序一(一人目の男)
二百七十八。二百七十九。二百八十。
噴き出した汗が膜を張るように裸の上半身を覆い、開け放った窓から差し込む朝日を眩しく照り返している。隆起した筋肉が弛緩と収縮を繰り返し躍動する様が、赤銅色を帯びた皮膚の動きによって如実に掴むことができる。
二百八十五。二百八十六。二百八十七。
いよいよ決戦の日だ。
俺は雑念を振り払い、木刀を一心不乱に振り続ける。五月の陽光に鈍く輝く黒檀。重く太いこの木刀を高々と頭上に掲げ、正中線を外さず一気に振り下ろす。決して力むことなく、しかし眼前に下ろしたときには瞬間的に柄を絞り上げるように力を込める。そのとき己の精神も同時にきりりと引き締めるのだ。
二百九十九。三百。
俺は鼻から深く息を吸い込み、ゆっくり吐きだすと、木刀を床の間に置き、浴室に向かう。
全裸になり蛇口の前に蹲踞する。桶に冷たい水を汲み、躊躇することなく頭から被る。カッカと火照った肌が一気に冷却されていく。汲んでは被り、被っては汲む。
「オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ」
清冽な水が頭の芯を冷たく引き締める。己の身体が清められ、水が流れていくのと共に邪気が払われていくのを感じる。
タオルでサッと身体を拭き服に身を通すと、床の間を前に静かに禅を組む。
時間はまだたっぷりある。ゆっくりと丹田に気を集中させ、はやり立つ心を抑えなければならない。
天の時、地の利、人の和。そして己の冷静な判断力。これらが全てそろった戦いでは負けることはありえない。しかし、逆に一つでも失うと思いもよらぬことで勝利が掌中から零れ落ちることがある。
鼻から吸った空気を時間を掛けて口から吐き出す。
俺は己の性格を知っている。もうすぐ三十歳になろうというのに、まだ俺は頭に血が上りやすい。興奮してはならない。常に冷静でいなくてはならない。オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラマンダヤソワカ、オンベイシラ……。
部屋の隅に置いてあったバッグの中で携帯電話が着信しているのに気付き禅を解く。集中を妨げられたことに微かに苛立ちを覚えるが、こんなことぐらいで心を乱してはならない。
電話は今日の相棒となる女性からだった。今日の戦いの出来不出来は彼女の働き如何による。何かあったのだろうか。嫌な予感に思わず電話を耳に当てるのを躊躇してしまう。
「どうした?」
「おはようございます、社長。もう起きていらっしゃいました?」
時計は十時を指している。いくら休みの日だからといっても、こんなに遅い時刻まで寝ているはずがない。
「ああ。もちろんだ。気分が昂揚してか、今日は夜明け前に目が覚めてしまった」
「そうですか。あのぉ……」
途端に消え入りそうな声になる。彼女はもともと溌剌とした性格ではないが、こんなに憂いに満ちた声は聞いたことがない。
「何だ?何かあったか?」
腹でも下したか。
「そのぉ……。今日ってどうしても出なきゃまずいですか?」
「そりゃ、まずい」
俺は今日の相棒を鼓舞するように腹の底から声を出す。「一年に一度の大勝負だからな」
しかし、俺の意に反して、電話の向こうは押し黙ってしまった。
どうしたというのだろう。先日は「私で良ければ」と加勢を申し出てくれたのに。あのときは彼女の言葉が嬉しくて、俺としたことが思わず戒律を忘れて彼女を抱きしめてしまったほどだった。あのときのことを思い出すと俺の鍛錬もまだまだ甘いと自己嫌悪に陥る。
「やっぱり、やめたいんですけど」
「何?」
俺は慌てた。情けないとは知りつつ縋るような思いで電話口に迫った。「今さらそれは困る。大会は今日の二時からなんだ」
「ですから早めの方がいいと思って、朝一番に掛けたんです。私、昨晩一睡もできなくて」
心の中で舌打ちする。この時間が朝一番なのかどうかは定かではないが、こんな大事な用件なら深夜でも連絡が欲しかった。
「一体どうしたんだ。あんなに乗り気だったじゃないか」
「乗り気なんかじゃありません。社長にすごい勢いで押し切られたっていうか……」
「しかし、了解をくれたじゃないか」
「そうなんですけど、やっぱり嫌なんです」
これだから女は嫌なんだ。簡単に嘘をつく。約束を反故にする。他人のせいにする。
「どうしても、か?」
「はい」
もう冷静ではいられない。腹の中で憤怒の炎が轟々と音を立てて燃えたぎっている。
「大会当日に相棒を失って、俺はどうしたらいい?」
怒りと困惑で頭がおかしくなりそうだ。まるで信玄の調略に嵌められたような気分だ。俺の勝ちを怖れた誰かが彼女に手をまわしたのか。誰だ?誰がそんな卑劣な真似を。
「まだ時間はあるので他の方をあたっていただけたらと思って」
これ以上は時間の無駄だと悟って電話を切った。
彼女が言うように新しい相棒を探さなくては。不戦敗だけは避けなくてはならない。戦う前から負けてしまっては名が廃る。武士としての矜持が保てない。
俺は戦いの用意が入ったスポーツバッグを掴み家を駆け出た。
愛車に乗り込みキーを回す。
しかし、いつもの音と振動が返ってこない。どうしたことだ。エンジンが掛からない。インパネが何一つ点灯していない。バッテリーがお陀仏になっているのか。
事態は最悪の様相を呈していた。不戦敗の文字が現実のものとして眼前に迫ってくるようだった。
俺はハンドルを叩きつけると車から飛び出した。
ディーラーに連絡して代車を回してもらっても良いが、急に頼んで簡単に都合をつけてくれるかどうかは分からない。運良く代車が間に合っても、慣れない車で焦って事故を起こしては何にもならない。こういう時は急がば回れだ。最も確実な移動手段。それは公共交通機関だろう。電車の中であれば善後策を考えることに集中することもできる。
バッグを片手に俺は駅に向かって駆け出した。
まだ無邪気な朝日が街中に照り跳ねていた。