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十七

 箱に貼られた熨斗には審査員特別賞と書かれている。その文字を街灯の薄明かりで確認するだけで、またあのときの興奮が甦ってくる。

 地鳴りのように腹に轟く歓声。こちらに向かって大きく見開かれ血走った眼の連なり。じりじりと身を焦がすような熱い空気。持て余すぐらいに強く高鳴る胸。

 私は数時間前の自分のパフォーマンスに悦に入っていた。しかし、栄養補助食品がぎっしり入った段ボール箱は、女の細腕にはたとえ一箱でもずっしり重かった。

 やっぱり上杉に部屋まで運んでもらえば良かったな。

 タクシーを降りるときに一瞬頼むだけ頼んでみようかと思ったのだが、ただでさえ袴を破いたことで怒らせているのに、ケンタッキーでごちそうしてもらったうえ、家の近くまで送ってもらった手前言い出せなかったのだ。私ったら何て奥ゆかしいことだろう。

 しかし、現実は厳しい。自分の部屋まで目と鼻の先なのだが、一歩一歩ダンボール箱が腕と足に負担を強いる。

 もうちょっと。あとちょっと。

 そのとき部屋の前で何かが動いたように見えて思わず身を竦める。

 動いたのは人間だった。暗くて顔まで良く見えないが、私の部屋の前に蹲っていた人がこちらに向かって歩いてくる。

 誰?何?この賞品が狙い?それともコスプレ大会で私に一目ぼれして待ち伏せ?

「遅かったな。真琴」

 声に聞き覚えがあった。

「多聞?」

 現れたのはスーツ姿の従兄だった。

 私はその場にへなへなと座り込んでしまった。急激に高まった緊張感が一気に弛緩し、もう立ち上がれない。疲労も相まって足腰が言うことをきかなくなってしまった。お気に入りのプリーツスカートが汚れてしまうが、かまっていられない。

「おい。何だよ、そんなところに座りこんじゃって」

「もうムリー。おんぶして」

「おんぶってお前、もうそこが部屋だろ」

 多聞は振り返ってドアを指差す。

「無理なものはムリー」

 首を出鱈目にブンブン振ると頭に多聞の掌の温かさを感じた。

 私の頭を軽く撫でてから、「ほらよ」と私に背を向けてしゃがむ多聞。

 私は間髪入れずに、その背中に飛び乗った。

 背後から強引に抱きつかれ、多聞はバランスを崩して前に手を突いた。

「おいおい。その元気があるなら、おんぶなんかいらないだろ」

「いいの。そこの箱も忘れずにね」

 はいはい。わがままはいつものこと、とばかりに従順な態度の多聞は、全身の筋肉に力を巡らせて一気に立ち上がる。

 ふわっと身体が浮き上がって、私はギュッと多聞の首にしがみついた。

 本当は「約束すっぽかしてごめんね」と謝りたかった。「心配して会いに来てくれてありがとう」とお礼も言いたかった。しかし、私はこれまで面と向かって多聞に詫びたこともなければ感謝の意を表したことも一度もない。

 それでも多聞は文句一つ言わず、今日もこうして笑顔で私の前に現れる。だから今日も私はこれまでどおりの私であり続ける。

 多聞は私をおぶったまま腰を曲げて熨斗つきダンボール箱をひょいと持ち上げる。華奢に見えるのに力持ちなのは中学から大学まで野球で鍛えた賜物だろう。

 スーツ越しに伝わる硬く引き締まった多聞の体躯に私は思わずうっとりしてしまう。少しでもこの時間が続けば、と願うが、多聞の言うとおりドアは目の前だ。

「ねぇ。このあたりを一周散歩しようよ」

「はぁ?」

「いいじゃん。うら若い女子を負ぶって歩けるなんて滅多にないことよ」

「それはそれは、光栄なことで」

 恭しく返答すると多聞は私の言葉通りそのまま歩き始めた。律義に両手で栄養補助食品の箱を持ったままだ。それでも多聞の足取りがふらつくことは一切ない。「審査員特別賞って何?」

「大豆の栄養補助食品よ。多聞には特別にあとで一本だけあげるね」

 そういう意味じゃなくて、と多聞は苦笑する。

 街灯がぽつんぽつんとしかなく、建ち並ぶ家々の明かりも心もとない夜道だが、多聞の背中は安心できて温かくて心地良くて、疲れた身体に眠気が兆す。

「何かのコンテストだったのか?」

「ああ、それね。ちょっとコスプレ大会に出てきたのよ」

 答える声がどうしても少しつっけんどんに響いてしまう。今私はコスプレ大会のことなどどうでも良いのだ。

 しがみつく首筋から微かに多聞のにおいが立ちのぼっている。汗と埃と土と日差しでできているような男のにおい。芳香というわけではない。しかし、嫌いではない。それには幼いころから慣れ親しんだ、私を落ち着かせる成分が含まれている。願わくば、このまま全身に多聞を感じて眠りにつきたい。

「コスプレ?」

 初めて多聞の足取りがぐらついた。「真琴ってそんな趣味があったのか?」

 多聞に就眠を邪魔されて思わず不機嫌な声になってしまう。

「いやねぇ。遅れてるんじゃない?今やコスプレは世界共通語よ。アニメは日本が世界に胸を張って発信する代表的な文化の一つなの」

 完全に上杉からの受け売りだが、初出場で表彰されたのだから少しぐらい語っても罰は当たるまい。

「ふーん。で、何のコスプレやったの?」

「んーと何だったかな。巫女装束着て薙刀持ってたんだけど」

「それって『神様お願い』の葵じゃないのか?泣きごと言いながらも誰よりも鋭い攻撃を仕掛ける」

「あ、それそれ」

「だからか。さっきの『ムリー』はそこからきてたんだな」

 多聞が思い出し笑いをする。その笑い方がどこかいやらしい感じがして私の心が少しささくれる。

「なーに。多聞もそういうアニメ見たりするの?」

「駄目か?」

 正面切って訊かれると、アニメについて語ったばかりで駄目とは言いづらい。ぼそぼそと「駄目じゃないけどさ」と私は多聞の肩に口を埋めて呟く。

「アニメ好きの男ってちょっと気持ち悪い」

 念頭にあるのは上杉だ。毘沙門天とコスプレの衣装を持ち歩く男。そのくせ女を汚らわしいなどとけなす。何を考えているのかさっぱり分からない。

「何だよ、真琴」

 多聞は苦笑する。「さっきアニメは世界に誇る文化だとか言ってたくせに」

「見ていい人と駄目な人があるの」

 多聞が上杉と同類項で括れることが性別以外にあってほしくない。

「俺は駄目な人なのか?」

「そういうこと」

「俺にだって、アニメを見る権利はあるだろ」

 不意に多聞の足が止まった。「そんなこと言う奴はもうおんぶしてやらない」

 驚いた私はガバッと顔を起こした。まさかとは思ったが多聞が怒っているのかどうか、しっかり目で確認したかったのだ。そして私は気がついた。すでにこのあたり一周の散歩は終わったようで、二人は部屋の前に帰ってきていた。

 私は多聞の背中から弾みをつけて飛び降りた。バッグの中から鍵を取り出し、ドアを開ける。多聞に少しだけ待つように言い置いて、先に部屋の中に入り明かりをつける。

 当然ながら今朝出てきたままの姿で部屋は私を迎えた。目につくものを闇雲にクローゼットの中に放り込み、多聞を呼びに出る。

「何にもないけどさ。水ぐらい出すから大豆の栄養補助食品でも食べていってよ」

 水でさえ今朝は出せなかったのだが、多聞はいつもの冗談だと思ったのだろう。「せめて、茶だろ」と苦笑いを浮かべた。

 その笑いが馬鹿にされたようで悔しかった。しかし今の我が家には茶の葉もない。

「じゃ、じゃあコーヒー。コーヒー出してあげるわよ」

 安いインスタントコーヒーなら残っている。しゃれたスティックシュガーなんかないけど。

 しかし、多聞は私にダンボール箱を手渡し、その上に玄関脇に置いてあったコンビニの袋を載せると一歩下がった。

「こんな夜中にうら若い女子の部屋に上がったら罰が当たるよ」

 私の頭を一撫ですると、引き留める暇を与えず多聞はサッと消えてしまった。

 私にできることは自分の服と渡されたダンボール箱に微かに残った多聞のにおいを探すことだけだった。


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