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二十二

 どれぐらいの時間が経っただろう。むっくりと顔を起こした北条はぽつりぽつりと語りだした。相変わらず説明が下手くそなので、聞き手の二人は時折言葉の意味を北条本人に確認しながら話を聞いた。

 北条は私の指摘通り当初聡子のことが好きだったわけではなかった。足利の家に寄宿して足利の指導のもと、ひたすら絵を描く毎日を送っていた北条にとって、師匠の娘は師匠の娘でしかなかった。別世界に住む人だという認識に近く、色々世話になって感謝はしていたが、それ以上の気持ちはなかったようだ。そもそも当時から北条の目は男性に向くことが多く、同世代の異性と一つ屋根の下で暮らしていても特別な意識はなかったらしい。

 聡子と北条に事件が起きたのは足利が海外出張で不在にしていたある日の夕暮れ時だった。聡子が買い物に出かけたあと、予報に反して降り出した雨がしとしとといつまでも止みそうになかったので、傘を持って北条が迎えに行ったことがあった。

 聡子がよく行くスーパーまでの道のりを、北条は雨宿りしているかもしれない聡子とすれ違うことのないよう家々の軒先に気を配りながら歩いていた。そのとき、向こうから傘も差さずに雨の中をふらふらと歩いてくる人の姿が見えた。雨は次第に勢いを増してきて人通りの少ない道路にその人は異色の存在で浮かび上がっていた。

 目を凝らすとその人が聡子だった。全身濡れ鼠になり身につけているものはほつれているところがあり、買い物に行ったはずなのに手には何も持っていない。家を出るときには肘に掛けていた財布の入ったバッグすらも。しかも、そのことに当の本人が気が回らないようだった。

 北条は慌てて聡子に駆け寄り肩を抱き、傘で自分たちの姿を覆うようにして家路を急いだ。近くで見ると聡子の身体には肘と膝に擦過傷が浮き上がっており微かに血のにおいがした。聡子は北条の声に反応を示さず半ば放心状態の様子だった。聡子の身に何かが起きたのは間違いなかった。

「許せない」

 そこまで聞いて私は怒りに身を震わせた。聡子が受けた傷の深さを思うと同性として居たたまれない気持ちになる。

「足利先生は、ご存知なのか?」

 上杉がおずおずと切り出した。

 北条はブンブンと首を横に振った。

「誰も知りません」

「誰もって……警察も?」

 私の問いに北条は今度は目を見つめ返してしっかりと頷いた。哀しさと真剣さを宿した眼差しだった。

「それが彼女の選択」

 私は低く唸った。気持ちとしてはしっかり警察に事実を伝えて組織だった捜査のうえ、速やかに犯人逮捕、厳罰実行を企図してほしかった。しかし、第三者の私がとやかく言える次元の問題ではなかった。聡子がそう判断した以上、その気持ちを汲みとってやるのが傍にいる者の役割かもしれない。誰もその判断を責めることはできないし、そんな資格は有していない。

 そのときの足利の出張は欧州各国を巡る長期のものであり、聡子の外傷も程度が軽かったため、帰国したときには見た目に聡子の怪我は治癒していた。内面の傷の程度は聡子にしか分からないが、足利が何かに気付いたような様子は見えなかったと北条は言う。

「そういうところは鈍感なんだ」

 私は足利の脂ぎった顔を思い起こしていた。他人に興味がない、と言いきっていたあの男は実の娘でさえも他人の一人でしかないのかもしれない。

「で、その事件と結婚とどうつながるんだ?」

 上杉が話の続きを促したが、私はそれを一旦制止し、ドリンクバーで飲み物を補充してから北条にオッケーを出した。

 しかし、そこから北条の口はさらに重かった。そしてやっと出てきた言葉がさらに私たちを驚かせた。

「打ち明けられた」

 北条は一拍おいて声をひそめた。「妊娠してるって」

 え?

 私と上杉は同じ声を上げていた。

「もしかして、それが今の……」

 恐る恐る確認すると北条が小さく頷いた。

「彼女は対人恐怖症になっていました」

 聡子は北条以外の男性と、会話をするどころか同じ空間にいることにさえ耐えられない苦痛を覚えるようになってしまったようだ。しかし北条とだけは普通に話せた。それは何故か。北条だけが本当の事情を知っているということもあったが、北条の女性的な面を見抜いていたのかもしれない。

 彼女は北条に救いを求めた。北条だけが信用できる存在となった。

「お前、自分が男性にも興味があることを周りにカミングアウトしてたのか?」

 北条は静かに首を横に振った。

「そのとき初めて、彼女にだけ」

 北条は聡子に自分はゲイだと言って安心させようとしたのだろう。

「聡子さんは、その、……堕ろすことは考えなかったの?」

 堕胎。胎児を殺すということ。恐ろしい響きだ。口にしてから私は身震いした。堕胎をテーマにした作品を書いたことはないが、書くには余程の覚悟が必要だと思う。軽々に扱える内容ではない。

「敬虔なクリスチャンだから」

 クリスチャン?私は北条の言っている意味がよく分からなかったが、上杉は「なるほど」と頷いた。余程私がきょとんとしていたのか、上杉は舌打ちしつつも説明を加えてくれた。

「キリスト教では中絶は殺人と同義になる。人は創造主によってつくられると考えられているから、胎児だろうが大人だろうが神によって授けられたものを殺すことは神への冒涜となる」

 中絶はできない。しかし産む以上は誰の子なのか聡子は親である足利に言わなくてはならない。今さら事件のことを言えない。事情を知っているのは北条しかいない。しかも聡子にとって唯一心を許せる男性が北条。事件のことを周囲に知られず子供を産むには北条が夫となるしかなかったということか。

「北条さんはそれで良かったの?」

 そこで北条はにっこりと笑った。元々二枚目だけに憔悴していても笑顔は爽やかだった。

「丁度良かった」

「どうして?」

「怪しまれてたから」

 北条の同性への意識が普通ではないということが周囲に浸透し始めていたのだろう。結婚が北条の嗜好を覆うベールとなったようだ。

「どうも納得いかん」

 上杉は仏頂面だった。

「何がよ」

「そんなのは偽装結婚だ」

「大きなお世話よ。偽装でも何でもいいじゃん。二人がそれでいいんだったらさ」

「しかし、結婚というのはな、もっと神聖なものだろう」

「あら?上杉さんはその神聖な結婚をどうお考えなんですか?女性は汚らわしいんでしょ?尊敬する謙信公は生涯独身だったんじゃありませんの?」

 私の指摘に上杉は言葉を詰まらせてまともに言い返すことができなかった。口の中でぶつぶつと、結婚しなければその神聖さも冒さないじゃないか、とかなんとか言っていたが私は無視した。

「それにしても偉いわ」

 私は感嘆の声を上げた。北条のしたことは自分には到底真似できない。「よその男の子供を……」

「僕の子」

 北条は私の言葉を遮るように言いきった。見せたことのない厳粛な顔に否定を許さない強い眼差しを備え私と向き合った。「愛子は僕の子」

 目が燃えているようだった。誰が何と言おうと娘は自分の子である。事実なんて関係ない。自分がそうだと言いきればそれが現実だ。その目は北条の口よりも雄弁だった。

「その熱さだよ」

 上杉は傍らに置いてあったリュックサックの中に手を突っ込んだ。「北条(ほうじょう)。これ何だか分かるか?」

 上杉がボディバッグから机の上に出したのはいつもの毘沙門天ではなく、足利にねだってもらった瑕物の馬の置き物だった。改めて目の前にしてもやはりがらくたという印象は変わらない。

 上杉は朱い鞍がどうのこうのと言っていたが、よく見ればその色もところどころはげ落ちていて、そのためにみすぼらしさが増している。思っていたよりも古いものかもしれない。

「そのがらくたも持ち歩いてるの?」

 銀行の粗品というよりは山村の土産物といった風情か。どちらにせよ私は爪の先ほどの興味も湧かずストローに口を伸ばした。

 しかし、北条は「あっ」と大きな声をあげた。

「先生に会ったんですね」

「いかにも」

 上杉は厳めしく頷いた。「こいつと一緒に行った」

 北条が確認するように私を見た。私が頷くと北条は先ほどまでの力強さはどこへやら、へなへなと項垂れた。

「あれ?駄目だった?」

「いえ。……僕は合わせる顔がないから」

 思うように絵が描けず、しかも離婚協議中。弟子としても義理の息子としても足利に対して負い目を感じてしまうのだろう。土下座して誓った言葉を噛みしめているのかもしれない。

「先生はいたく心配しておられた」

「……」

「お前には熱意が感じられないとおっしゃっていた。絵に対しても、結婚生活に対しても」

「熱意?」

 北条は気弱な表情ながらも眉を顰め納得いかないという様子で上杉を見返した。「熱意ならあります。いや。熱意しかない」

「それは俺も知っている。もちろん先生も御承知だろう。しかし、先生は感じられないとおっしゃっていた。お前の胸の奥には熱意が潜んでいる。だが、それが周囲に伝わりにくいということなんじゃないか?絵に対しても、結婚生活に対しても、貪欲で激しく命を掛けるような熱さが明確に表現できているのか?」

「そういうの……苦手だから」

「いや。そんなことはない」

 上杉は北条の言葉を言下に否定した。「何度も言うが、あの牡鹿の絵には明確な熱意が込められていた。静かで怜悧な絵だが、牡鹿の強い眼差しや冴え冴えと澄みきった月光の照射に俺はお前の筆づかいの熱さを感じた。今のお前にあの絵がもう一度描けるか?」

 上杉の鋭い指摘に北条の視線は弱々しく傾いた。

「足利先生が熱意を表現できていないと?」

「ああ。そうだ」

 そうですか、と項垂れると二度三度と北条は頷き卓上の馬を見つめた。

「この馬は先生のお気に入りだった一品。江戸時代の名工の作。三百万円は下らない貴重なもの」

「三百万!」

 私は息を飲んだ。そのまま呼吸さえ忘れて目の前の馬に見入った。「こんな何の変哲もない置物が?尻尾も折れてるのに?」

「あっ、本当だ。先生、大事にしてたのに。これじゃあ価値が下がっちゃうでしょうね。半分とか、三分の一とか」

 瑕物のこのがらくたが百万円になるというのか。

 足利は一度は私にこの馬をくれようとしていた。あのときどうしてそれを断ってしまったのか。何ということだ。私は目の前が暗くなるのを感じた。そのままテーブルの上に突っ伏した。

「騒がしい奴だな」

 上杉の私を非難する言葉が頭上に降りかかってきた。その声が妙に落ち着いて聞こえる。

「知ってたのね」

 顔だけ起こして乱れた髪の間から上杉を睨みつけた。値が張るものだということを悟っていて、私が一顧だにしなかったことを笑っていたのだろうと、私は上杉を責めた。

「そんなことは知らん。俺にとっては足利先生からいただいた朱の鞍覆い付きの馬だということに価値があるんだ。いくらの値が付こうが、俺はこれを一生手放すつもりはない」

 そう言われても私の腹の虫はおさまらない。上杉を非難するのはお門違いだとは分かっているが、目の前に百万円がぶら下がっていたのかと思うと悔しくて、何かに苛立ちをぶつけないではいられない。私は目の前のジュースをがぶ飲みした。

これが上杉が言う「吉兆」だったのか。これが毘沙門天の霊験か。百万円と聞いても小鼻一つ膨らませることのない上杉のふてぶてしい様子が頭にくる。

「それを先生が上杉さんに渡した。先生が上杉さんに何かを託されたんですね」

 北条は時折つかえながらも言葉を紡いだ。「認めます。今の私にはあの絵は描けない」

「認めます、じゃないわよ」

 ガバッと私は身体を起こした。「あんたには絵しか残ってないのよ。スランプだろうがなんだろうが、どんどん描くしかないの!ひたすら描くのよ。あんたは実力があるんだから描いてりゃ、そのうち結果はついてくる。野球選手だってバット振ってりゃ、そのうちヒットが出るのと一緒よ。いつまでもうじうじしてないの!分かった?」

 そう言って私は近くを通った店員の腕を掴まえてチョコレートパフェを注文した。

 上杉も北条も私の剣幕に言葉を失ったように呆けた顔をしている。私だけが理不尽に息巻いているのを第三者的に傍観しているような二人のその距離感が私をさらに苛立たせる。

「分かったかって訊いてるのよ!」

「はいっ!」

 北条は背筋を伸ばして返事した。

「分かったなら、次に描いた絵を私に寄越しなさい。百万円の絵を描くのよ!」

「はいっ!」

 上杉が「北条(ほうじょう)に八つ当たりするなよ」とぼそっと呟いたが、私は無視した。怒りが全然治まらない。

 やがてパフェが運ばれてくると、私は口元や腕、テーブルの上に飛び散らす勢いで貪るように食べた。そして食べ終わるや否や私は何も言わずにバッグを掴んで出口へ向かった。パフェ代ぐらい上杉が払えば良い。北条でも構わない。私はやけにゆっくりと開く自動ドアをこじ開けるようにして外へ出た。


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