二十四
西の空に傾き始めた太陽。オレンジ色に染められた公園。
ベンチに座る女性の影が長く伸びる。焦点の定まっていないような虚ろな視線が彼女の表情に濃い疲労を感じさせる原因だろうか。その華奢な肩の落ち具合もどこか寂しげに見える。
彼女のぼんやりした視線の先には何事にも好奇心旺盛な三歳児。先ほどから砂場にしゃがみこみ、脇目もふらず一心におもちゃのシャベルを使っているのは宝探しでもしているのだろうか。
「可愛いお子さんですね」
自分以外の人間が同じベンチに座っていることに初めて気付いたのか、肩をビクッとすくめてその女性は恐る恐る顔を横に向けた。そして隣にいるのが大人しい外見をした自分よりも年若の同性だったことに安心したのか「ありがとうございます」と少し頬を緩める。
「この公園がお気に入りなんでしょうね」
「そうなんです。行きたい、行きたいってうるさくて。一人で何時間でも遊んでるんですよ」
「あ、あんなところに」
女の少し驚いたような感じの指摘に目を戻すと、彼女の娘は砂場の隣の滑り台の階段を昇っていた。その足の運び方がまだ少し覚束ない。しかし、「あっ」と腰を浮かせる母親の心配をよそに、娘は階段を昇り切ると、「シュー」と気持ち良さそうに声をあげながら上手に滑り下りてきた。滑り終えて立ち上がると、こちらを見て満足そうににんまりと笑う。それを見て弱々しく息を吐き微笑む母親の表情には娘への深い愛情が見てとれる。
「活発なお子さんですね。パパ似かな?それともママ似?」
「どうかしら」
曖昧に微笑む彼女。「とにかくおてんばで」
「私も小さい頃はそうでした。走って転んであっちこっちに生傷が絶えなくて」
「言われてみれば私もそうだったかも」
見つめ合って笑いあう二人。
すぐに打ち解けた二人の様子を少し離れたところに停めてある車の中から私と上杉が観察していた。
「なかなかのもんだな。お前の友達は」
相手に不審がられない品がある、と上杉は感心しきりだ。
「琴美は世間的にはまだ無名だけど、れっきとした舞台女優だからね。あれぐらいちょろいのよ」
私たちの視線の先にいる母子は北条の妻子で、ベンチに腰掛ける聡子に話しかけているのは琴美だった。
「楽しそうに、何を話してるんだろうな」
「琴美の子供の頃の話よ」
私は髪を耳に掛け、そこに隠していたイヤホンを外して上杉に見せた。
琴美のブラウスの胸ポケットには携帯電話が忍ばせてある。その携帯電話は私の鞄の中にある携帯電話と通話状態になっており、二人のやり取りが密かにこのイヤホンにまで届いているという仕組みだ。
「何だ、それは?」
「イヤホンよ」
「それは分かってる」
上杉は馬鹿にするなという感じで言った。「どういうことだ、と訊いているんだ」
私が仕組みを説明すると、上杉は見る見る機嫌を損ねて口をへの字に曲げた。盗聴などまっとうな人間のすることではない、とご立腹だ。
しかし、私は全く意に介さない。上杉のこういう反応は想定内で、だからこそ琴美が聡子に話しかけるまで黙っていたのだ。
「伝聞じゃリアリティがないでしょ。生のやり取りを聞き取ってこそ聡子さんの心の裡を探ることができるんじゃないの」
夫がゲイであることを知りながら結婚した女の口から何が聞けるか、私はわくわくしていた。今日の経験は絶対に今後の創作活動の糧になる。北条のため、というのは実のところこじつけの大義名分でしかない。
「俺はこういうやり方は好かん」
「言うと思ったわ。でもね、少しでも聡子さんの気持ちを正確に把握するには、こうするのが一番なのよ。これも北条さんのためなの」
私はそう言って、片方のイヤホンを上杉の左耳に差し込んでやった。
「な、何をする」
女に触れられることを毛嫌いする上杉はこれだけでも大いにうろたえる。しかし、「聞きたくないのなら返してもらうわ」と取り外そうとすると、それはそれで抵抗した。面倒な奴だ。
上杉は私たちの代わりに琴美を差向けることにすら最初は反対だった。「この人は北条の友人ではないのだから俺たちの代わりを務めることはできない」と言うのだ。つまり聡子を騙すことになると。
しかし、上杉がそう言うだろうということも私は予想していた。だから前もって琴美を北条に会わせ、挨拶だけさせておいた。北条はいきなり私に友人を紹介されて面食らっていたが、これで知り合いであることは嘘ではない。
私や上杉だって北条と知り合ってまだ大した日数も経っておらず、琴美と大差はない。琴美には私が知っている北条に関する情報は全て伝えてある。我々を代表して聡子の気持ちを聞きだす役を担っても何の遜色もない。
それで上杉は全く反論できなくなった。
イヤホンからは琴美がまるで旧来の友人のように聡子と話す様子が聞こえてくる。
「あれならなんだな。一万円も納得だな」
「でしょ?だから安いものよ、携帯代の五千円なんて」
琴美に一万円渡した、と上杉には言ってある。プロの女優を雇うのにそれぐらいは当然だと。
私が琴美に一万円札を渡したのは嘘ではない。実際上杉が見ていることを横目で確認しながら私は琴美に一万円札の入った封筒を差し出していた。ただし、それは元々私が琴美に借りていた十万円のうちの一万円なのだが、そんな細かいことはわざわざ上杉の耳に入れるまでのことでもない。
ここに来る前に上杉と携帯電話のショップに寄ってきた。そこで上杉に買わせたプリペイド式の携帯電話が琴美のブラウスの胸ポケットに入っているものだ。
離れたところから二人のやり取りを聞くには携帯電話を使うのが便利だ。しかし、聡子が本心を語るまでに長い時間がかかることも考えられる。それを琴美の携帯電話から発信させるのは通話料の面で気がひけた。自分のを使うことはもちろん最初から考えていない。
従って、琴美が携帯電話を持っていないことにして、その琴美と連絡を密に取り合うには携帯電話がどうしても必要だと説明し、「携帯電話を少しの間拝借したい」と頼んだのだが、上杉は頑として首を縦に振らなかった。「どうして俺が」と半ば怒るように拒絶する上杉の態度は理解できた。私も上杉の立場ならそう言うはずだ。それでも私はゴリ押しした。
「この私がギャラに一万円も支払うんだからね」
そう言って、貸すのが嫌ならプリペイド式の携帯電話を用意してくれ、とせがんだら上杉は渋々携帯電話ショップに行ってくれた。終始自分の携帯電話を貸すことを強硬に嫌がり、見せることすら拒絶を繰り返したのは、きっとその待ち受け画面に毘沙門天か卑猥なコスプレ写真が使われていて、私にからかわれるのが怖かったに違いない。
一方、琴美は私の書いた筋書きに最初から乗り気だった。自分の芝居の実力を試す絶好の機会だと不敵に笑っていた。北条本人に会っておきたい、と言い出したのも琴美だった。役作りでリアリティを出すために必要だということだった。普段は大人しいのに芝居ということになると彼女は目の色を変えることを初めて知った。これなら一万円を返さなくても琴美はきっちり仕事をやり遂げてくれそうだな、と少し勿体ない気もしてしまうほどだった。
私の期待の視線の先でその琴美が右手で髪を掬い耳に掛けた。彼女が本題に入る合図だ。
私は鞄からオペラグラスを取り出した。琴美が芝居やオペラを観にいくときに使っているものを借りたのだ。
「用意周到だな」
「こういうデリケートな問題は眉の動き一つも見逃せないのよ」
私が見逃したくないのは聡子の顔色はもちろん琴美の演技もだ。あの普段物静かな琴美が舞台に上った途端どういう違いを見せるのか。私は琴美が作り出す演出に目を凝らした。
「やっぱり似てますね」
声のトーンを落として琴美が一段深いところに切り込んだ。視線は愛子を捉えている。
「え?」
「目元なんかそっくり」
琴美は思い出し笑いをするように口元を軽く手で隠し、一人でクスクスと笑った。
「そ、そうですか?」
聡子は困惑を押し殺しているような表面的な笑顔を顔に貼り付けた。
自分が娘と似ていると言われたと解釈しようとしているのだろう。しかし、それでは琴美に笑われている理由が説明できない。心に芽生えた不可解な気持ちを見て見ぬふりをしてやり過ごそうとしている。そんな作り笑いだ。
「やっぱりお絵描きは上手なんでしょうね」
そう言ってまた小さく笑う琴美。「何と言っても、おじい様が現代の日本画壇の旗手で、院展で奨励賞に輝く高い潜在能力を秘めた方がお父さん。愛子ちゃんみたいな人をサラブレッドって言うんでしょうね。将来は約束されているようなものです」
聡子の表情が一変した。怒りよりも怯えに近い強張りを見せている。
「失礼ですけど、どちら様ですか?」
絞り出したような重苦しい問いかけに琴美は涼しい顔だ。微笑すら浮かべて聡子と対峙する余裕がある。
「愛人です」
「は?」
「ご主人の愛人なんです、私」
小悪魔のような笑顔を浮かべる琴美。
それを芝居だと知っている私でさえ心をかき乱される。
愛人という立場でありながら罪の意識の欠片も感じさせず、次に何を言い出すか分からない怖さを相手に覚えさせる。初対面の女にこんな言い方をされれば、妻としては正気ではいられまい。
「主人の愛人?」
聡子は小学生が先生の後に随うように、そのまま繰り返す。たった五文字の言葉の意味を必死に理解しようとしているようだ。
「ええ。北条さんとお付き合いさせていただいてます」
落ち着き払った琴美に対して聡子の声が震えているのがイヤホン越しにも分かる。驚きはやがて怒りに変わるだろう。
私はごくりと生唾を飲み込んだ。聡子の口から今にも逆襲の咆哮が響きそうで、思わず肩に力が入る。
「これはどういうことだ?」
声を震わせているのは聡子だけではなかった。私の隣でも顔色を失った坊主頭が、信じられないという表情でフロントガラスの向こうを眺めている。
上杉がここでこういう反応を示すのも想像できていた。
私の作戦を了とするとは思えなかったので、上杉には本当のことは話していなかった。外見の大人しい琴美が我々の代わりに北条の友人として聡子に近づき、北条の現況を伝え聡子の本心を聞き出す。上杉にはそう説明し、ここまで車を運転してきてもらった。嘘をついたとは思っていない。計画の一部を伝え損ねたのだ。意識的にだが。
「どういうことでもないわ」
「彼女は北条の愛人なのか?」
上杉の顔にもベンチの聡子と同種の驚きと怒りの合いの子のような強張りが窺える。妻でも親でもないあんたが何で怒ってるのよ、と私は場違いにも吹き出してしまいそうになる。
「そういう設定ってだけよ。言ったでしょ。琴美は舞台女優なの。それぐらいの役柄を与えてあげないと力が出ないのよ」
「また人を騙すのか。お前のやることは嘘ばかりだ」
上杉は目を吊り上げて怒っていた。
こういうやり方が上杉の意に沿わないことは百も承知だった。しかし、上杉がどう捉えようと知ったことではない。そしてもう今さら計画は止めようがない。
「ショック療法よ」
「何がショック療法だ!これのどこが北条のためになるっていうんだ。ますます聡子さんの気持ちが北条から離れていくだけじゃないか」
「これが一番なのよ。追えば逃げる。逃げれば追う。これで聡子さんは北条さんのことが気になってくるはずよ。女ってそういう生き物なんだから」
私はいきり立った馬を宥めるように言いつつも、最後には突き放す。「そもそも私たちの代わりに琴美に行かせてること自体が既に嘘じゃない。片棒担いじゃったんだから大人しく見てなさいよ」
北条の知り合いで、と正直に言って出ていったところで、親にも隠している本心を聡子が明らかにするはずがない。その程度で済む話ならわざわざ琴美に一万円支払って応援してもらわなくても自分でやる。
琴美を愛人として聡子にぶつけるのは賭けだが、それに対して聡子がどう反応するかは一見の価値があると私は見ている。嫉妬か拒絶か。とにかく北条を取り巻く事態はこれで絶対にはっきりするのだ。
北条には今の中途半端な状態が最も良くない。
たとえ聡子が拒絶反応を示し明確な別れが訪れて、それで北条が一時的に深い傷を負ったとしても、それは結果を得るタイミングが早くなっただけのこと。ずるずると調停を続けていても時間の浪費だ。真綿で首を絞めるような状況を続けるのは北条の創作活動にマイナスしか与えない。
せっかく北条から絵をもらっても、それに価値がなければ何の意味もない。狭くてお世辞にもきれいとは言えない私の部屋に、知人が描いた単なるできそこないの絵を飾ってもお腹は膨れない。もらうからには今日明日でなくても近い将来必ず高値で売れるポテンシャルを秘めた芸術作品でなければ。だから私は北条には少しでも良い環境で創作に励んでもらいたいのだ。
キーンと脳に響くような緊張感が車内にも充満している。掌に爪が食い込んで痛いが、私は拳から力を抜くことができないでいる。
ベンチに座る二人の間に漂う空気の密度はここよりもはるかに濃いに違いない。しかし、その侵しがたい緊張感の結界を、いともたやすく甘い幼児の声が切り裂いた。
ママー。ママー。
ハッと視線を彷徨わせると、滑り台の上で愛子が母親に向かって手を振っている。
聡子もぎこちなく目を細めて小さく手を振り返す。
それだけで満足したのか愛子はサッと滑り終えると、再び砂場に駆け込み枝を手にしてその足下に穴を穿ち始めた。
私はふーっと息を吐いた。食道と胃の継ぎ目あたりにしくしく痛みを感じる。琴美が繰り広げる神経戦にこっちが参ってしまいそうだ。
上杉は額を袖で拭うと凭れかかるようにハンドルに腕を置いた。上杉も今さらどうしようもないことは分かったようだ。チッと舌打ちした後は観念したように黙って二人のやり取りに目を凝らした。
仕切りなおすように琴美に向けられた聡子の目には今までにない力強さが宿っていた。
「それで、私に何か?」
「ええ」
琴美は聡子の威嚇するような圧力にも微動だにしない。「奥様にお話したいことがありまして」
「奥様だなんて……」
ほんの一瞬だけ聡子の目元が寂しそうに翳った。そのわずかな変化は本人でさえ気が付いていないかもしれない。「何でしょうか?」
「難しいお話ではありません」
琴美の眼差しにも一歩も退かないというような気迫が満ちていた。「北条さんと別れていただきたいんです」
「は?」
驚きと疑問で大きく見開かれた聡子の瞳は、すぐに哄笑と共に細められた。相手に己の優位さを感じさせようとする大げさで勝ち誇った笑い方だった。
ママー。
愛子が砂場から母親を呼んでいる。「ほら」と掲げた薄汚れたペットボトルから砂がぼたぼたと流れ出ている。きっと砂の下から掘り出したのだろう。落下する湿った砂の塊で服や靴が汚れてしまうが、愛子は全く頓着していない様子で喜色を浮かべている。
聡子も愛娘の服の汚れを全く意に介していない、作ったような柔和な表情だ。愛子がしゃがみ込んで砂場という楽園に戻っていくと、聡子はゆっくり口を開いた。
「お付き合いなさってるのにご存じないの?私たち、今、離婚について裁判所で調停中なのよ」
そんなことも知らないで愛人だなんておかしいわ、と言外に皮肉っている。
しかし、琴美は眉一つ動かさない。
「ですから、参りました」
淡々と話す琴美に聡子も事態の複雑さを垣間見たようで、冷静さを取り戻そうとするかのように肩で大きく呼吸した。琴美の全身を視界に捉えるように少し身を引いて座り直す。
「どういうこと?」
聡子の殺がれた分の勢いが移ったように、琴美の口吻が熱を帯びたものになる。
「きっぱり別れていただきたいんです。中途半端な協議なんかやめて、お子さんと二人でどこか遠くへ身をくらませてください」
「どうして私が?」
聡子は口元を歪めた。理不尽な提案に対する怒りを嘲りの笑いに滲ませたようだ。「私と離れ離れにしたいのなら、あなたが北条を連れてどこへでも行けばいいじゃない」
簡単なことでしょう、と聡子の目が言っている。
しかし、それが簡単なことではないことを琴美の表情が語っている。
「それはできません」
きっぱりとだが憂えるような感じで琴美は聡子の言葉を否定した。
「だから、どうして?」
「北条さんが……」
琴美は憂いを拭い去り、何かを決意したように再び目に力を込めた。「北条さんが動きたがっていないからです。彼は繊細な人です。これ以上生活環境を変えると、彼の創作への集中力はさらに減退してしまいます。今、彼はスランプに陥っていて、とても苦しんでいます。私は彼が全身全霊を込めて作品づくりに専念できる環境を用意してあげたいんです」
「それぐらい……」
琴美の北条への想いの強さに圧倒されそうになるのを聡子も懸命にこらえるようにして琴美に正面から向き合った。「彼が苦しんでることぐらい私だって分かってるわよ。でも私たちがここから追い立てられる筋合いはないわ。娘だってここでの生活に慣れてきているところなんだから」
「ですから、こうやってお願いに来たんです」
「お断りします」
間髪入れず拒否する聡子に琴美も負けてはいない。
「お願いします。彼の繊細さは奥様が一番よくご存じのはずです。アトリエを変えても完全に慣れるまでに年単位の時間がかかるでしょう。スランプから脱出するために、少なくともアトリエだけは今のままにしてあげたいんです」
「少なくともってどういうこと?」
「それは……」
終始自分のペースを守っていたように見えていた琴美が口ごもった。言葉選びに苦慮しているような表情はとても芝居には見えなかった。しかし、これは虚構だ。琴美が作り出した演出に過ぎない。そう分かっていても想い人の成功を心から願う一人の女性の必死さに私は切なさや胸苦しさを感じてしまう。
「それは?」
「もちろん、聡子さんが傍にいて全身で支えてもらうことが北条さんにとって一番作品づくりに集中できる環境だと思います。愛子ちゃんが身近にいることは彼にとって何にも代えがたい癒しになるでしょう。でもそれが叶わないのなら、北条さんの生活圏内から遠くに離れてほしいんです。今の中途半端な距離が北条さんを一番苦しめるんです。これ以上北条さんを困らせないであげてください」
琴美は聡子に向かって深々と頭を下げた。
「困らせるつもりなんてないわ」
聡子は苦しそうに息を漏らした。「つまるところ、あなたは何を求めているの?」
琴美はゆっくり顔を起こして口を開いた。
「北条さんが作品づくりに集中できる環境を手に入れることです」
「じゃあ、そのために彼と私がよりを戻すのが最良だとしたら、あなたはそれを望むわけ?」
「もちろん可能性があるのならそれを求めます。奥様の気持ちが少しでも北条さんに残っているのなら、今すぐ北条さんのところへ帰ってあげてください」
琴美の曇りのない瞳の輝きは彼女の発言がやせ我慢ではないことを証明していた。
「あなた、北条と付き合ってるんでしょ?それでも構わないの?」
「構いません。私はただ北条さんに輝きを取り戻してほしいだけです。そして、そのためには北条さんが元の生活を取り戻すことが一番の近道だと思います」
「それじゃあ、あなたの幸せはどうなってしまうの?」
その問いに琴美は軽く微笑んで空を仰いだ。
「奥様は北条さんの才能をどう思われますか?」
「素晴らしい才能を持っていると思うわ。彼がその才能を存分に発揮したら、きっと世界の視線を独り占めする。彼はやがて日本の美術史に名を残す人よ」
「だとすれば自ずと答えは明らかじゃないですか」
琴美は頬笑みを浮かべたまま聡子を見つめる。「私の個人的な幸せなど瑣末なことです。過程はどうであれ北条さんの才能が開花すれば、それだけで私は幸せを感じることができると思いますし……。少なくとも私は毎日の生活の中で北条さんのことを最優先しています。北条さんのような人並み外れた才能の持ち主は周囲に犠牲を強いることを天から許されていると思うんです。私はどんな形であれ北条さんが遺憾なくその能力を発揮することの犠牲になれればそれで十分です」
「そんな。私だって……」
その後に続く聡子の言葉はあまりに小さくて聞き取れなかった。しかし、オペラグラスを通して見る聡子の少し俯いてきゅっと引き絞った口元に、琴美に対する嫉妬と北条への愛が満ちているように見えた。
終わった。
琴美は期待通り、いや期待以上にやってくれた。北条の犠牲になれれば十分だ、と清々しく言い放った琴美の演技に私は全身の肌が泡立ち、時間が経っても治まらないのを感じていた。琴美に頼んで正解だった。己の幸せは二の次で、無償で誰かに尽くすことが本望だという気持ちを全身で表現するなど、私にはいくら演技でもできそうにない。
聡子の口から赤心を聞き取るところまではいかなかったが、今の表情を自分の目で確認できただけでも今日は十分だった。聡子はきっとまだ北条との結婚生活に未練がある。
「聡子さんは自分の気持ちに気付いたみたいだな」
その言葉は上杉が私の作戦を受け容れたということだった。私は二つの荷物が肩から下りたような気がして、そっと息をついた。
「一つだけ……」
足下の地面をじっと見つめたまま押し黙っていた聡子が顔を起こし、懇願するような顔で口を開いた。
「え?」
「一つだけ教えてもらってもいいかしら?」
「何でしょう?」
「あなた、……その……北条とは、その何て言うか、一つになるって言うか、身体の関係は……できたの?」
言ってから聡子は恥ずかしそうに顔を赤らめて下を向いた。しかし、これだけは訊かずにはいられなかったのだろう。再び顔を起こして琴美を見つめた聡子は、それでもやはり恥ずかしさには勝てず視線は下に逸れてしまう。
琴美はクスッと笑って、こちらはあっけらかんとした表情で空を仰ぎ見た。
「ごめんなさい。私、嘘をつきました」
「嘘?」
聡子は怪訝そうに琴美の横顔を眺めた。
「私、愛人なんかじゃないんです。北条さんも私のことをそうは思っていません。ただでさえ絵に恋しているような北条さんがスランプでもがいている今は、なかなか愛人にもしてくれませんよ。私の勝手な片思いなんです。ただ、寂しそうで筆の進まない北条さんを見ていると、どうしても居たたまれなくって、ここに来てしまったんです」
ベンチからサッと立ち上がると、「申し訳ありませんでした」と聡子に対して深々と頭を下げる琴美。
「そう……。嘘だったの」
聡子は怒りを示すことなく、逆に打ちひしがれたとでも形容できるような陰のある暗い視線を中空に漂わせた。「あなたの嘘なんて可愛いものよ。私のに比べればね」
小さな足音が近づいてきた、と思ったら女児が聡子の傍らに立っていた。
「ママを苛めたの?」
半分泣きそうな顔で抗議の眼差しをまっすぐ琴美に向けた後、愛子は慈しむように母親の手の甲を撫でた。「パパが帰ってくるまで愛ちゃんが守ってあげるからね」
頬を叩かれたような顔で聡子は娘を見つめ、指で目尻を払うと愛娘を強く抱きしめた。