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十五

「へえ。そうなのぉ」

 私は油で光る指をしゃぶりながら、隣に座る北条に向けた表情を曇らせた。

 予想通り北条は調停に遅刻したらしい。「遅刻の理由も満足に答えられなかったんだとよ」と向かいに座る上杉がアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、こちらに意味ありげな視線を送ってくる。

 こいつは暗に私を非難しているのだ。

 私も「あんたねぇ」と青筋立てて上杉に突っかかったが、裁判所で口ごもったであろう北条の今にも泣き出しそうな顔つきが視界に入ると、さすがに第三者の二人が喧嘩なんかしていられない。

 痴漢を疑われて事情を訊かれていました、とは言えない。理由もなく遅刻した夫。調停委員の心証が良くなるはずがない。

 午後五時のケンタッキー。店内を見渡すと、部活終わりらしき汗臭い学生グループや、これから帰って夕食の用意をする前に世間話に懸命に花を咲かせる主婦らしき女性客が入り混じっていて、ガヤガヤと騒がしい。それでも決して広くない店内で席を確保できたのはラッキーだった。

 角の席にお通夜のような神妙な顔を突き合わせる私たち。痴漢被害を訴えた方と訴えられた方。その三人が同じ日にケンタッキーでチキンを分け合うなんて、考えてみれば不思議な光景だった。

 上杉とは駅を出た後も一緒にコスプレ大会に参加した仲だから、喧嘩腰な場合も含めて、ある程度気兼ねなく言葉を交わすことができる。北条も市役所のそばで声を掛けたときには「ああ、長尾さんか」って感じで、その顔からは憤りや警戒心といったマイナスの空気は伝わってこなかったので、私としては心理的にあまり構えることなくこの場に入れた。

 しかし、実際のところ訴えられた二人は私のことをどう思っているのだろうか。

 上杉は裏表を感じさせない性格なので、きっと私への心理状態がそのまま態度に出ているのだろう。罵り合いながらも屈託なく接しているのは、出会い方はまさに最悪だったが、基本的には馬が合うのかもしれない。

 一方、北条はどうだろう。彼からあまり敵愾心は感じないが、少し何を考えているのか分からないところがある。つまるところシャイだということなのだろうが、上杉と比べると見えない壁があって、それが心理的な距離につながっている。まあ、私に痴漢として掴まえられたのだから、こちらが普通の態度で上杉が特別なのかもしれないが。

「親権が向こうに行っちまったら、お前のせいだぞ」

 親権?私は驚いてフライドチキンに伸ばした手を止め、北条に顔を振った。

「え?子供がいるの?」

「三歳が一人」

 その顔は一瞬綻んだように見えたが、すぐに翳ってしまった。「今は別居中……」

 その表情から子供の存在が北条の生活の張りであり、苦悩の源にもなっていることが分かる。子供への愛は相当深いようだ。しかし……。

「それって、誰の子?」

 一瞬、訊いてはいけないかとも思ったが、思ったときには口から出ていた。しかし、ここをはっきりさせておかないと、いつまでも気になってフライドチキンが喉を通らない。タクシーを待っている間に食べた審査員特別賞の栄養補助食品とは美味さが違う。折角だから何のわだかまりもなく心から肉のうまみを堪能したい。

「誰のってお前、北条(ほうじょう)の子に決まってるだろ」

 北条が顔を上げずに「ホウジョウじゃなくてキタジョウ」と訂正するが、声が小さくて独り言にしか聞こえない。

「でも北条さんは、あれなんでしょ?」

 隣にいるのに北条本人には顔を向けられず、どうしても上杉に訊ねてしまう。あれ、とはつまりあれだ。北条の性に対する考え方のことだ。

「そうか。そうだったな」

 ソファに凭れていた上杉が私に対して前傾姿勢になり、口の横に手を添えて声のトーンを落とす。「しかし、あれだったとしても身体の機能が備わっていたら、できるもんはできるだろう?」

 上杉もチラッと北条を見るが、本人に直接訊ねる勇気はないらしい。

「そりゃそうかもしれないけど、じゃあ北条さんは女性が相手でも大丈夫ってこと?」

 恐る恐る核心に近づく私。地雷原を渡るような気分だ。北条のテリトリーはどうも侵しづらい。芸術家もゲイも私のそばにはいない人種だ。いくら物怖じしない私であっても、どうしても間合いの取り方に気を遣う。

「美しいものが好きです」

 庭先からチラチラと屋敷の中を窺う噂好きの主婦のような上杉と私のやり取りが家主の北条には鬱陶しかったのだろう。北条は顔を赤らめながらもきっぱりと答えを示した。

「性別は関係ないってことか」

 なるほどな、と得心顔で再び背もたれにどっかり身を委ねる上杉。

 しかし、私は全然納得がいかない。

「美しいものが好きなら、普通、こんな坊主頭より私のお尻に目が行くでしょ。どういう美的感覚なのよ」

「そう言われましても」

 北条は困惑の表情を浮かべる。

「じゃあ逆に、この人のどこが美しいの?」

 私は上杉の顔を見つめて思わず嘆息した。これを美しいと感じるということは、北条の奥さんは一体どんな顔をしているのか。

「何だ、その言い方は」

 上杉は少しムッとした顔でアイスコーヒーのストローを銜える。

「て」

 北条はその一語をはっきりと言った。

「て?何?」

「手」

 北条が手を自分の顔の前に広げ、次にコップを握る上杉の右手に熱い視線を送る。

「俺の手か?」

 これのどこがどう美しいのか、という感じで上杉はしげしげと自分の手を眺めた。

「すらっと長い。きれいな爪の形。ささくれがないし、筋張り方も丁度いい」

 言われてみればそう見えなくもない。しかし、少し視線を上げると洗練されているとはとても言えない眼鏡坊主の上杉の顔に出くわし、私はプッと吹き出してしまった。「何がおかしい」と上杉に睨まれたのを無視して私は話題を転換する。

「じゃあ、北条さんの奥さんはさぞかし美しい人なんでしょうね」

 私としては上杉に見惚れてしまうような審美眼を揶揄するような気持ちだったのだが、北条は小さく頷き顔を真っ赤にして口を開いた。

「愛してます」

「え?でも離婚するんでしょ?」

 離婚という言葉の棘に刺されて穴が開いたのか、北条は風船がしぼむようにがっくりうなだれた。

北条(ほうじょう)は離婚したくないのか?」

 北条は名前を訂正することもなく、「もう、どうしたらいいのか」と今にも泣き出しそうな声をあげて手で顔を覆ってしまった。奥さんに離婚を切り出され、子供と一緒に家から出て行かれてしまって、なす術のない哀れな男がここにいる。

 思わず目を合わせる私と上杉。

「あい、分かった」

 上杉がテーブル越しに北条の肩に手をやり野太い声を掛けた。「俺は今朝、駅で貴殿から多大なる恩を受けた。この恩は生涯忘れることはない。今度は俺が報いる番だ。安心しろ。毘沙門天のご加護も貴殿のそばにある」

 歌舞伎や狂言のできそこないを見ているようで笑ってしまいそうになる。が、上杉は真面目な顔で北条を見つめていた。

 何をどうするという具体的な提案もないのに、北条は感極まったように潤んだ目を上杉に向け、肩に置かれた手を取ると頬に寄せようとする。

 上杉は少し顔を引きつらせて北条の手を振りほどいた。

「長尾」

「何よ?」

「お前も協力しろ」

「は?」

「元はと言えばお前が金欲しさに下手な芝居を打ったからこうなったんだ」

「だから、あれは芝居じゃないっての」

 そこだけは譲れない線だ。痴漢はあった。私がそう言えば、それは誰も覆すことはできない。

「どちらにせよ俺たちは濡れ衣だ。そしてそのせいで北条は調停に間に合わなかった」

「人身事故があったから遅刻したんでしょ。私のせいじゃないって」

「事の発端はお前だ。あれがなかったら人身事故も関係なかった」

「そこまでおっしゃるんなら、言わせてもらいますけどね。間に合ってたら離婚しないで済んだの?親権を取れたって言うの?」

 言いがかりはやめてもらいたい。

「それは分からない。しかし間に合わなかったのは事実だ。少しはそこに責任を感じろ」

 駅員直江が北条に時間の余裕を確認したときに何も答えなかったのだから今さら責任を押し付けられたくはなかったが、しょぼくれている北条を見ていると不憫に思わないでもなかった。

「じゃあ、協力したらお金くれる?」

 金は万能だ。全てを解決してくれる。私の生活も。痴漢の示談も。きっと離婚の調停も。

 しかし、上杉に「長尾!」と怒鳴られて、さすがに今回は私も肩をすくめて提案を諦めた。


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