第八十二話:悪夢の元凶、夢の最期、現の覚醒
シュボッ! 小気味いい音をたてて、夜闇にジッポーの火が灯る様に、薄暗い部屋を火球の斉射が明るく照らす。
光だけでこちらを燃やしてしまそうなそれを、直感に任せてステップを踏み当たるかどうかスレスレの所を渡り歩く。
『どうした、そんなものか!?』
見え透いた挑発を吐き捨てるが、実際は一つ一つ避ける度にホッと息を吐いている。
灼けつく痛みがはしるたびに体は竦みかけるし、たぶんこうして動いてなければガクガクと震えていることだろう。
大体、いくら吸血鬼となり動体視力も強化されてるとはいえ、業火の砲弾を完全に捕らえられているわけではない。
身体能力に比べ、各部の反応速度の強化率はそう高くない、魔術に依る強化にも劣るほどだ。
だからスレスレで避けている、なるべく体勢を崩さず、いざとなれば大きく飛び退けるように。
結局のところ、この期に及んでまだ腰が引けている。もっとこの異能(力)を信じろ、心酔しろ、驕れ!
ただでさえ技も知識も経験も足りてないのだ、後はこの異能に頼る他ないだろう――!
『ッと! なんだ、もう花火は終わりか?』
叱咤していざ突撃と思った瞬間、火球が止み熱気だけが辺りに残る。
こちらの僅かな動揺も悟られぬよう、大袈裟に肩をすくめて階上に視線を移す。
……魔術師の数が減ってる? だけどこっちはまだ何もしてな――
『ッ!』
唐突に危険を感じ慌てて飛び退くと、先ほどまで僕が居た場所に矢尻の様な火が地面に突き刺さり、ゆらりと消える。
[********!]
理解できない一小節が響くと同時、魔術師たちの手にある火球からついさっき消えたのと同じ尖った火が一斉に放たれる。
サイズこそ一回り小さくなったものの、その速さは目を見張る程。先ほどの砲弾なら、こちらは矢弾だ。
先程よりも速く大きく動いているのに火の矢弾は体を掠め、少しバランスを崩せば容赦なく体を貫く。
このままじゃあジリ貧だ。大きく動けば疲労もたまる、傷が増えれば生命力の減りも早い。
『ま、好都合だ』
追い詰められれば嫌でも攻めに回らざるを得ないからな。
強がりだと自覚しながら、不可視の糸で十字架を右腕に括りつける。
『さぁ、行け……!』
技術に経験、知識に道具、数に場所、ありとあらゆる不利を異能任せに踏み倒せ――!
『う、おぉぉぉ――!』
獣のように吠え、矢弾の雨あられを逆十字で片っ端から弾き、弾ききれず傷を負う体を再生で繕う。
思った通りだ、速さと貫通力に特化した分、抑止力や打撃力は大したこと無い。
この勢いのまま飛び込む!
踏み込みを深くし、膝を折り曲げ力を溜める。慣性に引きづられスライドしつつ身を十字架に隠し矢弾を凌ぐ。
ほんの一瞬、発射の号令の一音が放たれるか否かその瞬間、溜めた力を爆発させ、大きく山なりに跳躍する。
魔術師たちはただでさせ青白い顔をよりいっそう青白くさせている。全く、どっちが鬼人か分からない。
鬼人もどき達は射線を合わせているのか火球に手を当てている。はん、遅いんだよ人間!。
不可視の糸を緩め、十字架を天井に叩きつける。反動で体は重力と合わせ、落下を超え墜落の領域に。
墜落地点は中央、他より偉そうな服装をした魔術師。
どんぐちゃ、ぼきばきゃ、ぷしゅーぶしゃ。
肉を打つ音潰す音、骨を折る音砕く音、血が吹き出、脳漿が飛び散る音。
悍ましく不快なオーケストラ、その指揮者が自分と思うと反吐が出る。
『死っにさらせぇぇぇ――!』
そんな自虐の代わりに怒鳴り、辺りの確認すらせずその場で回転。
糸をゆるめて、より一層の遠心力を十字架に。まぁこれじゃハンマー投げのハンマーだけど!
糸から伝わる何とも言い難い独特の手応え、糸を介し間接的になっている分まだましという訳でもない。
物は透けるんだから、この手応えを消してくれれば少しは気が楽になるのだけどな……。
そんあ僕の愚痴を他所に十字架のハンマーは景気よく一回二回三回四回……と速度を上げながら回転した数を増していく。
二桁に突入してすぐ、硬質な音と手応え、それと肩が砕けそうなほどの衝撃とともに十字架が弾かれ、それに引きづられ三メッセ程後退させられる。
衝撃と回転していたおかげでグラグラと揺れる視界の仲で丁度人二人分ぐらいの高さの土壁が、壁からせり出ているのを確認する。
と、その時背後で声や雑音に紛れ、かすかに鞘走りの音が聞こえる。
十字はまだ後ろに放られたまま、呼び戻して間に合う距離でもなさそうだな。
そう判断し、振り向きつつ熱量を上げた左腕を振るい、目前まで迫った剣をどろりと溶かす。
舌打ち一つ鳴らして退こうとする剣士の喉元へ右手を伸ばすが、紙の角ですられたような熱い鋭痛が走り肘から先がズルリと落ちて行く。
『ア、イィィ――!』
不意の痛みに出そうになった悲鳴を何とか堪え、反射的に白光を放つまで熱せられた左手を右腕を切り落とした敵へと伸ばす。
が、向いた先に敵の姿は無く、代わりにと薄暗い部屋の隅から放たれた矢が歯を砕き口内に突き刺さる。
そして、ドンと少しの振動を感じたかと思うと腹から突き出る血が滴る突剣。
痛い、本当に痛い……! だけどな、馬鹿だなお前は!
『丁度良かった』
敵が退く前に背後に手を伸ばし、力任せに体を目の前へと引きづり出す。
恐怖に引き攣った顔を見て嗜虐心が昂ぶり、美味そうな匂いに喉が鳴る。
『――頂きます』
犬歯がギリリと尖り伸びていく、口内に収まりきれないサイズにまでなったそれを素早く男の喉元へ打ち込む。
息も吸わずに血をすすり、一歩遅れて放たれた魔術を干からびた死体を盾にして難なく凌ぐ。
全身に力が満ち、落ちた右腕は灰と化し、始めは骨続いて肉最期に神経と一から右腕を再生させる。
ピリリと先程よりも鋭敏になった神経が見えぬ刺客を察知する。
『よっと!』
僕は刺客の方向を見ぬまま、十字架を放り確かな手応えを感じ思わず笑みを浮かべる。
自分の口からだらしなく垂れる血を拭い、ちろりと舐める。それだけでより一層全身に力がみなぎる気がした。
今ならなんでも殺れる……! 血に高揚している自分を感じつつも、それを抑えることが出来ない。
恐怖にかすかに震えた声で謳われる聖歌を耳が捉える。
顔だけそちらに向けてみると、そこには残った魔術師が声を揃え、何事かの呪文を唱えている。
黒ずくめの集団が詠う聖歌。これから夜会でも開く気なのか?
『させるかっ――と危ない!』
死の香りを纏った風切り音に即座に体を切り返し、肉厚な斧を受け止める。
辺りに響く硬質な金属音、鼻先で散る火花。
重厚な鎧に覆われた敵は全力で押し返そうとしても、一向に動かない。
『うっそだ、ろ……!』
いかに力を込めようともギリギリと斧と十字架を擦り合わせられるだけ、どんな筋力なんだこの男……!
そもそも何でこんな鎧を付けたまま、飛び掛かってこれたんだ!
くそ、とにかく今ここで足止めを喰らうのは不味い!
糸を緩め、後ろへ飛び退く。鍔迫り合いからこうされれば、ただでさせ重そうな鎧付けてるんだあっさりバランスを崩す……。
そう、僕が高をくくった時、
「AAAGUARAAAAAAA!!」
重鎧の敵は前へと崩れかけた体を、裂帛の気合とともに無理やり縦の回転に持って行き、死の旋風とでもいうべき剛斧の一撃を見舞ってくる。
何がバランスを崩すはずだ、これじゃ退いてバランスを崩したのはむしろこっちじゃないか!
『くっそぉぉぉ!』
十字を右腕に括りつけ、突撃した時と同じく十字架を縦にし斧の一撃に備える。
予想よりも速くそれは届き、予想よりも伝わる衝撃は――小さい。
『な、に?』
懲りず気を抜いたその瞬間、鉄拵えの鋼拳が胴体にめり込み、殴られた勢いのまま壁に叩きつけられずるずると床に座り込む。
いかに僕が生身とはいえ、この力はどう考えても人の枠を外れている。
どうやったのかは知らないが、こいつは、ヤバイ……!
血反吐を吐きながら、得体のしれぬ重戦士に恐怖を抱く――悠長にも。
重鎧の男は僕の十字架に手を伸ばしたかと思うと、片手で難なく持ち上げる。
十字架から血が滴って床を汚し、男はつまらなさ気に首を鳴らす。
そして、男はお前がしたことの意趣返しだと言わんばかりに、十字架を大きく振りかぶる。
無意識に体は躱そうと動くものの、頭を強く打ったせいか足が思うように動かない。
自分の串刺し死体が頭のなかでちらつく。鼻元には濃厚な死の匂いが漂い、背後からは死神の笑い声が聞こえる。
「AAASHAAAAAAAAA――!!」
周囲一体に轟く掛け声に相応しい速度をもって、十字架は持ち主に牙をむく。
五月蝿い、死神の出番はまだ先だ、変な香水つけて来るな!
串刺し死体? 上等だ! だがよく狙うんだな、吸血鬼には心臓しか意味が無いからな!
もっとも――
『止められたんじゃあ、元も子もないだろうけどね……!』
十字架が頭に刺さる寸前で、僕の左手に受け止められていた。
魔操二輪に匹敵する重量の物体が、片手で受け止められたことにさすがの重鎧の男も動揺を隠せていない。
『吸血鬼が、人間に、力負けする筈が――無いでしょう?』
一々指をさしつつ不敵に笑う。ま、言葉は通じてないだろうから、意味があるかどうか大いに疑問ではあるけど。
それに――実際は負けてるからなぁ力比べ。
心中で苦笑いしながら、チラリと左腕に視線を向ける。
相も変わらず炭化しかけの左腕の関節部分に、ついさっきまでは無かったヒビ割れのような、小さな唇が出来ていた。
魔女の告白――熱を利用して一時的に左腕を強化する、魔女狩りの火の奥の手。
しかし、この唇ほんのりと紅がさされている辺り、変に芸が細かい。
いよいよ、僕の左腕は元から魔女の亡骸で出来ていたのではないかと疑ってしまいそうだ。
かすかに背筋を冷やしながら手にとった十字を支えにして立ち上がる。
「EEERAAAAAAA!!」
『来いよ、僕もいい加減その馬鹿でかい声に嫌気が差してきたところだ――!』
重鎧の男は余勢をそのまま斧に乗せ、嵐の如き轟音を伴った斬撃を繰り出す。
反射で飛び退きそうになるのを何とか堪え、斧を限界ギリギリまで引き付け――告白する。
『――"あの薬屋にも魔女が居る"』
告ぐ一節は能力解放のための暗号――灰となり崩れ落ちて行く薬指は一瞬の力の犠牲。
これが、
『魔女の告白――!』
三本指の拳が荒ぶる剛斧を木っ端微塵に砕き、慣性を蔑ろにした急停止からのバックハンド。
男の暴風に対し、疾風じみた僕の一撃は兜ごと男の頭を引きちぎり、部屋の壁に一つ大きなシミを作った。
そこで薬指は完全に崩れ去り、猛烈な虚脱感が僕を襲う。
まるで麻薬だな、取り返しが付かない点もよく似てる。一向に再生しない小指と薬指、二つの指を見て思う。
しかし、なにか忘れているような気がする。と言うより、もはや手遅れなような気がする、そういえば先ほどまで聞こえていた歌が聞こえない。
『――って!』
馬鹿か、僕は! あの男に気を取られ、あの魔術師共の事を忘れていた――!
バッと魔術師たちの方を振り返って見れば、全員が全員安堵に満ちた表情でこちらを見下していた。
――やがて、理解できぬ言葉でその魔術は放たれた。
大気が鳴動し、魔術師たちの背後には炎で描かれた古代文字が彫られた魔術陣が浮かび上がる。
わずかに魔術陣が揺らめき、それは姿を表す。
学術書でしか見られないような、古代遺跡に残る古代人の道具――法具。
何らかの機構に取っ手を付けただけの簡素な胴体、幾つかの円筒をまとめた頭。
かつては古代人が戦争の際に使用したとされるそれの名前は――機関砲。
押し車に乗ったそれは見るからに古臭い、だがその威力は今を持って実現されていない。
目の間にあるのも、所詮魔術に寄って構築された幻想、恐らく一分と持つまい
だというのにこの威圧感、この恐怖!
魔界の教科書にすら載っているこの魔術の名は戦術級魔術――"がなり立てる赤"!
『くっ、そっ!』
男と同じく吹き飛び欠けた十字架を引き戻し、大盾のごとく構える。
その瞬間、耳を劈く轟音と共に火弾による掃射が僕を襲う。
十字架は見る見る間に面積を減らしていき、代わりに被弾する面積が増えていく。
腕や足は既にボロ屑のように成り果て、もはや再生してるかも怪しい。
唯一、左腕だけは複数ある開いた口から火を吸い込み、まだ原形を保っている。
『それも何時まで持つことやら、だ』
血が流れでたことで見る見る自分の体からだ力抜けていくのが分かる、どう考えても奴らの魔力が尽きるよりもこちらの生命力が尽きて、実験動物にされる可能性のほうが高い。
『だけど、降参にはまだ早い』
ボソリとつぶやいて三本指の拳を見る。ヒビ割れた唇はどれも引き結ばれ、頑として開かない。
なら、止むなし――なんて、魔女狩りの時は審判が下されたのだろうか?
恐らく、反論も反証も意味をなさず、一方的に死を押し付けられたのだろう。
『でもせめて、その最後の声だけは封じられる事のないように』
弾雨の中で一人、目をつむり左手を額に当てる。
頭に浮かぶイメージは槌、焼け焦げ血を滴り落ちる無情の木製小槌。
そして、槌は振るわれ死を告げる音が脳裏で鳴る。
キィィィィィィィィィィィィィィィンンンン――――――!
唇が割れ周囲の空気を凄まじい勢いで吸い込んでいく。
その際に鳴る甲高い音はさながら断末魔、その声が大きくなる度に左腕が煌々と燃えあがって行く。
必然、痛みもまた天井を越え僕の体を嬲る。
『くぁ、っうぐぁぁぁぁぁぁ……!』
痛い、熱い、死ぬ、消える、燃える、燃え尽きる、死ぬ、死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ――!
何が痛い、腕が痛い、とにかく痛い、何が悪い腕が悪い、人間共が悪い、僕が悪い、世界が悪い。
全て滅びろ! 世界よ消えろ! 砕け散れ! 燃え尽きろ! ――爆ぜてしまえ!
『――魔女の断末魔!!』
一際大きな悲鳴と痛みが世界を白に染めた。
体を撫ぜる冷たい風に身震いしながら目を開く。
曇った視界には黒い煙と煤けた天井が映り、鼻の奥まで届く悪臭に思わず顔をしかめる。
まだ半ば以上眠っている頭で必死に今までの状況を思い出そうと試みる。
しかし、眠い……少しでも気を抜けば朝まで寝てしまいそうだ。それに無性に喉が渇くし、お腹が減ってしょうがない。
なにより……何でこうも悲しい、自分のことも誰かのことも、何もかもが悲しくて悲しくて堪らない……!
『フゥッ……! ヅぁ痛~!』
なにか危険なものを感じ、頭を近くの床に叩きつける。予想以上の鈍痛に一人床で悶絶し、辺りを転がりまわる。
傍から見たら狂人だな。けど、お陰で少しは目が覚めた……!
『よっこい、ってあれ?』
体を起こそうとして、バランスを崩して無様に倒れる。
いや、なんで倒れたんだ? 滑ったわけでもなし、腕にだって力が入……って。
右腕はいい、ちょっと引き攣ったような感覚はするけど一先ずは問題無さそうだ。
だが、左腕は力が入らないどころか全く感覚がない。痛みもなければ触感もない、と言うよりあるような気配すらない。
『そうか、そうだった……!』
ここでようやく完全に目が覚め、記憶が繋がる。
バッと顔が床に擦れるのも気にせず、左腕があるべき場所に目を向ける。
そこには当たり前の様にくすんだ灰の汚れだけを残した肩と瓦礫だけがあり、腕など影も形もなかった。
『人間はどうなったんだ……?』
起きる時間すらもったいなく感じ、これもまた顔と視線だけを動かし周囲の様子を伺う。
見たところ、汚れたり焦げたりはしてるだけでそんなに被害は出てないようだけど……。
『風は後ろ側から吹いてる』
右腕だけでズリズリと体を引きずり、僕はその光景を見た。
『うそ、だろ?』
かつて魔術師たちがいたらしき方向には、壁も含め辺り一面炭化した瓦礫と燃え滓しか残っていなかった。
代わりに広がる夜景は鬱蒼とした森の上、夜空に優雅に漂う月が壊れた照明に代わり部屋を照らしていた。
ふと、思い返すのはついさっき見た部屋の様子。汚れくすんでいただけの部屋、前を見れば屋根付きバルコニーとなった大広間。
――指向性を持った爆撃、それも超高威力、あんな不完全なものでだ。
あの魔女の断末魔は指が二本欠けているのもそうだが、僕は痛みに耐え切れず熱量供給途中で発射した筈、なのにこの惨状か。
もし、完全な状態で放っていたら、まず間違いなく屋敷は倒壊し僕はともかく彼女は完全に死んでいた。
無論、今目の間に広がる場に彼女が捕らえられていた可能性もあるが、残骸を見る限り破壊されたのは食堂だったようだ。
『ふぅ……』
思わず脱力する、と先ほどと同じ強烈な眠気と忌々しい感情が体を襲う。
そのどちらもを彼女のことを考え、あの男のことを思い出し、何とか押さえこむ。
軽くなった左半身に戸惑いつつも体を起こし、何かにもたれかかるような頼りない足取りでひとまず元の廊下を目指す。
薄汚れたカーペットが掛かった階段を死体を避けながら降りる、どれも見覚えの無いものだ。
ただ、どれも撲殺だったからきっと僕がやったのだろう。
そう思いつつもやっぱり自覚がない、思い返してみれば確かにここでも何人も人を殺したが、とてもあの時見た人数に届いてるようには思えない。
もしかして、同士討ちだろうか? 逃げようとした兵が止めようとする兵と押し問答になって……いや、考えても詮なきことか。
そうして僕は階段を降りきり、緩やかに遅々と怠惰に、油断しきった歩みで廊下へと近づく。
まだ――あの男の姿を見ていないというのに。
『――やんちゃも大概にしろよ、テオドール』
僕がその声に反応する前、カチャリと錠が掛けられる音が鳴り全身から力が一気に抜ける。
『っあ――』
『おいおい、だらしないぞ~? さっきまでの元気はどこに行った?』
激しい虚脱感に崩れ落ちる僕の体をあの男――ゼルフ=トーレがその汚れきった両手で受け止める。
『放せ、糞野郎……!』
『先生に向かってその言い方はないだろう、その言い方はぁ!』
初めて聞く荒々しい声とともに、研究者という肩書からは程遠い威力の拳打が体にめり込む。
『ゴホッ! カホッ!』
あまりの衝撃に息が詰まり、否応なく涙がこみ上げてくる。
くそっ、くそっくそっくそっ! 何でこの必要なときにこの異能は頼りならない!
今までさんざん苦労させられたんだ、今この一瞬だけでいい! 縛りも何もかも無視して、この男を殺させてくれ!
『そんな恨みがましい目で見ないくれよ、これはあれだ愛の鞭って奴だよ、あ・い・の・む・ち、分かるか? ククク、ハハハハハ!!』
嘲笑われることなどどうでも良い、この男がバカ面で油断してる間に何とかこの手錠を――
『ガハァッ!』
『させるかよ、先生見くびるな、クソ吸血鬼。
ったく、よくもまぁホント、うちの精鋭やら研究者兼魔術師やらをここまで殺してくれたもんだ。こりゃ始末書も一枚二枚じゃ足んねぇぞ。
弁解ついでに珍しい魔族の異能者を持って帰れると思ったら、これまた腕が片方しかねぇからしっかり拘束できないしよ。
まぁその様子じゃあ、かなり効果はあるみたいだが、そこらの奴らみたいに死体になるわけにも行かないしな。
あ~あ、ヤダヤダまたあの気持ち悪いデブと睨めっこかよ、笑わない様にすんの大変なんだぞ』
ベラベラとしゃべり続ける途中もこちらからは一秒と目を離さず、時折僕を蹴りつける。
『ま、しかしあれだ、あのデブも――ロザリエちゃんを渡しゃあ、ちょっとはお目こぼししてくれんだろ』
ゼルフが息を吐くように紡がれる悍ましいセリフ。
『あーだけど、あれだな色々イジるからちょっとぶっ壊れるかも分からんからなぁ、満足してくれればいいんだが……』
分かってる、この男は僕が怒り、憎しみ、嘆く、その瞬間を今か今かと待っている。
分かってる、分かってるんだ! だけど……!
『う、あ、あああ……あ゛ぁぁぁぁぁ――!』
涙が止まらない、怒りが燃え上がり、憎悪が煮え立ち――それでも、一切力が湧かない。
『ククククク、フフ、ハハハハハハハハ! 上出来、上出来だ、それぐらい無様な様子を見せてもらわなけりゃぁ――』
ゼルフがすらりと鞘から剣を抜き、嬉々とした表情で切っ先をこちらに向けて腕を引く。
致死性が高く、また速い突きの構え。力が抜けきった体では避けようにもその手段がない。
だから、僕はせめて退かず怯えぬままにゼルフを睨みつけ、
『割に合わねぇからなァ!』
そして――
『がっふっ……!』
『なっ――!』
そして、黒いコートの胸から突き出た剣を目撃する。
呆然と見上げたその顔には血に汚れた白面に右手のペイント。
『レ、ウス……さん?』
『ゴフっ……だから、関わるなと、言った、のに……全く、しょうがない、やつだ』
息も途切れ途切れにレウスさんが応え、震える手で仮面を外す。
叱るような口調なのにその口元には笑みが浮かんでいた。
『あ、あ、あ……』
『おっと、謝るな、よ。疑ったことも、ゴフッ! こう、なったことも』
口から大量の血を吐き出しながら、レウスさんは笑う、安心させるように笑う。
『その、なんだ。悪く、なかったから、な。弟子を取るのも、誰かと一緒に、暮らすのも』
『そんなの、僕だって、僕も、グスッ。師匠が居て、レウスさんと一緒に食べて、話して、ただ居るだけで……!』
『それは、良かった。ギブ・アンド・テイク、私の信条は死ぬまで、守られた』
『死ぬなんて――』
言わないで下さい、とは言えなかった。
だって、死ぬ、死んでしまう。胸を剣に貫かれているというのに、どうして死ぬなと言える? 必死に語りかけ抱きしめたら傷が治るとでも?
だから、こんな僕に言えることは――
『ありがとう、ございました……レウスさん……!』
『ふん、礼も、言わなくて、いいさ……』
ニコリと笑い、レウスさんからガクリと力が抜け、仮面が床に落ちる。
カラカラと揺れる仮面の音がいやに大きく聞こえ、もはや何もする気が起きない。
ただ、まだ生きてるであろう彼女を想い、ごめんと知らず知らずのうちにつぶやいた。
『良い、実に良い! サイコーだ、今年一番泣いたぜ、俺はぁ』
パン、パン、パンと欠片も涙を浮かべること無くゼルフから片手で腿を打って拍手を送られる。
『いやー良い師を持ったな、テオドール! うん、お前は誉れに思うべきだ、この見事な男を!
ブラボー! ハラショー! エクセレント! 俺はこの男を忘れないぞ、なんせ名前を知らないからなぁ!』
何が面白いのか、ゼルフはゲラゲラと笑い自分の太ももを何度も打つ。
――が、突然ゼルフは笑みを無くし、真顔になる。
『まだ、生きてるな、てめぇ』
『ふふふ、バレたか。ま、そうした方が画になるかと思ってね』
ゆっくりと薄くまぶたを開き、荒く息をしながらレウスさんが応える。
愉しそうな口調なのに、その瞳は全然笑っていなかった。
『はん、しぶとい男だなぁ、てめぇも』
『いや何、ちょっと、気になることが、あってね、死ぬに死ねなかった、のさ』
口元からダクダクと血を垂らしながら、レウスさんが嗤う。煽るように嗤う。
『ほう? なんだ、冥土の土産に聞くだけ聞いてやるぜ』
『そう、それだよ。私と彼に会話させてくれたのも、冥土の土産って奴なのかい?』
『うん? なんだそんな事か、ああそうだよ。幾らやらかしてくれたとはいえ、元は可愛い生徒なんでね、それぐらいは許してやるさ。
せめてもの情けって奴さ』
『そうか――情けか。先生、やっぱり昔の人は分かってるな』
ギラリと嗤い、レウスさんからスゥっと力が抜け、仮面を手に取る。
カラ、と仮面が床に擦れる音がいやに大きく聞こえ、もはや目の前の光景に疑念を抱き始める。
ただ、目の前の人物は誰なんだと思い、寄るなと知らず知らずのうちにつぶやいた。
『あん?』
『情けは人の為ならず、って奴だよ先生』
ピチャピチャと血をまき散らしながら、目の前の男は指を振る。
『何だ、嬉しくなかったのか? 為にならないも何も、もうすぐ死ぬんだから関係ないだろうに』
『ハハ、やっぱ理系だなセンセー。そりゃは誤用さ、正しい意味は回り回って自分のためになるから人を助けなさいって意味なのさ』
何が面白いのか、男はケケケと嗤いクルクルと指を回す。
『……てめぇ、何が言いたい』
『なに、大したことじゃない。あいつに話しをさせてくれた分――』
ふと視線を落とせば、剣が突き立つ胸がある。血に染められたコートの色は漆黒から赤銅色に。
その色は――レウスさんに貰ったこのコートによく似ていた。
『――てめぇの寿命が伸びたって言いてぇんだよ!!』
突然、ゼルフの体が横に吹き飛んだ。
程なくして、それは目の前の男の背中から生えた鬼の腕の所為だと分かる。
『何が、冥土の土産、せめてもの情けだ、それを言った悪人が今まで生きてた試しがねぇっつうの。
B級映画でも見て来い、瓶底眼鏡のオタク野郎!』
はらりとフードが脱げ、さらりとした金髪だったものが姿を現す。
誰もが羨む品位溢れるブロンドは、先端から徐々に無骨な黒髪へと変化して行き、
宝石のような碧眼は、一切の光を呑み込む漆黒に。
『あ、ああ……!』
今さらになって教科書の一ページを思い出す。
"無貌の者"、"殺意持ちし隣人"と呼ばれた人物について記載された一ページを。
黒のコートに黒の髪、ありとあらゆる生き物に変化し、殺害した男――己を"変化士"名乗る、大量殺戮者のことを――!
『まぁ、何にせよ』
肩を竦めて、男がゆっくりと口を開く。
『"変化士"ルフト=ゼーレ――見参ってな』
週末更新できなくて、申し訳ありません……!
あと、あと三十分早ければ!(投稿時刻24:29)




