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 離婚の調停に向かう、ということは、北条は現在は結婚しているということになる。

 しかし、北条からは所帯を持っている男の生活感や生活臭は漂ってこなかった。それは職業が画家だと既に私が聞いてしまっているからだろうか。画家という人種は世事に疎く、絵筆を動かしていられればそれだけで幸せ、という凡人の感覚を超越した毎日を送っていそうなイメージである。そんな北条が妻帯していた。

 北条の妻という人はどういう女性なのだろうか。離婚はどちらが言い出したのだろうか。家庭内でも北条はこんな風にオドオドしているのだろうか。そもそも北条の妻はこの男のどこに魅かれて結婚したのだろうか。

 離婚調停という四文字をきっかけに、私の中で北条に対する興味がどんどんわいてくる。面白い人物に出会うことができた。万が一、今日の痴漢騒動が一銭にもならなかったとしても、北条という人間を知りえただけで十分に収穫があったと言えそうだ。小説のネタとしての価値はかなり高い。

 私の内側では北条へのわくわく感が騒々しい程に高まっているが、外側では気まずく重い空気が場を占めていた。

 駅員直江も上杉も北条の姿をまともに見ることさえ遠慮しているようだ。

 北条本人も肩を落として、何かをこらえるように押し黙っている。きっとこれまでの家庭内のいざこざを思い出して憤りを募らせたり、今日の調停でのやりとりを想像して緊張したりしているのだろう。

 待てよ……。

 離婚の原因は分からないが、調停に行くような人間がその道すがらで女の尻を触るとは考えづらい。もしばれたら調停委員の心証は最悪だ。だとすると、誰だって北条は白だと考えるだろう。ここは大人のおもちゃ販売の上杉に犯人役を担ってもらうことにするしかないか。

「時間は大丈夫ですか?」

 駅員直江は心苦しそうに壁にかかった丸い時計に目をやった。

 間もなく正午だ。北条も時計を確認したが曖昧に頷くだけだった。

 私は突然空腹を感じた。水道を停められたショックと、示談金を掠め取るために半分以上でっち上げで痴漢を訴え出た緊張とで紛れていたのだが、正午という時刻を確認した途端に反射的に胃袋に意識が向いてしまったようだ。

 公園で水だけは飲んだが朝から何も食べていない。昨日は一日中寝ていたから一昨日から食事をしていないことになる。一昨日だって締め切りに追われて机に向かいながらカロリーメイトを齧っただけだ。

 とにかくお腹が空いた。先ほどから脳が物事を深く考えてくれないのは栄養が不足しているからなのか。とにかくもう少し頑張ろう。五十万円あればファミレスでたらふく食べて、水道代を完済して、琴美に借金を返して、家賃を払ってもまだお釣りがくる。まるで夢のようではないか。

「上杉さんはこの時間にどちらへ行かれる予定だったのですか?」

 案の定、駅員直江は北条から上杉に重心を置き直したようだ。

「あっちの方だ」

 どこかは分からないが顎を振って答える。

「どっちですか?」

「あっちはあっちだ。お前には関係ない」

「口にしづらいようなところへ行くんですね?」

 大人のおもちゃの件といい、駅員直江は上杉に対していやらしい表現を遣う。

「お前なぁ……」

「それとも」

 顔を引きつらせた上杉が反駁しようとしたところを遮るように駅員直江が声を張り上げる。「どこへ行く予定もないのに、何かを目当てに満員電車に乗ったのですか?」

 心の中でスポットライトを感じているのだろうか。駅員直江はまるで自分に酔っているかのようにビシッと上杉に向かって指を差し表情を決めた。

 しかし、その姿は少々不遜に見えた。

 一駅員でしかない直江が、痴漢の嫌疑は着せられているものの運賃を支払って電車を利用した乗客に向かって示す態度ではないだろう。そうは思ったが私が起こした騒ぎで犯人究明に懸命になっている彼を非難するわけにもいかず、事の成り行きを見守った。

「誰が好き好んで何の用もなくこんな大きな鞄を抱えて満員電車なんかに乗るかっ!女体に触れるのが目当てだったら、もっと目立たない格好にするわ」

 傲然と、「大うつけめ」と吐き捨てる。上杉の大時代な言い回しに違和感を覚えるが、言っていることは至極もっともだった。

 しかし、駅員直江も怯まない。

「では、どちらへ?そもそもその大きなバッグには何が入ってるんですか?」

 すかさず問い返したところを見ると、駅員直江は計算ずくで上杉を怒らせたのかもしれない。

「お前には関係ない」

 上杉は顔を真っ赤に染めてスポーツバッグを大事そうに抱え直した。

「ほう。見られると困るものでも?」

「困りはしないが、他人に鞄の中を漁られるのは不愉快だ」

「私たち、もう他人じゃないじゃないですか」

 舞台役者のように手を広げ、顔を横に振って落胆ぶりを表現する駅員直江。

 私は彼のそういった大げさな仕種が少しずつ腹立たしく思えてきた。

「他人だ。明確に」

 上杉は駅員直江との間に深い溝を見るような冷たい視線を送った。

「私が中を漁る必要はありません。上杉さんが開いて中のものを出してくださればけっこうです」

「中のものを見られるのが嫌なんだ」

「困りはしないって、おっしゃったじゃないですか」

「では撤回する。中を見られると困る」

「困る?怪しいですね。余計に拝見したくなりました」

 舌なめずりして駅員直江がスポーツバッグに手を伸ばす。

「詐欺師か、お前は」

 立ち上がって駅員直江の手からスポーツバッグを遠ざける上杉。何が入っているのか分からないが、その必死な姿が少し可愛く見える。

「困りはしないと最初におっしゃられたのは上杉さんです。武士に二言はありませんよ」

 平成の時代に武士などいない。しかし、この一言が上杉の胸に見事に突き刺さったようだった。

「当たり前だ。毘沙門天に誓って二言などない」

 苦渋に満ちた表情で今日一番の大きな声を出して上杉がテーブルの上にバッグを置く。その拍子にゴツッと木製の箱のようなものがテーブルに当たった音がした。


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