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十八

 気分転換に窓を開けてみたが、見上げる空は厚い雲が一面を覆っていて、どんよりとしていた。流れ込んでくる空気は薫風とは程遠く、妙な生温かさと湿度を帯びていて、少しも爽やかさを感じない。それでもパソコンの前に座っているよりは視界が広がって、くさくさしていた気分が少しずつ凪いでいくのが分かる。

 私は新作の書き出しに迷って、かれこれもう二時間もああでもないこうでもないと頭を悩ませていた。

 最初の一文さえ出てこれば、あとは芋づる式に繋がっていくことが多いのだが、逆にそれが出てこないと、今日のように時間だけが浪費されてしまうことになる。

金の浪費はストレス解消にもつながるが、時間の浪費は苛立ちや後悔といった精神的マイナス面しか生み出さない。泥濘からさっさと脱出しないと、これがまた焦りにつながり、余計に書き出しがまとまらないという負のスパイラルを形成していく。

 私は頭を掻き毟り盛大に息を吐きだした。気分転換にシャワーでも浴びようかな。水道代の滞納は解消してあるし。

 そう考えて部屋の中を振り返ったとき、携帯電話が鳴った。

 しかし、着信音は聞こえるのだが、どこにあるのか分からない。そう言えば、ここ数日携帯電話を見ていない。それどころか一歩も外へ出ておらず、私はずっとくたびれた部屋着のままだ。

 五日前に上杉からコスプレ大会出場のバイト代としてふんだくった一万五千円で水道代を払い、ついでに支払期限が迫っていた電気とガスの料金も支払った。残った金を全て注ぎ込んでスーパーで食材をたんまり購入したので外に出る必要がなくなり、それ以来本日只今まで靴を履いていないのだ。さすがに冷蔵庫の中も寂しくなってきて、買出しが必要な頃合いだ。となると先立つものが必要になる。つまり、そろそろ本気でアルバイトをしないといけないのだが、例の大豆の栄養補助食品がまだたくさん押し入れに唸っていると思うと、チラシの訂正シール貼りも十枚と根気が続かない。

 安定とか余裕ってやつは人間をダメにするんだな。そんな一丁前のことを考えながら私は携帯電話を探した。

 実は手元にはもう一万円残っている。

 多聞がコンビニ袋の中に私の大好きなプリンと一緒に入れておいてくれたのだ。「これで足りるか?」と書かれた紙に包んであったその福沢諭吉は決して使うまい、と誓ってその紙片と一緒にお守りとして財布の中に忍ばせてある。しかし、いざとなったらその誓いなどあってないようなものだ、と心のどこかで嘲っている自分がいるのも否定できなかった。立てた誓いで破らなかったものなどこれまで一つもない私なのだ。

 五日間携帯電話の充電をしていない。早く出ないと電池が切れちゃう、と慌てて目と手を働かせて、漸く雑誌の下に隠れていた携帯電話を見つけ出す。そろそろ掃除もしないと部屋がゴミ屋敷化しそうだ。

 電話の相手は上杉だった。戦国時代かぶれでとっつきにくいところのある上杉だが、二十代で会社経営をしているのは才覚がなければできないことで、電話番号を交換しておいても損はないと判断したのだ。自慢じゃないが私は金に関する勘と嗅覚は鋭い。

「どう?モデルやってる?」

「ああ。二回アトリエに行った」

 上杉は少し照れくさそうだった。

 この五日で二回も行っているあたりが上杉の人となりを表している。確かにこいつは「やる」と言ったらとことんやりそうだ。しかし、無骨な上杉が北条の前で何時間も大人しく同じポーズをとり続けていることを想像すると笑えてくる。

「裸になるの?」

「なわけないだろ。椅子に腰かけて脚組んでるだけだ」

 私が「つまんないの」と落胆すると、上杉は大きなため息をついて話題を転換した。

「今、暇か?」

「忙しいわよ」

「何で忙しい?アルバイトか?」

 思わず、「そうよ。チラシにシールを貼ってるからね」と出かかった言葉を飲み込んだ。職に貴賎はないと言うが、どうもこの地味な作業を人に言う気にはなれない。

「小説書いてるからよ」

 私はテーブルの上を探り、小説の原稿の下から大豆の栄養補助食品を取り出した。むしゃむしゃ頬張りながら上杉の相手をする。

「ショウセツ?」

 上杉は甲高い声を出した。「ショウセツってあれか?小説か?」

 この手の反応には慣れている。

 確かに本気で小説家になりたくて実際に小説を書いている人間など私も一人も出会ったことがないのだから驚くのも無理はない。実の親も最初は全く同じことを言ったし、未だに私が貧乏暮らしを続けながら小説家を目指していることに大きな疑問符を抱いているようだ。特に母親は小説家を得体の知れない不健康な生活を送る人種と思いこんでいるから厄介だ。最近は会えば「いつまでも夢みたいなこと言ってないで、早くまともな仕事に就くか結婚して子供を産みなさい」とヒステリックに迫ってくるので、自然と実家から足が遠のいてしまう。

「他に何かある?」

 慣れてはいるが、返す言葉は冷ややかになる。どんなものかは知らないが上杉も本を売る商売をしているのなら、少しは一般の人とは違う受け答えをしてほしいものだ。

「ってことは、なんだ。小説家になるのか?」

 これだ。私は思わずため息をついてしまう。そりゃなれるものならなりたいし、なりたいからこそ賞に作品を出しているんだ。

「そんな簡単に言わないでよ。なりたい、と思って簡単になれる職業じゃないっつうの」

 腹立ちまぎれに栄養補助食品の包装フィルムをテーブルの上に放り捨てる。こうやってゴミをゴミ箱に入れないから部屋が汚くなるのだが、分かっていてもやってしまう。

「そりゃそうだな」

 上杉は少し唸ると、しおらしく「すまん」と謝った。

 謝られると途端にこちらも冷静になる。

 ちょっと待てよ。

 上杉は「本とおもちゃの会社をやっている」と言っていた。だとしたら私の作品も取り扱ってくれるかもしれないし、それが駄目でも何か本に関係した仕事をあっせんしてくれるかもしれない。財布の中身以外にも上杉は利用価値がありそうだ。私は上杉の仕事の中身を詳しく聞いてみたくなった。

「あんたも本を売ってるなら、そこらへんのこと分かるでしょ?」

「ああ。うちは今のところ絵本専門なんだが、絵本作家も難しい職業だ」

 絵本か。私は心の中で舌打ちをした。

 私がこれから書こうとしている小説は不倫を題材にしている。どう考えても絵本にはなり得ない。これまでも私の作品は大人の男と女の愛憎をテーマにしているものが多く、幼児や児童に寝物語で聞かせられるような類のものは一切なかった。上杉を利用して仕事を得るというのは現実味が薄そうだ。そうなれば携帯電話で喋っているのも電池の無駄だ。電気代はタダではない。

「で、何なの?何か用があったんじゃないの?」

「お、そうだそうだ。ちょっとテレビ見てみろよ」

 何よ、もう。テレビつけるのも電気代がかかるのよ。

 私は渋々リモコンに手を伸ばした。上杉に指定されたチャンネルに合わせる。

 画面の向こうでは縁が金色に光る眼鏡を掛けたおじさんが椅子に深々と腰かけて何やら質問に答えていた。やたら手の甲の毛がもじゃもじゃしている。オールバックに撫でつけた髪が白髪混じりで還暦近い年齢を感じさせるが、旺盛な精力が日に焼けた肌のツヤツヤ具合から伝わってくるようだった。

 目がくらみそうな黄色いタートルネックの上にカーキのジャケットを羽織っている。ズボンはフラミンゴを連想させる淡いピンクだ。タイプは違うがこういう凡人には真似のできない色遣いをする人を最近どこかで見た。

「何、このおじさん」

 私の第一印象は「怪しい」だった。海の家で頭にタオルを巻いて焼きそばを作っていそうであり、パチンコ屋を経営していて社長室で札束を数えていそうでもある。要は何をやっているのか分からない雰囲気なのだが、少なくともサラリーマンではなさそうだ。そもそも一介のサラリーマンが椅子にふんぞり返って尊大にインタビューを受けている様子がテレビに映されるわけがない。

「これが北条(ほうじょう)の妻、聡子の父親だ」

「キタジョウだって」

 一応訂正しておく。律義なのではない。上杉の言うことに何でもかんでも反論する癖がついてしまっているのだ。「ってことは、この人が北条さんのお師匠さん?」

「そういうことだ」

 足利魁。伝統を重んじつつ進取の作風にも果敢に挑戦する現代日本美術界の旗手。上杉は「とにかくすごい人だ」と手放しで誉めちぎる。

 番組は日本美術の歴史をテーマにしているようだった。

 見ていると足利の性格はテレビ向きとは言いづらかった。

 司会進行のアナウンサーらしき人が大和絵と唐絵の違いについて色々と足利に話を振るのだが、どうも彼にはこの番組に真面目に取り組む気持ちがなさそうだ。気のない返事を繰り返すばかりで聞き手とのやり取りが全く噛み合わない。上杉は足利を日本古来の美術にも通じていると評していたが、その足利の真面目とは正反対の態度からはとてもそんな風には感じられなかった。

「この人、やる気あるの?」

 アナウンサーの額や小鼻のあたりが汗と脂でどんどんてかってきて可哀そうだ。

「……ちょっと気分屋なのかもな」

 上杉もさすがにフォローしきれないようだ。

「北条さんの奥さんも、その血を引いてるのね」

「親子だからって性格まで似てるとは限らないだろ」

「蛙の子は蛙よ。この親父、性格の悪さが外見から滲み出てるじゃん。ほら、見て。何、あのキンキラキンの腕時計。趣味悪い」

 足利が顎を左手でさすったとき、ギラギラ輝く腕時計が袖から垣間見えた。

「あれはピアジェだな。五、六百万はするぞ」

「ご……」

 あまりの金額に私は思わず画面に食い入った。「このおじさん意外といい人かもしれないわ」

「どうしてそうなる?」

「いや、やっぱり外見で判断するのは良くないなって。特にテレビが映し出すものってごく限定的じゃない。それだけでその人を推し量るなんてできないし、やっちゃいけないのよ」

「性格の悪さが外見から滲み出てるって、お前の口から聞いたばかりだけどな」

 私は言い返す言葉が見当たらず、一つ咳払いをして携帯電話を持ち替えた。

「で、わざわざ電話してきた用件は何?北条さんの義理のお父さんを私に見せたかったってこと?」

 ああ、それそれ、と上杉も漸く本題に入る雰囲気を見せる。

北条(ほうじょう)の奥さんが離婚についてどう思ってるのか知りたくてな。でも本人に聞いても、なかなか本心を喋らないだろうから、まずは周辺から情報収集をと思ったんだが……。まともに話が聞ける相手じゃないかもな」

「この人に会って話を聞いてみようって思ってたの?」

 私は思わず画面に向かって指をさす。

「駄目か?」

「駄目じゃないけど……」

 上杉の話は突飛過ぎて二の句が継げない。駄目ではないが、明らかに常識的ではない。北条と知り合ってまだ数日。友人と言えるかどうかも分からない関係だ。そして相手は日本美術界のトップを走る男であり離婚調停中の北条の妻の父親だ。

足利に会ってもらえるあてなど上杉にはないだろう。そして仮に時間を作ってもらえたとして何が訊けるのか。足利は北条を娘と孫に不憫な思いをさせた男として憎んでいるかもしれないというのに。

「長尾がいたら何とかなると思ったんだ」

「へ?何それ?」

北条(ほうじょう)の友人として、二人の将来が心配でってことなら俺一人より女のお前と二人で行った方が真実味があるし、懐に入りやすいだろう?」

「女は汚らわしいんじゃなかったっけ?」

 私は都合の良いようにあてにされているような感じがして嫌味を投げつけた。私はそんなに簡単で安い女じゃない。

「触れなきゃ問題ない。お前だって俺なんかに触られるのは嫌だろ?」

 これは嫌味で返されたってことなのか。痴漢の犯人と訴えられたことに引っ掛けての言葉であることは間違いない。

 くそ。いつまでもそんな昔の話を持ち出しやがって、と私は自分のことを棚に上げて息まいた。

「どうせ、高名な画家先生に一度お目にかかりたいっていうミーハー心から言ってるだけなんじゃないの?そんな浮ついた動機に付き合わされたくないわ」

「お前何怒ってんだ?」

 売り言葉に食いついてくると思った上杉に冷やかに返されて私は急にしゅんとなった。

「別に怒ってないけど」

 独りでいきり立っていたようで何だか恥ずかしい。

「こんな機会またとないぞ。性格はどうあれ、超が付く一流の才能に触れてみたいと思うのは当然だろ?俺はあんな繊細なタッチの絵を描く人間に会ってみたい。それで北条(ほうじょう)のためになるかもしれないんならなおさらだ」

「何か不純ね」

 こんなに堂々と熱い口調で欲求をさらけ出されると、聞いているこちらが居たたまれない気がしてくる。「バイト代もらうわよ」

 私の心は最初から決まっていた。すぐに賛成しては足下を見られるので一応乗り気ではないことをアピールしてみたが、あとは上杉からいくらふんだくれるかだ。

「お前なぁ」

 予想通り呆れたような蔑みの色の声を聞かされたが、私は気にしない。しかし、上杉が続けた言葉は私を驚かせた。「でももういい。気が向かない奴を誘っても仕方がない。俺一人で何とかする」

 私は梯子を外されたような気分だった。まだ何もしていないが気持ちはすでに足利までの道のりを見渡せる展望台に上がっている。

「ちょっと待ちなさいよ。私も行くわよ。行けばいいんでしょ?」

「お前、北条の父親から何かせびり取ろうとしてるだろ」

「そんなことないわよ」

 我ながら否定の言葉が空虚に響く。「あんたこそ少し変じゃないの?このおじさんにこだわり過ぎじゃない?」

「そりゃそうだろ。相手は足利で俺は上杉だ」

 平然と意味の分からないことを上杉が語り出す。

「は?」

 私は嫌な予感がした。

「足利と言えば将軍家だ。関東管領の上杉家は将軍家を補佐する立場にある。謙信公も上洛して足利将軍家に謁見した。ここで俺が足利家を訪問することにはきっと大きな意味があるんだ。毘沙門天の思し召しと言っていい」

「一生言ってろ」

 私は呆れて電話を切った。


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