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二十三

 部屋に戻ってきても私のカッカする頭は静まらない。ちゃぶ台の上のチラシとシールの山を目にすると余計に血が滾るようだった。時間と労力を割いてせっせと貼ったチラシが一枚一円。その束を見ていると、いっそ全てビリビリに破いてしまいたい衝動に駆られる。

 くっそー。二人で一緒に行ったのに、どうして上杉は百万円を手にして、私はちまちまと内職に励まなくちゃいけないのよ。

 私は苛立ちまぎれにバッグを壁に放り投げた。跳ね返ったバッグの中から携帯電話が飛び出す。俺を使えよ、とばかりに足下に転がってきた携帯電話を私は拾い上げた。掛ける相手は一人しかいない。

「おう。どした?」

 多聞の声はいつも通り優しかった。その優しさに私は怒りで返した。そんな仕打ちをしても多聞は受け止めてくれると知っているから。

「どした、じゃないのよ。どうかしてないと掛けちゃいけないの?」

「お。今日はいつもに増してご機嫌斜めだな」

 多聞はどこか愉しそうだった。「こりゃ金が絡んでるぞ」とくすくす笑う。

「どうして分かるのよ」

「昔から真琴の機嫌は大抵お金に左右されるからさ」

「それっていけないことなの?」

 多聞の口調が非難めいているわけでもないのに、私は喧嘩腰になってしまう。

「いけなくないさ。物事に執着するってことは大事なことだからね。ただ……」

「ただ、何?」

「何でもそうだけど、追えば逃げるんだ」

 確かにそうかもしれない。だけど、追わなきゃ掴まえられない。追わない人間に大成した奴はいない。多聞もそれは分かっているだろう。多聞が言いたいのはきっと逃げることが分かっていても、さらに追いかけ続けることができるかどうかが大事だということだ。

「じゃあ、どうすればいいか教えてよ」

 私は北条のことを多聞に伝えた。画家であること。男性に興味があること。それなのに結婚して子供がいること。子供とは血がつながっていないこと。その妻子が逃げていこうとしていること。私と北条の出会いについては割愛したが、それ以外のことについては包み隠さず全て多聞に伝えた。

「どうしたら、この画家さんはまたいい絵が描けるようになると思う?」

「いい絵ができたら、もらうつもりだろ?」

 また多聞が鋭いことを言う。確かに先ほどファミレスを出るときに半ば強引に北条に承諾させてきたところだ。あのがらくたみたいな馬の置物には敵わないかもしれないが、その何割かを埋めるものを北条に描かせなくてはいけない。

「それが北条さんの幸せにも繋がるのよ」

 自分が描いた絵に高い金額がつけば自信になるだろう。今、北条に必要なのはきっかけと自信なのだ。そのお金が誰の手に転がりこもうときっとそれは大きな意味を持たない。そして、北条と上杉と私。お金を最も渇望しているのは、この三人の中で私であることは間違いない。

「でも、幸せがいい絵を生むとは限らない」

「どういう意味よ」

「事を成すにはハングリー精神が必要だってことだよ。俺が真琴を買ってるのは、そのハングリー精神が誰よりも旺盛だってところだからさ」

「そ、そう?」

 急に褒められると返す言葉が見当たらず、しどろもどろになる。

「いっそ離婚しちゃった方がすっきりするのかもよ。復縁したら復縁したで、また新しい気持ちになれるかもしれないし。とにかく今の中途半端な状況がその人にとって最も良くないんだろうな」

 私は深く頷いた。多聞と話していると少しずつ血の騒ぎが治まってくる。

「じゃあ、さっさと調停を終わらせることね」

 そう言うと電話の向こうで多聞は少し押し黙った。

「そもそもなんだけどさ」

「何?」

「奥さんは何で離婚したいんだっけ?」

「そりゃ、夫が男にも興味があるって分かったからじゃないの?」

 言いながら、どこか変だな、と私は思った。

「それを承知で結婚したんだろ?」

「あ、そっか」

「そこんところはっきりさせないとな」

 私はしばらく思案を巡らすと「そうね、そうする」と一方的に電話を切った。そしてすぐに次の電話を掛けた。

 コール音はするがなかなか電話は繋がらない。漸く繋がったと思っても当の本人の声が聞こえてこない。

「何?」

 漸く聞こえてきた第一声がそれだった。琴美の訝る様子が目に浮かぶ。彼女は明らかに私を警戒している。

 それも仕方ない、と私の心に懺悔の気持ちが芽生えた。

 ここのところ琴美に電話を掛けるときはいつもお金の無心だった。少なくとも十万円は借りている。一度の電話で一万円用立ててもらっていたとすると、十回連続でなんだかんだ理由をつけては琴美の財布からお金を頂戴していることになる。彼女は元々大人しい性格だ。断れないことを知っていて電話を掛けていた、と言われれば否定することはできない。彼女だって裕福な生活をしているわけではない。またお金をせびられる。今の彼女は私への不信感の塊になっているに違いない。

「元気?」

「まあ、元気だけど」

 感情のこもっていない声が返ってくる。

「そう。それなら良かった」

 私は、えへへ、と意味もなく笑った。そうでもしないと間が持たない。「ねぇ。近いうち会えない?」

「え?何?」

 琴美に聞こえていないはずはない。それでも反射的に聞こえていない振りをしたということは、私のことを遠ざけたい気持ちが彼女の中に存在しているのだ。琴美はこの電話に出ることにかなり逡巡したのだろう。ここでもう一度、お金を貸してほしい、と頼めばもう次はないに違いない。

 ここまで琴美に心理的に距離を取らせるようなことをしたのは己の言動が原因だ。取りあえず今回は電話に出てくれて良かった。ひんやりと背中が寒くなる。放っておけば友達を一人なくすところだった。私にとって数少ない、いや唯一の友達だ。

「お金、返したいと思って」

「え?ええ?」

 琴美は狼狽と言っても良いぐらいに混乱したような声を上げた。金の無心だと思っていたところに返済の話を切り出されて完全に面食らっている様子だ。

「って言っても一万円だけなんだ。焼け石に水でごめん、なんだけど」

「どうしたの?真琴。頭打った?風邪でもひいた?」

 琴美に揶揄するような感じはない。半ば本気で体調を心配されているのが私としては癪だった。

「打ってないし、ひいてない」

「じゃあ……汚いお金ってこと?」

「どういう意味よ」

 犯罪に手を染めて濡れ手に粟でせしめた悪銭だろう、と長年の付き合いの友人に勘繰らせてしまう私って一体。私はさすがに哀しい気分になって声を曇らせた。「せっせと内職したの。チラシに訂正テープを貼ったのよ。一枚一円で一万枚」

 何事にでも一度のめり込むと寝る間を厭わず没頭する私は昨日徹夜で作業を続けたのだ。思わず目頭を手で揉み、首を回して肩の凝りをほぐす。

「うそ」

 琴美は電話の向こうで言葉を詰まらせた。「そんな大事なお金もらえない」

 涙ぐみ声を震わせて固辞する琴美。

 今度はそうなるのか。私は慌てて琴美の負担感を軽くしようとした。

「そんな大層なものじゃないってば。私、手先が器用でしょ?だからこういう内職が得意なわけ。結構儲かるのよ。一万円ぐらい気にせず受け取ってよ」

 結構儲かるのならさっさと全額返せよ、と言われたらどうしようか、とも思ったが琴美はそんなことを言うような性格ではない。内気で気の優しい、おっとりした女の子なのだ。

「分かったわ。今回は遠慮なくいただきます。また、何か困ったことがあったらいつでも相談してね」

 思わず言ってしまったのだろう。

 今まで連絡を寄越したら決まって借金の申し出ばかりだった幼馴染が汗水たらして働き、少ないながらもお金を返す、と言う。もらって当然なのにどこか罪悪感に似た気持ちが胸に迫ったのだ。あの真琴が、と思うと情にほだされてしまい、ふっと警戒感が緩んで口が滑ったというところか。

 私は江戸時代の剣豪にでもなったような気分だった。一瞬だが決定的な隙を相手に見つけてしまい、勝ちを確信しながらも人を斬ることの悲しみに思わず目を閉じる。何せ私は『神様お願い』の葵なのですから。

「じゃあさ、早速なんだけど……」

 私の捨て身の突き技に琴美が小さくヒッと息を吸い込んだのが分かった。


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