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序二(別の男)

 指や手の甲についた絵具を流水で洗い流す。汚れはすぐに落ちたが、僕は蛇口からシンクに落ち続ける水の束をぼんやり眺め続けていた。

 時間はまだあると思って筆を取ったが、結局何もできなかった。キャンバスの世界に集中できず、迷いを宿す手で描いても良いものができるはずがない。絵具を補充するのも忘れていて色が不足してしまい、余計に僕はやる気を失った。

 水が羨ましかった。

 高いところから低いところへ流れる。常に明快だ。キャンバスがあれば筆を動かす。僕も混じり気のない気持ちで、ただひたすら絵を描くことに没頭したい。しかし、それは当分許されないように思う。

 蛇口を閉め、手を拭い窓の外を見やる。

 僕はこんな陰鬱な気分なのに、外は初夏の陽気だ。あちらこちらで朝日が勢いよく照り返っている。思わずカーテンを閉め直し、翳った部屋の中に凝然と立ち尽くす。狭く、暗く、じめっとした部屋。気が狂いそうだ。叫びたくなる。

 何がいけなかったのだろう。

 周囲に才能を認められ、愛する妻と生活を共にし、可愛い子供にも恵まれた。それなのにいつの間に歯車が狂ったのか、僕は今、全てを失いつつある。そしてその目に見えない大きな流れを押しとどめる術を知らない。

 出てくるのはため息だけだ。

 こうなったら自棄だ。これ以上壊れていくのを黙って見ているのは心に負担になるだけだ。放っておいても零れ落ちていくのなら、いっそ自分から放り投げてしまえば良い。器があるから満たしたくなる。少量しか残っていないから惨めになってくる。自分という器さえなければ意味のない葛藤に悩まされることもない。

 ここはマンションの五階だ。頭から飛び下りれば、器は簡単に砕け散るだろう。清々してこの先全く何も考えずに済む。

 カーテンを思い切り開く。

 再び爽やかな明るい日差しが僕に降り注ぐ。マイナスへのベクトルに高まった気分が一気に萎える。

 圧倒的な太陽の光に包まれて見る窓外は地面が遠くに見えて、そこに飛び降りるのかと思うと恐怖心で足が一歩も動かない。

 どうせ僕は何もできない人間だ。かすり傷一つ負うことさえ怖がってしまう。

 僕は玄関に向かった。この部屋の中にいるとろくな考えにならない。ドアを開けて久しぶりに絵具のにおいのしない空気を胸いっぱい吸い込んでみたい。


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