十六
三本目のフライドチキンをぱくつきながらも、私は話を聞く気持ちがあることをアピールするために、見開いた目を北条に向け続けた。上杉も北条もドリンクを飲むだけで、目の前のチキンにもポテトにも手をつけない。食べないのなら、残すのはもったいないから平らげてあげよう。これで一食浮くわ、と私は目立たないことを心がけながらも着実に食べ物を腹に収めていった。
「で、そもそも何で奥さん出て行ったの?」
これをはっきりさせておかないと奥さんとの復縁も子供の親権の話も先が見えない。
しかし、上杉は私の質問に驚いたようで「そりゃ、お前」とチラチラ北条の方に視線をやりながら、察しろよ、という顔をする。
「それは僕が、その、あれだから、なのかな……」
北条は顔を赤らめて俯いた。
やっぱり。奥さんにゲイであることがばれたからなのか。確かに私だって夫が男を性の対象として見ていることが分かったら、ちょっと普通じゃいられないと思う。一人で考える時間が欲しくなるだろうし、離婚だって意識するだろう。
「長尾!」
上杉が怒っている。
私は「ごめん」と小さな声で謝った。でも悪いとは思っていない。恥ずかしそうに小さくなっている北条を見ていると可哀そうな気はしたが、助けを求めるなら北条にも事の経緯を話す義務があるだろう。私としては憎まれ役を買った気分だった。誰かが言わなきゃ物事は進んでいかないのだ。
しかし、これ以上この話題を詮索するのはさすがに気がひけたので、少しテーマに変える。
「親権をどちらが持つかって一般的な判断基準はあるの?」
「まだ三歳ってことなら母親が優先だろうな。北条が子育てに関して奥さんより明らかに良い環境を備えていれば別だが」
物知り顔で語りだした上杉をおだてるために私は質問を続ける。とにかく食べ物に注意を向けさせてはならない。
「環境って?」
「例えば経済面だ」
「お金ってこと?」
やはり離婚調停もお金がモノを言うようだ。「北条さんってお金持ち?」
北条は力なく首を横に振った。
「画材を揃えるのにも苦労してるぐらいで……」
北条には裕福というよりも清貧という表現の方がしっくりくる。小説家で裕福なのは一握りだけ、と聞くが、画家も大多数は儲からないのだろうか。
「奥方はどうなんだ?」
上杉の問いかけに私も同調して北条を見る。
奥さんは何をしている人なのか。女手一つで子供を養い育てていくのは生半可なことではないだろう。かく言う私は自分一人の口を糊することすらままならないのだ。
「お金持ち」
「じゃあダメじゃん」
私があっさり言うと北条は傷ついたように眉を八の字にした情けない顔で私を見た。
「金持ちって、奥方は何の仕事をしてるんだ?」
上杉の問いかけに北条は力なく首を横に振る。仕事はしていないということか。
「じゃあ実家がお金持ちなの?」
私の言葉に頷いた北条は「師匠」と言った。
「師匠?」
私の鸚鵡返しに北条は頷いて見せたが、私は今一ピンとこない。「お茶とか、お花とか?」
私が思いつく「師匠」とはそんなところだ。あ、落語も。
「え」
北条は気の抜けたように口を開いて私を見た。
「エ?」
「油絵」
「絵の先生ってこと?ああ、なるほど。北条さんの絵のお師匠さんってことね」
照れたように口元を歪める北条。北条は口数が少ない。喋る単語数が絶対的に少ない。先ほどからなぞなぞをやっているようなまどろっこしさで、言葉のやり取りに一々つかえる。色々考えさせられて頭が疲れてきた。
「お前はどうしてそんなに言葉数が少ないんだ?」
上杉も苛立ったように声を上げる。
「喋るの、苦手」
ごめんなさい、と小さくなる北条を見ていると、弱い者いじめをしているような気になっていたたまれなくなる。
「まあ、それはいいじゃない」
私は上杉をなだめ、北条に向き直る。北条の口数よりも他に気になることがある。「ねえ、ねえ。それより奥さんのお父さんってそんなにすごい人なの?」
「長尾」
上杉が冷やかに見つめてくる。
「何よ」
「お前、また金のにおいを嗅ぎつけたな」
「し、失礼な。私はただ北条さんの力になりたい一心よ」
「ならいいがな」
上杉は、お前の考えていることなど百も承知だ、と言わんばかりに嘲笑うように鼻を鳴らして北条に先を促す。「で、どうなんだ?」
上杉の表情が癇に障って私は「イー」と顔を顰めて見せた。
「たぶん、すごい」
「すごいってどれぐらいなの?」
「大学の教授」
ふーん、と私は腕を組んだ。それって儲かるのかな。
私の無意識の呟きに上杉が耳聡く白い目を向けてくる。やはり金か、とその目が言っている。
私は慌てて咳払いした。
「ほ、他には?」
「内閣総理大臣賞」
「何それ?日本一ってこと?」
「院展の同人」
「もう、どうすごいのか分かんない」
私が両手を広げて困惑の仕種を見せると、腕を組んで黙って聞いていた上杉が「マジか。すげぇな」と毒気を抜かれたような呆けた顔でグラスに手を伸ばした。戦国武将かぶれの上杉が「マジか」などとおよそ戦国時代とはかけ離れた言い回しになってしまったのは、それだけ北条の父親の偉人ぶりに驚いているのだろう。上杉はストローを銜えてズズッとグラスの底から間抜けな音を響かせ、ばつが悪そうにグラスをテーブルに戻した。北条の話に驚き、目の前の飲み物が空になっていたのを忘れてしまっていたのだろう。
「院展の同人は日本の画壇の中でもほんの一握りしかなれない。内閣総理大臣賞を受賞しているなんて、将来は人間国宝になるかもしれないぞ」
「それって美術の教科書にも載っちゃうぐらいすごいってこと?」
私は半ば冗談のつもりで訊ねてみた。教科書に載るということは、その人について国民が学ぶに値するということだ。
しかし、上杉は真剣さを失わなかった。
「ゆくゆくはあり得る」
上杉が作り出す雰囲気が重くて、私は反射的に茶化したくなる。
「へー。あんたやけに詳しいじゃん」
「俺も美術を志したことがあったからな」
照れたように自分の坊主頭を撫でる上杉。
「仏像彫ってそう」
単純に坊主頭からお坊さんを連想して言ったのだが、どうやら図星だったらしく「仏像を馬鹿にしてるだろ」と上杉は額に筋を浮かべた。
そのやり取りが面白かったのか、北条が頬を少し緩めた。
それを見て、北条も笑うことがあるんだ、と私が当たり前のことなのに新発見に辿りついたような感慨になったのは、北条が今日一日ずっと沈痛な表情をその顔に貼り付けていたからだろう。もともと整った顔立ちだから苦悩に満ちていても絵になってしまうが、笑うと少し幼く見えて可愛らしい甘さが漂った。
「北条さんっていくつなの?」
「三十六」
「何?」
私も驚いたが、上杉は思わず声が出てしまうほどだったようだ。「若く見えるな。俺と同い年か、少し若いぐらいかなと思ってた」
「あんたはいくつなのよ」
「二十九」
「え!北条さんよりも七つも若いの?」
私の言葉に上杉は「むー」と唸った。自分も同じ感想だから返す言葉がなかったのだろう。弱々しく「今さら、敬語に変えにくい」とぼそっと言う。
「いいです。今までどおりで。その方が気楽」
北条が上杉に向かって頬を緩める。
「そう言われてもな」
「とにかく」
北条と上杉のやり取りがどうでも良い私は強引に話を元に戻した。「相手のお父さんがお師匠さんで頭が上がらないうえに、そんなすごい人なんだったら勝ち目ないじゃん。北条さんの絵はどれぐらいのレベルなの?」
「大したこと、ありません」
「でも、曲がりなりにも画家なんでしょ?」
失礼な奴だな、と私に突っ込みながら、上杉がとうとうフライドチキンに手を伸ばした。グラスが空になって手持無沙汰になってしまったのか。これで残りは一本だ。
「院展で奨励賞なら」
頭を掻く北条。
「それって……」
すごいことなの?
その疑問を私がぶつけるまでもなく、上杉はチキンにかぶりつきながら眼を見開き「んんっ!」と驚いたような大きな声を上げた。先ほどから上杉は北条の言葉に驚きっぱなしだ。
「才能あるんだなぁ」
上杉に誉められても北条は胸を張ることはない。
「でも、絵だけでは食べていけない」
項垂れた様子はそれが単なる謙遜ではないということを表していた。
「厳しいな。奨励賞を取ってもそういうもんか」
「でも、全く売れないわけじゃないんでしょう?それに、そんな賞をもらったんなら、美術の学校とかから引っ張りだこなんじゃないの?」
私は学生時代の美術の先生を思い出そうとして思い出せなかった。北条のように画家と名乗ることができるような売れる絵を描いていた人なら覚えているはずだ。食べていけるほどではないにしても、売れる絵を描ける北条のレベルは相当のものなのだろう。すごい賞をもらった人が先生なら生徒のやる気も変わってくるように思う。
「おお、そうだな。美大とかな。自分で絵画教室を開くっていうこともできそうだ」
しかし、北条は浮かない顔で首を横に振るだけだ。
「時々やるんですけど、教えるの苦手で」
確かに苦手そうだった。北条が生徒を前にうろたえている様子が目にありありと浮かんで、私と上杉は顔を見つめ合わせてすぐに俯いてしまった。
「ここはすごい絵を描いて一発当てるしかないね」
「安直だな、お前は」
「じゃあ、他にどんな手があるって言うのよ」
「だからそれを考えてるんだろう」
「考えたら何か出てくるの?」
私と上杉が言い合っていると、「でも」と北条の今日一番の大きな声が二人の間に飛び込んできた。驚く二人を尻目に北条は突然雄々しく立ち上がった。店内が一瞬静まり返る。
「描いてみたい。死ぬ気で、集中して、渾身の絵を」
拳を握りしめ斜め上を見上げるその姿には北条らしからぬ力強さがあったが、店内の視線の集中砲火を浴びて居たたまれない私は上杉と共に北条の腕を取って無理やり座らせた。
北条が座っても周囲のざわざわがなかなか静まらない。みなちらちらとこちらの様子をうかがっている。
「絵のことになると急に熱くなるんだな」
同感だ。落ち込んでいたかと思ったら、急に立ち上がって気勢を上げる北条への好奇心が止まらない。私は右手を後頭部に、左手は腰にあてがって品を作り、流し目で北条を見つめた。
「私、モデルやってあげてもいいわよ」
「どうせ金取るんだろ?」
「そりゃそうよ」
批判的な上杉に一瞥をくれると、私は北条に向かって媚びるような声を出した。「値段次第で脱いでもいいわよ」
実際には脱ぐつもりはないが、北条が少しでも私を雇う気になるなら嘘も方便だ。次のバイトを探そうとしていたところだが、黙ってポーズをとっているだけでお金になるなら、こんな楽なことはない。それに絵や写真のモデルをやったことがないから分からないが、北条に見られて描かれて気持ちが昂揚してきたら、その気にならないとも限らない。
北条は才能を持っている。花が開くかどうかは分からないが、知人になっておいて損はないと私の第六感がシグナルを送ってくる。
「話を聞いてないのか、長尾。北条は金がないんだよ」
そうだった……。しかし今はなくても、そのうち描いた絵が大当たりするかもしれない。
北条は呼び捨てされるのは気にならないが、名前を間違って呼ばれるのは嫌らしく、相変わらず小さな声で「キタジョウです」と名前を訂正する。そして少しだけ私に膝を向けた。
「人は描きません」
「そうなの?なんだぁ」
私はむくれて背もたれに身を委ねた。モデル代が入ってこない、と思うと急に北条への興味が薄らいだ。「じゃあ、何描くのよ?」
「タンチョウヅル、エゾシカ、ニホンザル……」
ぽつぽつと一つずつ自分が描いた絵を思い出すように指を折った。
「動物ってことか」
「人間だって動物じゃない」
私は口をとがらせて言った。
「北条が描きたいもん描かなきゃ意味がないだろ」
どうやら結局上杉は北条へ敬語を使う気はないらしい。懲りずに名前を間違う上杉に根気よく北条も名前を訂正する。
「そういう固定観念がいけないって言ってるのよ。人間の中にも動物に通じるものがあるはずよ。そういう人間の奥底に眠る本能とか煩悩みたいなものを表現してみなさいよ」
モデルで楽してひと儲けできる話が風前の灯となってしまったことが面白くない私は屁理屈を並べた。
「素人が何言ってんだ」
上杉は私を馬鹿にしたように口の端を歪めて笑ったが、北条は何かに打たれたように眼を見開いて私に迫った。
「わ、分かりました」
「え?」
「僕、人を描きます!モデル代を払うようなお金はないけど、何とか人を描いてみます」
こんなに力強く断言する北条を初めて見た。
「そ、そう?」
私は北条の気迫に尻込みした。自分の言葉が北条を焚きつけてしまったようだが、モデル代も払えないような画家に用はない。「決まりだわ。あんたモデルやりなさいよ」
私は噛みついてくる犬を「あっち、あっち」と追い払うように上杉を指差した。
「はぁ?何で俺が?」
「だって北条さんはあんたのことがお気に入りだもん」
北条はまるで犬の従順さで、私の期待通りに熱い視線を上杉に向けた。
「是非お願いします」
私は勝ち誇ったように「ほらね」と笑った。
「いや、そんなこと言われても無理なものは無理だ。そんな、絵のモデルだなんて……」
いきなり追い詰められた格好の上杉は困惑の体で必死に顔の前で手を振るが、私は勝負あったと見て最後のフライドチキンに手を伸ばしながら、冷酷にとどめの一撃を放った。
「あんた、恩に報いるって言ったわよね?」