二十一
日曜日の夕方のファミレスは混んでいた。学校は休みのはずなのに制服を着た女子高生がキャッキャ騒ぎ、乳児がワンワンと合唱のように泣いているなか、母親同士は逞しく会話を続けている。そんな混雑した店内の隅で、三人は言葉少なく向かい合っていた。
「ったく、うるさいわね」
私は良い加減うんざりしてきて舌打ちした。
「すいません」
北条がファミレスを代表するように頭を下げる。
「別に北条さんが悪いわけじゃないし」
北条の家のそばのファミレスだからといって、北条が謝る必要はない。そして実のところ私としてもタダで腹を満たすことができるなら空飛ぶ衛星が降ってきたって構わないぐらいなのだ。テーブルにはポテトフライと焼いたソーセージとジュースがある。私としてはそれだけで何ら不満はなかった。ただ三人の間に沈黙が続き間が持たなくて八つ当たり気味に文句を言ってみたまでだ。
私は浮かない顔のままで、しれっとポテトに手を伸ばした。
「そうだ。別に気にすることはない。こいつはタダ飯が食えたら文句はない女だからな」
上杉に思いっきり痛いところを突かれて私は激しくむせ返った。飲み込みかけていたポテトが鼻から出てきそうになって思わず、手元のおしぼりで鼻の周りを塞ぐ。
先日足利と会った後も上杉と喫茶店に行ってオムライスを食べたが、その場でも当然私は一銭も払っていない。上杉には私の魂胆を完全に見透かされている。そろそろ一度は身銭を切るところを見せておくべきだろうか。しかし、そもそも財布にどれだけお金が入っているだろうか。我ながら心もとない。
「そ、そんなことないわよ」
「無理するな」
上杉は鷹揚な笑い方をした。「今日も俺が呼んだんだから俺が払う」
上杉にそう言われると抗う理由はない。私は「そ、そう?」と支払っても構わないんだけどね、という顔だけ見せておく。
しかし、内心は胸を撫で下ろしていた。足利のところへ同行したときに上杉からもらったバイト代の二千円はすでに食費に消えていた。上杉は律義な男だから一度口にした言葉は違えない。ただ、今の牽制でこれ以上追加の注文はしづらくなった。夕食としては寂しい感じもするが今日のところは仕方ないか。上杉も北条もろくに食べないので、テーブル上のものはほとんど私が平らげることになるから、これだけでもカロリー的には何とか朝までもつだろう。
「で、どう?なかなかうまくいかない?」
私は北条に話題を振った。支払いの件からはさっさと遠ざかりたい。
振られた北条は、そうですねぇ、むにゃむにゃ、とはっきりしない。しかし、思うように筆が進んでいないことは、どよんと曇った顔つきから明らかだ。いつにもまして今日の北条の顔には覇気がない。
「厳しいことを言うようだが、素人の俺から見てもはかどってるようには見えないぞ」
上杉はジンジャーエールを飲みながら、苦いものを口にしたように少し顔を顰めた。
「すみません。いつも」
ますます北条は肩をすぼめる。
「いつもって何回ぐらいモデルやったの?」
「五回ぐらいだな。週末と、それから平日の夜もたまに」
へぇ、と私は声をあげた。出会ってからまだ二週間余りなのに上杉が五回もモデル役をこなしているとは驚きだった。義理堅いのか、単に暇なのか。
「本当にギャラはないんだよね?」
一応もう一度だけ確認してみる。もし、もらっているのなら約束破りだ。ギャラが出るのなら私がモデルをやりたかった。
「あのな」
上杉は怒る気にもなれない、という表情だ。「俺はお前とは違うんだよ」
確かに、と私は思った。私はお金さえもらえれば額に見合った働きは必ずする。脱いでくれ、と目の前に相応の金を積まれれば、躊躇せずブラジャーを取る覚悟もあるつもりだ。実際のところは言われたことがないから実践できるか分からないけれど。
「で、五回やっても先は見えないの?」
「そう、それだ。どうなんだ、北条。このまま続けていて意味あるのか?」
進展の気配があるのならこんなこと言わないだろう。どうやらモデルとして一番近くで見ていた上杉の目にこの先の道は映っていないらしい。
上杉に見据えられて北条は俯いて自分の指に目を落としてしまった。
「無理そうだったら言えばいいんだよ。こいつそんなことで怒ったりしないから」
私は上杉にこの場に呼ばれた理由が分かったような気がしていた。
上杉と一対一では北条もなかなか言いたいことが言えないだろう。私が入り北条の喋りやすいきっかけづくりをすることで北条の本心を表に出させたいのだ。
「嫌、ですか?」
ぼそぼそっと顔を起こさずチラッと上杉の顔色を窺うような視線で北条は言った。
「嫌じゃないさ。俺はお前に借りがあるからな。俺で役に立つことがあるのならモデルだって何だってやる。しかしな」
上杉は組んでいた腕をそのままテーブルの上に乗せ北条に向かって前傾になった。「五回やってみてモデルとしては俺は役に立ってないことが分かったんだ。俺ではお前の絵に対する熱意に火をつけることはできない」
上杉は馬鹿だから北条が頼めばいくらでもモデルとして時間を割くだろう。しかもタダで。しかし、このタダってやつが曲者だと私は思っている。少しでもギャラを払っていれば頼む方も気楽に構えられるのだ。断るときも相応のお金を支払えば後腐れない。ところが義理とか人情とかいうものを背にしている相手に正対するのは疲れるし重圧を感じるものだ。断るときにも気を遣う。私はタダでは動かない。ギャラの存在が互いの立場を対等にして関係をオープンにするからだ。
「何か他に描きたいものがあるの?」
私はソーセージを頬張りながら訊いた。上杉みたいに正面から突っつくと北条は背負った貝殻に閉じこもってしまう。雑談程度の雰囲気で遠巻きに餌を撒いていかないと、北条は安心して殻から顔を出し触手を伸ばすことはない。
「描きたいもの……」
「やっぱり動物か?」
上杉も私のやり方にピンと来たのか、ソファに身を委ねフライドポテトを食べながら北条に問いかける。「院展で奨励賞をとった月夜の丘に立つ牡鹿の絵、本で見たぞ。あれはやっぱり大したものだな」
上杉は褒めてくすぐるという技を使いだした。実際に北条が描いた絵を調べておかないとできないテクニックだ。顔こそ起こさないが北条の口元が緩み頬に朱が差したのが横に座っている私には見える。
これはなかなか効いている。心配なのはフライドポテトに上杉が参戦してきたので、その減りが早くなることだ。
そのとき背後でガラスが割れる音がした。すぐに小さな女の子の泣き声が響く。
振り返ると声の主は小学校に上がる前ぐらいの幼女だった。コップが手から滑り落ちて割れてしまったことと、中のジュースで自分の服がびしょびしょになってしまったことを嘆いているようだ。目元に手を押し当ててえんえん泣く仕種が思わず、大丈夫よ、と頭を撫でてあげたくなるぐらい愛らしかった。肩口にふわりと掛かる髪が柔らかそうだ。おかわりのジュースを目の前に置かれると涙を流しながらも指の間から視線を飛ばす無邪気さに微笑んでしまう。
ハッと振り向くと北条も顔を起こして女の子を見ていた。とろんとした愛に溢れた眼差しに見えたが、すぐにまた顔を伏せてしまう。
「北条さんのお子さんも女の子?」
「はい」
「名前は?」
「愛子」
「愛子ちゃん。かわいいでしょ?」
「……はい」
「好きなんでしょ?」
「はい」
「だったら描かなきゃ」
愛娘との生活を取り戻すために画家である北条にできることはそれしかない。
しかし、北条は弱々しく首を横に振るだけだった。
「……できない」
だめだこりゃ。私は手詰まり感から助けを上杉に求めるが、上杉も困惑の体で頭の後ろで手を組み背もたれに身を委ねていた。
「俺がモデルだから描けないのか?モデルを変えてみたらいいかもしれないぞ」
「そうそう。私にしたら描く気になるかもよ」
サッと顎に手を当てポーズを取る。そもそも眼鏡坊主のおじさんをただ椅子に座らせていても創作意欲が刺激されるはずがない。私の知識は偏っているかもしれないが、歴史上の人物を除けば有名な人物画は圧倒的に女性を描いたものの方が多いだろう。美とはつまり女性の形容詞なのだ。
「お前は最初から相手にされてないんだって」
「描いてみなきゃ分かんないじゃん。そもそもあんたみたいなのっぺりとした顔のおじさんよりはましよ」
上杉と私が言い争い始めると、北条は「無理だと思う」とぼそっと言った。
「どうして?どうしてそう思うのよ」
私が北条の眼前に迫って問い質しても北条は力なく首を振るばかりだ。
「原因不明のスランプってことか?」
「分からない」
「分からないってお前、そんなことじゃ相模の獅子の名が泣くぞ、北条」
上杉が苛立たしげにテーブルを指でコツコツ弾く。しかし相模の獅子とかいう二つ名に、また上杉の戦国かぶれが始まったと私が冷めた目で見たので上杉は咳払いを一つした。「いつからうまくいかなくなっちゃったんだ?別居してからか?」
「もっと前」
「じゃあ、娘が生まれてからか?」
「……」
突然北条が黙り込んでしまった。これは核心に近いところに踏み込んだのかもしれない。上杉が前のめりになる。手ごたえを感じているようだ。
「もしかして、結婚してからずっとか?」
この質問に北条はハァと盛大にため息をついて頭を抱えた。
「最初の頃はそうでもなかったんですが」
北条は膝の上で拳を握りしめていた。その拳がわなわなと震えている。
上杉は大型トラックのエアブレーキのように鼻からフーと息を吐きだした。ヒートアップする自分を制御しているのか。
「あの牡鹿の絵は凄みがあったがなぁ。静かで怜悧な絵だが、牡鹿の強い眼差しや冴え冴えと澄みきった月光の照射に俺はお前の筆づかいの熱さを感じたんだ」
偉そうにと私は思った。このアニメオタクが北条の筆づかいにどれだけの温度を感じたか怪しいものだ。
私は少し冷やかに二人のやり取りをあくびを噛み殺しながら眺めた。口を挟むのが面倒になってきた。私は急に現れた睡魔と闘っていた。昨晩は訂正シール貼りに没頭し、あまり寝ていないのだ。
「あのときは一心不乱に描けました」
「今と何が違うんだ?」
「分からない。どうしても集中できない」
「色々考えてしまうってことか。結婚をきっかけに生活が変わっちまったんだな」
北条はこくりと頷いた。
「妻のお腹が少しずつ大きくなって、子供が生まれて。……いろいろ考えるようになった」
一つひとつ紡ぐように北条は言葉を繋いだ。苦しそうに呼吸を重ね鼻を啜った。もしかして思い出している間に感極まってしまったのかもしれない。あるいは、……その振りをしているのか。
「守りに入っちゃったってことか」
上杉は憐みを込めた眼差しで北条を見た。そしてそのまま何か同情を求めるような顔つきで私を見る。お前も慰めてやれよ、とその目が言っている。
しかし、私は気に入らなかった。北条の逃げ口上がどこかありきたりすぎて芝居臭く感じて仕方がない。上杉が書いた脚本を渡りに舟と都合良く乗っかっただけではないのか。頭の中にもやもやと漂っていた眠気が少し晴れてきた。
「本当にそれだけ?」
「長尾」
うんざりしたような声を上杉があげる。「芸術家は繊細なんだ。生活が変わっただけで調子が狂っちゃうってことはあるんだよ」
しかし、私は上杉を相手にせず北条の顔を覗き込んだ。
「北条さんって聡子さんのこと好きなの?」
「好きだから別れたくないんだろ」
一々横から上杉が口を挟む。
「私は北条さんに訊いてるの。少し黙ってて」
キッと上杉を睨んでから、私は北条に再度問いかけた。「聡子さんのこと好き?」
「ええ」
気圧されたように頷く北条。
「いつから?」
「いつからって……」
困ったように上杉を見る北条。
上杉も助けを求められれば黙ってはいない。
「長尾。お前もくどい奴だな。北条は聡子さんを好きなんだよ。今はいつからとか関係ないだろ」
私はもう上杉を睨むことすらせず、ただまっすぐに北条を問い詰めた。
「北条さんは本当に聡子さんのことが好きで結婚したの?」
「他に理由があるかよ」
馬鹿にしたような口調の上杉に「茶化さないで」と一喝する。
「ねぇ。北条さん」
私は逃さないという意思表示を込めて北条に顔を近づけた。時は今だ。私はずっと訊きたかったことをズバッと投げかけた。「愛子ちゃんは本当は誰の子なの?」
「長尾!お前何言って……北条?」
北条は私の問いに瞠目して固まっていた。呼吸も忘れたようにまるで石像と化していた。それを見れば愛子が北条と血のつながりがないことは明白だった。私が身体を引くと呪いが解けたように北条はテーブルに突っ伏した。
時折嗚咽を漏らし肩を震わせる北条に私は周囲の目が気になったが、時には感情を出させることも良いだろう、と放っておくことにした。
上杉の方は掛ける言葉が見当たらないという感じで口の中でもごもごと何かを唱えている。大方いつもの毘沙門天の真言だろう。