進んでいる。そんな状態が想像できて私は口に腕を押し当て息を押し殺し勝手にずんずん部屋の奥へ押し入った。スーパーの袋を床に放り投げ北条を追い抜く。カーテンを開き窓を開け放って、ぜえぜえと喘ぎながら肺に空気を取り込んだ。

「ちょっと、たまには窓ぐらい……」

 部屋の中を振り返った私は、自分が開け放った窓から差し込んだ光に一枚の絵が浮かび上っているのを見て再び息を止めた。

 窓際のイーゼルに立てかけてあるその絵は、幼い女児が緑の草原で一輪の小ぶりな花を握りしめ、上目づかいで微笑んでいるものだった。

 その絵は薄暗い部屋の汚れた空気の滞留の中に異質の存在感を放ってそこにあった。深い泥沼に咲く蓮の花が泥との対比で神々しく映えるように、その絵もこの吹き溜まりのような部屋にあって、天上の楽園の様子を映し出したような安穏な世界観を際立たせていた。

「いかが、でしょうか?」

 痩せ細ったために、いつにもましておどおどして見える北条が二人に評価を求めてくる。

 しかし、私は何か適当な言葉を探し出して形容なり感嘆なりするのが億劫になるほどその絵に見惚れていた。暫く放っておいてほしい。黙って絵を鑑賞させてほしい、と思ったのは初めての体験だった。

 部屋の入り口で呆けた顔で突っ立っている上杉も同じ心境だろう。

 愛子を描いた絵であることは明白だった。つい先日、当の本人を見たのだから間違いない。確かに愛子は可愛らしい女児だったが、この絵が切り取った一瞬はその彼女が作り出す最も愛嬌ある表情をしっかりと捉えていた。それができるのは生まれたときから傍で見てきた北条だからこそだろう。そこには北条の愛子に対する盲愛の情が垣間見えて、余計にこちらを温かい気持ちにさせる。

「やっぱり、駄目、ですか?」

 北条はしょんぼりと項垂れた。

 これだけのものを描き上げても「やっぱり、駄目」と切り捨ててしまうほど北条が自信を失っていることに、改めて私は北条の負っている傷の深さに触れた気がした。

「駄目なはずないでしょ。こんなにすごい絵を描いといて」

「ああ。これはかなりのもんだぞ。院展で入選した牡鹿の絵には人を寄せ付けない冷たさがあったが、この絵には人を魅了する温かさがある」

 上杉の的を射た評価に私も素直に笑顔で頷いたが、それでも北条は不安げで窓から入る日差しに眩しそうに顔を顰めるだけだった。

「私たち素人の言葉じゃ納得できないんでしょ」

 私は眉を八の字にして一つため息をつくと、北条の手を取って玄関に向かって歩き出した。開けてごらん、と言うように顎でドアを示す。

「何ですか?」

「いいから開けなさいよ」

 私に強く言われて、北条はびっくり箱を開けるようなへっぴり腰でノブを捻った。

「久しぶりだな」

 そこには少しぎこちない表情の足利の姿があった。

 先生。

 口の動きで北条がそう言ったのは分かったが、声としては聞き取れなかった。驚いて声も出ないというところか。それまでノックアウト寸前のボクサーのように塞がりかけていた寝ぼけ眼がくっきり開き、土壁のように色を失っていた頬が見る見る紅潮していった。スランプで納得のいく絵を生みだすことが長い間できず、聡子とは離婚寸前の別居状態に陥っている北条にとって、師匠であり義父でもある足利はこの世で今最も会いたくない人間かもしれない。

 二人は時間が止まったかと疑いたくなるほど、しばらく身動き一つせず見つめ合っていた。

 足利としても今の北条と顔を合わすのは気まずさがあるのだろう。単純に師匠と弟子という関係なら愛の鞭で叱咤激励するだけなのだろうが、娘の亭主でありしかも離婚寸前となれば義父として掛ける言葉に詰まってしまうのは仕方のないところか。

 しかし、それを百も承知で、私と上杉は足利に頭を下げて今日ここまで足を運んでもらったのだ。

 他人に興味のない足利が今回の北条の絵をどのように評価するかは計り知れないが、北条にとって自分の絵を足利が褒めてくれれば、これに勝る発奮材料はないだろう。逆にマイナスの言葉が出てきたとしても北条に何らかのきっかけを与えるに違いない、と言ったのは上杉だった。私が聡子に対して行ったショック療法を真似したとしか思えなかったが、悪くないと思った私はそれに乗った。私としては北条からもらう絵のレベルが高まるのであればそれで良いのだから。

 そして二人の依頼に足利が承諾してくれたのは、足利としても離婚に踏み切る前の、そしてスランプから脱け出せないでいる北条に、今会っておきたい気持ちがあったのだろう。

 それにしても二人は動かない。

 これでは埒が明かない、と覚悟を決めた私が足利の袖を握り「入って、入って」と部屋に引っ張り込む。

「邪魔するぞ」

「は、はい」

 私の強引な進行で二人はすれ違いざまに何とかそれだけの言葉を交わした。

 私に引きずられるようにして部屋の奥に入ってきた足利は絵の前に立つと「ほう」と言ったきり腕を組んで黙り込んだ。

 それまでの少しお調子者のおじさんといった風貌はすっかり消え去っていた。厳めしく顰められた眉の下で、カッと開かれた双眸が炯々と輝きキャンバスに正対している。

 その足利の背中から何やらこちらを圧倒するような空気の流れが漂ってきていた。他人の絵を評価するのが嫌いだ、と言っていた足利が一声かけるのも憚られるほど集中して北条の絵を見つめている。

 私は思わず生唾を飲み込んだ。足利が何を語るかその口元から目が離せない。

 玄関からのっそりと北条が戻ってきた。いつもに増して気弱そうな顔をドアから覗かせる。

「充英。ちょっと来い」

 足利は絵から目を逸らすことなく、人差し指をクイクイと動かして北条を呼びつける。

 すると、恐々といった表情でドアに隠れていた北条がピシッと背筋を伸ばして足利の横に駆け寄った。まるで軍隊のような上下関係の図にさらに部屋の緊張感が高まり、私は何となく居場所がないような気分になって、部屋の隅にササッと移動し上杉の隣に並んだ。

 足利は何やら手振りを交えて小さな声で北条に指導を始めた。光がどうの影がどうのメリハリがどうのと熱心な口調で語っている。それはとても他人の絵に興味がない男の姿ではなかった。そして北条も私たちと接している時とは違い、一言一句聞き逃すまいとするように若干前傾姿勢になって、まっすぐに師匠の目を見つめハキハキと受け答えしている。

 私と上杉は行き場なく部屋の端で肩を寄せ合った。

「結局、先生の評価はどうなんだろうね」

「さあな。でも……単純に褒めてるって感じじゃあないな」

 確かに、と私は小さく頷いた。

 私と上杉がただ言葉なく見惚れてしまった北条の絵に厳しい視線を投げかけ、問い詰めるような口調で意見する足利の様子を目の当たりにすると、見る人が見れば欠点もあるということなのか、と考えてしまう。

 私は壁際にある本棚の隙間に携帯電話を忍ばせた。あのプリペイド式の携帯電話だ。やり取りを離れた場所で聞き取るのは経験がある。

 上杉の脇腹を突っつき玄関を指差すと上杉が頷いたので、絵の前で二人だけの世界に入り込んでいる熱い師弟に向かっておずおずと声を掛ける。

「あのぉ。私たちはこれで失礼します」

 失礼してもやり取りは聞かせてもらいますけどね、と心の中で舌を出した。

 しかし、足利は部屋を出ていこうとする私たちに顔を向けることなく「ちょっと待て」と声だけで制した。

「わしはすぐ帰るから気にするな」

「いえ、そんな。積もる話もあるでしょうし……」

「そんなものはない」

 一言で私の申し出をシャットアウトすると、足利は不意にこちらを振り向いた。「お前たちはどう思う?」

「どうって言われても、……ねぇ」

 私はどぎまぎして助けを求めるように上杉に視線を振った。日本美術界に君臨する足利に絵について意見を求められ、怯んでしまったのかもしれない。

「感動しました。どこがどうとは言えませんが、見る者を温かい気持ちにさせる、いい絵だと思います」

 上杉は足利の目を正面に受け止めて答えた。

 愚直とも言えるほど飾り気のない言葉だが、私は自分の気持ちを正確に代弁してもらったような感覚で心地良く感じた。私は足利と北条に向き直り眼に力を込めて頷いてみせた。上杉の言葉に対する強い賛同の印だ。

「そういうことだ。いい絵に言葉はいらない。見た瞬間に温かい気持ちになれる。これはそういう絵だ」

 足利は「いい絵を描いたな」と北条の尻を一つパンと叩いて高らかに笑いながら、そのまま玄関に向かって歩いていってしまった。

「ありがとうございました」

 北条が、去っていく足利の背中に向かって深々と頭を下げると、足利は振り返ることなくひらひらと手を振って見せるだけだった。

 足利がいなくなると、北条はその場にへなへなと座り込んだ。座っているのもつらいのか、そのまま床に寝転がってしまう。目の下の隈が際立って見える。精も根も尽き果てたという様子だった。

「じゃあ俺たちも帰るか」

「そうね」

 今の北条には何よりも睡眠が必要のようだ。これ以上長居しても北条はお構いなしに眠ってしまうだろう。私としては早く北条に体力を回復してもらって、次の作品に取り掛かってもらいたかった。絵をもらうと約束はしたが、さすがにこの絵には手が出せない。

 私は「何も食べてないでしょ。これ」と北条の目の前にスーパーの袋を置いた。

「すいません。お気遣いいただいて」

 立ち上がろうとする北条を上杉が「いいから」と制し、私は「布団で寝ないと風邪ひくよ」と言葉を残して部屋を出た。

 玄関まで行き靴を履いていると、部屋の奥から早速いびきが聞こえてきた。北条はもう寝てしまったのだ。私は上杉と顔を見合わせ、クスクスと声を忍ばせて笑いながらドアを開けた。

 ドアを開けたところで私は一瞬固まった。そしてすぐにくるりと反転すると部屋の中へ駆け戻った。

 口を半開きにした間の抜けた顔で床に眠りこけている北条に駆け寄り、その顔を二度三度と強く叩く。

「起きて、起きてよ。聡子さんが来てるよ!」


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