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二十

 私は覚悟を固めてドアノブを回した。

 途端に部屋の中から白く濁った空気がまとわりついてくる。思わず咳き込みたくなる。目がシパシパしてくる。

 これは絵具か、あるいは何らかのアートに使う薬品のにおいなのだろうか、と一瞬考えたが、答えは実にシンプルなものだった。

 部屋の奥で机に向かってパソコン作業をしているシルバーヘアーのオールバックが見えた。口に煙草を銜えている。脇にある灰皿は吸い殻がてんこ盛りで、何本かは机の上に零れ落ちている。部屋の主はいわゆるチェーンスモーカーの部類なのだろう。

「ん?誰だ?」

 足利は煙草の煙に目を顰めながらこちらを見た。見慣れない奴らだ、と訝しむような顔をしている。

「突然お邪魔して申し訳ありません。私は上杉と申します」

 急に上杉が私の前に出てきた。きびきびと直角に近い角度に腰を折り頭を下げる。こんな低姿勢な上杉は初めてだ。

 このミーハー野郎が。

「長尾です」

 上杉の陰から少し顔を出して申し訳程度に挨拶をする。

 私は既に辟易していた。こんな不健康極まりない空気の部屋に長居していたら、肺がどうかなってしまいそうだ。四方の壁が黄色っぽく着色していた。タールとニコチンで部屋が末期的に毒されている。もはや掃除で何とかなるレベルを超えている。

 ほほう。足利は何やら楽しそうに頬を緩めて二人を見た。

「上杉に長尾。嘘みたいな組合せだな。君たちは親戚同士か?」

 だと面白いんですけど、と上杉が媚びるような声で笑い出したので、私は言下に否定した。

「違います。一滴の血もつながっていません」

 足利としては上杉謙信が長尾姓だったことに引っ掛けたユーモアのつもりだったのだろう。私のにべもない返答に彼は少し目を丸くして首をすぼめた。

 上杉が「おい」と驚きと怒りの入り混じったような声で私を非難するが、私は口をへの字にしてその顔を睨み返した。

「何か用か?君たちはどこの科だ?」

 足利は私たちをこの大学の学生だと思っているようだった。確かに私は学生でも十分通じるだろう。しかし、上杉はどう見ても寺の住職だ。学生には見えやしない。

「いえ。少し先生からお話を伺えたらと思いまして」

 上杉は揉み手をして部屋の主におもねった。

 しかし、足利は途端に不機嫌そうに顔を曇らせ、抑揚のない声になった。

「出版社の人間か。わしは忙しい。下の学務部に話は通してきたんだろうな」

 出版社の人間か、と訊ねられて、上杉は返事にグッと詰まったようだった。確かにこの男は本を売っている。足利と出版の話をしたくて来たわけではないはずだが、上杉も義を重んじた上杉謙信の生まれ変わりと嘯いているだけに嘘はつきたくないのだろう。もしかしたら心のどこかで今回の件で足利に顔を覚えてもらって、いつか仕事の話をできないかと色気を出していたりして。

 私は口をパクパクするだけで言葉が出てこない様子の上杉に代わって前に出た。

「出版社の人間ではありませんが、下の学務部にも寄っていません」

「じゃあ、何なんだ。サインやら握手やらは勘弁してくれよ。こっちは暇じゃない」

 足利は何やら机上でペンを走らせながら私たちを追い払うように左手の甲を振った。その左の手首がキラキラ光っている。忘れもしない。例のあれだ。

「ピアジェ」

 思わず口走った私の言葉に足利がゆっくり顔を起こす。

「いかにも。君は腕時計に詳しいのか?」

「いえ。ただ、あまりにも素敵ですので、つい」

 私は光りものには弱い。所有者がどんな奴でも、お金や宝石に罪はない。

 そうかそうか、と急に表情を柔和に緩め足利は腕時計を撫でた。きっと自慢の品なのだろう。

「欲しけりゃ、やろうか?」

 試すような視線で訊ねられ、私は即座に「五百万円」という文字を目の前に浮かべた。

「いいんですか?」

 喜び勇んで両の拳を握りしめ身体を前に乗り出す。

「と言いたいところだが、これは人からいただいたものだからやれんな」

 私の食いつきにさらに気を良くしたのか、足利はぺちぺちと文字盤を叩きながら笑い声をあげた。

 おちょくられた。この親父、良い年こいて乙女を辱めやがった。

「どうせ女からなんでしょ」

 肩すかしを食った私は忌々しげに目を細めた。

「こら!失礼なことを言うな」

 上杉が私の服の端を掴み声をひっくり返して窘めてくる。

 しかし、足利は機嫌を損ねた様子はなく、「女か」と言って高らかに笑った。

「言われてみれば、当時のスイスの連邦大統領は女だったな」

「大統領?」

 これには私も驚いた。一国の大統領から贈り物をされる足利の存在が急に大きく見えた。

「なかなか面白いお嬢さんだ。代わりに何かあげられるものはなかったかな……」

 そう言いながら足利は机の周りの棚や引き出しの中を漁りだした。

 何だ、何だ。何をくれるんだ。人間国宝候補の仕事部屋からは何が出てくるのか。

 私は目に$マークを浮かび上がらせて足利の手の先に注視した。

「これなんかどうだ」

 それは掌に乗るぐらいの大きさの馬の置き物だった。毎年年末になると銀行の窓口なんかで配られる干支の置物に見えて私はがっかりした。

 足利は次々とドラえもんのようにアイテムを取りだす。

 どこかの国の原住民が祭事に使いそうな面。首の凝りをほぐすマッサージ器。ボーリングのピン。焼鳥屋ののれん。錆びかけのコルク抜き。

 見事に要らないものばかりが次々に現れて次第に気分がげんなりしてくる。どれもこれも汚れが目立ち、足利がふぅっと息を吹きかけると白く埃が舞い上がった。きっとゴミ同然の扱い、いやゴミとも認識しておらず存在すら忘れ去っていたものばかりなのだろう。足利はこちらの足元を見て不用品を引き取らせようとしている。馬鹿にしている。

 そんなものいるか、と憤然と断ろうとした私の腕を強く引っ張って一歩下がらせ、上杉が声を張り上げる。

「今日は聡子さんのことで伺いました」

 娘の名前を聞いた途端、ピタッと足利が動きを止めた。じろっと威圧的な目でこちらを睨みつけてくる。

 正直怖いと思った。こんなに迫力のある眼差しをまともに受けた経験はなかった。自然と背筋が伸びる。重苦しい沈黙に息が詰まる。

「そこに座りたまえ」

 足利は険しい顔つきは緩めずに顎で壁際のソファを示した。

 上杉は黙って足利に言われた通りソファに腰を下ろした。

 私も同じようにして上杉の隣に座る。座りながら垣間見た上杉の横顔は気持ち青ざめて見えた。私もきっと似たような顔になっているだろう。

 足利が放った視線の強さは並大抵のものではない。これが日本の美術界を背負った男の胆力か。私は自分が遊び半分でとんでもない領域に足を踏み入れてしまったような、薄ら寒い居心地の悪さを感じていた。しかし、来てしまった以上は後には退けない。訊くだけのことは訊いて帰らねば。

 足利がデスクから離れてこちらに近づいて来るにつれ、上杉の視線はどんどん床に下がっていく。完全に雰囲気に飲まれているようだ。

「いやあ、気の進まない仕事で煮詰ってたところだ。どうも人の作品を批評するのは苦手でね。いくら付き合いだからとは言え、コンクールの審査委員長など引きうけるもんじゃないな」

 疲労困憊の体でどっかとソファに身を委ねる足利。そのままゆっくり天井を仰いで目頭を指で圧する。

「どうして苦手なんですか?」

 貝のように口を閉ざした上杉は使いものにならないかもしれない、と私は己を奮い立たせて問いかけた。

「他人に興味がないからだろうな」

 瞼を揉んでいた指を離すと足利はギロッと双眸を私に向けた。

 思わずヒッと声を上げそうになるのを懸命にこらえる。

「そうなんですか?」

 足利の発言は大学で教鞭を取る人間の言葉とは思えない。

「ったりまえだ。わしは自分が描きたいから描いてるんだ。他人の絵を見たくて画家になったわけじゃない。自治体主催のしょうもないコンクールに応募してくるような人間の力量なんて高が知れてるしな」

「はあ」

 私は曖昧に頷いた。が、心の中では舌を出している。

 美大の副学長をやっているのなら、そういう小さなコンクールに集ってくる画家の卵を指導してあげる度量があってしかるべきではないのか。国内にその名を轟かせている足利には「しょうもない」ものでも、そのコンクールを目標に地道な努力を重ね、その結果に一喜一憂する応募者が多数いるのだ。作家の卵を自認し賞への応募を続ける私にとって審査する側の不誠実な態度が垣間見えるのは気分が良いものではない。

「疲れるちゃうんだよなぁ」

 足利は卓上のシガレットケースに手を伸ばした。一本抜きとり口にくわえると、吸うか、というように蓋の開いたケースを私に向ける。口元がニタニタといやらしく歪んでいる。

 断ろうと思ったが、気が付いたら私は足利の目を見返して「いただきます」と言っていた。

 先ほどから足利に舐められている感じがして不愉快だった。この煙草も私が受けるはずがないと踏んでいるからこそ勧めてきたに違いない。足利は私たちの反応を見て遊んでいるのだ。思い通りに動いてたまるか、と人一倍の負けん気の強さが私を内側から突き動かす。

 足利は意表を突かれたような顔でライターの火を差し出した。

 もちろん万病のもとと言われる煙草を私が金を出してまでして吸うはずがない。従って私は煙草を銜えるのも人生で初のことだった。加減を知らずスッと吸いこむと、気管の入口あたりに巨大な岩が詰まったような激しい圧迫感が突き刺さり、私は思い切り咳き込んだ。

 ゲホッ、ゲホゲホゲホ。

 胸が苦しくて目に涙がにじむ。窒息しそうだが息を吸いたくても喉が潰れてしまったような感覚があって無理だった。苦しい。胸がじりじりと痛い。

 しかし、息も絶え絶えになっている私を尻目に足利は膝を叩いて笑っている。上杉は見て見ぬふりだ。

 くそっ。笑い者にされたままで終われるか。足利が常備している煙草ならきっと値の張るものに違いない。しっかり根元まで吸いつくして堪能してやる。

 私は少し息が整ってくると再び煙草を銜えた。同じ轍を踏まず少しだけ肺に取り込んでから、ゆっくりと時間を掛けて吐きだす。

 実に美味しくなかった。ふわっと頭が軽く揺れた気がして、目が回ったときのような悪心が胸を漂った。しかし、その感覚にも負けず、もう一度煙を吸い込む。ゆっくり吐き出す。唇をすぼめ紫煙を中空に向かって吐き出すことがほんの少し快感だった。足利の部屋の空気を自分が作り出した煙で白く濁らせていくことが私のサディズムを刺激する。

 ほう、と足利が私を見つめた。その目はもう笑ってはいなかった。

「何がですか?」

「ん?」

「何が疲れるんですか?」

 私はすっかり短くなった煙草を灰皿で揉み消しながら足利との会話を再開した。少しは本音で喋ってくれるような気がしていた。

「他人のくだらない絵を褒めそやすのがだよ」

 足利は眉を顰め煙草に火をつけると、天井に向かって機関車のように豪快に煙を吐き出した。「芸術なんて最初にパッと見たときの印象が全てだろ。そこでグッとくるものがあるかないか、それだけだ。それを光の具合がどうのこうの、色遣いがどうのこうのって後から御託を並べたところで感動が増すか?そんなもん聞かされたってその絵の価値は一つも高まらん」

 それはその通りだと思う。感動するかしないか。つまるところ評価はそれだけで必要十分なのかもしれない。

 私も、いろいろあれこれ言われるより、単純に「すごい!」とか「面白い!」と一語で簡潔に感想を伝えられた方が心に響くことがあったことに思い当たる。

「作品づくりに大事なものって何だとお考えですか?」

 出色の成功をおさめた希代の芸術家に私個人としてこれだけは訊いておきたくなった。これではミーハーな上杉と何ら変わらないとは分かっているが。

「そりゃ心血を注ぎこむことだな」

 何が面白いのか足利は煙を吐き出しながら豪快に笑った。

「心血」

「没頭するってことだ。一心不乱に、それこそ自分の生命を注ぎ込むような感覚だ」

 足利はソファから少し背を起こして、心の裡を覗き込むような視線を私の眉間に照射した。「好きならできるだろ?」

 私は思わず怯んだ。ヤニくさい息を吹きかけられ、当たり前のことを言われたにすぎない。しかし、足利の肌艶良く目力のこもった凄みのある顔を正視できず、視線を手元に落とした。尻尾を巻いた犬みたいなものだ。今、自分が試され、そして気後れして負けたことを私は痛感した。

 私は自分に問いかけた。お前は本当に自分の命を削ってまでして作品づくりに没頭したことがあるか。私の頭の中で足利の「好きならできる」という言葉がリフレインするのを止められない。

「それでも認められない人はどうすれば良いでしょうか?」

 漸く上杉が口を開いた。上杉の言葉は北条のことを指しているのだろう。

 足利は上杉の質問に対して、そんなことも分からないのか、というような蔑んだ印象を与える唇の歪め方で答えた。

「それは結局心血の注ぎ方が足りないってことだ」

 違うか、とその目が訊ねてくる。「注いでいるつもりでもどこかで気が緩んでいることがある。自分で限界を決めてしまって殻を突き破れないっていう場合もある。心血を注ぐっていうのは誰でもできることじゃない。絵を描くならその絵を描くことが純粋に好きで、そして自分に才能があると一片の疑いも持たずに信じて、それで初めて一心不乱に自分の命を削ってキャンバスに魂を込める術が身についてくる」

 その言葉には才能ある人間の傲慢さがあった。しかし、その態度は限られた人間しか足を踏み入れることができない高みからの眺望を味わったという自信に裏打ちされた重々しさがあった。

「なるほど」

 上杉は聴き入っている。足利のカリスマ性にすっかり感化された様子だ。

 凡人には難しいがな、と言ってまた哄笑する足利。笑い声の途中にガッと変な音がした。痰が喉に絡んだ音だった。途端にゲホゲホと先ほどの私よりも大きく身体を揺すって咳き込む足利。苦悶の表情を浮かべ顔を赤らめている。

 私も上杉も腰を浮かせて、「大丈夫ですか」と声を掛けるがどうしようもない。

 足利は煙草を灰皿に押し付けると、卓上のティッシュを何枚も抜き取って口に当て、オエオエえずきながら痰を吐きだした。やがて、ふーっと大きく一つ息を吐く。

「そしてそれを続けることも大事だ」

 何事もなかったように言葉を繋ぐ足利。しかし血管の浮き出た額や汗の滲むこめかみを見ると、苦しさを我慢して平静を装っていることが一目瞭然で、私は懸命に笑いをこらえて会話を続行した。

「続ける?」

「成功する保証もないのに未来を信じて続けるってことは苦しいことだ」

 足利は大きく一つ咳ばらいをした。どうやらこれで足利の喉はすっきりしたようだ。声が普通に戻っている。「しかし、脚光を浴びるには運も必要になってくる。その運はいつ巡ってくるか分からない。その運が巡ってくるまで自分を信じて続ける。そこに近道はない。あるのはタイミングだ」

 タイミングと聞いたからか、上杉が「実は」と切り出した。

北条(きたじょう)君もそのタイミングを掴めずに自信を失っています」

 さすがに上杉も義理の父親を前にして「ホウジョウ」とは言わなかった。そこに私はホッとしたような、腹立たしいような気持ちになった。気をつければちゃんと「キタジョウ」と呼ぶことができるじゃん。

「君たちは聡子じゃなくてミツヒデの方の知り合いか?」

「ミツヒデ?」

 私は思わず訊き返していた。誰それ?

「北条ミツヒデ。何だ。友人なのに名前も知らないのか?」

「あ、ああ。そうでした。ミツヒデ。ミツヒデね」

 私が無理に口角をあげ目配せをしながら上杉を見る。ここで下手を打つと北条との付き合いの浅さが露呈してしまう。

 上杉も二度三度と小刻みに頷いて話を合わせる。

「そ、そう言えばそんな名前でしたね。名字が北条と書いてキタジョウと読むってことにインパクトがあるので、あまり下の名前を意識したことがありませんでした」

「そんなもんか?俺なんかミツヒデって名前の方に衝撃を受けたけどな。あいつの生まれた岐阜の山奥では明智光秀に対する想いが強いのかなってな。ま、充実の充にイギリスの英だから字は全然違うが」

「岐阜には明智という地名もありますね」

「おお、良く知ってるな。君はあそこの明知鉄道ってローカル線を知ってるか?」

「ええ、知ってます。田園風景を走っていくレトロな雰囲気がいいですよね」

「そうそう。ああいう風景はもうなかなかお目にかかれない。あれは後世に遺していかなくてはならない貴重な財産だな」

 足利と上杉は急に鉄道話で意気投合したようだった。地名にも鉄道にも疎い私は話題に全くついていけなかったが、場が和んだことに少し安心していた。しかし、いつまでも二人の鉄道談義が終わる気配を見せないことに苛々してきて、私は二人の話の切れ目に飛び込んだ。

「私たちは北条さんの友人です。ご存じの通りあの夫婦は今、崖っぷちに立っています」

 私の言葉に足利の顔つきが変わり、急に部屋に緊張感が高まったが、私は怯むことなく言葉を繋いだ。「少なくとも北条さんは聡子さんとの離婚を望んでいません。私たちも友人として彼らが夫婦としてやっていける道が残されているのなら、できうる限りの応援をしたいと考えています。失礼ですが足利先生は北条夫婦の今回の騒動をどのようにご覧になっていますか?」

 足利は考える素振りを見せて暫く押し黙った。そして出てきた言葉がこれだった。

「物好きだな」

 そう言って嘆息する足利を目の前にすると、私も上杉も次の言葉が出てこなかった。「夫婦のことはその夫婦にしか分からんもんだ。親のわしも部外者でしかない」

 確かに、友人とは言え北条夫婦のためにその父親のところにまで押し掛けるのは物好きのやることだろう。夫婦のことは夫婦にしか分からない、という言葉も世間でよく言われることだ。そういう意味では自分たちの行動は出しゃばり過ぎのそしりを受けても仕方がない。私自身そう思っているのだから反論のしようがない。

 しかし、夫婦のことなのに当人が今回の離婚のことが良く分かっておらず、混乱し困惑しているのだ。上杉が熱い口調でそういう北条の状況を話すと足利からさらに冷たい言葉が返ってきた。

「離婚を望んでいないのなら聡子にそう言えばいい」

「そりゃそうだけどさ」

 私は思わず足利に対してため口になっていた。北条の性格ではそれが一番難しいのは義父で師匠のあんたもよく分かっているだろう。

「充英は言葉が足りない。わしを含めて芸術家というものは概してそうだがな」

「言葉を尽くせば復縁の可能性はありますか?」

 上杉が沈痛な面持ちで訊ねる。まるで自分の問題のように苦しそうに足利の答えを待っている。

「この世ではどんなことも可能性はある」

 こちらはそんな木で鼻をくくるような答えを求めているわけではない。私はじれったくて直球を投げた。

「聡子さんが離婚したい理由って何なんですか?」

「さっきも言ったろう。夫婦のことは夫婦にしか分からん」

「でも実の親である足利先生には、聡子さんから何かしら相談があったのでは?」

 離婚と言えば人生の一大事だ。普通は親に事前に相談するだろう。実家が取りあえず帰る場所の第一候補になるだろうし。

「ない」

 足利は憮然と言い放った。

「え?」

 そうなの?離婚ってそういうもの?今時は実の親に何の相談もなく離婚してしまうものなのか。そんなに簡単に離婚して良いのか。あるいは親にも相談できない事情がそこに横たわっているのか。

「全く近頃の若い者の考えることは理解できん。結婚は結婚でいきなり『妊娠したから』と言い出すし、離婚は離婚で『別居しました。離婚調停中です』の電話報告だけだ。わしに似ず可愛く育ったと喜んでいたのに、女というものは分からんもんだ」

 足利は忌々しげに顔を歪め、またケースの煙草に手を伸ばし火をつけた。

「え?できちゃった結婚だったんですか?」

 私の驚きに満ちた問いかけに、足利は「それこそそんなもん今時珍しくないだろ」と捨て鉢な言いっぷりだ。

 どうもしっくりこない。

 ゲイの、しかもあの人付き合いの下手な北条が婚前交渉で聡子を妊娠させたということが腑に落ちない。物理的にはありえることだということは分かっているが、北条のあのなよっとしたところのある大人しい性格からしても足利が話す事実とうまく繋がらない。

 私は上杉を見た。上杉もチラッと私に視線を合わせるが、すぐに外してしまう。どこか自信なさげ、所在なさげだ。

 それがバイセクシャルってやつだ。この世に理解できないものなんていくらでもあるだろ。

 先ほどの上杉の言葉を反芻してみる。上杉も自分が言ったことを思い出しているだろう。北条のできちゃった結婚もこれで説明できなくはない。しかし、全然腹に落ちない。

「北条君は結婚のときには何て?」

 こういう質問をするということは、上杉も心の中で小首を傾げているに違いない。

「そう言えばわしに土下座して謝っておったな。聡子さんを幸せにします、などとほざいていたが結局このざまだ」

 ますます足利の機嫌は悪くなっていく。腹いせのように灰皿に押し潰される煙草が可哀そうだ。「あいつにはどうも熱意が感じられん。もうちょっと心血を注いで取り組むべきだ」

「絵のことですか?」

 私は、北条も「渾身の作品を描いてみたい」と言っていたことを思い出していた。つまり、まだ彼は足利が言ったような生命を削って魂を込める境地には達していないのだろう。

「絵もしかり。結婚もしかりだ」

「結婚も?土下座してお願いしたんですよね?」

「ああ。あのときだけは本物だったな。しかし、その後のあの二人はどうもよそよそしい感じがするんだ。結婚しても親しげな感じが見えない。新婚なら、もっと、なんだ、その……ラブラブな雰囲気があってもいいだろ」

「ラブラブ、ですかぁ」

 私は足利が「ラブラブ」などと可愛らしい言葉を遣って照れ隠しのように次の煙草に火をつける様子に笑ってしまいそうになる。「北条さんにはちょっと難しいかもしれないですね」

 あの大人しい北条が人前で嫁といちゃつく様子が思い浮かばない。ましてや師匠であり義理の父親である足利を前にしては鯱張っても仕方あるまい。ただ、親密さを感じさせない二人の様子と、できちゃった結婚という事実はやはりしっくり繋がらないところではある。

「聡子もああ見えて意外に頑固だからな。一旦走り出したら停められないところがある。本当は別れたくないのは案外聡子の方かもしれん」

「だったら何故離婚なんか……」

「夫婦ってものは理屈じゃない」

 足利は遠い目をして悟ったような口ぶりだ。過去を振り返ると自分の胸にも去来する思い出がいくつもあるのだろう。「うちの場合は家内が早くに亡くなってしまったから、夫婦がどんなものかも俺は忘れてしまったがな」

 しみじみとした表情で語る足利に掛ける言葉が見当たらない。

結局具体的な解決策は何も見出せてはいないが、足利とこれ以上話していても実りはなさそうだ。潮時と見て私が礼を言い暇を告げると、上杉が「あのう」と切り出した。先ほど足利が私にくれようとした馬の置き物を指差して「いただけませんか?」と頭を下げる。

 あんな置き物の何が良いのか。欲しけりゃ年末の銀行で定期預金でも作ればいくらでももらえるだろうに。

 足利も足利でゴミが一つ処分できるとばかりに喜んで上杉に渡している。これはどこそこの誰それからもらった貴重なものでな……。そんな足利の適当な説明に真剣な眼差しで聞き入っている上杉をおいてさっさと私は部屋を辞した。

 やがて追いかけてきた上杉は顔を綻ばせてぬっと私の眼前に馬の置き物を差し出した。

「見てみろよ」

「何回も見たわよ。気付いてないみたいだから教えてあげるけど、ほら、見なさいよ、ここ。分かりにくいけど尻尾が途中で折れてるわ。きっとどこかにぶつけて壊しちゃったのよ。そんながらくたもらってどうしてそんなに喜べるの?」

 私はこんな瑕物のがらくたじゃなくてピアジェの腕時計が欲しかったのだ。質に入れれば当分訂正シール貼りをしなくて済むのに。私は憤りをエレベータのボタンにぶつけるようにして押した。

「お前は何にも見ていない」

 勝ち誇ったような顔で上杉は馬の置き物を愛おしそうに撫でる。「この馬は紅い毛氈の鞍覆いをつけている」

 確かに鞍の周りに朱の飾りがついている。

「それがどうしたのよ」

「謙信公と同じだ」

「は?」

「謙信公も足利幕府から毛氈鞍覆いの使用を認められている。俺も足利先生からこれをいただいた。これは吉兆に違いない。毘沙門天の思し召しだ」

 天にも昇るような惚けた表情の上杉についていけず、私は独りでさっさとエレベーターに乗り込んだ。


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