第八十四話:僕がする
今回は少し短めです、ご容赦を
死臭と血臭に満ちた廊下は、それだけで意気を削いでゆく。
血の海に浮かぶ、無数の兵士の亡骸。戦場と見紛う惨状、だがここは決して戦場というに値しない。
――死体の数に比して、抜かれた剣があまりにも少ないからだ。
だから、ここは戦場ではなく刑場。外道に与した者の最期を晒す場所。
死者には出来ぬ荒い息、腕のふり、脚のふり――躍動。
未だに新鮮な血だまりが足元で弾ける。液体特有のねっとりとした抵抗、血が染みこみ重くなって行くズボン、じわじわと体力が削られていく。足並みはさっきから遅くなるばかり。全力で走っているはずなのに、一歩も前に進んだ気がしない。
"あれ"に助けられた直後、僕は逃げるようにして廊下を駆けた。
『あっ……』
その所為か、バランスを崩し転倒する。咄嗟に左手を出そうとするが、無い物が出せるはずがない。ただ、袖だけが揺れ、体はしたたかに床に打ち付けられる。
すぐに立ち上がろうと、反射的に閉じた瞼を開く。瞬間、こちらを覗く生気を失った瞳。心臓が一際大きく、脈を打つ。
ギュッと目を瞑り、すぐに開く。隻腕を意識して、焦りながらも傍から見れば滑稽なほど、慎重に立ち上がる。
立ち止まった所為で、疲労が一気に体を襲い、全身がひどく重い。
それでもなんとか、壁に寄りかかるようにしてズルズルと、血の跡を引きずりながら前へ進む。
希望、焦燥、悲嘆、恐怖、困惑、憎悪、自責……内心はこの廊下と同じく、ズタズタでぐちゃぐちゃ。ホントの所、何で自分がこうして進んでいるすらわからない。
――だが、迷うな。
自分に言い聞かせる。進まないといけないから、進む。今は、それで良いんだと。
地下室は寒く、外の寒気をそのまま伝えているかのようだった。明かりが少なく、薄暗いことがその印象を一層強めているのかもしれない。
そも地下自体が地上の階とは違い、大きな石をセメントでただくっつけただけのような、無骨な設計。
山道にあるような、不揃いの石で出来た階段は明かりの少なさも相まって、気を抜けば下まで転げ落ちそうだ。
恐らく、万が一牢屋から抜けだされた場合の足止めだろう。長い間拘束され、弱った体であれば、足を踏み外す可能性も高い。
加えて、この階段は足音が良く響く。地下に相応しい、冷たい、冷たい音が。
ここに囚われた人達は、この音を聞いてどのような思いを抱いたのか、大体想像はできる。
……怖かっただろう、と。それ以外に、何を思えるのかと。
やがて、地下の二階へと着く。看板などは読めないため、様相が変わった辺りからの判断、正確性には欠ける。
目の前に広がる闇は濃い、左右に並ぶ鉄柵の牢屋の中は、より一層。
神経をとがらせ、慎重に前へ進む。隠密というよりは、索敵を意識して。どうせ階段で足音は聞かれている、今更隠密を気取っても無駄だからだ。
もっとも、そんな気力も無いけれど。
自嘲しつつ、音をたてぬよう意識しながら、肺に冷たい空気を送り込み、そして吐く。何でもない動作だが、意識のスイッチが切り替わるのを自覚する。
呼吸に合わせて前へ。止まる、吸う、進む、吐く、止まる、吸う……繰り返す。
そして、また一歩、吸う――その時、すぅ、と自分のものではない呼吸音。
刹那、正面からおよそ風とも言えぬ微細な空気の揺れが、肌を打つ。
自分はまだ、息を吸う、いわば溜めの姿勢。そこに打って出られたということは、出掛かりを抑えられたに等しい。
薄闇に刃の凶光が閃く。一に刺突で喉を、躱されれば刃を下に、落とす一斬で腹を割るそんな軌跡。
退くことは不可能であり、躱すこともまた不可能。選択肢は二つ、受けるか、流すか。
決断が一瞬ならば、思案もまた一瞬。一つを捨て、一つを成す。
後ろに置いた左足を大きく前に、刃に自ら当たりに行く動き。
上体は可能な限りに右に、バランスを崩さぬよう右足はしっかり床を押す。
そうして、僕は刃を受けた。
「――ッ!」
敵からは動揺と焦りの気配が伺える。対して、僕は無傷である。僕は確かに刃を受けた、だがそれは今は無き左腕にだ。
敵の刃はただ袖を揺らし、僕は息を吸いきる――溜めを終える。
咄嗟に相手が手首を返して引き斬る前、出した左足を床に引っ掛けるようにして、右足で地を蹴り一気に間合いを詰める。
そして、
『ハァッ!』
溜めとともに放つ、渾身の一撃。敵の脇腹を打つ、確かな手応え。
嘘、だろ……! 会心だった、全力だった、が――所詮は素人の拳打だった。得られたのは一瞬の怯みだけで、失ったのは溜めた力と貴重な体力。
――諦めるな!
一瞬だけ、垣間見えた絶望を振り払うように、僕は脱力した右手に活を入れ、何かの布を握りこむ。
後ろによろけた敵の体を力尽くに引き寄せ、額を顔面に叩きこむ。一度、二度、三度……狂ったように額で打ち付ける。
相手の顔がグズグズになって行く中、敵が振り回す凶刃が腕を突き、脚を突き、脇腹に突き刺さる。その度に世界から色が抜け、音が抜け、痛みが抜ける。
ついに、じんわりと熱が広がるような、サーッと熱が抜けていくような妙な感覚を最後に世界から熱が――力が抜けていく。
無色無音、無痛無熱、の世界で敵はこちらを蹴り飛ばし、その反動で後ろへと下がる。
「―――――!」
敵が歪んだ顔で何かを叫び、大鎌を思わる動きで右の蹴りを放つ。
左脚、腰、胴、腕、肩……全身運動の果てに出されたそれは、まさしく死神の鎌。怒りに燃える髑髏の瞳には僕の痩せた首が映る。
白い闇に死神の笑い声が、響き渡る。世界は、音を思い出す。
カタカタと五月蝿い響きが、傷に触り痛い。世界は、痛みを思い出す。
急に当たりが暗転する、ハッキリ見えるのは精々が鎌の先端。世界は、色を思い出す。
古くは窮鼠が証明するように――死に瀕してやっと、生命力は燃ゆる。不思議といまがその時なのだと僕は確信する。
右手でそっと、鎌の先端を受ける。ビリビリと伝わる衝撃と熱――世界は、熱を思い出す。
今こそ、師匠(あの人)の教えに従い力の動きを掌握する。
叩きこまれた運動力を推進力に、推進力を回転力に転化――否、変化させる。
石床を穿つような回転、死をを退けるほどの旋風。
一に右の裏拳が頬を砕き、肘が刃を逸らす。ニで右の後ろ回し蹴りが、肩をへし折り。三にて左の上段蹴りが、男の首に炸裂する。
『レウス流格闘術:柳風……!』
三つの緩衝を挟んで尚余りある回転は、石床を浅くこそいでなんとか止まる。
ともすれば倒れ込みそうな、頼り無い足に活を入れて立ち上がり、眼下ものを言わなくなった敵を見る。
呼吸音がかすかに聞こえる、生きている。ただ、強く頭を打ったのか意識があるようには見えない。
なら、それがせめての救いか、と思う。喉に足をかけ、呼吸に合わせて一歩踏み込む。
ゴキリ、鳴る足音は鈍くて、次ぐ二歩目を少しだけ、重く感じた。
やがて、暗がりの中に薄ぼんやりと石壁が現れる。つまりは果て、彼女が捕らえられている牢がそこにある。
つい先程から、上階が騒がしい、かすかに振動までもが届いているほどだ。"あれ"が僕を見送ったことを思えば、上では戦闘が起こってている可能性が高い。
だとすれば、その危険性は計り知れない。あの広間からここまで何層の壁と空間があると思ってる……!
そんな危機感にも背中を押され、もう欠片ほどの力も残っていないはずの体が、段々と前へ進む速度を上げる。
靴が起こす床との擦過音は、その間隔を徐々に短くしていく。
ガシャンと左の牢にもたれかかる、中には誰もいない。ならば、この後ろに彼女は――
『ロザ――!』
絶句した。
果たして、彼女はそこにあった。骸ではない、それでも居たというよりあったというべき姿を周囲に晒している。
ボロボロの衣服は、肌が見えていない部分を探すほうが難しく、傷がない部分など探さずとも無いと分かる。あれほど美しかった金髪も今では血と汚れで目を当てられない。
だが何よりも――目が死んでいた。
何度も向けられた怒りは皆無、哀しみなど目元の跡を見ればもう流れ尽くしたのが分かる。
ただ、絶望だけ。裏切られたという現実を、いつまでもいつまでも繰り返し見続ける瞳は、現在を生きては居ない。
デコボコとした床に、何度も躓きながらも、縋るように牢屋に近づく。
『ロザリエ……』
出てきた声は自分でも情けなくなるほどにか細い、それでも彼女は反応した。
『……何?』
何時もと同じ声、同じ表情。それが、痛々しい。
『助けに、来た』
『そう、で?』
『で、って……』
『ここを出て、何になるの?』
嘲笑。こちらの無知を、自分を顧みて嗤う。そんな、嗤い。
『パパも、ママも貴方のことを愛してる。何時だってそう、ボクのことは二の次』
『そんなことは――』
『だったら、何でパパは貴方の言うことを聞くの――?』
パサリと髪が揺れ、壊れた瞳がこちらを向く。
『な、何のことを』
『貴方があの日のことを話した次の日、急にパパとママが謝ってきた。凄く、嬉しかったけど、何でとも思った。
だから聞いた、そしたらかなり躊躇っていたけど、貴方が気付かせてくれたと教えてくれた』
憤りは一瞬だけ義父に向けられ、すぐに自分へと向けられる。
こうなることを予想できないはず無かった筈。なのに、僕はあの時、良い人顔で何て酷いことを……!
『ねぇ、なんで、なんでパパは貴方の言うことばかり聞くの? ねぇ、ねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇねぇ!!』
壊れている、乞われている、恋われている。愛情に狂い、こわれている。
『頑張れば褒めてくれた、間違えれば怒ってくれた、けど何時だって目は貴方を向いていた! やっと目を向けてくれたと思えば、貴方のお陰……見くびらないでよ!』
瞳に怒りが灯る、烈火のような怒りが。壊れてなお、その怒りだけは弛まずこちらに向けられる。
『貴方の同情なんて要らない! そんなもの受け取るぐらいなら、もうパパからもママからも見捨てられていい!』
そしたら、何? 誰がボクのことを、心配してるの? ティアナ? 彼女だって、貴方に取られた。
挙句の果てに、あの人にも裏切られた……なら、もう、誰も居ないじゃない』
怒りが消え、何もかもを諦めた笑みが顔中に広がる。
『……居る、居るよローザ』
確かに居る、間違いなく居る。義父だって義母だって、ティアナだって彼女のことを心配してないはずがない。
それを、どうやって伝えればいいのかわからない。だから、こんなマヌケな言葉しか出てこない。
『誰が?』
『それは……』
案の定、口ごもる。自分以外の思ってることを、証明など出来るわけがないからだ。
『答えられないじゃない……!』
彼女が静かに怒る、根拠もないくせに言葉を紡いだ僕を。
そして、彼女はポツリと凍えた空間に波紋を打つ。
『……もう、死にたい』
その言葉で、目が覚める。こんな状況ひっくり返すなんて簡単じゃないか。何で気づかなかったんだろうなぁ……全く、間抜けな自分に腹が立つ。
『……する』
『何、ハッキリ言って』
もう耐え切れない、このシリアスな空気に。彼女は大真面目なのだろうが、それが却って滑稽さを増している。
『だからさぁ……僕が』
この大間抜け、何を拗ねてるんだ、目ぇ覚ませ!
『心配するって、言ってんだよぉぉぉ――!』
怒声と共に右の手袋から化外の右手を抜き放つ。
途端、魂を犯そうとする何かを気合とか根性とかそこら辺のもので叩き伏せ、怒りやら恥ずかしさやらを込めて右手を鉄柵に叩きつける。
結界でも張られていたのか、紫電が吹きあがり、右腕が超刺激的な時間を送っているが、無視。
『普通に! 考えて!』
何度も何度も馬鹿みたいに拳を叩きつける。馬鹿にはかなわんと、鉄柵が歪み徐々に隙間を大きくしていく。
『こんな! 所まで! 助けに! 来た、奴が!』
ガンガンガンガンガンガンガンガン! 牢獄サウンドは実に騒がしい。目が覚めたか、ローザ!
『心配しない筈がぁぁぁ―……!』
ギリギリとありったけの感情やら力やらを込めて、
『ないだろがぁぁぁぁぁぁ――!!!』
万感の一撃ッ!
鉄柵が吹き飛び、右腕はほどよりウェルダン、実に香ばしい香りをあげる。
『え、あ、え?』
口をパクパク、目を白黒、大混乱真っ最中なロザリエを無視して、牢屋の中に入る。
僕を見て彼女が怯えるように体を退ける。忌々しい鎖が擦れ、耳障りな音を立てる。
鉄柵を踏み越え、煙を払い。潤んだ瞳で見てくる彼女を認めながらも、無言で鎖を片端から爪で断ち切っていく。
『あ……』
拘束から開放され、ふわりと力なく倒れる彼女の華奢な体を抱きとめる。その体の冷たさに、ドクンと大きく心臓が跳ねる。
怒りから? 不安から? 二つの自問への答えは、否、だ。不謹慎にも僕はいま、舞い上がっている、喜んでいる。
彼女の生を。彼女という存在が、此処にあることを――喜んでいる。
おかしくなってしまった心臓が、狂ったように鼓動を鳴らす。胸に悪くない痛みを覚えつつ、僕はそっと彼女の耳元に口を寄せる。
『だから――帰ろう、ローザ』
そう大きくない腕の中、彼女の体がかすかに震える。その愛おしさに、思わず力が入りかけるが、ふと冷静になり、
『……あの、ローザ。色々とその……当たってる』
前にも言ったがボロボロの服は、ギリギリ局部を隠しているほどで、胸部にいたってはほとんど先端だけ守られているような様で。
嬉しいやら、恥ずかしいやらで……本当は少しの怯えと不安から、しどろもどろで力の入らぬ抱擁。
ここまで来て結局、中途半端。彼女を抱きしめてるような、触れているだけのような、そんな抱擁。
だからほら、彼女も、
『空気、読んで……!』
耳まで真っ赤にして、彼女がじとりとこちらを睨んでくる。その憮然とした表情が妙に微笑まくして、自然と笑みがこぼれるのを自覚しつつ、むっとした声を作って反論する。
『紳士なんだよ、僕は』
『紳士なら、なおさら淑女に恥をかかせないで』
『隠し事は苦手なのさ』
『むぅ、ああ言えば、こう言う……』
ほんの少し唇を尖らて、彼女がブツブツとつぶやく。懐かしい空気だ、何もかもあの頃から変わって入るが、何か大切なモノは変わっていない。
そう思ったのは僕だけじゃないみたいで、こちらがドキリとしてしまうような柔らかい笑みを浮かべて、
『昔の貴方に戻ったみたい。だから、今ので、許してあげる――全部』
――全てを許してくれた。
ぐっと口を引き結び、こみ上げるものに耐える。たぶん今の僕の顔はしわくちゃで、とてもじゃないが彼女には見せられない。
だから思わず、何も見てくれるなと、僕はギュッと彼女を抱き寄せる。
『――ありがとう』
そんな中、ともすれば、聞き逃してしまいそうな小さい声が耳を撫で、服がギュッと掴まれる。
かすかな震え、熱い雫が胸に染みこむ。
そしていよいよ、僕と彼女は二人揃って、互いに抱き合ったまま、静かに静かに、泣き始めた。