十一
「じゃあな」
スポーツバッグを手にして上杉は立ち上がり、何食わぬ顔で部屋を出ていこうとする。
「ちょ、ちょっと待ってください」
駅員直江が縋るようにして上杉を引きとめる。
「何だ?」
「上杉さんを帰すわけにはいきません」
「まだ俺を犯人だと思ってるのか?」
逆に今のやり取りで何をどう考えたら自分にかかった嫌疑が晴れたと思えるのか。私の不正を糾弾するという意気込みだったのが、荷物を検められて上杉は途端に尻が落ち着かなくなったようだ。
「まだっていうか逆にどんどん怪しさが増してます」
コスプレの趣味を即座に痴漢につなげるのは発想が飛躍しすぎかもしれないが、巫女装束の発見がこの空間内で上杉の立場を明確に悪くした。
私はわざと汚らわしいものを見るように上杉に向けた眼を細めた。駅員直江も同じような表情だ。気弱そうな北条ですら、チラチラと上杉の横顔を窺っている。
「何を言う。俺は今日水垢離をして身体を清めてきたんだ。不浄な女人に触れるはずがない」
今さら息んで何を言っても空しく聞こえるだけだ。
「おっしゃっている意味がよく分かりませんけど」
おそらく駅員直江は水垢離がどういう行為なのか、何のためにするのか本当に知らないのだろう。
「お前ら、コスプレをいやらしいもののように見ているようだが、それは明らかに知識のない者の偏見だぞ。日本のアニメは世界に強いインパクトを与えている貴重な文化だ。今日のコスプレ大会は、そのアニメ文化を国内外に発信する現代的な祭りと言えるんだぞ。馬鹿にするなよ」
「別に馬鹿になんかしてませんよ。ただ、上杉さんが巫女さんの格好をした女性に興味があるのは間違いありませんよね」
駅員直江は微妙な言い回しをする。イエスであれば痴漢と関連して考えられそうだし、コスチュームを持っている以上ノーとも言えないだろう。
「とにかく俺は痴漢などやってない」
上杉は悔しげに歯がみした。自分の言葉に説得力が伴っていないことを上杉も承知しているのだろう。
「上杉さんはその大きなバッグを電車内でどういう風に持っていましたか?」
「今と同じだ」
バッグの持ち手に腕を通して右の肩に掛け、さらに右手で抱えるようにしている。
「じゃあ、左手は自由なわけですよね」
「あのとき大抵の人間は左手に自由があった」
「しかし、今問題なのはこの女性の右後ろに立っていたあなたの左手の状態です」
「あくまで俺を犯人扱いするというのか」
「情況証拠的にはその可能性を検証する必要があるということです」
上杉と駅員直江は顔を近づけて睨みあった。
「俺に歯向かうということは毘沙門天を敵に回すということだぞ」
上杉はまるで自分を毘沙門天の化身と恐れられた戦国武将上杉謙信の生まれ変わりだと思いこんでいるかのようだ。あるいは上杉謙信の末裔を自称しているのかもしれない。毘沙門天を笠に着て本気で凄んで見せる上杉を見ていると、私はプッと吹き出しそうになる。現代に生きる我々には脅しになっていないのが分からないのか。
「あいにく私は無神論者です」
駅員直江もやはり平気なものだ。
「いい度胸だ。正々堂々勝負して白黒つけようじゃないか」
「望むところです」
勝負とは何だろうか。コスプレ発言で事態は上杉不利に傾いているが、私は少し焦っていた。この二人はどういう形で決着をつけようとしているのか。何でも良いからさっさと警察を呼んでもらって事務的に話を進めていきたい。そうでないとそろそろ多聞が指定する二時に対して余裕がなくなってくる。
駅員直江が呼べないのなら自分で呼ぼうと思い至り、バッグの中から携帯電話を取りだすと、視界の隅でいきなり北条が立ちあがるのが見えた。突然何事かと見上げると、北条は青ざめた表情で駅員直江を見つめている。調停の時間が迫っているのだろうか。
「こ、この人は違います!」
北条が口にしたのは意外にも上杉の身の潔白についてだった。
「え?」
駅員直江は虚を突かれた表情で北条の顔を見上げた。
「だから、違うんです」
「何が違うんです?」
「痴漢じゃない」
北条の口ぶりはどこか必死ささえ感じさせるほど熱かった。
「北条さんがおっしゃりたいのは、上杉さんが痴漢の犯人じゃないということですね。どうしてそう言えるんですか?」
駅員直江に問い返されて、北条は顔を強張らせた。
さっきと同じだ、と私は思った。離婚の調停に行くところだった、と告白したときと同じように、血の気の引いた表情をしているが目に何かを決意した力強さがあるように感じた。北条は何か重要なことを言おうとしている。
「ずっと見てました」
「上杉さんのことを、ですか?」
駅員直江は北条の真意がどこにあるのか探るような口調で問い返した。「しかも、ずっと?」
こくりと頷く北条。
「じっとです」
「じっと?」
「ずっと、じっと」と言う北条の瞳が妙に潤んでいる。
「ずっと、……じっと?」
駅員直江は困惑した様子で北条の言葉を鸚鵡返しに繰り返した。
北条は一瞬上杉の顔を見やり、まるで中学生が初恋を告白するときのようにはにかんで頬を赤らめ、もう一度頷いた。
思わず私は駅員直江と見つめ合い頷き合った。
上杉は口を大きく開けたまま石化したかのように硬直している。
北条を取り巻く三人は恐らく共通の理解を得ただろう。つまり北条は上杉を異性に対するとして好意の眼差しで追っていたということなのだ。一目惚れとまではいかなくても少しでも近づきたい心境で電車の中で彼の隣に立っていたのか。