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十二

 呆けた顔で北条を見つめていた駅員直江が重大なことに気がついたようで声を上げる。

「じゃあ」

 駅員直江はちらっと私を見た。「北条さんも、この方のお尻は」

「触ってません」

 北条の今日一番力強い断言に駅員直江は静かに頷いた。

 男性に好意を抱くと告白した北条の言葉は重かった。室内の空気は私が言う痴漢被害が実際にあったかどうかは不明だが、少なくとも上杉と北条は無実である、という私にとって最悪の雰囲気に染まりつつあった。

「直江さんよ」

 上杉はゆっくり椅子に腰を下ろして駅員直江に目線の高さを合わせた。ほんの少しだが北条から椅子を離してから座ったのは、北条に不気味さを感じて距離をとったということだろう。「あんたも駅員なら知っているだろうが、電車内での痴漢で訴えられた人間は九割がた有罪にされちまう。けどな、俺はやってないし、この北条(ほうじょう)もやってない。おたくらがどう出るかはおたくらの勝手だが、出方次第ではこっちも残り一割に賭けて、それなりのことはさせてもらうぞ」

 北条が口の中でぼそぼそと「ホウジョウじゃなくてキタジョウです」と一応の訂正をする。

 まさかゲイを掴まえていたとは思いもよらなかった。我ながら面白過ぎて嫌になる。北条のことは絶対に小説にしてやろう。

 何かで読んだことがあるが、ゲイの中には上杉のような少しぽっちゃりした体型で、ぬぼーっとした印象の、女の私から見れば全く色気を感じない男性を好む人が大勢いるらしい。

 北条の離婚も彼が男色だということが大きな要因なのではないか。北条の妻の気持ちは私には推し量りようもないが、北条と接してきた今日のこのわずかな時間のやり取りでさえも、北条の性向を知って以来得体の知れない宇宙人との交信のような、掴みどころのない不思議な感覚になってしまった。

 誰とも目を合わせたくなくて、私は小さくため息を漏らしながら意味もなく狭い室内の壁に視線を泳がせる。そこに浮かんでいるくすみや汚れ染みの一つひとつが私をうるさく責め立てるようで居心地がすこぶる悪い。

 大逆転で勝負あったということは私も理解できていた。ここは一層冷静にならなくてはならない。これ以上粘っても時間を浪費するだけのような気がする。多聞からお金を借りることができなければ、もう一晩水なしの生活を続けるという最悪の結果を招くことになる。

 私は頭の中で脱出作戦を練り始めた。この場はこちら側の言い分を通したまま物別れの格好で収めてしまいたい。まかり間違っても、こちらの非を認めるわけにはいかない。そういう意味では間に入っている駅員直江の心理がどのようであるかが問題になってくる。事なかれ主義なら良いのだが、下手に正義感が強いと三人が手を組んで私一人を追い詰めるという一方的な形勢に陥りかねない。

「えっと、何て言うんですかね。こうなってくると、このお二人のうちのどちらかが犯人だっていう推論は分が悪いように感じますけど、どう思われます?」

 駅員直江の言葉遣いから、彼が一応まだ私を痴漢の被害者として丁重に扱ってくれていることが分かる。「っていうか、お名前何でしたっけ?」

 駅員直江の心証を悪くはしたくない。私は神妙な表情を作って彼と向かい合った。

「長尾です」

「長尾?」

 上杉は人の名前に一々食いついてくる。今度は何だと身構えると、上杉はどちらかと言えば嬉しそうに目を見開き意外な言葉を口にした。「まことか?」

「えっ!」

 なんだこいつは、と私はぞっとした。血の気が引いて肌が粟立った。はたしてこれが毘沙門天の神威なのか。それともやっぱりストーカーで、今日も電車内で背後にいたのは偶然ではなかったのか。どちらにしてもあまりに気味が悪い。

「どうかしました?」

 駅員直江が怪訝そうにこちらを見る。

「わ、私の名前を知ってる」

 私は声を震わせて上杉を指差した。

「名前は今ご自分でおっしゃったじゃないですか」

「し、下の名前」

「何を言ってる」

 上杉は私を馬鹿にするように鼻から息を漏らす。「今日初めて会ったのに、俺がお前の名前を知ってるわけがないだろ」

「でも今、真琴かって言ったじゃない」

 まことかって。

 私は口に出してから漸く自分の勘違いに気付いて、顔を赤らめると同時にぐったり脱力した。

「それは、本当か、という意味だ」

「紛らわしい」

 私は、不要な心の動揺を返せ、と内心上杉を罵った。「時代劇じゃあるまいし、変な言葉遣いしないでよね」

「何だと!」

 上杉は青筋を立てて息まいたが、すぐに機嫌を直した。「まあいい。とにかくお前の名前は長尾まことなんだな?」

「そうよ。真実の真に楽器の琴で真琴」

 私が投げやりに説明すると、突然上杉が「そうか」と膝を叩いて立ち上がった。

「あい分かった。今日はお前の姓に免じて、これ以上事を大きくするのはやめてやろう」

 上杉の宣言が負けず嫌いの私には癪だった。言っていることが意味不明だし、恩を着せるような言い方が癇に障る。

「私の名字が何の関係があるって言うのよ」

 私の抵抗に力がないと見切っているのか、上杉はまさに上からの目線で座っている私を見下ろした。微笑を浮かべてさえいる。

「上杉謙信公は上杉を名乗られる前の姓が長尾だった。俺が上杉でお前が長尾。これも何かの縁だろう」

「名字だけで私とあんたに縁があるなんて決めつけないでよね。頭おかしいんじゃないの?」

 私は頭に血が上った勢いのまま駅員直江に向かって、心のどこかでは言わない方が良いと思っていることを口走ってしまった。「とにかく警察呼んでよ」

 今さらこの状況で警察を呼んでも事態の劇的な好転は望めそうになかった。適当にあしらわれて終わりならまだ良くて、最悪の場合は逆に虚偽や名誉棄損でこちらが処罰される側に回ることもあり得る。

 分かっているのに、本当のところは呼んでほしくないのに言ってしまった。私の意地っ張りな面が大きく出たところだった。

 しかし、上杉が「事を大きくするのはやめてやろう」と言ったところに、「じゃあそれで」とすぐに飛び込んでは、今回の痴漢騒動が私が画策した一攫千金計画だと白状するようなものだ。

 ここは私が最後の巻き返しをして、間に立つ駅員直江に最後の「まあまあ」を出してもらい、何とか両者痛み分けに誘導してもらいたかった。

「長尾。立ってみろ」

 上杉が目を怒らせつつも低く抑えて発した声が私には不気味だった。

「何よ」

「いいから立て」

 上杉の全身から、逆らうことは許さないという圧迫感が漂っていて、私は渋々立ち上がった。すると上杉が歩み寄ってきて私の左隣に並び立った。

「俺がお前の右後ろに立っていたからといっても、普通にしていたら俺の左手はお前の太腿まで届かない。せいぜい尻の山が関の山だ。当然分かると思うが俺より背の高い北条はなおさらだ。そしてあの混雑した電車の中でお前の尻を触るために身を屈めたら、周囲の注目を集めてしまう」

 そう言って上杉は私の太腿の高さにまで左手を下ろした。その顔は私の肩のあたりにまで下がってしまっている。右肩にスポーツバッグを抱えたままお尻を後ろに突き出している格好は明らかに不自然だった。「しかし、お前以外の誰も俺を痴漢の犯人だと指摘した人間はいない」

「いやぁ、説得力あるなぁ」

 駅員直江は今にも拍手をしそうなぐらいに上杉の説に感心しきりだ。

「あんたどっちの味方よ。被害者は私よ」

 私は憮然と言った。あんたが痛み分けにしてくれなければ、こっちはもう挽回不能なんだからね。

「僕は最初からどちらの味方でもありませんよ。強いて言えばこの鉄道会社のファンです」

 駅員直江はこの場にふさわしからぬ満面の笑みで帽子のつばに手をやって被り直してから、上杉と私に敬礼して見せた。

「馬鹿じゃない」

 事態は極まった。こういう場合どういう対応をするべきなのか知っていた私はいきなり駅員直江を思い切り突き飛ばした。

 不意を突かれた格好の駅員直江はパイプ椅子に膝の裏をぶつけ、そのままパイプ椅子の上に尻もちをつき、それでも勢いは止まらず床に転げ落ちそうになる。

 上杉が反射的に駅員直江を支えるために手を伸ばす。

 北条は人畜無害の怯えた鼠だ。

 私はバッグを掴むと北条の脇をすり抜けて扉の外に脱出した。

 完全な敗北だった。しかし、自棄になってはいけない。耐えるときに耐えていればいつか必ず時期が来て捲土重来を果たすことができる。私は内側から開かないように詰所のドアに体重を預けて凭れつつ頭の中で素早く逃走経路を練った。

 安全を期すなら駅の外に出るのが最善策だ。しかし、今の私にとって安くない料金を支払って電車に乗ってきたのに、このまま目的地のはるか手前で改札を出るのは自殺行為だ。今日のこれだけはクリアしておかなければならないというミッションは、ため込んでいる水道代分のお金を手にしてそれを払いこむことだ。その一番の近道は二時までに多聞に会って一万円を拝借すること。二時まではあと一時間と少し。任務を完了するためにはここで改札を出るという選択肢はない。

 だとすれば次の電車が来るまでどこかで身を潜めていなければならない。まず思いつくのは女性トイレ。さすがにそこまではあの上杉や駅員直江も追ってはこないだろう。問題はトイレの外で待たれた場合だ。電車が来てもトイレから出られないということでは袋の鼠だ。とすればやはりホームのどこかに隠れていて、電車が来たときに発車間際に駆け込むというのが最も現実的か。

 そうと決まればこんなところに長居は無用だ。私は意を決して走り出した。階段を一気に駆け上りホームを目指す。

 すると駅の構内にアナウンスが流れた。

「先ほどK駅にて人身事故が発生いたしました。その影響で現在上下線とも一旦運転を見合わせております。お急ぎのところ……」

 私は足の力が抜けて階段から転げ落ちそうになるのを、手すりにつかまって懸命にこらえた。


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