第九十六話:始まりの日の終わりに
『ちょっとだけ目を瞑っていて下さい――』
そんな言葉が背後の女性が震えているを理解した時、笑みとともに自然と口から滑り出し、迷いや葛藤などという自己正当化の言い訳などすぐに霧散した。
頭のなかでスイッチを切り替えると、ドクン、と鼓動の音が一際大きく、そして、荒々しいものに変わる。化外の心臓が悍ましい血と力を僕の全身に送り出す。
肺の奥から漏れ出る呼気は興奮を帯びて熱く、血に飢えた牙が醜く尖る。瞬き一つで夜が明け、耳を澄ませば自分以外の命の音色が心地よく耳孔に響く。全身の肌が大気の流れを水のごとく捉え、チロリと舌を出せば緊張した汗の塩気が口の中に広がり、辺りを嗅げば微妙に違う体臭があちらこちらから漂うのが理解る。
クソ、いつもこれぐらいだったら、こんな状況に追い詰められずに済んだ、ティアナ嬢をこうも怯えさせることはなかった。
家を出た時から妙な気配は感じていた、嫌な胸騒ぎを覚えていた。いま思えば――それはこの厄介な異能が、今もこちらの退路を断ちながらジリジリと迫る男たちのことを知らせていたのだろう。
ライエンハイト家に向かう坂とは逆の坂を降りきった直後、僕の頬を何かが掠めた。薄っすらと頬から血が流れたことで、やっと僕はそれが矢だと理解して全身から冷や汗が噴き出し、ティアナ嬢の手を取り駆け出した。
なにを考える余裕もなく一心不乱に足を動かし、すぐの曲がり角を曲がる瞬間後ろを見れば、十メートルほど先に夜闇に溶け込む黒装束に身を包んだ数人の男がこちらを追ってきていた。
無意識に足に込める力も強くなり大きな足音が二つだけ夜の町に響く。男たちの足音は一切聞こえなかった――魔術に寄る遮音だろう――などとその時の僕に考える余裕はなかった。
途中で前からも男の仲間たちが現れ、裏道に通ることを余儀なくされ、それを重ねる内にあれよあれよという間に人通りの少ない地域の公園へと――今の状況へと――僕たちは追い詰められた。
人気のない公園に追い詰めたこと、用意周到に遮音を施した男たち、不意打ちでありながら矢を外したこと――どれをとっても人に見られるのが不味い、つまり、最初に騒ぎにしておけば……!
――こうして無意味に自責と後悔を重ねているのも、まだ吸血鬼としての力が安定していない所為だ。先程から視界が明滅して、精神も大声で叫びだしたくなるほどの興奮と吐き気を覚える恐怖が反比例的に増減を繰り返している。
『フゥ――フゥ――』
『だ、だいじょうぶよ、テオドール君。私が、なんとか……』
荒々しい呼吸を繰り返す僕に掛けられる嬢の声と手ははいまにも消えてしまいそうなほど弱々しい。駄目だろう、この女性は何時だって決然としていて貰わなければ――!
などと、叱咤したところで一気に事態が変わるわけがない。魂が整い始め、吸血鬼の力が安定し始めたがその速度は牛歩のように遅い、間に合わない。
一か八か、そういうの柄じゃないんだけどな――ッ! 心のなかだけで吠えながら、右手の指を手袋に引っ掛ける。
汗を滝のように流し、ゆっくりとゆっくりと衝動を堪えながら手袋を剥がしていく――と。
『フン――』
つまらなそうに鼻を鳴らして男の一人が視線でこちらを蔑みながら石畳の上を滑るようにして一気に距離を詰めてくる。
やはり、こいつらは死刑囚をよく知っているらしい。ここまで手をかけてに追ってくる様な人物だから当然といえば当然だが、それにしたってここまでこの動作を隙だと確信しているということは、よほど確かな情報源があるのは間違いないだろう。
その動きも僕のような学生でも分かるほど洗練されたプロのもの、だがしかしあのゼーレのそれからしたら正当に過ぎる。
と言うより、あの零から一気に百を叩きこむようなあの加速がおかしいんだろうな……多分、今の目でもその初期動作ぐらいしか捉えることは出来ないんじゃないだろうか。
『Shiiiii――』
夜は明けたまま闇が訪れることはなし、敵の動作は緩慢でこそ無いが捕らえられるのことも無い。黒き獣の首輪を付けた状態での吸血鬼化――半吸血鬼化――安定。
死中に活を求めると言えば聞こえはいいけど、変に小慣れたせいで生物としての危機本能が鈍ってるだけだな、これは。
早くこの異能を上手く扱えるようにならないと、改めて心に強く刻み――餌に釣られたプロにカウンターを見舞う。
『なッ!』
『RUAAAAAAA!』
押さえ込んだ鬼気と共に放つ、膂力任せの後ろ回し蹴り。僕の首を捉える筈だった剣は風すら斬ること無く、吹き飛ぶ男の体に巻き込まれる形で公園の柵へと叩きつけられた。
金属の打ち合う甲高い音が人気のない公園に響き、男たちがわずかに後ずさりする音と嬢が唖然としながら放つ『え?』という声がそれに続く。
さすがに男たちはプロで足音だけで声は立てないものの、狼狽した気配は隠しきれていない。チラリと後ろ見ると嬢はまだ事態を把握できていないようで気絶したのかぐったりとしている男と僕とを交互に眺めている。
安心させるために声を掛けたいところだが――正直、いまはこうしているのだが精々。気を緩めたら意識を死刑囚に持っていかれるか、その場で気絶してしまいそうだ。
安定はしているもののそのためにどれだけ魂を燃やしておけば良いかわからない、お陰でドンドン生命力が失われていく。
早めに決着を付けたい、が……怪我をすればその治癒に生命力を使う上に、僕に限って言えばの話だが血を失うことで二倍の消費に繋がる、焦っちゃ駄目だ。
いや、そもそも決着なんて付ける必要は無いじゃないか。この場から嬢を脱出させることが最優先、ならこの隙に逃げてしまえば良い。
なら、善は急げだ……! 石畳を穿つようにして鋭く踵を返し、ようやく自失から立ち直りつつある嬢を強引に……抱え上げようと、した瞬間、全身が軋み、体中を巡っていた力が嘘のように消失する。
――えっ? そのあまりの脱力感に腰が砕けたかのようにペタンと膝を地面につけてしまう。自分の体のことながら、何が起こったのか理解できない。
あまりにも大きな隙、これを男たちが見逃すはずが無い! 心臓が止まったかのような錯覚、背筋を死神の手が撫ぜる。
が、男たちが動くことはなかった。なんでという内心の疑問の声は握りつぶし、内心の動揺を悟られぬ内に元のように身構える。
そうして、少し冷静になってようやく先ほど死んだ男の二の舞いになることを恐れたのかと気付く。こんなことを意図していた訳じゃないけど助かった……!
次に浮かぶ疑問はなんで力を失ったのか、だ。……もしかして、敵前逃亡も悪行と判断された……? だとしたら、何とも馬鹿らしい考えだが、理由はそれ以外に考えられない。
真っ向勝負あるのみか、そんなのは英雄か狂人の役目だろう……まかり間違っても死刑囚がすることじゃないと思うんだけどな!
駄目だ、愚痴った所で状況が好転する訳じゃない。むしろ悪化するだけ、どうする、どうすれば……!
必死で頭を回していると鼻先を機械油の匂いが掠めた。その匂いに脳裏に浮かぶは最初の矢、頬の傷は既に癒えたがその威力には察しがつく。
反射的に体が動き片方の手で嬢を転ばせ、もう片方の腕で頭をカバーする。
ドズ。そんな鈍い感触と異物感が腕を走り、歯噛みしなければ悲鳴を上げてしまいそうな痛みが遅れて脳を焼く。
貫通した矢を抜きながら射線の方を見れば男の一人が服と同じ黒塗りの弩に再び矢を装填していた。その矢も黒く塗られており、この目ですら酷く見辛い。
キリキリと弦が巻かれる音を研ぎ澄まされた聴覚が、獣じみた嗅覚が魔液特有の香と鉄臭さが混じった匂いを捉える。
それぞれの感覚から脳が算出した結果は弩の二射目、鉄血魔術の行使、そして、既に鉄血にて作られた刃が僕に振りかざされているということだった。
音もなく吹く太刀風に肌が粟立つ。どの方向から来ているか、などと確認する時間はとうにない。
勘任せに膝を折ると何時もより視線が落ちている、その事を疑問に思う前に痛みで何が起きたのかを理解する。
『ギィィ……!』
足を、切り落とされた……ッ! 当然、それでバランスを保てるはずがなく、その場に膝から倒れこむ。
すぐに断たれた足を傷口に合わせて再生ぐ。が、それこそが敵の思う壺でカシュンと言うバネが弾ける音が聞こえたかと思えば、矢によって手を地面に縫い止められる。
濃厚な魔液の匂いが鼻奥を突き、面を上げればそこには腕から突き出た無数の刃。どれも刀身こそ短いものの、一人を殺すには十二分の長さ。
一度は逃れたかと思った死神の手が肩に置かれ、今度に至っては亡者の呻き声すら幻聴る。
その濃厚な死の気配に我知らず目蓋が落ちて行き、これから先ずっと訪れるであろう闇が視界が覆って行く。
だが待て、この射線だと、僕はともかく嬢も――――。閉じかけた目蓋をあらん限りに開き、無我夢中で残った片手で地面を殴りつける。
拳が砕けて骨肉の欠片が血を塗りたくように石畳にこびりつき、砕けた石畳の破片が男たちに撒き散らされる。
拳から伝わる大激痛、歯を食いしばって耐える。ハッ、良い目覚ましになったよ! 声にならない声で強がり、無理やり口端を吊り上げて作る笑み。
半分の力とはいえその大元は吸血鬼、石畳みの破片の多くは小石にも満たない有象無象だが、数えるほどの幾つかは当たれば悶絶必至の大破片。避ける、防ぐ、どちらも一秒に届くか否かの時間とはいえ、その時さえ稼げれば半吸血鬼には十分。
目標は……お前だ、両腕十徳ナイフ野郎! 右肩を腕に生えた無数の刃を盾にする男へと向け、治癒を終えたばかりの足で地面を穿ち、反動で砲弾のように突撃する。
自分ですら把握できない速度で放たれた体は、刃をその身に埋めながら男の体を彼方へと吹き飛ばした。
今までの痛みなど比較にならない、痛みとすら認識できないほどの何かが全身を走り抜ける。体を掻きむしりたくなるほどの熱が右半身を焼き、その反対に冬の湖に体を浸したようなゾッとする冷気が心胆から広がっていく。
それもそうか、自分から剣山に突っ込んだようなものだものな。もはや生きる上で大事な何かが麻痺しているのだろう、地獄と冥府を同時に観光している様な状況の癖に脳内に響く自分の声はいやに冷静だった。
前後不覚なんてものじゃない、何が分からないのか分からない。理解できない、生きてるのか死んでるのかすら曖昧だ。なら、確かめないとな――ッ!
『ギィ……ガ、ガガガガガガ――!』
喉は無事に動いてくれた、血が溜まっていることを心配したがどうやら喉に空いた三つほどの穴から無事血抜きができているらしい。
意識さえ失わなければ問題なし。何を命令するでもなくこの忌まわしい異能が僕の体を再生する。
『クッこの、化け物め……!』
微かに男たちの一人から聞こえた声からは悍ましいものに対する恐怖と義憤が漂っていた。風の流れと声の方向からおおよその位置を把握、体をそちらに向けて閉じていた目を開く。
彼我の差およそ五メートル。持っている小剣は例によって例の如く黒く塗られ、刃渡りが分かり辛いが目測で五十センチと言ったところ。
構えは刃先を上に向けた"屋根"の構え……と言うことは、踏み出す勢いを利用した縦斬りだな。
あくまで冷静な自分の心の声に従い、体が勝手に動く。
アクビを漏らしてしまいそうなほど緩慢な動きで振られる剣を左半身を捻って躱し、即座にそれを戻す動きに合わせて左の拳打。
しかしこれを男は首を傾けることで免れ、今度は男が剣から片手を離して僕の体を押し、男に取っては近づきすぎた距離を都合のいいものへと戻す。
連動するように男は手首を返し、よろけた僕に対して片手で切り上げを放つ。
『ガ、ガガガ……』
馬鹿が、そう言いたいはずなのに言葉が出ない。まぁいい、いまはこの者に救いを、永遠の安息を与えることが先決だ。
僕は片手で放たれた軟弱な斬撃を腕の骨で受け止め、その上に左手を走らせ男の頭を掴み――握りつぶす。
ゴキャパキメキャコキ…………グチャ。死んだ、救済した。僕が、私がががががが……が?
『ぐ、が、ギィィィ……!』
不味い、これは半分意識を持って行かれてる――ッ! クソ、再生に魂を使いすぎた所為か!? しかし、なんだこれは? 魂は普段よりも満ち足りているぐらいだ、何がどうなってる!? いや、いまは理由なんてどうでも良い、このまま暴走するのだけは避けないと!
でないと、僕はもちろん、僕をかばった嬢、ひいてはバッハシュタイン家まで――!
体の支配権を取り戻せ、だがどうやって!? 無理だ、無理無理無理無理無理無理――――!
無理を降す道理はないのか? 探せ、体がもう動いている、視界が背後へと一気に吹き飛び、残る男たちへと僕の体が襲いかかってる!
パニックに陥り、頭はろくな考えをもたらさない。絶望したり、焦ったり、現実逃避を始めたかと思えば過去の記憶をあさり始める。
――そうして一つの声が僕の意識を覚まさせる。
『欲求を満たすんだよ、テオドール。我慢するな、やりたいようにやれ』
紛うごと無きレウスさんの声が僕の脳内で響いた。そうだ、欲求を満たす。止めるではなく、誘導する。
死刑囚が求めるのはなんだ、殺人か? ――否、この死刑囚が求めるのははた迷惑な正義の貫徹。
正義とは何だ? 知らない、死刑囚基準の馬鹿で幼稚な二極論、理解できないし、するつもりもない。元々、僕は正義なんてものは嫌いだ、反吐が出る。そう言う年頃なものでね。
でも、幼稚だからこそ分かる。悪人を倒せば良いんだろう? 絵本の騎士が悪い龍を倒すように、だ。それにちょちょっと姫を助けるシナリオを書き加えれば、最低限のラインは保てる。が、嬢はともかくとして、僕はまだまだ生きていたいんでね、暴走なんて目立つ真似は御免こうむる。
だからまだ欲張らせてもらうよ、死刑囚と違って僕は強欲だ。なにせ死刑囚なんでね、長い罪状には七つの大罪全部乗っかってるんだ!
殺人衝動ならぬ、善行衝動に同調する。悪を倒せ、悪を殺せ、不浄よこの世から失せよ、全てのものに救済を、だ。だから、僕に魂を寄越せ。
内心とはいえ、久しぶりに本音全開で話せたからか、こんな状況なのに胸がすくような気分。
魂に満ち溢れているなら尚更だ、ありがとうよ死刑囚――お礼にこの魂で奥底に押し戻してやるから泣いて喜べ!
『――よし、戻った!』
意識と感覚の結合に思わず拳をグッと握る。目の前に居た敵が居るというのに、だ。
急に雰囲気が変わったのかよほど気味が悪かったのか、男が顔を引き攣らせながら短剣で突きを放ってくる。
学習能力がないんじゃないのか、死刑囚に小剣止められたのを目の前で見てただろう。
と、思いながら手の平で突きを受け止めようとして――寸でで手を引っ込めて、上体を反らして躱す。
短剣の刀身が光っていたからだ、黒塗りであるのにもかかわらずに。これはよく見れば……滑ってる? と言うことは……毒か!
僕がそう確信するの同時、チッ、と男が舌を打ち、腕を引きに合わせて自身も大きく飛び退き、そして、目線を僕の背後に向ける。
アイコンタクト、なにを伝えた? ッもしかして嬢を人質に――そうはさせるか!
その場で体を回し、男が見た方へと体を向ける。が、居ない、誰もいない――やられた……!
咄嗟に体を捻って元の男の方を見る、とそこには二人に増えた男ずくめ。
『嘘だろ……!』
口から吐いてできた台詞とは裏腹に僕は何で自分が奴らを気づくことが出来なかったかを理解していた。光魔術の光学迷彩、風魔術による風流変化、この二つの魔術の組み合わせで僕の視覚と嗅覚から免れたんだ。異能者は魔力に対する知覚が鈍い、だから魔術に弱い。それの起こりが見えないから。そうついさっきあの男に言われたことを否が応でも理解させられる。
落ち着け、後悔しても後の祭りだ、いまは何より早く目の前の二人を倒す!
迎え撃つために体を前に倒し、石畳に足跡を刻みつけながら疾走。
男の一人が放った飛刀をスレスレで躱し、死角から振るわれた何時ぞやの憎き血刀を匂いで位置を予測し手でいなす。
もう一歩で手が届く、そう思った瞬間男たちが互いを突き飛ばすように手を叩き合わせ、大きく左右に跳ぶ。
視界から男二人は消え失せ、残りは虚空――じゃない! 男たちの手の位置に一筋の赤い線が引かれている――鉄血線だ!
『くっ、おぉ……!』
疾走する姿勢から強引に体を屈め、なんとか鉄血線を回避……出来ない、男たちの掌から繋がっている鉄血線なので、俺が屈めば当然奴らも動きに合わせ高さを変える。
咄嗟に腕を盾にして時間を稼ぐ、勢いに乗った鉄血線は肉はもちろん骨にも容易く切り落としていく。
分かった、腕はくれてやる……! 腕を鉄血線に突き出すのと同時に、背中から地面に転がる。
鼻先を鉄血線による斬撃が通りぬけ、支えを失った両腕が僕の体に落ちて、血でベチョベチョになった服をさらに汚す。
なんとか足の時同じく傷口をすり合わせ、腕を再生て、立ち上がり、すぐさま背後を振り向くと、ちょうど男たちが鉄血線の魔術を解いているところだった。
だが、男たちは僕を見ても戸惑いや苛立ちを浮かべる様子はなく、むしろ――隙こそないものの――体から緊張が抜けている。
僕が首を傾けつつ、地面を蹴りつけようとしたその瞬間、
『ちょっと待て死刑囚! この嬢さまがどうなってもいいのか?』
下卑た声が公園に響く。思わず前の敵を忘れて声の方へと顔を向ける。と、そこには――
『カカカ、化け物も女には弱いみたいだな?』
『テオドール君、ごめんなさい……!』
そこに居たのは嬢の片腕を取りながらヒタヒタと首筋に短剣を当てる男。男の服は薄汚れ、顔や体のあちらこちらから血を流している。よくよく匂いを嗅いでみると、嗅いだことのある匂いが混じる。これは――最初に吹き飛ばした男、か? 魔液の匂いが強すぎて確信が持てないが、おそらくそうだろう。
あの勢いで壁に叩きつけられてもう意識を取り戻したのか……!? 疑問と驚愕の入り交じった悲鳴を何とか外には出さずに押しこめる。
男がくい、と顎で顔を戻すように僕に指示をし、やむなく僕がそれに従う。
見れば前に居た二人の内の一人が手錠を手に持ってこちらに近づいて来る。……この異能に掛けて嬢を助けるか? いや、無理だ、あいつとの距離はどう見積もっても二秒は掛かる。間違いなく嬢が殺される……!
『大人しくしろよ、化け物。そうすれば、この嬢さまだけは助けてやる』
そう言って男が嬢の首筋をナイフで撫で、薄っすらとその刃を血で濡らす。思わず、身を乗り出しかける僕に手錠を持った男が素早く近づく。
視界が急転し、地面に引き倒されたかと思えば、全身から力が抜ける。――手錠をかけられた、な。あと僕に出来るのは精々、隙を見てティアナ嬢を拘束する男を突き飛ばすぐらいか? いや、それをするぐらいならまだ大人しくしておいたほうが、助かる見込みがあるか……。
『おい、化け物。こっちに来い』
『……何をするんだ? 依頼人からは……』
『うるせぇな、こっちは仲間を殺られた上に、俺だってこんなボロボロにさせられたんだ。こんだけしてやられんた、少しぐらい楽しませて貰ってもいいだろうが』
『……チッ、分かったよ、好きにしろ』
無様に地面に這いつくばる僕をよそに行われる不穏当な会話。僕の側に居る男はかすかに逡巡するものの、チッと舌を打って僕をナイフを持つ男の方へと蹴り飛ばす。
弱った体は地面との摩擦だけで肌が破けて血が吹き出し痛みを訴える。後ろに目を向ければそこに僕に手錠をかけた男の姿はなく、無音で先に飛刀を投げつけてきた男の方へと向かっていた。
どうやら、あの男はあのナイフ男に姿を任せるのに納得がいっていないらしい。ここからは自分で歩け、と言うことか。逃げるとは、微塵も思われてないようだな。人質、だけじゃないな、たぶん死刑囚にそんな悪事が出来ないことを分かってる。
力の入らない体を起こし、ずるずるとナイフの男とティアナ嬢の方へと歩を進める。何時も半分以下の速さで進んでいることもあり、否が応でも何事かを考えさせられる。皮肉にも戦闘が終わったせいで頭が冷えて回り出したこともあるだろう。
目下の議題はこいつらの雇い主。だがそれもこうして考えてみれば恐ろしく簡単だ。死刑囚に対する情報の多さ、そして嬢さまが居る時を狙ったことして……彼女の失脚を狙う、あるいは死刑囚に死んで欲しい一派の仕業だろう。
『チッ……遅せぇな。速く来い』
嬢の体に何をされるかわからない、あんまりあの男を苛立たせる訳にはいかない……!
もう限界に近い足並みを無理やり速める。が、その無理の所為ですぐに転げてしまい、むしろ男の苛立ちを煽る結果になってしまう。
すると、男はナイフを突きつけたまま、ドシドシとこちらへと向かって来る、来て――そのまま、僕の頭に足を乗せ、地面へとグリグリと押し付ける。
そこに手加減などあろうはずがなく、ミシミシと頭から不気味な音が鳴り初め、顎が割れて生ぬるい血が頬を汚す。
痛みに苦悶の声を上げれば、すぐにその隙間から血が口内を犯し、吐き気を煽る。そうして喉から溢れ出るのもまた血、赤い血。
意識がズブズブと黒い沼に沈んでいく。目に痛い赤々しい景色が霞んでいく。必死で唸り声をあげて意識を保とうとするも、血がゴボゴボと泡立つだけで何にもならない。
あっ死、ぬ――――――――ギャイン! 突然、刃が金属を断つ鋭く硬質な音が鼓膜を震わせ、全身を再生させようと躍起になる魂が燃え上がるような熱を持つ。
沼底につきかけた意識が急浮上し、目の前が澄み渡る。気づけば僕の上に男の足が無い――助かった、もしかして、ゼーレが――!
つい反射的にその名前を呼ぼうするが、しかし、一つの異常にその名が喉から吐かれることは無かった。
何故なら――ナイフの男の姿は未だ目の前にあったからだ。だけど、拘束は解かれている。何が起きたかさっぱり分からない、疑問が脳を埋めて思考が止まる。と、その時、他の男たちが僕の言いたいことを代弁をした。
『お前、何のつもり――ヒェグぅ!』
投げナイフと矢、二つの凶器が正確に男たちの喉頭に突き立つ。パクパクと口を動かして入るものの、口からこぼれ出る血の泡。つい先までの僕と同じ。
もっとも、叫べた所で誰も来ることはなかっただろう。皮肉にも男たちがそう言う状況に追い詰めたのだ、僕と嬢を。やがて、力尽きたのか男たちが自分たち作った血だまりに倒れる。
それを確認して、ナイフの男が黒装束を脱ぎ捨てる。
『何のつもり、か……俺は教官だ。学生を守るのと、模範を示すのが仕事でね。しかし、運が良かったなお前ら、このハンカチに感謝しろよ?』
そう言ってナイフの男――ルフト=ゼーレは身を包んでいた黒装束を脱ぎ捨て、夜闇に目立つ白にラベンダーの刺繍がされたハンカチをヒラヒラと揺らした。。
◆◇◆◇◆◇
『はぁ、はぁ……』『スゥー……フゥー……』
パン屋の店頭に置かれたベンチ。本来なら昼ごろ、学生が買ったパンをその場で食べるために備え付けられたそれは今宵はマラソンの休憩所になっていた。
あの後、ゼーレは有無を言わさずその場から僕と嬢を連れて離れ、元の道までほとんどノンストップで走ってきた。
そうして、『ここで話したいこともあるから、ここで一旦休憩するか』と一人だけ全く息が上がっていないゼーレが提案して今に至る。
ここらはお店が固まっているせいで、町は深夜の住家のように静か。そんな静かな夜にはおよそ似つかわしくない、息苦しい呼吸音がしばらく続く。
『なんでこんな回りくどいことをッ!』
そしてまた、十分に体に酸素を届かせ、僕の口から出てきた言葉も静夜に不適当な激したもの。無論、そんなことでこの男が応える様子があろうはず、やれやれと肩を竦めるだけ。
こっの男――――ッ! ブチリ、と脳内の血管が不味い音を立てるが、必死で殴り飛ばしたいのを堪らえて、ワナワナと声が震えていることを自覚しつつ冷静を装った口調で話を続ける。
『……助けて貰ったことは感謝しますよ。でも、僕はともかく、彼女をあんなに怯えさせることはなかったでしょう!』
未だ唇を青ざめさせたままのティアナ嬢を指し示すと、あろうことかこの男はその様を鼻で笑い、
『情けない嬢さまだ。普段はカマトト振ってズケズケものを言うくせに、いざとなったらこれか? 本番になってビビるとは、女なのに童貞かよ。カッ! 同情しちまうわなぁ。将来、嬢さまみたいな扱いにくい上、使えない奴を部下に貰う奴を思うとよぉ』
『この、いい加減に……!』
『良い、良いわ、テオドール君。気持ちは嬉しいけれど……本当のことだもの』
口元をニヤつかせてとんでもない暴言を口にするゼーレ。思わずその胸ぐらを掴み上げる僕の肩に嬢が手をおいて制止する。だけど、と反論しかけるがその沈痛な面持ちを見てしまうと何も言えず手をゼーレから離す。
それでいて、ゼーレは謝罪するどころか『話が進まないだろうが』と鬱陶しそうに言って胸元を整える。
こっの、男は……! 無意識に拳を握りしめ、唇を噛みしめる。
……隣に嬢が居なければ殴りかかってただろうな。その方が良かったんだろうが、それでも僕は……。
『嬢さま、自覚はある馬鹿は自覚がない馬鹿よりも性質が悪いのは知ってるか?』
『知っているつもりです、善意からの悪行と同程度に自分の性質が悪いことは。……遅くなってしまいましたけれど、助けてくださってありがとうございます、教官』
なおも反省する気配なく蔑むゼーレに、唇を引き締めつつも嬢は丁寧な言葉づかいに応える。
その態度にチッ、とゼーレが渋い顔をして舌を打つ。嬢が挑発に乗ってこなかったのが、気に入らなかったのか? そうは見えないが……。
そのままガシガシと自分の髪をかきあげ、ぶっきらぼうな態度のままゼーレが話を続ける。
『嬢さま、あんたがどんな理由であんなにビビってるのか知ったこっちゃない。と、言いたいが俺はお前の教官だ。それに、今後のことを考えると、早急に治す必要がある。だから、教官として訊こう、理由は?』
『…………端的に言えば、心的外傷でしょうね。幼い頃にしょうもない悪人に攫われた所為で、この歳になっても武器を抜かれると……相手が男の方だともう……』
『ふーん、なるほど確かに。小児性愛者とは確かにしょうもない悪人だな』
躊躇いがちに、今に至るまで引きずった過去を思い出しながら話す嬢に、ゼーレがバッサリと何の躊躇いもなくズケズケと言い放つ。その時の嬢の表情は、こちらの胸が痛くなるほどで、その顔が青ざめているのは吸血鬼の瞳でなくとも明らかだ。
幼い頃、男が特に、となれば何があったかを察するのは難しくない。だが、それをこうもアッサリと言いのけるのは、余程の人の気持が読めないか、よっぽどの下衆。そして、この男みたいに人の気持ちが読めた所で気にしない奴……!
カッと沸き立つ怒りに、つい声を張り上げかけるが、すぐに腕を捻り上げ痛みで声を押しつぶされる。確かに、この体勢で話すのが効率は良さそうだ……だけど、いくらなんでもこんな言い方は!
『カカ、なるほど、魅了なんて売女の魔術も上手くなる訳だ。歪んだ愛情に真っ直ぐな欲情、娼婦が金と同じくらい、人によれば金以上に捨てれないもんだからな』
ニヘラと笑いながら話すゼーレに、ついに顔を紅潮させて嬢が手を振り上げる。が、それが振り下ろされることはなく、力なく嬢がその場で項垂れる。
怒りはある、だが、何かを言う気にはなれない。なんだ、この顔? そんな戸惑いが怒りよりも優先されていた。
嬢はまだ気づいていないが――ゼーレは笑みを消し、真っ直ぐに顔を俯けた嬢を見ていた。その様は僕から見ても、なんというべき……そう、誠実さに満ちていた。この男にはこんな表情が出来たのかと、あまりの驚きに何も行動が思い浮かばないほどに。
面を上げた嬢がゼーレの様子に気付き、僕と同じく目を見開く。目元に溜まった涙がその拍子に落ちる。まるで忌まわしい過去を流れ落とすように。
『――だから嬢さま、あんたはそのままで行け』
『えっ……?』
表情を一辺、ニッと好戦的な笑みを浮かべて――優しい瞳で、ゼーレが大仰に身振り手振りを加えながら、言葉の意味を語り始める。
『男ってのは大体、強い女より弱い女が好きなのさ。そして、戦場において心的外傷を抱えた嬢さまは何より弱者だ。嬢さまが戦う必要はない、魅了された敵兵が勝手にお前を守ってくれる。だから、そのままだ。ひたすら魅了を磨いて……あとは防御系統の魔術をひたすらだな。それが最善かどうかはともかく、たぶん一番楽ではある』
飄々とした態度と持って回った言い方に変わりはないが、ゼーレの言葉には泣く子の背中を景気良く叩く、自信と活力を吹き込むようなものが込められている気がした。でもそれは必ずしも善意だけではなくて、と言うより自分が楽しいからそうしているようにみえる。
見ればその笑顔も好戦的なだけではなく、どこかイタズラ気。悪童が気質を変えぬままに大人になったとの表現がしっくり来る。
でも、その中心にあるのは焦りだ。――やばい、泣かしてしまったなんて、焦るぐらいなら言葉を慎めよ。
怒りは依然としてあるにある。が、それよりも今はこの男のめったに見れない焦る様が面白い。って、悪徳だな、分かってるよ、死刑囚。縛るなら縛っとけその分、今は存分に楽しませてもらう。
そんな気持ちは嬢も一緒なようで、呆とした口の端がほんの少しだけ上がっていた。笑いを堪えてるんだろうな、しかもそれにゼーレは気づいていないと。目敏い人だと思ってたんだが……どんなのにしろ、例え変化士にしても――男は女性の涙に弱いのは変化わらないらしい。
『乗り越えろ、とは言わないんですか教官』
『カ、心的外傷を乗り越えるなんてしんどいじゃねーか。それに、俺は逃げるのが好きで、欠点を愛おしく思う変態でね。救えないと自分でも思うが……変に気負わなくて済むと自己肯定さ。だから嬢さま、やりたいことをやって、やりたくないことはやらないで――どうしてもやらないといけないと思ったら頑張る。嬢さまもそれぐらい適当でいいと俺は思うがね』
『……ゼーレさん。彼が居ること忘れてませんか?』
ポリポリと頬を掻いてそう締めるゼーレを見て、嬢が口元を隠して尋ねる。その目は明らかに笑っていた。
『あ、カ……カカカ、フォローしとかないと飯が出なくなるんでね。こういうところでのアピールが大事なのさ』
『ふふ、アハハハ』『ク、クククク……』
一瞬固まる体にぎこちない笑み、そして、あからさまな悪ぶった態度。その今までのイメージを裏切る姿にもはや二人共耐え切れず、嬢のコロコロと鈴のような笑い声と僕のくぐもった笑い声が重なる。
中々止まないその笑いにゼーレが天を仰ぎ、口元をへの字曲げて押し黙る。また、それが不貞腐れてるのが丸わかりで、笑いに拍車が――。
『…………明日覚えてろよ』
ボソリと小さいな声でゼーレが呟くと、ピタリと僕もティアナ嬢も笑いが収まる。……ゼーレ製の拍車はよくブレーキが効くな。
そうして、誰も何も言わない時が流れる。最初こそ明日の自分を思って無言だったが、いまは違う。
今の今まで今日はずっと気が抜けなかったからな……。そう思うとどっと疲れが押し寄せてくる。夜風は冷たく、腰掛けるベンチは冷たいのに眠気がこみ上げてくる。
夜空でも眺めて誤魔化そうと、頭を背もたれに預ける。
――満天の星空だった。綺羅びやかに光る星が居れば、しっとりとした光を放つ星もある。呑み込まれてしまいそうな色をした空も、この星の前では引き立て役でしかない。そうこうしていると、段々と星の光がぼやけて……僕の意識は空の見えない深い深い意識の海へと沈んでいった。
◆◇◆◇◆◇
『やれやれ、寝ちまったか……ぐっすり眠ってること』
すやすやと背もたれに体を預けて眠るユスティを見てルフトがつぶやく。どこか確認するように、知らせるように。
起きる気配が無いことを見て取るとルフトはそのまま、ユスティの腕を持って自分の肩に回し、膝裏を掴んで背におぶる。
思ったより重いな、と顔をしかめながらぼやくルフトにバッハシュタインがからかう――あるいは、反応を伺うように――声をかける。
『ホント、魔術にでも掛けられたみたい』
『もう九時を回ってるからなぁ、いい子にしなきゃならん死刑囚にはキツかったのかもしれん。ま、今回みたいな連中はさすがにユスティも分が悪い……今度からは代わりに俺が護衛するよ、お嬢さま』
そのような態度を気にした風もなく、ルフトはジョークとも本気ともしれぬ口調で応える。
やや不本意な結果ではあったのだろう、悩むように首を捻りつつルフトに合わせるように比較的軽い口調で答えを出す。
『……そうね、次からはそうさせて頂くとするわ。もちろん、お礼もする』
『無理はしなくていい、嬢さまが出来る範囲でいいで大丈夫だ。学生にたかる教官っていうのも外聞が悪いしな。安心しろ、バッハシュタインに傷が付くような真似はしないさ』
互いに気軽に言葉を交わし合っているようだが、その実で眼差しは真剣そのもの。特にルフトは常から出している軽薄な雰囲気を吹き飛ばすほどに、その瞳には誠実さが宿っていた。
しかし――ルフト本人も把握できていないのかもしれないが――それは郷愁的な、回想の人物のようで、偽物ではないものの、中身の無い虚ろで出来たようにも見える。
そういった物からか、バッハシュタインもまたこの男を信じきれては居ない様子で、応える言葉も迷いがにじみ出て、自分自身を納得させるようになる。
『頼もしいわね、恐ろしいほど。でも、そうじゃないと護衛ってもらう意味もない、か。……帰ったらユスティ君に護衛は首と伝えておいて。他に守るべき人が居るでしょうと』
『……嬢さまが言わずともそいつは伝えるつもりだったさ、それにユスティだって馬鹿じゃない。だが了解だ、嬢さまがそう言ったと伝えておくよ、それが望みならな。さ、帰るとしよう、親御さんも心配してる』
言い終えた瞬間一瞬だけ寂しげな表情を浮かべるバッハシュタインに厳しい口調でルフトが応え、嬢の傍らを抜けて道を進んでいく。
ルフトの言葉にバッハシュタインは寂しさと怒りに似た、けれど違う感情が入り交じった複雑な表情をしながら、唇を噛み締めていた。それをルフトに見られなかった――見ないように先に行ったのかもしれない――ことに、彼女は感謝をしつつ一方で自分を責める。
そして、責めるという意味では彼も同じ。後からついてくる嬢を横目で確認しつつ、彼は内心で酷く自責自嘲、自虐自蔑を繰り返す。それが自己満足で意味がなく、考え始めたらキリがないと知りつつも、気づけば内心で毒づいている。
そんな自分が嫌いで嫌いになりきれない。そう彼は自分を鼻で笑い、背に抱える荷物に誰にも聞こえない声で謝りながら道を進む。まるで、これ以外の道には進めないのだと確信しているように。
◆◇◆◇◆◇
『……ふむ、これは面倒になってきた……しかし、彼らには悪いことをしたな』
――そして、それを遠くから眺める影がある。影は首に下げた双眼鏡から目を外し、コキコキと肩を鳴らしながら口をへの字に曲げる。
影を気遣う――否、そんな優しいものではなく、事実を述べるだけという良く言えば実直、悪く言えば堅物の雰囲気をまとった声が影の数歩後ろから響く。
『所詮、はした金で殺しの仕事を請け負うような奴らです。御身が気になさられることはありません』
『はした金、ね。確かに僕には必要のないものだけど、その言い方は聞き捨てならないな。民は愚か、お貴族様が聞いても目が飛び出るとまでは言わずとも、出し渋るような額だったじゃないか』
『は……出すぎた口を聞きました、申し訳ありません』
ほんの軽口のつもりだったのが、とあくまで固い口調に、影は苦笑しつつ再び双眼鏡を覗く。
バッハシュタインの一人娘、そのクラスの教官、そして……死刑囚。
本人も意識していないのだろうが、その姿を見た瞬間、影から殺気が迸る。例え鍛えられた武人であったとしても、その殺気にもろに当てられては呼吸を忘れるだろう。
近くに居た鳥が悲鳴を上げながら飛び去り、ゴミを漁っていた猫は咥えた獲物を落として一目散にどこかへかけて行く。影が借りた屋内に居たものは軒並み目を覚まし、縋るように魔力燈を灯した。
無論、影の近くに居た者とて元より予想していなければ、不動で耐えることのは不可能であっただろう。
『ユスティ、あなたに罪はありません。ですが――死刑囚は許せない。絶対に殺す、我が名にかけて絶対にだ……!』
様々な思惑や感情が入り混じりながら、今日も夜が更け、一日が終わる。
激動の一年。その火蓋の幕が切って落とされた。そしてそれは、彼にとって回帰の一年であり、再起の一年。
教えられるのは学生とは限らない、教えるのが教官とは限らない。少なくとも分かっているのは、それが一方通行では無いということ、相互であるということだ。