第九十四話:レクリエーション=クライマックス
"魂の燃焼"と呼ばれるものがある。過度の生命力消費によって身体強化を図る術だ。過度の、と付いている通りこの術は使った者には大きなしっぺ返しを食らう――寿命が縮むのだ。
しかし、逆に言えば、過度に消費しなければ、つまり普段ただ生きてる時と消費の総量が同じであれば、寿命が縮むことは無いということ。
『霊魂變化――』
――であればもし、もしだ。百の力を全身に行き渡らせるのではなく、百の力を体の一部に集中することがもし、できたのなら、それは"魂の燃焼"に勝るとも劣らぬ術とは言えないだろうか?
器を燃焼して力を強める炎に対して、器に従って力を變化える水。
『"経絡變流"』
目蓋が作る薄い闇の中、小さく開いた口でゆっくりと深く息を吸う。左胸で脈打つ、核の鼓動を聴く。
そうして、眠りにつくように、深く深く自己に埋没し、全身を流れる魂を、生命力を知覚――その道筋を變化める。
下に下に、流れず溜まっていく生命力。足の筋肉が異常に熱を持ち、逆にそこ以外は死を想起させるほど冷たい。
熱に悶える足の望むままに地面を蹴りつけると、後ろに砂塵を吹き上がり、体が前に吹っ飛ぶ。
青白い炎の腕と風の大蛇の間を抜け、地面から突き出た石柱に手を置く男に肉薄する。
低く跳び、体を捻る。三頭獣の尾みたく脚で周囲を薙ぐと、風が嘶き、石がくぐもった悲鳴を上げて砕ける。
粉々になった石柱の残骸を浴びせられ、男が思わず顔を覆い、体勢を崩す。
そこに浸けこみ、男の体を駆け上がるように蹴りつけ、宙へ跳ぶ。そして、跳ぶに合わせて、足に溜まった生命力を頭まで引き上げる。
髄液が沸騰しているような錯覚、脳の処理速度が限界を容易く超え、あらゆる感覚を歪める。
同じ音が何時までたっても鳴り続け、空気が溶けた鉄のように纏わりついてくる。体は何時までたっても呼吸を求めず、しかし、癖か何かのように息苦しさを感じる。
粉塵の中を突き抜け、鉄血の矢が俺に向けて放たれるが、どれもろくに狙いが付けられておらず、かすり傷すら片手で数えるほどしかつかない。
次いで、十の血鎖が絡めとるようにして、俺の周囲に集まる。利き手の方なのか、内五つの鎖がわずかに他のより早く、俺の四肢に伸びる。
亀のように遅いそれの一つを俺は右手で容易く掴み、左手で他の鎖を払いのける。
目に映る景色を記憶に焼き付け、筋電を調整し、いまより一秒の動作を先入力。右腕に生命力を流し込む。
あらゆる感覚が現実と同期してゆくと同時、右腕が勝手に動き、掴んだ鎖をあらん限りの力で引っ張る。
『キャッ』と歳相応の幼さを感じさせる声と、『ロザリエ、魔術を解け!』と焦燥を滲ませた声が張りあがるのもまたほとんど同時。
手から硬質な触感が消え、代わりにヌルリと独特の粘性を持った液体が手から零れ落ちて行く。
着地してすぐ駆け出し、立ち上がろうとするライエンハイトに接近。間に入るテオドールを鎧袖一触に地面に引き倒し、飛び退かれる直前で服の裾を何とか掴む。
手の中で暴れるライエンハイトを構わず振り回し、他の学生を牽制。
腕を首に絡めて、徐々に加速。筋肉と遠心力とを合わせ一気に頸動脈を締め上げる――"万変流格闘術:風凪"。
クタリと力が抜けた体をゆっくりとその場に転がし、即座に横に飛び退く。二の腕と肩を掠めるは鉄血の矢、腕にびっしりと備え付けた鏃が全て俺の方を向いている。
走ってその場から立ち退く俺の前に立ち塞がる、風の大蛇。大蛇は大きく口を開いたかと思えば、轟音を立てて周囲の空気を呑み喰らい始める。
青白い炎が生む熱を巻き込んだ灼熱の風が首筋を焼き、髪を焦がす。煮えた鉄血の矢が傷を作るとともに焼く。
生命力を右足に流し込み、水切りように低空を跳び、今度は左足に生命力を集中させて大地を全力で蹴りつけて跳ぶ。
そうして、上顎に少し足を削り喰われるも何とか大蛇の上をすり抜け、着地地点には術者の間抜け面。
何が起きるか結果は明白ゆえ語るに及ばず、強いて言うとするなら靴が汚れた、それだけだ。
背から襲いかかる矢を目に生命力を注いで見切って躱し、虫でも払うように振るわれた炎の手を飛び退いて避ける。
余勢で後方に流れる体を指を地面に突き立てて止め、爪が剥がれながらも前へと駆け跳ぶ。
炎の余波に顔の半分が焼けただれ、髪がチリとなって崩れ落ちる。後ろから追うように振るわれる、炎の手の甲に背中の肌が溶ける。
『ヒッ……ヒィィィ!!』
目指すは鉄血の射手。叫び声をあげて放たれる矢は、拒むことを目的としているはずなのに、その怯えのせいで脅威となりえない。
炎も熱こそ感じるものの、俺に追いつく気配はない。しかし、不気味な殺気、得も言えぬ不安がさっきから俺の体にこびりついてはなれない。
なにを思ったのか、俺はふと地面を見る。最初に倒した男の魔術によってヒビの入った地表には――赤紫の液体がそこら中に入り込んでいた。
『"好戦願望"』
その一言で地に伏せていた鉄血の隠刃が煌めく。食虫花みたく、自分の上に立つ獲物に食らいつく。
走る速度を上げても、どんなに遠ざかっても食虫花の上。閉じていく花。
それでも、走るのを止めない、速度を上げ続ける。そんな中、ダメ押しのように冷静さを取り戻した射手が見事、こちらの脳天を刺し貫く一矢を放つ。
意を決し右手を前に突き出し、左手と右足だけでクラウチングスタートの構えを取り、
『圧縮解放……ッ!』
大きく前に跳ぶ。右手に突き刺さる矢など歯牙にもかけず、砲弾の如き速度で低空を飛び抜け、刃が飛び出る前に射手に飛びかかる。
『ひぃあくなぁぁぁ!!』
体の下、半狂乱で暴れ続ける女学生。頬を二度三度と張り、大人しくなったところで首を締めあげ、落とす。
芸がない自覚はあるが、素手で相手を素早く無力化する術などこれ以外は知らないからどうしようもない。
気絶した女学生が傷つくのを恐れてか、他の学生は動く気配を見せない。が、少しでも気を緩めれば、その瞬間を襲われるだろう、ここに来てようやく、学生は油断を捨て、恐怖を呑み込んでいた。
それに構わず周囲に目を配りながら、調整鍵を回収。四つん這いのまま、おもむろに背後に向き直る。
辺りに染み渡る鉄血に凶器の光が宿り、炎の腕は、威嚇するように青白い体を瞬かせる。その奥には、バッハシュタインがこちらを睨みつけ、ただ事ではない雰囲気を漂わせていた。
その中を急ぐでなく、一歩踏み出す。肩から力を抜き、鼻歌でも吹かせようか、などととぼけた思いで歩き出す。
戸惑う気配を漂わせるも学生らは視線を交わし、鉄血の刃を囲むように突き出し、跳躍を阻む形に炎腕を配置する。
攻撃に移る一瞬、そこを抜ける。意識が己の攻撃に向いて俺から焦点が外れる刹那、緩慢に歩む姿勢のまま、体を押し出す力が集まる一点――爪先に生命力を込め、全身を打ち出す。
『"万変流格闘術:天狗風"』
刃の囲いの中を抜け、炎の腕の下をいとも簡単にくぐり抜ける。呆けた術者の瞳に俺の姿が映る、表情が氷付く。
両手を地につき、繋ぐように跳躍。下から突き上げる変則的な飛び蹴りを鉄血の滝を流す女学生に見舞う。
宙で体を反転させ、余勢を膝で殺し、重蹄脚も合わせ、強引に炎を手繰る術者に向けて疾走する。
『フゥッオォォ!!』
青白い炎が猛り、辺りを蒼白の光で照らす。横薙ぎに振るわれる腕は大気を焼き、熱波が瞳を乾かし反射的に目蓋が降りる。
闇の帳が視界を覆う、聞こえる音は怒鳴り声と大気の悲鳴。肌の灼ける香ばしい匂いが鼻を漂う。
息を吸う、肺が焼ける。息を吐く、燻った煙が口から漏れる。
地を蹴り、跳ぶ。足が離れる間際に腰を捻り、足を横に振る。宙で螺旋を描いて舞い、炎の腕に左足を叩きつけ、その反動で上を抜ける――"万変流格闘術:辻風"。実は鉄板仕込みのブーツが熱せられ、足が焦げ付いているがそんなことはおくびにも出さない
両手両足掴むは裂けた大地。ひやりと肌を舐めるは夕暮れの風。炎の過ぎ去った地を削るように駆け、両手を使って跳ね跳び、首に右脚を引っ掛ける。
膝裏に首を挟み、筋肉を張りギリギリと締め上げる。口から漏れだす泡が足を濡らし、やがて脚に食い込んでいた爪がだらりと剥がれる。
足を伸ばし、手を使って気絶した術者から飛び退く……と、一条の鎖が着地直後を狙って、真っ直ぐに俺へと伸びてくる。
なんとか、寸でのところで弾くが、次々と鎖は俺へと襲いかかり、弾かれた傍から刃先を掠めるような横薙ぎに動きを変え、俺の動きを阻害する。
ゴロゴロと地面を転がりまわる俺を刺す、鎖に負けぬ射抜くような視線。
金の前髪のカーテンの奥、鳶色の瞳を瞬かせロザリエ=ライエンハイトが再起していた。
ライエンハイトの向こうには、今までとんと姿を見せなかったバッハシュタイン。なるほど、道理で攻撃してこなかった筈だ……けど、起こしたのはライエンハイトだけ、か? じゃあ、いまあの嬢様はどうしてるんだ?
俺の疑問に答えるようにバッハシュタインが口を開き――
『娼姫憧憬』
――変化が起きる。バッハシュタインの全身から染み出すように血が溢れて来たのだ
閉じた瞳から涙のように血が流れ落ち、上品な茶髪の一本一本が下品で艶やかな血に浸る。肌から滲み出た血から成る衣装は、教科書や絵画に出てくる、一昔前の貴族と娼婦の衣装を混ぜたよう。
胸元が大きく開き、かと思えば脚はしっかりとスカートで覆われている。しかし、布が薄いらしく、黒のガーターベルトが垣間見え、その奥には白の下着。全身どこをとっても、このようなミスマッチミスマッチミスマッチ……頭が混乱しそうになる。
聖女の祈りのように唇に押し当てられた人差し指と中指、二本の指。その血に染まった爪は鋭利で、妖しく凶悪な明かりを宿している。
おもむろに開かれる目蓋。そこに隠されていた瞳の色は藍ではなく濃厚で蠱惑的な紅紫。
チュッ、と目を開くのに合わせて放たれる投げキッス。チロリと覗く八重歯は、唾液に濡れてぞっとする魅力を放っていた。
何をやってるんだ? などと訝しむ間もなく、それが俺を襲う。
最初に香った甘ったるい匂いを数千、否、数万倍も濃縮したような匂いが俺の鼻を貫き、脳髄を溶かしていき――――あれほど香ったはずの匂いが消える。
視界が歪み、天が地に、地が天に見える。狂ったように虫の羽音が耳元で鳴り続け、自分がズブズブと地面に沈んでいくのが錯覚る。
夜が落ちる、がちょうが泣いて、草と木が喧嘩してる、田舎のお爺ちゃんが竹槍持ってダンゴロ虫を潰してる、潰してる潰してる潰しててててててててててて。
不味い、コレは不味イ。魅了の一種なんダロウが振り払うことがデキない。コウシテイル間にもドンドン幻覚と妄想に喰われていイイイイ。
こノままではどうにモナらない。
ダガ、丁度イイ。俺のビョウキが治ってるカ、この場で確かめルルル……!
静かに目を瞑る。実際がどうだかは分からない、だが一応目の前は真っ暗だ。
ずれた世界の中で、さらに己を隔絶する、埋もれていく、堕ちて行く。音も光も、鼓動も呼吸も、今はいらない。
必要なのは真実、己が魂だけ。あるかどうかも分からない、それを幻視して、俺は声になってるかどうかすら分からない言葉を紡ぐ。
俺が俺だけのために作る、血と涙の詩が魂に響く。
『我、血を呑み肉を食らう者にして、戦を乞い和を厭う者。なれば我が魂よ生なるままに武であれ、武であるままに生であれかし――』
"言霊"とは、かつて古代に生きた人々の生み出し概念らしい。言葉自体は無くなりはしたが、概念が消えることはない。
詠唱魔術がそうであるように、言葉に力が宿る。永劫、人を惑わせ狂わし、魅了し続けるその力こそが"言霊"。
"核"に刻まれた文字を、初め長老は"言霊"と言った。その意味が分かったのは、奇しくも言葉を交わさぬ戦場だった。
『霊・魂・變・化――』
理性を削ぎ、倫理を棄て、主義を絶つ。魂を静かに研ぎ澄ます。触れる者を全てを切り捨てる、刃金のような魂へと、感情と言う一振りの刃を絶対にするべく、研ぎ澄ます――
哄笑が止まらない、頬が引き裂けそうに笑いを止めることができない。何もかもが喜ばしい。
頭の血管が千切れ、興奮で鼻血が垂れる。視界は真っ赤で、臓腑を満たすは汚泥。あらゆるものが憤怒の対象。
瞳を覆う雫はいくらたっても乾かず、胸の痛みに手が勝手に左胸を鷲掴む。全てが哀しい。
あまりの気持ちよさに果ててしまいそう。口の端からだらしなくよだれが流れ落ちる。世界は快楽で満ちている。
――――とは成らなかった。
『カ、カ、ガェァァ……!』
実際に魂を吹き抜けるは虚無。口から出るのは笑いではなく、異臭を放つ濁った汚物。
すえた臭いが鼻を抜け、ビチャビチャと汚い水音が耳に撥ねる。ぼやけた視界には、俺の四肢を狙う血鎖と娼婦の姿が映る。
カカ、病気はまだ治ってねぇか……くそったれめ! いや、いまはいい、何にせよ、感覚は元に戻ってる。
だったら、どれだけ無様であろうとも、ここに稀代の殺戮者"無貌の者"はこの世に再臨だ。
『カッカ……それがどういうことか分かるか……?』
『ッ!?』
バッハシュタインから繰り出される爪撃、その出掛かりを固めた二指で打つ。位置は手首、ダメージを与えるのではなく、差し止める一打。
血鎖はその際の肘や膝、足さばきで防ぎ躱す。
その間も繰り出される爪撃は全て、差し止め差し止め差し止め――! 二人の攻め手は思うように前に進めない――"万変流格闘術:向い風"。
『決着はついたってことだよ、おふた方』
止める一打は迎え撃つ一打へと育つ。袈裟斬りの爪を切り上げの手刀で崩し、横薙ぎをフックで退ける。
血鎖は躱しや防ぎの過程から次へと進み、互いが互いに絡みつき、動きを阻害するように弾き、お陰で段々と動きが鈍くなっている。
まだ、行ける。まだまだ、俺はもっと、もっと! 術を抜けられ、動揺している内にさっさと決める――ッ!
空を走る血鎖をくるりと回って躱し、裏拳でバッハシュタインの頬を張る。そうしてたたらを踏むバッハシュタインに、間髪入れずに飛び掛かる。足元の血鎖はバッハシュタインの体が陰になってる所為で狙いが曖昧でギリギリ当たらない。
肩を掴んで喉に飛び膝蹴り、そして着地。衝撃を殺すため畳んだ膝と肘を伸ばして体当たり、余勢を活かしてしなだれかかるような浴びせ蹴り。
流れるように連撃を叩き込み、片足で地を蹴りその場から退避。案の定、血鎖が俺が居た空間を互いに交差するように抜けて行った。
金属の擦れる軋んだ音、互いを打ち合う刃金の唸り。十条の鎖が絡み、離れ、また絡み……上空へと集う。まるで、蛇が頭をもたげるように。
『"ブリュンヒルト流血法:不安の大波"!』
上から下へ、下から上へ。波打つ血鎖、俺はそれを慌ただしく目で追い、なるほど、考えられた技だと、感心する。
と言うのも、一見この技は十ある鎖を纏める愚を犯しているだけに見えるが実際にはこの技、鎖が統一的に動くのは途中までで、毎度違うタイミングで僅かにだけバラけ、襲い来るのだ。
一本一本精度も上がってる……普通に扱うよりも型がある程度決まってるからか。ま、でもこんなのじゃあ恐るるに足らず、だな。
『ションベンくせえ小娘のくせに、十股なんかしてるから動きが雑になる。一途になれよ、不良少女』
喉笛に喰らいつくように下方から付き上がってくる血鎖。刃の平を見極め、飛び石を渡るようにトントンと鼻歌交じりに越えて行く。
鎖部分を疾走し、バラけさせようとライエンハイトが指を動かした時にはもう遅い。
一際力強い踏切で跳び、宙で縦に回転。重力、遠心力、膂力、三種の力を乗せた必死の踵落とし――"万変流格闘術:山嵐"。
『が変写、"下山風"!』
必死じゃ駄目だろう、と思い直し、慌てて踵を空振らせ背を踏み抜く。
結果、俺は前へと一気に加速、受け身はとれたものの全身擦り傷だらけ。咄嗟の変写としちゃ悪くないが、も少し練る必要があるな、これは。
憮然としながら、砂を払って後ろを振り向く。ライエンハイトの様子を見るためだ、場合によっちゃ早々に重層結界から出してやる必要ねぇと……! などと、考えるのは無粋という他なかっただろう。適任者は別に居る。
『ヒュー、格好いいじゃねぇの、ズィンダー』
下手な口笛と気のない拍手を送る俺をテオドールは無言で睨みつけて来る。殺意にも似た、暴力を匂わせる怒りが奴の背からは立ち上っている。
腕の中には気絶したライエンハイトを抱いており、その足元には引きずったような跡、受け止めた時にできた痕跡だろう。
テオドールが受け止めなかったら、大怪我を負っていたことは想像に難くない。
口の中に苦いものを感じながら、ヘラヘラとした笑みは崩さない。そして、ただ一つの言葉をお互いのために口に出す。
『返事はなし、か。まぁいい、お前で最後だ……かかって来いよ、ズィンダー。本気でな』
言葉に反応し、テオドールの瞳が黒から緋に変わる。本来の紅でないのは、封印の所為だろう。
口元から牙が微かに覗かせ、静かに戦いの構えをとるテオドールからはあらん限りの鬼気が放たれている。
カッ、最後の最後でドギツイもん残しちまったな。そう心のなかで自嘲して、緊張で乾く唇を舌で濡らす。
純粋な力だけで言うならば、春季自主訓練期間に散々相手をさせられた暴走状態のあいつの方が何十倍も強い。
しかし、あくまで力だけでそこに技は一切なかった。お陰でカウンター技も豊富な万変流がある以上、かなりやりやすい相手だった。
が、かなりキレてるのは分かるが、一線は超えていない。……俺の訓練の所為だな、非常に嬉しくない。
それでも、正直なところどっちを相手取るのが楽かと言われれば、やはり暴走状態ではなく、目の前にいるテオドールだ。根本的な力の差はそれだけ絶大だ。
だけどなぁ……変化無し、武器なし……どうしろと。
つい、天を仰ぎたくなる。そんなことしたら、モロに一撃食らってお陀仏できるので、思うにとどめるが。
……まぁ、なんにせよやるしか無いわな。元々、教官になったのも、このためだし。
近くに知人友人が居る中なら気が張って、魂の制御を覚えるのも早いだろう、とてきとーに考えたが、まさかここまでとはねぇ……。
『Shiii――――』
遠い目する俺に隙を見たか、鋭い呼気を口の隙間から漏らしてテオドールが疾走する。
視神経に生命力を割いても、その動きは素早く、大気との摩擦が鳴らす風の唸り声は甲高い。
『――――RA!!』
突進の勢いを乗せて放つ掌底は先立つ風からして、こちらの押し退けるような衝撃を錯覚させるほど。
体勢が大きく崩れることを覚悟で身を反らし、なんとかその一撃を躱す。掌底が掠めた服は塵となって、空に舞った。
続けてテオドールは伸ばした右手を落とし、俺の服を掴み、右腕を腰に絡ませ、左手で襟を掴む。
そうして、テオドールに腕と体で挟むようにして捕えられる。無論、そんなハグだけで済むはずがなく、
『SHARAAAA!』
裂帛の気合が耳を貫き、それに紛れるようにミシミシと骨が不吉な音をたてる。鈍い衝撃が胴から走り――全身へと流れる。
"万変流格闘術:暖簾に腕押し"――割りと間一髪だったぞ、全く。
『離せよ、男と抱きあう趣味は無ぇんだ!』
体を縮め、膝をテオドールのコメカミに叩きこむ。ぐらりと体はよろけるものの、拘束が解ける気配はない。
チッ、頑丈だな、痛覚麻痺してんじゃねぇのか、こいつ。これまでの経験か、それともこれも能力なのか、どうでもいいが面倒くさい!
毒づき、かすかに緩んだすきを突いて、腕と足の振りで腰を一気に捻じり、右の裏拳をテオドールの左肩に、左の掌で左足を打ち、無理やり体勢を崩す。
その隙を突いて拘束から抜ける――
『RUUUURAAAA……!』
ことは叶わず、テオドールの左手が俺の髪を掴み、右手が背に押し当てられる。
己の落下を利用して、テオドールが体重を掛けて俺を地面に叩きつける。衝撃は流せどももろに顔面から叩きつけられたお陰で、鼻の骨が折れ血がダラダラと流れ出す。
先と違い、今度はがっつり髪を掴まれてる。これじゃあ、振りほどいて距離を取るのは無理か……ならッ!
髪を掴む手を取り、左手で親指と人差指を、右手でそれ以外の指を掴み、両手を一気に広げ、テオドールの手を引き裂く。
生暖かい液体が髪に降り注ぎ、懐かしい紅の血が鼻から流れる赤紫の血と混ざり合う。
どこまで裂けたのかは分からないが、出血量は紙で切った程度じゃないのは確か。それ相応に苦痛も大きい筈だ。
それなのに、拘束が解けない。
背を掴んだ右手は力を弱めるどころか、脊髄を握り潰さんと言わんばかりに万力じみた力を発揮し、テオドールの手が肌を食い破り、肉にめり込み、骨に触れる。
痛みに強いってレベルじゃねぇぞ、このくそったれのマゾヒストめ! 立ち上がろうにもこれまた馬鹿力で地面に押さえつけられてるせいで無理。片手で人を制圧できる馬鹿が居るとは世の中広いなぁ、オイ!
喚き散らすのは頭のなかだけ、押して駄目なら引いてみな、だ。テオドールの腕を掴み、持ち上げるのではなく滑らせる。
押し潰された肉は体液と血液でぬかるんでいる。いくら筋力があろうともただの指じゃあ掴みきれない。
再び掴まれる前にと一気に飛び退った結果、肉が削ぎ落とされ二筋の爪痕が背骨の付近に刻まれるが、何とか拘束から抜け出す。
次の行動は互いに同じ、即ち、相手への突進。腰を落として地を駆ける様は飢えた獣を思わせ、そして事実、この闘いは人のものではなかった。
空を穿ち放たれる右の貫手をさらに体を落とすことで避け、曲げた膝を伸ばし渾身の拳撃を顎に見舞う。
テオドールがたたらを踏むが目にはまだ闘志が宿ったまま。彼我の差はほとんど無く、互いに互いの拳が届く距離。
だが、あくまで届くだけだ……必殺の距離じゃない。あと一歩分、踏み込める。
そしてそれが合図だと、誰が言うまでもなく俺とテオドールは理解する。
視線と視線がぶつかり合い、一挙一動が場の緊張を高める。
『なんてなぁ、カッ! 貴族の決闘じゃねぇんだ。来ないなら行かせてもらうぜ!』
言葉に違わず、俺は右の足で踏み込んだ。俺の動きに合わせ、居合のように放たれる手刀。半吸血鬼化した爪は実際の剣と比べても遜色ない切れ味を持つ。
踏み込んだ側とそれに合わせて攻撃を放った側。どちらの攻撃が速いかなど言うまでもなく、事実、テオドールの一刀に俺は為す術なく斬り付けられる。
赤紫の飛沫が舞い、テオドールの服や顔を汚す。つ、と頬に一筋、涙のように血が伝った。
『泣くなよ、決着はついてたんだから――お前らの敗北でな』
テオドールの一刀は確かに俺の胸を切り裂いていた、薄皮一枚分だけ。それもそのはず、俺は半歩しか踏み込んでいないのだから。
意気揚々に放った啖呵も、勢い良く上げ、振り下ろした足も全てはフェイント。相手の攻撃を誘うための小細工。
勢いにそぐわぬ踏み込みで上半身が突き出る。それに任せ地を蹴り、空中で縦に一回転。"万変流格闘術:山嵐"が変写――
『"幻山颪"ッ!』
踵が後頭部を撃して頭蓋にヒビを入れ、そのまま顔から地面に叩きつける。グシャリ、と気味の悪い音と感触が足から伝わり、生暖かい液体が靴の中をドロリと流れる。
立ち上がり、血に沈むテオドールを見下ろす。特に思うことはない、俺の勝ちは決まっていた。いくら病気のせいで全盛期から見るべくもない姿になっていようとこれぐらいは出来る。
むしろ、キツイのはこの虚無感。帰って寝ればある程度マシになるだろうが、まだ仕事は残ってるためそういうわけにも行かない。
『応急処置と行きますか……』
心身ともに疲れきった体を引きずり全ての調整鍵を回収した後、俺はマッチに火を付け、パイプを口に咥える。
誰もいない世界、自分以外の音がない世界で一人。不純な煙を世に放つ。
何時頃だったかねぇ、こんな麻薬を咥え始めたのは……。
遠い目をして、思い浮かべる記憶はおぼろ、病気に掛かってから一度死ぬまでの日々はただ最悪だったとしか覚えていない。
一つ言えるのはこいつを何時も咥えていたということ。何時だって俺は微睡んでいた、いま思えばもうその時には既に今わの際となっていたのだろう。
『フン、記憶がなけりゃ感傷にもなりゃしねぇな』
まだ火種の残る灰を捨て、俺はおもむろに自分の調整鍵を取り出した。