第八十話:幾度蹴落とされようとも
『――何でですかッ!』
ダン! と思わず机を強く叩いて目の前の男に詰め寄る。パサパサと書類やら何やらが落ちる音がするが、いまは拾う気にもなれない。
『だから、さっきから言ってるようにだな――』
『論文がなんです、資格がなんです、そんなのより生徒の命のほうが大切でしょう!』
再び机を激しくノック、今度はマグに入ったコーヒーが波打ち、散った雫が机を汚す。
『分かってる、分かってるともテオドール。ただの紙束や肩書きよりもライエンハイトの命のほうが大事なのは』
『ロザリエと呼んでも気にしませんよ、ロリコン野郎!』
子供をあやすような言い方に一層腹が立ち言葉が荒くなる。
『少し落ち着け! まったく、いやに今日はテンションが高いな、生徒の元気な姿が拝めて先生嬉しくて涙が出るよ』
詰め寄る僕にうんざりといった様子でゼルフ教師が諸手を上げる。
『先生にそんなに目を掛けて貰えてたなんて、僕も嬉しくてむせび泣きそうですよ』
ガタリ、と逃げるように席を立つゼルフ教師の行く手を顔を睨みつけながら塞ぐ。
『逃げやしねーよ、ちょっと台拭き取りに行くだけだ』
『でしたら、丁度ここにハンカチがあるのでどうぞお使いください』
『……用意がいいことだ、それじゃあ遠慮なく使わせてもらうぞ』
そう言ってゼルフ教師は僕が突き出したハンカチを苦虫でも噛み潰したような顔で受け取ると、投げやりな口調でぼやき始めた。
『実際問題、ただの論文なら俺だってスパっと諦めて次の機会にするさ。
だけど、今回提出すんのは研究期間約一年、研究者数総勢二百人の大プロジェクトに関わる論文だ。
その上、この一年の間中々出資者を納得させられるような成果を挙げられて無くてな。
一応、俺はこの研究のその、なんだ総責任者って奴でな、
ここらで一つお偉いさん方の度肝を抜かすような研究成果をズバン! と突き付けてやらんといけんのさ』
『そんな研究にいくら優秀とはいえ、一学生が役に立つとは思えないんですが』
ズバン! とこちらに向けられた指を逸らしつつ応える。
『それが役に立つのさ、なにせ研究の……テオドールこれはオフレコだぞ?』
と、ゼルフ教師はわざとらしく声を潜めて、こちらの耳に口を寄せてくる。
『研究のテーマは"多角的なアプローチによる鉄血魔術の強化方法に関する研究"だ。
実は言うとな……出資者っていうのは国なんだわ、国』
『なっ――!』
聞かされた内容が内容だけに思わず仰け反ってしまう、そんな僕の反応を面白がるようにニヤつくゼルフ教師の顔は不愉快ではあるものの、嘘を言ってるようには見えない。
『嘘は言ってない、なんだったら論文読んでみるか? ……と言いたい所だが、それは簡便な、俺の首が物理的に飛ぶかもしれないからな』
ナハハハハと笑ってはいるものの、さり気なく幾つかの書類を机にしまうゼルフ教師、こちらを脅かすためだけの素振りなのかもしれないが。
『だ、だったら尚更、ロザリエが出来る事なんて無いでしょう!』
『おっと、何時からライエンハイトの事を名前で呼ぶほど親しい間柄になったんだ、ん?
まぁそんなことはともかく、それだけ親しいなら知ってるだろ、というか普通親しくなくても知ってるだろうがな。
ライエンハイトの魔術の成績は筆記も実技も一年時から常にトップ中でも鉄血魔術に関しては歴代と比べてもトップクラス。
これが最高に理想的なんだよ』
『理想的?』
『ああ、さっきも言ったとおり俺がしてる研究は要するに鉄血魔術をどうにかして強化できないかというお話だ。
で、いろいろ俺達が研究してその結果、とある新薬が完成した。
となれば、この新薬がどれほどの効果を発揮するのか比較するしなくちゃいけない。
魔術関連の比較データにおいて年齢は絶対に合わせなければいけない事柄の一つ、魔臓の発達には年齢も大きく関わってるからな。
で、欲しいデータが新薬の使用前と使用後、加えて同年齢での平均があればひとまず形にはなる』
『だったら……』
『だ・け・ど、だ。これにある年齢でも特に優秀な人物のデータを載せることができたら
――この薬を使えば、簡単に優秀な兵士が出来ますよーってアピールできるだろ?』
ニヤリとゾッとするような笑みを浮かべてゼルフ教師がこちらを見つめてくる。お世辞にも教師として褒められた態度ではないだろう。
だがそれで構わないのだろう、少なくとも今この時はゼルフ教師は純粋な"研究者"としてこの話をしているのだから。
『そ、それは……』
見慣れぬ態度に面食らい、しどろもどろになる僕に構わずゼルフ教師は話を紡いでいく。
『大体は軍部の奴らに協力して貰ってるから良いんだが、十八で軍に在籍してるような奴らは基本的に棺の中でな』
『そんな言い方は……』
『おっと、たしかに不謹慎だったな。ともかく、そんな訳でライエンハイトには今少し協力してもらう必要がある、分かったか?』
咎められたのを気にした風もなく、ゼルフ教師がパッと話を戻す。
『事情はわかりました、けどやはり』
『分かってる、俺だって生徒と自分の身が可愛い。あと協力してもらうのは今日の放課後一回こっきりだ、これで勘弁してくれ。
そう渋い顔するな、よく考えてみろ俺とライエンハイトは昨日既に襲われて逃げ延びてる。
どういう目的にしろ、一度襲って失敗した相手に、更に言うならばその次の日に襲いかかる可能性は低い』
ゼルフ教師が諭すように。僕とてそれぐらいは分かってる、分かっているが相手はあのレウスさんだ、相手が警戒してようとなんだろうとどうとでも出来るだろう。
と、言ったところでこれ以上の譲歩は望めまい。なら、ここらへんが落としどころか。
『分かりました。では、失礼します。がなり立ててすいませんでした』
そう、努めて冷静になるように自分に言い聞かせて、背中を向ける。
一瞬、やれやれとでも言いたげな顔が視界に映ったが何も言わず部屋を出た。
『――っと』
部屋を出た途端、バッタリと"当の本人"と出くわす。
出来る事ならすっと横を通り抜けたいところだったのだが、相手は生憎それを許してくれる気はないらしい。
ジトッとした目付きでこちらをわずかに見上げながら、相手がおもむろに口を開いた。
『先生と何を話してたの、ズィンダー』
『世間話だよ、ロザリエ』
会話がわずか一往復で止まり、僕がロザリエを見下ろし、ロザリエが僕を見上げ、互いに睨み合う。
『何?』
『何も、話しかけてきたのは君だろ』
……我ながらずいぶんと感情的になっていると思う。
つい数時間前に二回も死んだ――殺されたのが関係しているのかもしれない。
かつてレウスさんがこの異能の話してくれた時、彼は僕の"意思"が異能の影響を受けている可能性について示唆していた。
レウスさんの予想は当たっていたわけだ……となると、昨日までの僕は何なんだ? それとも、今の僕がおかしいのか?
まぁ、いまはそんなこと……|どうでも良い。レウスさんもだが、僕は少なからずこの少女に対しても怒りを抱いている。
ついこの間ティアナが襲われたというのに、夜遅くまで学校に残るなど不用心が過ぎる……ハッキリ言って襲われても自業自得だ。
そう言ってやりたい気持ちはある、がそんなことしたって益体がない。
『何も無いなら、もう行くよ』
そう思い横を通り抜けようとした僕を袖を掴んでロザリエが引き止める。
『……余計な世話焼かないで』
ふん、確かに彼女からしたらそうだろうな。お節介なことこの上ないと僕も思う、だがこの言い草だと僕だけでなく義父や義母にも同じこと言ったのだろう。
それは、許せなかった。
『世話されたくないなら、その春ボケした頭をどうにかしろよ、ローザ』
手を振り払いながら言い捨て、僕はその場を立ち去った。
昼食を終え教室へ戻ろうとする人波に逆らいながら、教科書を詰めたカバン片手に階段を降りていく。
僕を知るクラスメイトが横切る度に珍しいものでも見たかのようにジッーとこちらを見ながら人波に押され階段を上って行く。
まぁ、実際珍しいのだ、僕がこうして学校を自主早退、ハッキリ言ってしまえばサボることが。
僕だって本意ではない、万が一の時のために家に帰り左手の格好になっておく必要が有るからこうしているのだ。
無遠慮に注がれる視線に居た堪れなくなりつい内心で言い訳がましく訴える。
そうして逃げるようにして階段を降りきったところで、
『なに、帰るの? テオドール君』
バッタリとティアナ嬢に出くわしてしまった。
『え、ええ体調があまり良くないもので』
『……貴方と良い、ロザリエと良い、どうも今日はつれないわね』
ため息混じりの愚痴にはははと空笑いで応じ、所在なく頬を掻く。
そんな僕を面白くなさげに睨み、やはりため息を吐くように嬢が口を開く。
『だけど、いまの貴男とってもいい男になってるわよ、いい人じゃなくてね』
『へ?』
ぞっとするほど艷やかな声が耳を舐め、息を呑むほどに美麗な面に顔が真っ赤になっていくのが自分でも分かる。
まるで別人のような表情、声。否、そんなのは些細なものだ、もっとも違えているのはその身にまとう雰囲気。
例えるな普段の嬢は身持ち堅き乙女、正義信ず姫、自分を信じ貫徹する全てを弾く白。
だが今目の前に居るのはただの女、それも清濁冷熱併せ持つまさにとびきりの貴族の女。
『それがどんなものなのか、良いものなのか、悪いものなのかは分からない。
でもいまのあなたに中心には一本、今までには無かった何かがある。
誰のものでもない、自分で刺した一本の骨子がある。いまの貴男、現実を生きてる気がするわ』
そういってこちらの顔を覗きこんでくる瞳の色は蠱惑的な光をたたえる深い藍。
『これ、持って行きなさい』
言葉とともに瞳と同じ藍色の小さな珠が差し出される。
受け取ることにためらいを覚えるが、それも一瞬のことで僕はぎこちなく女性らしいしなやかな手から珠を取る。
『お守りみたいなものだから肌身離さず持っていて』
不思議と何の疑問もなくその言葉に頷き、『それじゃあ、ね』と横を通り過ぎた嬢が二階へ消えるまで僕はぼんやりと目で追っていた。
校門をくぐり、人もまばらな坂道を上って行く。
手に握っているのは先ほど貰った藍の珠、今になって思うとなんでこうあっさり貰ったのか、なんでくれたのかさっぱり分からない。
『とにかく、明日返そう』
借りを作ると怖そうなタイプだし。
結論付け、藍の珠を落としたりせぬようズボンのボタン付きポケットに入れ、周囲に視線を当てる。
あちこちに見当たる喫茶店を覗けば、まだちらほらと学生の姿が残っているのが分かる。
多くの学生は片手に食べかけのベーグルやサンドウィッチを持ち、口はお喋りに興じている。
コーヒー紅茶はすっかりぬるくなり、まだわずかにくゆっている湯気はどこか物悲しい。
ぐぅぅ……と大きくお腹が鳴る。思い返してみれば、日の出とともに甦ってから今まで一度も食事を摂っていない、体が抗議してくるのも当然と言えるだろう
ポケットから懐中時計を取り出し、蓋を開く。
現在時刻は十二時三十分、帰り着くのは大体一時として、今日は四時間授業だから学校が終わるのは四時頃だろう、食事する時間は十分ある。
『とは言っても、やっぱり目に毒、鼻に毒だ……』
歩いているとふと店内に目を向けてしまうし、どこからか漂ってくる焼きたてのパンの匂いはどうしたって防ぎようがない。
空腹感に苛まれつつせめてと目線を地面に落とす。と、石畳の溝に残る黒いシミが否応なしに目に入る。
一歩一歩上って行く度にシミは目立つようになっていき、坂のある場所でプツリと途絶えていた。
下げていた視線を持ち上げれば、そこには荒々しく文字が刻まれた壁がある。
――関わるな。そう刻まれた文面の頭にくるのは『私に』なのか『この件に』なのか。
『どちらにせよお断りだ……!』
僕にはまだ貴方があんな事する人だとは思えないんですよ……レウスさん。
貴方が前自分で言っていたことだ、あからさまに怪しい記憶喪失者が犯人でした、なんてほんと三流小説もいいトコだ。
現実なんてそんなものだと多くの人は言うだろう、だったら僕は事実は小説より奇なりという言葉を教えてやる。
どうせ生まれた時から"はみ出し者"、いまさら後ろ指の数が増えようが気にもならない。
午後四時、血のような夕陽の光が差し込む廊下をその光に似た赤銅色のコートをはためかせ駆ける。
無論、仮面は外しているが正直少し時期はずれのこの格好で走るのは目立つ上に恥ずかしい。
ともすれば正体がバレやしないかと思ったが、幸い罪人の癖に英雄ごっこかと冷笑されるだけだった。
……僕がオリジナルだよ、悪かったな。こうなった原因への怒り半分に内心で毒づく。
というものの、僕がこうして走っているのも早急に理科準備室――要するにゼルフ教師の研究室まで出頭するようにとの放送があったからだ。
他のならともかく相手がゼルフ教師となれば行かない訳にはいかない。だからこうして通達通り研究室へと早急に向かい、いまやっと着いた。
『失礼します!』
不満を示す意味も含め、乱暴に戸を開き声を張り上げる。
すると、
『すまん、すまん……! テオドール……!』
涙ながらに謝罪の言葉を繰り返すゼルフ教師が僕を出迎えた。
一瞬、わけが分からず呆然とするが、すぐにその言葉の意味することに思い当たり、ゼルフ教師の胸ぐらを掴み上げ問い詰める。
『ロザリエに何かあったんですね!?』
『うぅ……あぁ、すま』
『何かあったんですね!?』
『行方が、行方が分からなくなった……放課後、呼び出しても、来なくて』
苦しげに言葉を絞りだす教師を見て手が疼き、やっと少し冷静になる。認めたくないが、こういう時に"死刑囚"は役に立つ。
『校内は探したんですか? もしかしたら放送に気付いてないだけかも……』
『探した、探したんだよテオドール』
そう言うゼルフ教師の顔からは血の気が引いて青ざめ、ただ頬だけが紅潮していた。
よく見れば全身汗だくで髪や服が張り付いている、本当に一心不乱に探したのだろう。
『……だけど、他の生徒に聞いたら、彼女は昼から居ないと』
昼からだと……! クソ、完全にしてやられた! こっちは夜に襲いかかるものだとばかり……!
動きにためらいが感じられない、物事の切り返しが素早い、臨機応変の攻め手はレウスさんを思い出させる。
それを頭を振って追い出し、動き出すべく口を開く。
『ゼルフ先生はもう一度校内をお願いします、僕は外を探してきますから!』
言い捨て、僕は再びかけ出した。
まずはロザリエの屋敷までの道を全力疾走で駆け抜け、チャイムを連打する。結果は白、道中にロザリエの姿は見当たらず、屋敷にも帰っていないとのことだ。
ただならぬ様子の僕に家政婦の人が何があったのと聞いてきたが、無用に騒がれても困るため何があったかを綴った紙を義父か義母に渡すようにお願いして次へ。
あちこちにお店が立ち並ぶ商店街。肉屋に八百屋、酒屋等々が安いよ安いと至って適正な価格を威勢よく張り上げる中、靴屋に服屋だけは黒は不吉だあの殺戮者を思い出すと、店頭前で超格安の大セールを行っている。
ここであのコートを買ったのかと頭の片隅で思いながら、寄る人が少ない中で涙ぐましく声を張り上げる店員に話を聞く。
結果は白、話を聞いてやったのだからと買って行けと詰め寄る店員にまた次の機会にと慌てて逃げ出し次へと急ぐ。
衛兵の詰め所。白い目を向けられるのを我慢しつつ尋ねてはみるものの、芳しい結果は得られず。
一応は"月攫い"の可能性を伝えてみるも、そういう人多いんですよねと相手にしてもらえず、ライエンハイトの名を出してみても没落した貴族に用はないというのがありありと分かる態度で追い返されてしまう。
そうこうしている内にどんどん陽は落ちていき、気づけば外灯が点灯し、全身は汗でべっとりと濡れていた。
もしかしたら学校の方で見つかってるかもしれない、そんな淡い期待を寄せて学校の方へと足を向ける。
元々、ある程度目星をつけた所を見まわったら戻るつもりで居たので、学校までの距離はそう遠くない。
数分で校門の前に辿り着き、人気がなくなった敷地内へと足を踏み入れる。
普段うんざりするほどの人が集まる場が閑散としているさまは、非日常を感じて落ち着かず、日常が崩れたようで怖ろしい。
今まで何度と無く今よりも昏い夜を越してきたと言うのに僕の足は何故か止まっていた。
なんとなく嫌な予感がする。ここで進めば最後、何か後戻りの出来ない道へと進む予感がする。
『……何を怖気づいてるんだ、僕は』
訳もなく怯えているを作った笑いで叱咤しまずは一歩を踏み出す。次にぎこちなく二歩目を踏み出せば、後はこれを繰り返すだけだ。
校舎に入り、罪悪感を感じつつも土足のまま廊下に踏み入り階段を上って行く。
依然として警戒は解けず、嫌な予感は一歩毎に増す。二階の廊下、研究室には明かりが灯っていない。
他の場所に行ってるのか? と思いながらも一応ノックをしてゆっくりと戸を開く。
途端、溢れかえるむせ返る程の血の臭い、死の香り。
割れた窓から吹き込む風に乗ったそれは僕の全身に鳥肌を立たせ、嫌な予感が正しかったことをありありと見せつけた。
部屋の中に人影は二つ。
一つは机の向こう側で倒れ足だけが見える影、そしてもうひとつは――その影の近く風にコートをはためかせる影。
しかしいま、何の意図があってか雲が払われ月明かりが影達を照らす。
――倒れた影、血に沈むその姿は影とは裏腹の白衣に包まれ、
――佇む影は照らされてなお夜に溶けこむような色のコートをしていた。
月明かりに生える金髪は点々と血化粧を施されその美しさを引き立たせ、鋭い双眸は血によりぞっとする殺人鬼の魅力を湛えていた。
『レウスさん……!』
『……関わるな、と言った筈だ』
そう言って嘆息する姿は呆れるほど何時もどおり、まるで夢のようだったつい最近までの日々のよう。
でも、もうそんな日が訪れることはないのだとこの部屋全体の空気が現実を――死と別れを突きつけてくる。
『本当に貴方が、こんな事を……』
『現実を受け止め給え、この足元にあるのが何よりの証拠だろう?
……何を期待していたか知らないが、あいにくとこの世は何時だって三流小説さ、テオドール』
『っ……!』
『達者でな、テオドール』
そう言って、わずかに哀しげな顔をしたレウスさんが窓から外へと飛び出す様を、僕はただ呆然と眺める。
よたよたと縋り付くように血に汚れた机に手をつき、暗がりにある白衣の人物の顔を覗き込む。
誰だったかなど言うまでもない、生死など確認するまでもない、そこに居たのは――否、あったのはただの死体だ。
全身から気が抜ける、もう疲れたと思う、休みたいとも。
今日は何だ? 幼なじみが攫われ、その幼なじみが慕っていた教師が殺され、殺したのは僕の恩師?
冗談だろ、だれか冗談と言ってくれ。冗談じゃないなら、これが現実なら、神様ってやつはよっぽど性根が腐ってるらしい。
生まれた時から殺人者、町の人々から疎まれ郊外に一人住み、かと思えばほんの戯れのように平穏な日常をちらつかせ、いざ食いついたらたらこれだ。
あの三人に殴られ続けてるほうがまだマシだった、最期までウジウジと悩み続け惨めに殺されるだろうが楽だっただろう。
『うぁ、ぁ、ぁ……!』
こうして無理して立ち上がり、
『レウスさんのやったことにには家主と責任の一端がある、それに嬢に貰った珠も返さないといけない』
こじつけで自分を叱咤して、
『大体、ローザは攫われただけじゃないか、案外得意の魔術でとっくに脱出してるかも』
わずかな希望に縋り付くような真似しないで済んだはずだ。
今この時、仮面を手にせずに済んだはずだ。
『だったら、後で文句を言うためにも精々全力を尽くすしか無いでしょう……!』
ひやりと冷たい面が顔を覆う、視界は狭まり心が震え、飛びかけた頭が徐々に静まっていく。
とりあえずこの場から逃げの一手だ、こんなトコで腰を据えてたら、通りに首が据えられる。
ひと目を気にしながら帰ること数十分、やっとこさ家に帰り着く。
本当なら、今すぐにでも探しに行きたい所だが何のあてもなく探しても時間の無駄だ。
ならば、ここは一端身支度を整え何か情報がないか義父に聞いた方がいい。
帰りすがらに寄れればよかったのだが、さすがに手や靴が血まみれのままで行くわけにもいかない。
汚さないように上手く腕を使って扉を押し開け、 広間の明かりも付けずに洗面所に移る。
靴は別のがあるからそれを履くにしても、この真っ赤な両手は洗わないとな。
とりあえずは肘で明かりをつけて、さてどうやってコックを捻るか、まぁ手を使えば――って待て、ちょっと待て。
なにかおかしい、決定的な何かが。
おそらくとても単純なものだ、その何かは。教えてもらえれば、『ああ、なんだ』と言えるような、それぐらいのもの。
だけど出てこない、その何かがいまは重大だというのに――!
そうやって頭を抱える内、ふと別の疑問が頭をよぎる。
『あれ、そういえば』
――僕、鍵開けたっけ?
そう思った瞬間、ごろりと視界が急転し、赤い液体が床を汚すところが映る、それもまた一瞬のことでやがて視界は暗転し――。