十四
橙色に染まり出した日差しを左側から受けながら、私と上杉を乗せたタクシーは北に向かっていた。疲れていた私が電車に乗って歩いて帰るのは無理だと駄々をこね、上杉にタクシーを呼んでもらったのだ。実際は歩けなくもなかったが、楽をしてその上交通費を浮かすことができるチャンスを私が見逃すはずがない。
衆目の前で巫女装束のまましゃがみこみ、薙刀を放り投げて「ムリー」と訴えたら何故かその場がどっと沸いた。周りの人たちに「あれを見せられたら仕方ないな」となだめられて、上杉も渋々承知してくれたのだった。
タクシーを待っている間に大会関係者が教えてくれたのだが、私が扮した役柄は人気アニメ「神様お願い」に出てくる葵という名前の甘えん坊の巫女の役で、「もうムリー」が口癖なのだそうだ。
「あー疲れた。足がパンパン」
手にした丸い筒でふくらはぎをポンポンと叩きながら、ちらっと隣の様子を窺う。大会が始まるまでは機嫌が良かったのに、何故かまた帰りのタクシーの中では上杉はお冠だ。「初めてだったけど意外と面白かったわ。次も出てあげてもいいわよ」
「もう結構だ」
上杉は腕組みをしたまま吐き捨てるように言い放った。こちらを見ようともしない。
「ちょっとさっきから何なの、その態度。何か気に入らないことがあるわけ?」
「大有りだ」
苛立ちの原因が私にあるのに当の私が全くそれに気付いておらず、そのことがまた怒りに拍車を掛けるという感じに見える。
しかし私はこの雇い主から褒められこそすれ、叱られる理由など全く身に覚えがない。困ったな。まだバイト代をもらっていない。
「オオアリは毒を持ってるのよ。蟻酸っていうその毒で餌にする獲物を殺して巣に持ち帰るの」
おどろおどろしい雰囲気を作り出すように私は声を低く抑えて言った。恐怖を醸し出すように口の端を歪めて微笑む。「大有り」を「オオアリ」に変換して話題を変えようという高等テクニックだ。
「ギサン?」
垂らした餌を獲物が突いてきたようだ。このまま話題を蟻に変えてしまおう。核心から離れているうちに上杉の機嫌も治るだろう。それにしても蟻の研究家を登場人物にした小説を書いたときに勉強した内容がこんなところで再度役に立つとは。
「そうそう。蟻酸はね、防腐剤や抗菌剤として人間の役にも立ってるの。知ってた?」
人差し指を立てて雑学を披露しつつ雇い主の気分を変えようとする私。何と可愛らしく健気なのだろう。
「お前も役に立ったと言いたいのか?」
この発言にはカチンときた。
役に立つとか立たないとか、そういう問題ではない。上杉が用意した巫女装束で上杉が指定した大会に出場することでバイト代をもらう。これが往きのタクシーの中で結んだ契約ではないか。私としてはその契約に則って役務を提供しただけだ。そこに違約はないはず。
「あんたねぇ」
私は腹立ちまぎれに右手の丸い筒で正面の助手席の背もたれを一発叩きつけた。「私はあんたの指示に従って大会に出た。役に立ったかどうかはあなたの主観でしかないじゃないの。そんなの私に関係ないわ」
私はフンと鼻を鳴らして顔をそっぽ向けた。下手に出ていたら調子に乗りやがって。もう付き合いきれない。
「お前は俺の巫女像を汚したんだよ!」
「あんたのつまんない巫女像なんて、くそ食らえよ」
「くそ……」
「あんたのイメージを私は事前に聞かされてないもん。そんなの知らないわ」
そこまで言って私は上杉がどこに憤っているか漸く思い至った。「周りに同じようなコスチュームの子がいっぱいいたから、差別化するためにちょっと袴にスリットを入れただけじゃないの」
「何がスリットだ!」
上杉は抱えていたスポーツバッグから先ほどまで私が穿いていた赤い袴を取りだして私の眼前に近づける。裾が何か所もズタズタに裂かれている。こうして改めてみると何とも無残だ。「これを見ろ!ただ無理やり破っただけだろ。人が夜なべして作った衣装を無茶苦茶にしやがって」
大会にエントリーしてまず驚いたのは、私と同じような衣装を着たパフォーマーが大勢いたことだ。
どうやらアニメの世界では大人気の巫女キャラクターがいるらしい。どいつもこいつも容姿で負ける気はしないが、コスプレ大会の評価ポイントがどこにあるのかさっぱり分からない私には、衣装がかぶっていることは大いに焦りにつながった。
何でも良いから目立たなくては。そう考えた私は町を練り歩きながらビリビリと袴を裂いていったのだ。
「結果的に私の足が見え隠れして観客を魅了したんじゃないの。大事なのはチラリズムよ。チラリズム」
自分で裂くのが疲れてくると時々コースアウトしては何人かの男性見物客に「あなたも破っていいのよ」と唆して衣装の改造を手伝わせていたのだが、それも上杉にはばれているのだろうか。それぞれ一票ずつを握る見物客の人気取りもできて一石二鳥だったのだが。
「じゃあ最後のやつは何だ。あれは見え隠れなんてもんじゃないだろ」
大会のフィナーレで神社の境内に設営されたステージに上る直前に、私は手水場の水をバシャバシャ頭から被ってずぶ濡れになった。それで白衣の下のブラが透けて見えてしまったことも上杉は気に入らないのだろう。
「あれは透け効果を狙ったのよ。シースルーが扇情的なわけ。あなたラッキーだったわね」
「何がだ」
「今日、たまたま私がつけてたブラが赤だったから良かったのよ。赤い袴とのコーディネートが完璧だったわ」
あのときの「オオー」という地鳴りのような歓声が耳について離れない。観客の興奮が痛いほど伝わってきて、後頭部がジーンと快感に痺れた。あのときの光景を思い出すと、すぐに高揚感が戻ってきて、ついつい「コーディネートはこーでねーと」なんてダジャレまで出てしまう。この感覚、癖になりそうだ。
「俺はそんなもの一つも求めていない。お前は清い巫女のイメージを台無しにした。今日会場に来ていた仲間から今後俺は白い目で蔑まれるんだ」
もう合わす顔がない、と上杉は袴に顔を埋めて悲嘆した。
何を大げさな、と私は嫌気がさしてヘッドレストに頭を凭れさせた。
「じゃあ、言わせてもらいますけどね。後ろに積んであるのは何?」
親指を立てて後方を示す。
タクシーのトランクにはダンボール箱が一箱積んである。そこには今回のコスプレ大会に協賛していた食品メーカーの大豆で作った栄養補助食品が入っている。
「あれは、その……」
「ここに何て書いてある?」
私は手にしていた丸筒から賞状を取りだして上杉の前に広げた。
「審査員特別賞」
「はい、よく読めました。これをもらえたのはどういうわけよ。私のアイデアが認められたからなんじゃないの?巫女スタイルで賞をもらえた人が私以外にいましたっけ?」
答えはノーだ。
今日の賞は優勝と審査員特別賞だけ。優勝者はそのままハリウッド映画に出演できそうな完成度の高いフェアリーの衣装を身に纏った、まさにコスプレに自分の全てを注ぎ込んでいるような白人女性だった。
コスプレに対する考え方や演じる姿勢の土台が付け焼刃の私とは丸っきり違う。彼女については見た瞬間に負けを認めた。だからこそ私は彼女とできるだけ距離を取り、いかに自分が目立つかにおいて頭を捻って最大限の努力を重ねた。
その結果が審査員に認められたからこその賞だ。そしてトランクの栄養補助食品はその賞品だ。一年分もらったのだが、全部は持って帰れるはずもなく、残りは配送してもらうことになっている。
「……」
さすがの上杉も言葉が出てこない様子だった。私は怯んだ相手の懐に飛び込んだ。
「はい」
犬に「お手」を求めるように手を差し出す。
「何だ?」
「バイト代よ。くれるって約束でしょ」
上杉は言葉を違えるということを忌み嫌っている。御しやすい相手だ。
案の定、憤懣を押し殺すような険しい顔つきで、ぐっと奥歯を噛みしめながらもポケットから財布を取り出す。革製の分厚い財布だった。
審査員特別賞には賞品はあっても賞金はなかった。従って、色々あった一日だが今回の上杉からの報酬が私にとって今日唯一の収入になる。多聞に借りるはずだった一万円は是が非でもここで得ておきたい。まあ、青年実業家の上杉なら気風良く福沢諭吉を見せてくれるだろうが。
しかし、上杉が「お前の働きぶりならこれだけだ」と私との間にあるわずかな座席の隙間に置いたのは五千円札一枚だった。
私は紙幣を指先で掴むと青筋を浮かべて上杉に食ってかかった。
「ちょっと。私は大事な用をほっぽらかしてあんたの道楽に付き合ってあげたのよ。それがこの仕打ち?あんたのために見せたくもない足を見せて、あまつさえ下着姿まで公衆にさらしてやったのに、あんまりなんじゃないの!」
タクシー内にキンキンと響く声で、運転手も首をすくめるほどに上杉の吝嗇ぶりを非難すると、体面を気にしたのか私の攻勢に辟易したのか、苦り切った顔で上杉は再び財布を開いた。これでいいんだろ、という風に上杉が一万円を覗かせると、私は素早くサッと取り上げ、ニッと歯を見せると「毎度ぉ」と頭を下げた。
「こら。五千円は返せ」
「いいじゃない。社長さんはけちけちしないの。運転手さん、一旦ここで停めて」
停車したのは市役所と目と鼻の先のところだ。一万五千円あれば水道代を払っても十分美味しい夕食にありつける。問題は時間だ。辺りは少しずつ夕景の雰囲気が漂い始めている。五時までに水道局に行かないと今晩もシャワーを浴びられない。
ドアが開き、「ちょっと待て」と追いすがる上杉の手から逃げるように飛び降りた私の視線の先に、見たことのある人が歩いていた。
「あれ?」
「どうした?」
「あれって北条さんじゃない?」
斜めになった日差しになじむ臙脂色のジャケットを纏った長身の男がとぼとぼと俯き加減でこちらに向かって歩いてくる。水色のズボンにも確実に見覚えがあった。あんな色遣いをする人はなかなかいない。
上杉が私が座っていたあたりに手をつき首を伸ばして窓の外に目を凝らす。
「明らかにしょぼくれてるな」
「確か離婚の調停、だったよね」
北条の歩き方を見ていれば、その首尾どうだったか聞かなくても分かる。私の胸に切りつけられたような細く鋭い痛みが走った。
「お前が起こした騒動で遅刻したんじゃないのか」
傷口に塩を塗りこまれ、私はキッと上杉を見下ろした。
「この先にケンタッキーがあるから北条さんとそこで待ってて。私も用事済ませてすぐに行くから。トランクの賞品も忘れないでね」