第九十三話:レクリエーション=ヒートアップ
あれから二十一人を何とか倒し、残り人数十五人。いまは最初に居た南校舎ではなく、初めに矢が飛んできた中校舎に潜んでいる。
目立った怪我はないが疲労はある。加えてここに至るまで、幾度か撤退を余儀なくされており、その何人かは十五人の中に含まれている。
具体例を挙げるとするとバッハシュタイン家の嬢さまを筆頭とした、テオドールやロザリエを含んだ六人ほどの団体。決して追わず、別れず、外でああも待ち構えられては如何ともし難い。
『おい、居たか?』
『いや、そっちは?』
それはともかくとして、眼下、天井に張り付く俺に気づかず、間抜け共が言葉を交わしている。その数五人、獲物は短剣を二振り腰に差した男が一人――他の獲物は一顧だにする価値なし。
つ、と引っ掛けていた手を離し、もっとも近くに居た一人の上に着地。そばに居た二人の頭を掴み、落下の勢いのまま立てた膝に顔面を突っ込ませる。
何を思う間もなく踏みつぶした一人は気を失い、二人は鼻血を吹き出しながら、地面に沈む。
敵の反応は素早い、一人は剣に手をかけ、もう一人はその後ろにつく。剣士で足止めし、魔術師で刺す。典型的な配置だ。
それでも、遅い遅すぎる。俺に気づかなかった時点でてめぇらは詰んでるよ
柄を掴んだ相手の右手を捻り上げる。腕に引きづられ、声を上げて身を捩らせる剣士。
その隙を突き、捻った手の指を力任せに反り返す。ボキメキャメキャメキ、枯れ木を踏んだような音が響く。
『イイィィィィィア゛ァァァァ――!!』
と、先のとは比較にならない、耳を劈く悲鳴。男が闇雲にもう片方の腕を振るってくる。
理性の箍を外したその腕は、力だけは強力だ。が、所詮は腕だけの力。受けた肩に熱っぽい感覚を残すだけで、なんの傷にも成り得ない。
『喚くなよ、もう寝てる奴も居るんだからよ』
肩に叩きつけられた腕の裾を掴み、引き寄せながら顔面に肘。
『ブエッ!』
無理やり沈黙させた所で、服から手を離し、頭を掴んで顔面に頭突きを一、二、三度と叩き込む。
前髪から血の雫が落ちる、べっとりと濡れた顔をフッと穏やかではない風が撫でる。
予定を変え、後ろに倒れこむ敵の胸元を再度掴み、盾にした状態で前進。
両肩を鉄血の刃に浅く抉られるが、概ねは盾にした敵に当たるか、あらぬところへ逸れた。
『クッ!』
悔しげな声が聞こえたかと思うと、床を蹴る硬質な音が遠のいていく。……逃げたか、いい判断だ。
既に手の平大まで小さくなった背中から目を離し、重い荷物をその場に落とす。
ポケットから調整鍵を抜き出して懐にしまう。
さて、次は最初の三人の奴を……。回収しなければ、と続くはずだった思考は、俺に向けて飛来した矢に打ち切られる。
頭を逸らして避けたが、目の前には鉄血の糸。なるほど、こいつだったか、教室に矢を打ち込んできた奴は。
『名前はフェリクスだったか? ……そいつは悪い判断だ』
体を反転、廊下の一番奥、階段の踊り場で弩を構える男へ向かって疾走る。
ぶるりと、アッカーマンの時と同じく、蠕動し始める糸、さすがに鉄ほど固いこいつを目の前で切るわけには行かない。
彼我の差、およそ七十メートル。秒数にして、辿り着くまで六秒ほどだろう。
その間、凌ぎ続ける必要があるこいつを。ズリュと、鉄血の糸から穂先が顔を出し、ビクンと微かに揺れたかと思うと、俺目掛けて突きを繰り出してくる。
その全ては一瞬のことで、反射的に避け、無傷で済んだのは行幸だった。
が、同じような穂先が、弩を持つフェリクスの手元まで、まるでパレードでもするかの如くズラリと並んでいる所からすると、あまり意味がなかったかもしれない。
覚悟を決める間もなく、指揮者の合図で槍兵たちが突きを繰り出す。
――その尽くを俺は回避する。否、回避などですらない、俺がしたことといえばただただ疾走るだけだ。
『いくら武器をぶら下げようが、結局使うのは一人。しっかり反応しろや、良い眼鏡掛けてんだからよォ!』
糸から突き出る穂先は、常に一瞬前の俺を貫いた。糸から全方位に同時に突き出せば塞げた事態。だが、それは無理なのだろう。
校舎間を超える矢に、廊下を縦断する矢、どちらも距離が長く、その分血を使う。
これに加えて、廊下を覆い尽くすほど槍を突き出す魔力などあるはずない。
十中八九はそうだろうと踏んではいたが、当たってて助かったな。
残り十メートルと言うところで、フェリクスが魔術を解いて階段を降りていく。
魔術を解いた際には、元に戻った血を顔に浴びせるおまけ付き。
逃げ撃ちか……悪くはないが、もう魔力はほとんど無い筈。となれば罠か、どうにも俺と同じで臆病な奴らしいから、それくらいはしていてもおかしくない。
『とは言え、これからもああいうのに居られると面倒極まりない』
ので、追いたいところだが……。後ろのほうで、階段をのぼる音、衣が擦れる音が聞こえる。続いて聞こえる、ん、と押し殺した力む声。
間違いない、倒した奴らを回収されてるな……仲間思いなことで結構だ。
キュッと踵を返し、足音を殺して、反対の踊り場へと戻る。案の定、そこには三つの体はなく、唖然とした表情でこちらを見る三人の学生の姿があった。
馬鹿が、さっさと荷物を離して逃げればいいものを。
毒づき、動揺に畳み掛けるように飛び掛かる。宙に浮かぶものなど的だというのに、どいつこいつも慌て、手に持つものを捨てることに躊躇する。
無論のこと、躊躇はほんの一瞬のことだ、だがその一瞬の間に三人全員が俺の手の届く範囲――つまりは死線の内側に入っている。
まず、三人の敵と俺の立ち位置を改めて確認しよう。三人は横並び、対する俺は行き先を塞ぐように、真ん中の奴の前に立っている。
敵に獲物は無い、無いが三者とも腕の皮膚が裂け、血が噴き出ている。鉄血魔術だ。
魔術の名を呼んでいないため、どのようなものに変形するからは分からない。
同時に、名を呼んでいない以上ある程度精度は落ちる、この血が刃となろうとも、骨まで断たれることはまずないだろうと推測できる。
こちらは素手、三人の誰であれ一撃で昏倒させるには相応の手間が掛かり、どれだけよく動けても中傷は避けられまい。
よって今後のことを考え、まずは後退。もっとも、ただの後退ではない、攻めるための後退。即ち、溜めだ。軽く飛び退き、着地した途端、大きく跳んで後ろに降り立つ。
三人の内一人が俺の動きに合わせるように振り向こうとするが、足元に置いた味方が邪魔で少しまごつく。
他の二人はそれを嫌ってか、一人は前を向いたまま片刃剣の先端だけを後ろに伸ばし、もう一人は前へ跳びこちらを足場を確保するのと同時に、俺から距離を取る。
差し当たって倒すのは、振り向いたこの女だな。片刃剣の難なく逸し、血塊に覆われた腕を持つ女学生に視線を向ける。
爛々と光る金の眼差し、ニヒヒと浮かぶ笑顔。狙いは顔か、分かりやすい。
頭の両隅で結んだ茶の髪を揺らして放つ剛拳。拳が纏う風は衝撃を帯びており、手を出せば弾かれそうだ。
『うっそ……!』
よって、俺が回避を選ぶのは必然。の筈なのだが、どうもこの娘っ子は避けられるとは露ほども思っていなかったらしい。
舐められたもんだ……やれやれ、これでもカウンターで顔面狙うのは避けてやったんだがねぇ。
内心で肩をすくめ、がら空きの胴にボディブロー。
『ぐえっ……』
えづき、胃液を口の端から零す娘。目尻には苦しさから涙が滲んでいる。聞こえてるかどうかは定かではないが、教官としていうことだけは言っておこう。
『確か、カーラだったな。威力は申し分ない、軌道が真っ直ぐなのも目を瞑ろう。だが、どこを狙うかは一目瞭然なのは頂けないな。お仕置きだ、娘っ子。殺す気で来たんだ、覚悟はしてたんだろ、痛いからな、泣いて喜べぇ!』
言葉を吐きつけながら、左手で服を掴み、まずは胸部、心臓に一打。右手をずらし、先の左手と合して両脇の服を掴み、股間への右膝蹴り。
そのまま足を落として、カーラの足を踏みつけ、首筋を両手刀で挟み打つ。
超至近の連撃ゆえ、片刃剣を持つ男は手出しできない。だが、距離をとったもう一人は狙いを済ましている気配がある。
もう少し痛めつけてやりたいところだが、ここらが潮時か。冷静に判断し、両肩を掴み前へと押しながら跳ぶ。
跳ぶ前に押したため、倒れこむような形で床へと落ちて行く。無論、意図してのこと、このおてんば娘への最後の一撃ためだ。
先に床へ叩きつけられるカーラ、その鳩尾に膝蹴りをめり込ます。落下の勢い全てを込めた、殺人級の一撃だ。
早めの治療が居る。ので、手を胸ポケットに手を伸ばし、調整鍵を前転しながら抜き取り、勢いに乗って、距離をとった一人に突っ込む。
相手はまたも女。暗めの茶髪を後ろ頭に留め、鋭い眼光をこちらに浴びせてくる。
二の腕から腕全体を覆うような形で刃を生やし、両の手の平からは返しのついた鉾の先が見える。
『死ねッ!』
吐き捨てるような言葉に乗せて、放つのは銛。漁師町出身なのかな、などとどうでも良いことを思いつつ、右に左に体を動かし、躱しながら距離を詰める。
だが、どうにも連発可能ならしく、思うように前へ進ませてくれない。ふん、これはどうやら……。
『足止めか』
『ッ――!』
後ろ髪に埋めた第三の瞳が、バレてないだろうとそろそろと刃を伸ばす滑稽な男の姿を映していた。
男は焦った様子で刃を伸ばし、即座に横に薙いでくる。
しかし、なんでわざわざあんなゆっくりと伸ばしてるのかと思って居たが、なるほど。
『脆いな、こりゃ』
足を上げ、薄い鉄板入りの靴で刃を受け止める。と、あっさり、刃先が折れる。
あまり魔術が得意じゃないらしいな、コイツ。その代わり、この女は魔術が得意みたいだな。
目論見がバレたと見ると、女――思い出した、マルガだ――マルガは器用に、鉾部分だけを広げた、スコップにも似た銛へと形状を変えた。
お陰で、ちと食らっちまった。チラリと視線を下にやれば、刃を折った足の腿から薄っすらと血の線が浮かんでいた。
『でもまぁ、必要な犠牲ってやつだわな。なぁ? マルガ』
『ヒッ……!』
短い、喉から絞り出すような悲鳴。血が引いた顔と合わせ、ひどく嗜虐感を唆る。
まぁ、無理もあるまい、俺は掲げた足で銛を叩き落とし、そのまま床を蹴って前へと跳び――死線をマルガの背後に引いた。攻撃範囲内である。
『寄るなァ!』
血刃を纏った腕で繰り出される、ストレート。悪くはないが、よくもない。極めて凡。
腕で顔を覆い、両腕の隙間に飛び込む。刃が服が裂き、皮を切るが、肉まではほとんど届かない。
とは言え、両側を刃に囲まれるってのはぞっとする。この体勢で抱きしめられでもしたら、余裕で昇天できる。
おまけに胸だけは鉄板鎧だ、これじゃあ破城撃は致命打にならない。
手は一つ、屈むだけだ。膝を曲げ、腰を落とすと同時、血刃が逃げ遅れた髪の毛を刈り取る。
ポタポタと落ちる血からして、勢い余って自分の腕も斬りつけたのだろう。いい感じに恐慌してくれているらしい。
地面に手をつき、両足で思い切り突き飛ばし、マルガの体を壁に叩きつける。
無論、この程度で気を失うはずもないが、すぐに動く気配もない――前方には、だが。
後ろから、われ機を得たりとばかりに男が斬りかかってくる。必死に耐え、機会を伺っていたのだろう、その動きは猛っていて尚、精錬されている。
左手を腰に当て、右の片刃剣を上段に構えた、"見張り"の構え。
拳と剣、無手と武器使いの絶望的なリーチの差を利用した、間合いの外からの一刀だ。
まずは右から、手首をスナップを効かせた袈裟斬りを、横に転がって避け、すぐさま立ち上がる。
対して、男は振り返る間を与えぬ、手首を返した振り払うような斬撃。当たる距離では無かったはずだが、踏み込みと刃の延長を持って、どうにかしたらしい。
チッ、好き嫌いせずに手甲ぐらいは付けておくんだったな。いまさら後悔するが、無い物ねだりしても仕様がない。
クルリと体を反転させつつ、左足を後ろに伸ばす。結果、天井を仰ぐような姿勢となり、顎先スレスレで刃を躱す。
視界の端で、壁を支えにズルズルとマルガが立ち上がる。そちらに気を取られてるを見て取られたか、男は今度は足を目掛けた袈裟斬りを放つ。
しかし、片刃剣のお手本みたいな動きだ。力の流れにほとんど無駄がない。
そんなことを思い、左足を上げて刃を避け、左足を落とすのと同時に右足のハイキックを放つ。
無論、届かない。腕を伸ばした剣を持って届く距離、当てられるのは足長おじさんぐらいだろう。
だが、誰しも攻撃をされれば、多少は気を取られる。実力差があれば、尚更だ。
右のハイキックを床に叩きつけ、本命の左後ろ回し蹴りを左肩に叩きこむ。
本当は顔に打ち込む予定だったが、あの体に隠した左手は怪しい、先に牽制しておくべきだろう。
蹴りの勢いで二、三歩後ろにさがる男を追撃。片刃剣を振ろうとした手を左足で差し止め、やっとこさ拳の範囲に入れる。
『さぁ、お待ちかねの時間だ』
足をおろし、剣を持つ腕を両手でとり、その場で反転。巻き込むようにして、男の腕を捻りつつ肩に載せる。ちょうど、相手の肘を肩に乗せる感じだ。
そうして、わずかに体を浮かせ、一気に落とす。肩を軸にベキリと担ぐようにして腕を折る。
『あがえっあっ……!』
ぐにゃりと力が抜けた腕が垂れる。相手が痛みに喘えいでいる間に決着を付けるとしよう。
スッ、と背後に滑るように動き、肘打ちを胸部に、裏拳を顔面に。
両手を伸ばし男の背中を掴み、勢い良く体を前に折ることで投げる。背から地面に落ちる前に、膝を差し込み肩甲骨の間を痛打。
カッ、と男は苦しげに息を吐き、その場に沈黙する。息をつく間もなく、俺を襲うのは二本の銛だ。
寸でのところで半身となり、胸と背中に一条のかすり傷を付けて躱す。
『く、来るな、来るなァァァ!!』
続く、半狂乱での銛の乱射を薄皮一枚で躱し続け、走った勢いを乗せて胸部を蹴りつける。
返ってくるのは鎧の硬質な手応え。だが、鎧は付けていても衝撃は防げない。またも、壁に叩きつけ、今度こそ完全に沈黙する。
だが、まだ終わりじゃ無いのだ。もはや、悠久の昔に思えるが、誰よりも先にこの階に降りたものが居る。
――糸付きの矢が俺の鼻先を掠めた。
『これで三度目だ、いくら何でもワンパターン過ぎはしないか?』
俺の挑発に、フェリクスは無言で応える。糸が横に触れたのだ。
斬撃。よく見れば、矢には本来あるべき鏃がない。糸のトラップに見せかけた、斬糸による攻撃だった。
糸らしく波打つような斬撃は、切っ先が読み難い。だが、それならそれでやりようはある。
近くにあったマルガの体を手に取る、また盾にするのか、と怒気をはらんだ視線俺に向けられる。
『違うよ、こうするんだ――』
マルガの手を取り、糸を掴ませる。革製の手袋が裂け、肉を分かち、血が湧きでる……が無視し、糸が骨に食い込んだところで、思い切り引っ張る。
為す術無く、フェリクスが地面に倒され、俺が引くままにこちらに引き寄せる。慌てて、魔術を解いたようだが、その時にはもはや二秒も掛からぬ位置。
慌てて立ち上がるフェリクス目掛けて、全力で疾走。そして、
『オラァっ!』
気合とともに体を宙で前転。
今まで手こずらせた鬱憤を込め、全力の浴びせ蹴りを見舞う。
『イガアッ!』
声を上げるフェリクスの下に敷き、顔面を殴り続ける。メガネが割れ、鼻が折れ、歯が砕け散る、
俺の手も歯で裂け、傷つくが構わない。完全に沈黙――は、さすがに不味いので、程々のところで止めた。
幸い、意識を取り戻したもの居らず、フェリクスのものを含んだ全ての調整鍵を無事回収。
残りは九、怪我はしたものの動きに支障が出る程度ではない。終わりは近い、気を引き締めていくとしよう。
◆◇◆◇◆◇
しばらく、校舎の中をうろちょろしていたものの、さすがにもう誰かが入ってることはなく、観念して階段を降りて玄関へ向かう。
吹き込む風の冷たさに、体がブルリと震える。ジャッと砂利に塗れた外の石床に一歩踏み出す。
人の気配はない。ただ、不味い空気が辺りを流れるだけだ。
近くの校舎に潜んでるように見えん、ま、この距離で魔術で隠れられてたらどーにもならんが……それもなさ気だな、勘だけど。
軒先の影から出ると、生気のない陽光が容赦なく俺を照らした。思わず、陽を遮るように手を掲げて目を細める。
そうして、疎ましげに見た空には大きな鳥の影。鳥影……鳥? 馬鹿言え、重層結界にそんなのがいるはずない。
常識に従い、頭を振って目を凝らす。そうすれば影の正体が鳥でないことなど一目瞭然。影の正体は――鬼、虚ろな陽に長い銀髪を煌めかせる鬼だ。
貴族の証、"フォン"を名に入れた、生粋の鬼人。
『エルダート=フォン=レームブルック。始祖魔術持ちか、やってくれる……!』
始祖魔術――それぞれの種族に伝わる、その種族にしか使えぬ、先祖返りの秘術。
鬼人族にも幾つかあるのは知っているが、あれは族外にも知れ渡る、代表的な魔術。
――"鳥翼証明"。
かつて、鬼人には蝙蝠によく似た翼があり、今でも骨だけは名残として残っているとされる。
悠久の昔、赤紫の翼を用い、風を喰らって飛んだと呼ばれる鬼人。
壁画として残るその光景が、いま目の前に蘇る。
大空に大きく円を描いて飛ぶ鬼はやがて、つい、と今までの軌道から外れ、俺から見て奥へ奥へと消えていく。
そして、すぐに小粒ほどの大きさとなり――――影は見る見る間にこちらへと近づいていくるッ!
まだ顔も見えぬと言うのに、その周囲には鬼気が揺らぐ。風の唸りが聞こえるような錯覚。
雷を思わせる速度、だがしかし、雷とは違い折れず曲がらず、鬼人は真っ直ぐに俺を狙う。
畳み掛けるように耳に届く、複数の足音。隙間のない打音はまるで、降り立つ鬼人を迎える祝福のドラ。
嬢さまか、目敏いねぇ。そう内心で苦笑して、俺は踵を返す。
『また逃げるのか! 臆病者めぇ!』
逃げるね、まぁ、別にそれ自体は嫌いじゃない、むしろ好きなんだが……生憎、これは逃走じゃ無い――飛ぶ鳥を落とすための弾込めだよ、レームブルック。
流転する視界は、既に玄関を視界の外へと追いやった。螺旋を描く体が遠心力を生み、纏う空気は唸りを上げて俺に従う。
遠心力が注ぐ先は拳。硬く、鋼のように固めた拳だ。
ちょうど一周回転った果て、見慣れた景色に大きな変化。星のようであった鳥は、今では手を伸ばせば掴めそうな距離にある――掴む。
変幻流殺人術:明けの明星、改――
『万変流格闘術――』
風が吹き抜けていく。拳から伝わる確かな衝撃とともに、遠くへと。回転を止める俺を置いて去っていく。
別れの間際、髪を揺らすそれは、爽やかで、清々しい。まるで、雨上がりの朝に吹く風のよう。
故に、この技の名は――
『"朝風"ッ!』
空を舞った鬼人は哀れ、地の小人に撃ち落とされ、牙の尽くを砕かれ地面をゴミのように転がっていく。
砂埃が辺りにもうもうと立ち上がり、血に汚れた地表を覆い隠す。
墜落ちた鬼人の無残な姿に祝福のドラは止む。代わりに鼓膜を揺らすのは、ヒッ、という喉から吹き出る風と、
『今度は逃げないんですか、教官』
扇情的な嘲り。バッハシュタインの嬢様を筆頭に、テオドールにライエンハイト、他六人。残る全ての学生が俺の前に立ちふさがる。
『フン、見え透いた挑発は必要ない。色気も要らん、悪いがガキには興味ないんだ』
『あら、そうですか。ですが教官、女性の扱いは軍では教わらないみたいですね
『カッ、相手が淑女なら俺だって気を使うさ。だけどな嬢、大人の気遣いも分からねぇ小娘相手ならそれ相応の態度になるのも当然だろう?』
俺の言葉に訝しむように片眉を上げるバッハシュタイン。やれやれと、俺は首をすくめてから口を開いた。
『甘ったるくていい匂いだな、バッハシュタイン』
『ッ――――!』
一気に顔を青ざめるバッハシュタインに、俺はすかさず切り込む。ふん、"魅了"なんてガキの癖に生意気なもん使いやがって、親父が泣くぞ。
香水に仕草、瞳に言葉。どれもが合わさって一つの魔術になるみたいだが……こんな匂いを撒き散らしてるうちはまだまだだ。
ま、よく似た麻薬を知ってなければ、気づかなかったかもわからないけどな。
『血盟願望ッ!』
バッハシュタインを後退するのに併せ、背後に控えていたライエンハイトが、十条の鎖を持って俺の行く手を阻む。
先端が刃となった鎖を、避け、躱し、時には弾く。
そんな俺の視界の端で、俺を囲むように、しかし、互いの射線に入らぬように移動しているのが分かるが、鎖に阻まれどうにも出来ない。
オオンと呻きに似た音を立てる炎が横で揺らめき、かと思えば、風がヒュルルと空を啜り、足元では大地がその急な寒さに身震いする。
魔の気配で周囲が満ちる、眼差しは俺を見ているようで、見ていない。がらんどうの瞳が鏡のように俺を映しているだけだ。
凄い集中力だ、俺に攻撃されるとはちっとも思っちゃいない。ライエンハイトの信用はずいぶんと高いらしい。
呑気に感心する俺を他所に、呪言が次々と学生の口から放たれる。
『嘲る痩せ地』
道化よ踊れと、嘲笑う大地の舞台がでこぼこと形を不規則に変え、
『縋る人魂』『風呑む大蛇』
飢える亡者の炎と満足を知らない大蛇がこちらの手を取ろうと舞台の中へ。
『決矢願望』『有侭願望』
賑やかしに来る、腕から無数に突き出る赤紫の鏃、手首からだくだくと流れる鉄血の滝。
周囲からにじみ出る喜色、勝ちを確信した気配。それは、バッハシュタインやライエンハイトも例外ではなく、テオドールでさえ固唾を飲んで見守っていた。
その様子を見て、俺は覚悟を決めてゆっくりと目を瞑った。
寝るまでがゴールデンウィークということで……すいません、ギリギリアウトですね。