十三
五月の麗らかな陽光の下、鷹揚に手を上げる丸坊主の男。
目の前でタクシーのドアが開き、上杉があの大きなスポーツバッグを大事そうに抱えながら乗り込もうとする。
その瞬間を狙って、自動販売機の陰に隠れていた私は猛然と走り出した。ドアが閉まる直前に飛び込むようにして上杉の肩に自分の身体を丸ごとぶつけながら無理やり車内に入り込んだ。
「なんだ、お前!」
虚を突かれたように目を見開く上杉。
「O町に行くんでしょ?途中まで乗せてってよ」
「断る!」
上杉が「汚らわしい」と力ずくで私を車外へ押し出そうとする。
「暴力はやめてよ!お願い、私を捨てないで!あれは誤解なのよ!私を信じて!これまで以上に尽くすから!」
私はありったけの声で上杉への愛を叫んだ。
「何わけのわからんことを言ってるんだ、お前」
全力で恋人同士の痴話喧嘩を演出する私に上杉が少し怯んだ。
私はその一瞬を逃さず、さらに攻め込む。
「お願い!あなたを思う気持ちはこれからも変わらないわ。だから連れていって。私も一緒に行きたいの!」
「おい。だから何なんだ。俺とお前はさっき……」
私は上杉の口を手で覆って、運転手に向かって「早く出して!」と叫ぶ。
運転手は慌てたようにギアをドライブに入れ、ドアを閉めて出発した。彼は上杉と私がある程度長い期間の付き合いを重ねたカップルで、何かのボタンの掛け違いで別れ話が持ち上がっている状態だ、ぐらいに思ってくれたのだろう。直前にトイレで目尻を濡らしてきたのも少しは効果があったのかもしれない。いつの世も哀れな女性に男はほだされるものだ。
上杉は「手をはなせ」と口を覆っている私の手を強引に引き剥がした。
「一体何なんだ、お前は。しつこい奴だな。嘘ばかりつきやがって、本当は長尾じゃなくて武田なんじゃないのか?武田信玄の武田だ!」
タクシーは駅前から離れ快調に道路を南下している。上杉も表情に諦めの色を滲ませ、私のためなのか自分のためなのか、私と距離をおいて窓ガラスに凭れるように座った。
ここまで来れば私もこれ以上屈辱的な演技を続ける必要はない。
「長尾は嘘じゃないわよ。さっきから上杉謙信だの武田信玄だの、どうしてあんたは戦国武将の名前ばっかり持ち出すのよ」
急にくだけた態度を示す私の変わり身ぶりに、事態が飲み込めない様子の運転手がチラチラとミラー越しに後部座席の様子を窺ってくる。それでも上杉が止める指示を出さないので、運転手は一度だけ怪訝そうに首を捻ったが、複雑な関係に首を突っ込まないようにしようと考えたのか、腰の位置を落ちつけハンドルを握り直した。
「それはな。俺が上杉謙信公の生まれ変わりだからだ」
上杉は腕を組み窓の外を見ながら答えた。
「は?あんたそれマジ?」
そんなようなことを口走るのではないかとは思っていたが、実際に目の前でそう言われると問い返さざるを得ない。
「当たり前だ」
そうは言い切ったものの上杉の耳は少し朱に染まった。上杉自身が非科学的なことを口にしているという気持ちを拭い去る境地にまでまだ達していないのではないか。
「それって何か根拠あるわけ?」
私としては上杉の発想に興味があるわけではないが、上杉の口から「降りろ」の一言を出させないように質問を繰り返す。
「枕元に立たれた。そして『毘沙門天を信奉せよ』とおっしゃられた」
「誰が?」
「謙信公が」
「それってあんたの夢の話でしょ?」
「謙信公も夢の中で毘沙門天と言葉を交わされたことがある、と伝えられている」
「危ないわ、こりゃ」
私は目を閉じて首を横に振った。
「何も危なくない。いたって健全だ」
声が尻すぼみになるあたりが上杉の自信のなさを表している。
「ま、いいわ。それより、O町に行くんでしょ?」
「それがどうした」
「私、Y町に用があるの。途中だから乗せてってね」
「断る」
「どうしてよ。知らない仲でもないのに」
私はおどけた調子で言った。乗ってしまえばこっちのものだ。上杉はギロリと黒目だけをこちらに向けて睨みつけてきたが、全く怖くない。
努めて冷静さを保とうとしているのか、一息吐いた後、落ち着いた低い声で上杉は答えた。
「お前は敵だ」
敵だと言っても、組んだ腕を解くことなく窓の外を見つめ続けているのは同乗を許可したのと同義だ。
「上杉謙信って敵に塩を送るのよね」
私が得意げに人差し指を立てて言うと、上杉は小さく舌打ちをして、一切の会話を拒絶するかのように瞑目し身動きしなくなった。
こうなると私も自分から会話を投げかけることはしない。狭い空間に三人が作り出す沈黙が息苦しい感じもするが、上杉や運転手と会話がしたくて相乗りしているわけではない。空腹であり、疲労も重なって一たび口を閉じると、もう喋るのが億劫だ。このまま座っていれば目的地付近に着くのだからこんなに楽なことはない。しかもタダだ。
「Y町のどこに行くんだ?」
沈黙を破ったのは意外にも上杉だった。相変わらず目は瞑ったまま、小さな声で。
私としてはタダ乗りしている以上、この程度の質問には答えなくてはならない。
「駅のそばよ」
「仕事か?」
上杉は目を開くと、ダルマのような大きな目でじろっとこちらを見た。
「みたいなものよ」
「仕事じゃないってことは、お前、ひょっとしてまだ学生なのか?」
「若く見てくれるのは嬉しいけど、学生じゃないわ」
上杉は興味なさそうに、「じゃあ、フリーターか」と言った。
小説家を目指している、と言ったら説明が面倒なので、私は「まあね」と曖昧に頷いておいた。
「それは大事な用件か?」
私は大きく頷いた。
「そりゃあもう私の生き死にに関わることよ」
決して大げさなことを言っているわけではない。多聞に金を借りなければ自分の部屋で水が一滴も出てこないのだから。人間、水がなければ生きていけない。
「そうか」
上杉は組んでいる腕の間に深く顎を沈めた。その少し残念がっているような寂しそうな声の響きと表情の翳りが私は少々気にかかった。
「何よ」
「いや、何でもない。気にしないでくれ」
顔を起こすことなく小さく首を横に振る上杉。「気にしないでくれ」が「もう少し気にかけてくれ」と言っているような、言葉の裏を取りたい気にさせる。
「何よ。気になるじゃない」
私は苛立ちを隠さなかった。隠す気になれなかった。ただでさえ五十万円を取り損ねたこととひもじさとで気が立っているのだ。頂上の旗を倒さないように砂山を削り合うようなまどろっこしいやり取りは御免こうむりたい。
「実はな……」
私の剣幕にたじろいだように顔を起こして腕組みを解いた上杉だったが、もじもじと頬を掻いたり鼻の下を擦ったりする。「やっぱり、何でもない」
私の怒りは途端に振り切れて、気付いた時には手にしているバッグで上杉の坊主頭を殴っていた。
「何すんだ!」
「あんたこそ、その煮え切らない態度は何なのよ!上杉の名が廃るわよ」
クッと言葉を詰まらせ歯がみする上杉は、抱えていたスポーツバッグを優しく撫でた。
「実は、これなんだが」
「毘沙門天がどうかしたの?」
「いや、もう一つの方だ」
「衣装のこと?」
こっくりと頷く上杉が妙に幼く見えた。小さい子供が親戚の大人におねだりをするような、照れくささと欲求のせめぎ合いのなか、やっぱり欲求が勝ってしまったときの仕種に近いものが上杉から伝わってきた。
「今日、これを着て大会に出てくれるはずだった相棒が今朝になって断ってきたんだ」
「じゃあ誰が着るの?」
「決まっていない」
そう言って上杉は力なく項垂れた。上杉の先ほどまでの喧嘩腰の態度がこんな弱々しいシルエットに成り果てている状況に彼の落胆ぶりが理解できる。
「決まってないのに会場に行くの?」
「行かないわけにはいかないんだ。こう見えても俺の衣装は完成度に定評があるし、運営側の人間や参加メンバーとも親しい。年に一度の大会で直前に辞退なんかしたら、みんなに心配されるし、何と言っても義理が立たない」
「じゃあ、取りあえず顔だけ出すってこと?」
「いや」
上杉は苦しそうに顔を歪めた。「始まるまでに何とかしなくちゃならない」
困惑している上杉を見るのは正直溜飲が下がる思いだった。居丈高に怒鳴られたときの悔しさによるじりじりとした熱が少しは冷却されて胸がすっとする。
「それこそ毘沙門天が何とかしてくれるんじゃないの?」
突き放すように言ってやった。今こそ真言とやらを唱えるときではないのか。常日頃拝んでいるのはこういう時のためなのだろう。
「必死に祈ったらお前が現れた」
「私?」
そりゃ、確かに現れたかもしれないけど、だから何?
「巫女のバイトもやっていたんだろ?」
これでピンときた。
要は私に大会に出てくれということなのだ。あの衣装を着てO町を練り歩きパフォーマンスをして盛り上げてほしい、と言いたいのだろう。
私は考えた。大会に出るかどうかではない。大会に出ることで何が得られるかについてだ。私はコスプレ大会なるものがどういうものか全く知らないが、それで臆病風に吹かれるなどということはない。
「大会ってことは勝ち負けがあるの?」
「審査員と一般客の評価によって順位がつけられる」
「一位になったらどうなるの?」
私には自信があった。己のスタイルと美貌をもってすれば上位進出は難しい話ではない。大学のミスコンでもかなり良い線までいった経歴を持っている。
「優勝者の名誉を得る」
「名誉?」
私は思わず鼻を鳴らした。名誉ではいくら蛇口を捻っても水は出ない「そんなものより目に見えるものはないの?」
「金か?」
上杉の下賤なものを見る目にさらされるが、そんなものは痛くも痒くもない。
「賞品でもいいわ」
「優勝すれば賞金十万円だ。たしか副賞で温泉旅行もついてくる」
十万円。痴漢の示談金には劣るが、こちらは警察沙汰になるリスクはない。賞金をもらって水道代を払い、ついでに副賞の温泉旅行で執筆の疲れを癒す。完璧だ。こうなってくると今日という日の出来事の全てはコスプレ大会で優勝するための布石だったように思えてならない。
「私で勝てるの?」
すでに半分勝ったような気になっているが、一応は客観的な評価も聞いておこう。
「実は元の相棒よりも可能性は高いと思っている。お前の容姿は俺のイメージどおりだ。衣装のサイズもぴったりだろう」
そこまで買っているということは、電車で背後にいたのも私を付け狙っていたということの裏返しなのではないか。手を振りほどいて逃げなかったのは大会に誘う下心があったからなのかもしれない。女に触るのは汚らわしい、などと言っておきながら、女性をパートナーにコスプレ大会に出ようとしている胡散臭い奴め。やはり、痴漢以前にストーカー野郎だったか。
そうは思ったが私は表情は変えなかった。賞金と副賞をゲットするには上杉の衣装が欠かせない。大会が終わるまでは一時休戦だ。
「運転手さん、このままO町まで行ってちょうだい」
多聞に会えないのは寂しい気もするが、金をせびるためというのはどうしても気が進まない。
運転手がミラー越しにチラッと視線を寄越す。その目は二人のやり取りに少し呆れているようにも見える。考えてみれば私に言われなくても、タクシーは元々O町を目指して走っている。
「いいのか?」
相好が崩れそうになるのを必死にこらえているような弾んだ上杉の声が喜びを分かりやすく表している。
「賞金とは別にバイト代ももらうわよ」
これが大事だ。万が一、何かの事故で優勝を逃したとしても、水道代を支払えるだけの金額は手にしなくてはならない。
「承知した」
上杉は眼光鋭く私を見つめ、さらにやる気に火をつけるようなことを言った。「昼飯もつけてやる」
こいつ、意外に話が分かるじゃないか。




