第九十話:煉獄へ行こう
四月六日。草花が芽吹き、森の動物達があくびを上げ始める季節――春。
その陽気と冬の寒気が入り混じる廊下で一人、俺は自分の名が呼ばれるのを待っていた。
時刻はまだ短針が九時を指す前、普段ならまだ口を開けて眠っている時間だ。けれど、眠気はない、そんな余裕がない。
扉を隔てて目の前の部屋から声が聞こえる。穏やかながら、芯の通った強い声だ。
耳障りがよく、なんとなく落ち着く、そんな多くの人が好感を持てる声。
それは俺も同じで、最初に声の主に会った時は、どっかの性悪な師匠のことを思い出したものだ。
この先にいる元鬼人大隊隊長――モーゼス=バルチュ翁とはつまり、そういう人物だった。
武勇に優れ、謀略に富み、人望に厚く、幾多の戦場で敵兵の躯を積んだ。手に持つ盃は勝利の酒で溢れ、敗北せども、その苦渋を材料にさらなる勝利の美酒を得る。
魔界紛争の時代から人魔大戦の初期までを軍人として活躍し、年をとってからは軍事教官として、退役した後も軍事特別顧問として後進の育成に励む、鬼人族を代表する理想軍人だ。
……見た目だけなら近所でも散歩してそうな好々爺なんだけどな。まぁ、シャキッと伸びた背によどみのない歩調など、齢八十歳には決して見えない部分もチラホラと見えはするが。
しかし、この前、面会した時も思ったが、言葉使いが誰に向けても丁寧だ。
人生の先達とは、常にこういう人物であって欲しいものだ。間違っても、どっかの師匠みたいなのにはなりたくないね。
……そういえば、いまも元気なのだろうか、あの師匠は。いや、どーでもいいけど。
などと、少しノスタルジックな気持ちになっていると、室内から、
『ルフト=ゼーレ軍曹、中に入って来なさい』
と、俺の名を呼ぶ声が響いてきた。ここまで頑張って気を逸らしてきたが、ついにそれを止める時が来たようだ。
唇を舐め、息を吸い、『ハッ!』と短く返事をする。
横開きの戸を必要最低限だけ開けて中に入り、前を向いたまま後ろの手で静かに閉める。
先の打ち合わせ通り、敬礼だけの簡易な礼をバルチェ翁に行い。バルチェ翁が退いたスペースに立ち、おもむろに口を開く。
『バルチェ特別軍事顧問殿より紹介預かった……鬼族軍鬼人師団歩兵科所属――ルフト=ゼーレ軍曹だ』
少しためらいを挟み、ツラツラといまの自分に付けられた役職を口にする。あいも変わらず、長ったらしくて噛みそうになる。
無論のこと、この経歴は嘘っぱち‥‥では無い。
あいにく、図工は苦手なうえ、得意な友人も居なかった、本物そっくりの書類や身分証明証を手に入れられなかった。
だがまぁ、であれば本物を使えば良い訳で。八時間は起きそうにないほど寝てしまうほど疲れていた事務の方に変化って、俺が書類を作っておいた。
ま、ここらへんはまだまだアナログな魔界だから良かったが、人界だったらもかなり面倒くさいことになっていたはずだ。
ここにはなんて記入すれば? ――ああ、そこには現住所をお願い致します。
なんて、書類を受け取るのに自分同士で会話するのは、内心恥ずかしくてたまらなかった。何が楽してくて、人前で一人小芝居をしなきゃならんのだと計画した自分を半ば本気で恨んだのをよく覚えている。
ともあれ、俺はこうして無職から軍人へと変化した訳だ。
軍人、ではあるのだが、実はいますぐ戦場には行かない。確かに人界に帰ろうと決心はしたのだが、その前に魔界でやることが山ほどある。
ゆえに軍人であってもすぐには出兵せず、かつ魔界でやる仕事の一つをこなせる役職――
『今日より一年を掛けて君たちを正規兵の足かせから、矢避けの盾程度にするよう任された者の名だ。親兄弟、親友恋人の名は忘れてもいいが、俺の名前は決して忘れるなよ――学生諸君』
――即ち、軍事教官。
俺の言葉に学生たちがどよめく。その様子に内心でため息をついてしまう。
どうやら思ったよりも教育は行き届いていないらしい。
もちろん、表情には出さないが……今後のことを思うと、愚痴の一つや二つ言いたくなる。
『黙れよ、ガキども。上官が喋ってんだ、自分の糞を口に詰めてでも声を出すな。ああ、だけど安心しろ俺は紳士だ、淑女には糞の代わりに俺の逸物突っ込んでやる』
ささくれだった心に任せて言葉を並べ立てると、さすがに学生たちも口を閉じた。あまりに汚い言葉に閉口せざるを得なかったとも言えるだろう。
こいつら、と言うよりその上に対して苛ついてるんだけどな……まぁ、今から俺がしないといけないことを思えば、こんな気分のほうが適してるけどな。
『よーし、上官の前で許される言葉は了解、それだけだ。分かったか?』
『Jawohl!』
『なんだぁ、蚊の鳴き声しか聞こえないぞ? 返事はどうした?』
『Jawohl!!!』
『よーし、やっと耳に届いた。俺の耳がいいが良くて助かったな、俺のひいひいばあちゃんならお前らの顔は五倍に膨れてる。だがなお前ら、なに悠長に上官が立ってるのに座ってやがんだ!』
一喝すると、学生が慌てた様子でその場に立つ。何人かはどこかぶつけたのか顔を歪めている。
そいつら一人ひとりをさらに怒鳴りつけ、俺は『一言いっておくが』と前置きして話を続ける。
『たしかに俺は貴様らが盾になれるよう指導しろと、プカプカ葉巻吸ってる爺どもに言われた。けどねぇ、俺にはそんな甘っちょろい指導は無理なんだわ。だ・か・ら、君たちには申し訳ないが煉獄を見てもらう、地獄じゃないぞ煉獄だ。戦争に行くのは一年後だからな、勘違いするな』
『Jawohl!』
『また、蚊が鳴いてんぞ! 外を見てみろ、日差しを浴びろ青瓢箪共、いまは夏か!?』
『Jawohl!!!』
『適当な事ほざくな! いまは春だ、ちょうどお前らの頭といっしょ。軍人学校に来たら、最前線に行かずに済むとでも呑気に思ってたんだろ? 馬鹿が、何時の時代の話だ。お前らもしかして今でも石斧を使ってんじゃないだろうな。上官たる俺が親切に教えてやる、その常識が通じたのも二年前まで、第二次大戦へと移行してから、お前ら軍人学生の行く先は十中八九最前線だ、そうじゃなければ墓の下だ! どっちも嫌なら、上官にケツでも差し出してろ。だが先に言っておくが、俺は男のケツを掘る趣味も無ければ、まだ膜張ってるようなガキに手を出す変態でもない。では、これで俺からの話を終える……前に、一ついい知らせをお前らにやろう。この後すぐの戦闘訓練は、俺が担当する、楽しみにしておけ!』
『Jawohl!!!』
教室内を罵声が響き、それに若い声が応える。さぞかし、他の教室の迷惑になっていることだろう。
眼だけで横を伺えば、バルチェ翁が一人だけが穏やかな顔を浮かべている。
対して、最初こそ若干怯えた様子だった学生たちは、冷静になった今では声を出しつつも不満が表情に出ていた。
やれやれ、まだまだ若い……いや、俺と片手分ぐらいしか年齢は変わらないけどね?
何にせよ、偽物とはいえ教官になった以上、出来る事はするつもりではある。
潜入のコツは真面目にお仕事することだ、少なくとも俺の経験則ではそうなってる。真面目にやっている、それだけで疑いの目は遠ざかる。
……何より、 自分で地獄観光を望むような奴らでも、手を抜いて死にましたでは寝覚めが悪いしな。
死人を出さないなぞと夢物語を聞かせるつもりは無いが、死人を出さない努力を放棄するつもりもない。
拾えるものは拾いたい。例えそれが――本当に与えたい人に与えられるものでないとしても。
『では、バルチェ顧問より話の続きがある、心して聞くように。では、バルチェ顧問お願い致します』
敬礼をして教卓から退くと、バルチェ翁は柔和な笑顔で頷いて教卓に立つ。
それだけで部屋の空気は少し穏やかになり、不満を覗かせていた学生からも眉間の皺がとれる。
手の仕草で着席を促すと、学生は逡巡した様子でこちらの顔を伺いながらも、腰を下ろした。
皆が着席してから数拍おいてから、バルチェ翁の穏やかな声が教室内に響き始める。
『皆さん色々と思う所があったでしょうが、所属する部署にもよりますがいまの軍曹殿の振る舞いが軍隊での普通です。ですが、私は退役した身、それにちょうどあなた達のお祖父様と同じ年頃。どうかあまり気を負わず接してください。そのことで何か彼に言われた場合は、遠慮せず私に報告ってくれて構いませんから』
と、バルチェ翁はイタズラ気に細めた目をこちらに向けてくる。その目線に俺は肩をすくめて応える他にない。
その様子を見て、ポツポツと小さく笑い声が生徒があがる。俺がじろりと目をやると、大体の学生は慌てて顔を引き締めるが一部はニタニタと笑ったままだ。
思わず、眉間に皺が出来、体を動かしかけるがグッと堪らえて俺は翁に剣呑な目を向ける。
『困りますね、バルチェ顧問。甘やかすのは自分の孫だけにしてもらいたい』
『申し訳ない、軍曹殿。そこと……そこの君、そして、そこの貴女。私に対してはともかく、彼に向かっては彼の教えられた通りに接しないと駄目ですよ』
眉を八の字に曲げて翁が謝り、笑っていた学生を指さして嗜める。
だが、相手は言葉を聞いてすぐにこのような態度を取る奴ら。言葉では謝り、理解した風を装うが、目元は未だニヤけたままだ。
不快を越えて、ここまで来ると呆れてしまう。俺やバルチェ翁を見てどう思うかは勝手だが、こうも思ってることが顔に出ると、軍はおろかどんな職についても上手くゆかないだろうに。
うんざりしつつ俺が動こうとした――瞬間、一つの風が室内を疾り、かと思うと何の音もないまま緩やかに弧を描き、例の学生たちが後ろにひっくり返った。
過程に反して、椅子が机や床に当たり騒々しく音をたてる中、倒れた学生をキョトンとした表情で他の学生が眺める。
疑問符が室内に満ち、奇妙な空気が部屋に流れる中、俺は気づかぬ内に強張った笑みを翁に向けていた。
俺の表情にか、それとも空気に向けてなのか、翁は困ったような笑みを一瞬だけ浮かべて、すぐに倒れた学生たちに声をかけ始める。
その声を背景に俺はいま起こったことを頭のなかでまとめる。
いまのは――魔術だ。属性はおそらく風、最初に学生たちを指でさした際に同時に狙いをつけ、反省の色なしと見るや魔術を放ったのだろう。
概念魔術だ、何も唱えていないのはあまり問題にならない。魔術の構築速度、狙いを付ける速さとその正確さも、この三つも人並み以上ではあるが、それも軍人として生きてきた年数からは妥当といえる。
問題は見えなかったことだ。速すぎて、ではない、弾丸は――不可視だった。着弾するその時までは。
詠唱魔術ならいざしらず、概念魔術では概念による制約がかかる。
風や熱などの形のない事象を操る魔術であろうと、他の概念と組み合わせる以上、そちらの特性も引き継がれる。型に嵌められると言い換えてもいい。
例えば、風と猫の概念を混ぜた"風行き猫"の場合、本来なら無色無形のはずの風に猫の形をした膜が出来てしまう、概念の比重に寄っては色帯びたりや光を反射することもある。
だが、バルチェ翁が放った魔術にはそれが無かった。否、あったのだろうが限界ギリギリまで薄められ、不可視同然になってるんだ。
言うだけなら簡単だ、子供だって理解できる。だが、やるとなればそれはどれほど繊細な作業だろうか。
となると、一つ意味が変わってくる部分がある――構築速度だ。熟練した軍人と変わらないのだ、これほどのことをしているにも関わらず。
それでいて、たぶん全盛期より衰えてるんだろう。英雄だの何だろ呼ばれる奴らは、そういうものだ。
自分が埒外に居るから、俺みたいなのと対峙しても慌てること無く冷静に対処しやがる。おかげで逃げるのにえらい苦労したもんだ。
などと、徐々に脱線して当時の状況を思い出していると、いつの間にかバルチェ翁の話も終わりに迫っていた。
『……先ほど、軍曹殿が最前線に送り込まれると仰りましたが、さすがにそれはありません』
翁の言葉に多くの学生が顔に安堵の色を浮かべる。うちの幾人かは同時に、咎めるような視線をチラチラと俺に浴びせてくる。
確かに、最前線に送り込まれるといったのは嘘だ。
だけどと、俺が思うのに合わせたかのように『ですが』と翁が言葉を続ける。
『前のように、戦場から離れた内地に送り込まれることもありません。いま戦場に居る兵たちが受けた軍事教育を受けることもできません。あなた達を含めた、そのようなまだ兵士とも言えないような者らを、前線に送り込まなければならないのもまた事実です』
室内が静まり返る。元より声はなかったが、この静けさは先ほどまでとはまるで違う。言うならば墓場に居るような静けさだ。
一度そう思ってしまうと、とたん陰気な匂い、舐めるような冷気が室内に立ち込めたような錯覚を覚えてしまう。
元々青白い鬼人の学生達の顔に影がさし、それこそ墓場に眠る骸のように見える。
俺のように脅かすような口調でなく、淡々とした口調なのが逆に内容が事実であることを学生たちに示唆させたのだろう。
残酷な話し方だ。軽んずる余地を与えず、真剣に向き合わせる。真剣に向き合うと言えば聞こえはいいが、それは精神的な逃げ場を潰すことと同意義だ。
まだ十八の子供であればなおさらだ。だが、それこそ翁が言ったとおりなのだろう。――教育を受けさせる時間がないのだ。
ひな鳥が呑気に殻を割るのを待ってられない。強引にでもヒビを入れて、叩き割るしか無い。たとえその結果、中が傷つくとしても。
――胸糞悪い。羽はおろか、くちばしすらふにゃふにゃの雛で、どうして戦争ができるってんだ。
傷がついても構わない? もしそれで飛べなくなったらどうすんだよ。
行き場のない怒りが沸々と沸き上がってくるのが分かる。いま何かを言おうとすれば、まず間違いなく怒声になることだろう。
右手を強く握り、音を立てぬように注意しながら、肺にたまった空気を抜き、いつの間にか瞑っていた目を開く。
『軍曹殿が受け取った訓練のカリキュラムを私も見せて貰いました。……八割です』
突如出てきた数字に学生たちの顔に困惑が浮かび、
『八割が――最初の戦場から戻ってこないでしょう』
絶望が一面を覆う。この間も翁は何一つ普段と変わっていない。
窓から差し込む陽の光も、いまではくすんで見える。春の日和もいまでは寒気を引き立てるだけになっている。
――しかし、なるほどやはり英雄と言うものは凄い。何せ、知っていてもこうなのだから。
『もっとも、上からの指示通りにすればの話です。私も、そして軍曹殿もそのような指示に従うつもりは一切ありません。そもそも、前線云々の話も本来なら秘匿事項。あ、だから、他の人には言っちゃ駄目ですよ。そんなことになったら、私も軍曹殿もコレもんですから』
コロッと表情を変え、おどけた様子で翁が自分の首にトントンと手刀を当てる。
場の雰囲気から大きく外れたその様子に、学生たちが戸惑いを隠し切れず、わずかにざわつく。
そのざわつきが収まるのを待って、翁が自信に満ちた表情で口を開く。
『駄目ですよ、軍曹が言ったことを忘れては。あなた達には地獄の前に、煉獄を体験してもらうと、そう言っていたでしょう? あなた達には、他の教室の学生達がお遊戯している間に、大いに苦しんでもらいます。そして、それは地獄でも一緒です。何処の戦場においても、生き続け、苦しんでもらう。国民の礎あるいは生贄、軍人とはそういうもので、英雄とはそれに耐え続けた者の名――将来、あなた達に与えられる名です』
室内の雰囲気が少しだけ明るさを取り戻す。俯いてた学生も面を上げ、翁に縋るような視線を送る。
そして、内の幾人かは疑問に思っているはずだ。なぜそうまでして、と軍を表立って批判する、逆らうそうまでしてなぜと。
それに――翁は応える。真剣な眼差し、わずかに強張り震た声……実に慣れた様子で。
『……当時とはいまでは状況が何もかも違います。ですが、私の息子も戦争が原因で亡くなりました。あなた達に同じ道は辿らせません。このモーゼス=バルチュの名に掛けて』
ここまで明るい表情しか見せてこなかった翁の顔に、昏いものがかいま見える。哀しみと怒りとが混じった昏い色が。
けれど、それも一瞬だけのことですぐに好々爺然とした常の表情に取って代わられる。
その表情にどこか見覚えがあると感じつつも、視線を学生の方に動かす。
ふん、少しはマシになったか。どうせ、今日一日も続かないだろうが、そういう表情ができると分かっただけでも良かった。
良い、良い表情だ。これは打ち合わせになかった……なんて、考える俺よりも、そしてたぶん、バルチェ翁よりもずっと。
口にほろ苦いものを感じて微笑む翁に視線を戻す。その微笑みには薄っすら痛みを滲ませている。
本音半分策略半分で話したんだろう。翁の息子が無くなっているのは間違いないが、それを話したのはこうして彼らに影響を与えるためだ。
汚い手だ。だが軍人、ましてや英雄の手などすでに沼底の澱も同然。今さら汚れがついたところで、だ。
そも翁こそ幾千人もの誰かの恋人を、子を、親を葬ってきているのだ。そんなのが自分の息子が死んだから何だというんだ?
……俺がこうして思っていることなど、翁とて百も千も承知のはずだ。それでも、翁は自分の息子の死を一昨年も、去年も、来年も、再来年も繰り返し話し続けるのだろう。
――全ては学生たちの生きる可能性を少しでも高めるために。
教育は、信頼関係無しには上手くいかない。いくら鍛えたくとも、本人にその意思がなければ結果に結びつかない。
信頼は非常に繊細な植物だ。年月と言う何にも代えがたいものを栄養として、それでも花を咲かせるとは限らない。
そして、再三言ってるが、彼ら学生にはその時間がない。ならば、信頼の代わりとなるものが必要だ。
信頼の代わりとして手っ取り早いのが恐怖。罰を与えることで動かすやり方だ。だがこれも、あまり効率が良いとはいえない。
ならば、どうするかという答えがこれだ。俺が埃かぶった鬼教官を演じ、それとは対象に優しい翁。俺が脅すように誇張したものを、翁が修正し真摯に事実を告げる。その全部が初めてあった時の打ち合わせ通りだ。
落として、上げて、また落とす。学生たちの心はグラグラだ、弱っている。そして、翁はそれに付け入る。
私が君たちを死なせない。苦しむだろうが、我慢してくれ君たちのためだ。二度と息子と同じような人を出したくないんだ――ふん、何処の宗教だ。
人を利用して好意を経て、突き落として拾い上げて、死を利用して同情を引く。
たしかに翁は好人物だが、それだけでは英雄にはなれない。清ないし濁しか無いのは三流、清濁併せ持って二流、使い分けて一流、清しか相手に見せなくなった奴が英雄だ。
全ては学生たちの生きる可能性を少しでも高めるために――とんだ偽善だと、自分でも思う。
だけど別にいいだろうが。俺とて褒めて貰いたくてやってるんじゃ無いし、誰も損してない。
『ゼーレ君、どうしました?』
『は?』
不意に声をかけられ、間の抜けた声が口から漏れる。思考に没頭していた自覚はあったが、想像以上に時間が経っていたらしい。
まだ、どこか覚め切らない頭で周囲を伺えば、すでに室内には学生の影はなく、近くにバルチェ翁がいるだけとなっていた。
『いや……その、少し考え事をしてまして』
『そうですか。……内容は大体は察しますが、申し訳ありませんね、こんなことに付きあわせて』
『察せられてるのなら、そんな言葉はよして頂きたい。例え過程がどうであろうと実行した時点で、貴方も自分も同じ穴のムジナです』
『ふ、そうですね、すいません』
『だから……』
ため息をつく俺に、翁は『これは癖みたいなもので、すいません』とまた頭を下げる。
どうにも俺はこの人が苦手だ。好感は持ってる、人間的にも尊敬できるし、真似ができないとも思ってる。
だが……どことなく、腹が知れない。と言うより、英雄と呼ばれる人種が苦手なのかもしれない。遠い、遠い昔、まだ変化も何も出来なかった頃を、あらゆる外敵に為す術がなかった頃を思い出すから。
何にせよ、今後しばらくは付き合っていくんだ、なるべく苦手意識を持たないようにしないとな。
ふぅ、と鼻から息を抜いて、翁の後を追う形で廊下へと出る。
学生たちは当初の予定通り、訓練場へと移動して着替えを行っているらしいので、そちらに移動するためだ。
やや前を歩く翁に許可をとって、ポケットに突っ込んだ紙巻煙草の箱を取り出し、内の一本に火をつける。
『やはり、学生たちの前で吸うわけにはいきませんか』
『フゥー……と言うより、学舎が本当は禁煙ですから。ホントはいま吸ってるのもご法度ですよ。元嫌煙家としては、迷惑かける分マナーぐらいは守らないとと思います。いや、いまは破ってるんですが』
『軍の人間なら何も文句は言われない中、学生たちの前で吸わないだけでも十分ですよ。今日はもう随分とお疲れの様子ですし』
顔だけをこちらに向けて、翁が微笑む。どうにも、煙に疲れがにじみ出ていたらしい。
いやはや、静謐な学び舎を不健康な煙で汚して悪いね、学生諸君。苦笑しながら窓に近づき、陽光で煙を覆い隠す。
手を組んで、真っ直ぐに上へ突き上げ筋肉を伸ばす。息を一気に吸い込み、春の日和を体に外からも中からも染み込ませる。
パキパキと小気味いい音がなり、再び吐いた息は少しはマシに成っている気がした。
『……どうも、堅苦しいのは苦手でして。バルチェさんともこうして砕けた口調で話せて、正直助かってます』
『いやいや、本来なら退役した私のほうが謙るべきなのですから……すいませんねぇ』
『それはまぁ、確かに形式上はそうなんですけど』
実のところ、軍事特別顧問と言うのは退役した軍人向けの名誉職であり、実務上においては権限は軍事教官である俺のほうが上である。
そもこの特別顧問という役職は、軍上層部が退役後も金を受け取り続けるために作られた役職だ。
実際に何かをする義務もなければ、権利もさしたものは与えられていない。許されるとしたら、教務内容への口出しぐらいのものだ。
『英雄様にタメ口とは中々』
『英雄様、なんて言える人は居るみたいですけどね』
『そいつはよっぽどの大物ですよ、大事にした方がいい』
『フフ、そうするつもりですよ。一年近く共に歩む相棒ですから』
話している内に玄関へと到着。俺は靴を履き替え、外にある訓練場へと向かい、翁は細々とした仕事のために用意された部屋へと足を向ける。
ではまた、と互いに挨拶を交わし、俺は一歩学舎から外へ出る。
日差しに目を細め、微妙に寒い空気に思わず口をへの字に曲げる。
煙草を携帯灰皿に突っ込み、不自然に見られない程度の速度で訓練場へと急ぐ。
体を動かしながら、頭のなかでは今日の予定を思い浮かべる。
ウェストポーチに外から手を当て、忘れ物が無いか一応確認――うん、この棒みたいな感覚、ちゃんと入ってるな。
いや、あの屋敷を出る時、なにかの役に立つと思って持ってきてて良かった。
春休み中といい、今後の訓練といい、大活躍だな、えぇ? さすがだなぁ、俺。
自画自賛することで自分を叱咤し、一度二度を顔を張る。緩んだ顔の筋肉に活を入れ、いかつい顔を作り上げる。
『何やってんだぁ、お前ら! ママゴトやってんじゃねぇんだ! さっさとキッチリ整列しろ!』
訓練場全体に俺の怒鳴り声が轟く、胸中では喉痛いとぼやき、表面上は肩を怒らせながら学生たちの元へと歩む。
俺の最初で最後になるであろう教官生活の開幕。正直、もう閉じてしまいたかった。