第七十七話:強いられた昔語り
二週間更新すら失敗とは……すいません
ほのかな灯りが卓に並んだ色とりどりの料理を優しく照らす。
鶏皮の艶やかな照りは見ているだけでお腹がなりそうな一方、熟れたトマトがここに居るぞと嫌味ったらしく主張している。
声なき野菜の主張に思わず閉口してしまう、最も元々口は開けていないのだけれど。
目の前の料理への思いを募らせる一方で、バレ無い様首を動かさず目だけで食卓を囲む顔を見回す。
どの顔も豪勢な食事を前に舌なめずりしているようなことはなく、僕と同じく沈黙を保っていた。
その様子を見て内心で頭を下げる、この場を作り出した張本人として。
そうなのだ、今この場は食事とか談話とかが出来る雰囲気にない。
小父さんは未見にシワを寄せ、小母さんは沈鬱な顔で下を見つめる。レウスさんとロザリエは雰囲気を察し状況を見守っている。
そして僕は、こうやって人の顔色をうかがいながら卓を挟んだ向かい側、小父さんが口を開くのを待っていた。
背の方にある時計の秒針の音がいやに大きく聞こえ、無性に焦りが募る。
今すぐ振り返って時間を確認したい。そんな誘惑と戦い続けること三分、秒針が時計板を百八十周した瞬間、ようやく沈黙が破られる。
『テオ、今日は何でこの屋敷に呼ばれたのか、理由は分かっているね?』
穏やかな声にすぐに返事しようとするが、長らく緊張下にあったせいか口が乾いて上手く言葉が出てこない。
嫌な汗を流して、どうにか喉から声を絞り出す。
『はい』
声が裏返り掛けたがそこは何とか抑え、ゴクリとつばを飲み込む。
不思議なもので一言返しただけで、続く言葉は苦なく発する事が出来る。
『学校の件、ですよね。しかし、なんで小父さんがご存知なんでしょうか?』
……中々答えが返って来ない。不味い質問だったのか? いやいや、そもそもこの空気で何を図々しく質問してるんだ僕は!
焦燥、恐怖、動揺、自責……コロコロと内心で表情を変えつつ、表面上はどうにか平静を保っていた。
例え、目は豪快に波しぶきを上げて泳ぎ、口元には引きつった笑み、机下の両手は忙しなく太ももオルガンを弾いていても平静を保っていると言わせてもらう、言う分には自由だ。
とりあえず視線だけでも元に戻せと、自分を叱咤して小父さんの顔に焦点を合わせる。
と、小父さんがなんとも複雑な表情を浮かべてこちらを見つめていた。
合わせるわけではないが、僕もその表情をみて恐いような拍子抜けしたような複雑な心境で首を傾げる。
人の振り見てなんとやら、僕の顔を見て小父さんは自分がどういった表情しているのか気付いたのか、取り繕うようにキリリと顔を引き締めて口を開いた。
『今日の戦闘訓練での事は娘から……』
『え? ロザリエが?』
予想外の情報源に思わず小父さんを遮ってしまう。すいませんと頭を下げつつ、責めるような尋ねるような視線をロザリエに送る、一切気づかれなかった。
『……事情もあったと聞いています、百歩譲って今日の事は問いただしたりはしません』
しかし、と小父さんが話を続ける。その時にはもう先ほどの動揺の名残は露ほども残さず、こちらを射竦めるような鋭い眼光を湛えていた。
『どうにもかなり前から今日と似たような事があった、と娘からは聞いています。
今日の相手……アドルフと言いましたか? ともかく相手に加え、他二人の子供に不当な暴力、所謂いじめを受けていたと』
『な、な……』
何でそのことを、と言おうとして慌てて口を閉じ、代わりの嘘を吐く。
『何を、言ってるんですか? いくら何でもそんな事は……』
『貴方が! そう先生に言っていたと、私は聞いています』
小父さんが怒声と共に机を叩く。食器が一瞬だけ浮き、小父さんの額にビキビキとひび割れたかの様に血管が浮き出る。
初めて見る小父さんの様子に、小母さんを除いた誰もが驚きを隠せないようだった。
特にロザリエは自分が余計なことを言ったとでも思っているのか、顔が青ざめ視線が下を向いている。
悪いのは僕でロザリエ何も悪く無いと言いたいのは山々だが、今更そうするぐらいなら最初から嘘を吐くなと左手が疼う。
『どうなんですか? 私には娘が嘘を付いてる風には見えませんし、君が先生に向けて嘘をついたとも思えません』
普段の涼やかな態度は鳴りを潜め、瞳に怒りを燃え滾らせて小父さんは努めて冷静な声を作って言葉を重ねる。
『となると、必然今ここで君が嘘をついたという事になります。もう一度聞きましょう、本当はどうなんですか?』
心の表面。異能に囚われた自分が語りかけてくる。
素直に謝れと。"恩人"に対して"迷惑"を掛けたくなかったのだと――本当はただ異能にかこつけて信頼せず、縋った途端手を叩かれそうで、恐怖に震え疑心暗鬼になっていただけの癖に。こうして黙っているうちにも右手が左の手袋へと伸びていく。
心の深奥。異能に覆われた自分が語りかけてくる。
素直に謝れと。"家族"に対して"心配"を掛けたくなかったのだと――本当はただ意地を張ってだけだと、何もかもが無意味だと格好つけて、自暴自棄になっていただけなのだと告げろと。こうして黙っているうちにもくだらないプライドどんどん口を固くしていく。
でも、そのプライドが今ようやく『いい加減、優しさに甘えるのはよそう』と、『もう子供じゃないんだ』と声高々に告げる。
背中を押されたような気がした。
だから、
『今まで嘘をついていて――何も話さなくて、ごめんなさい』
謝った。手と額を机に押し付け、今までの欺瞞の全てを謝る。情けなさを噛み締め、弱い自分を責め立てて。
『今回の事だけじゃありません。迷惑を掛けたくなかった、心配を掛けたくなかった。そんな嘘を今まで僕は吐いてきました。
本当は頼るのが恥ずかしかっただけです、信じるのが怖かっただけです』
心が語ってくれた本当の事を躊躇する前にどんどん口から吐き出していく。
だけど、これじゃあまだ足りない。
所詮、今までの本当は一つの嘘の上に成り立っている。過去から目を背けた、僕の道をねじ曲げたあの嘘の上に。
過去と向き合うと決めた、それでも口は動いてくれない。臆している、怯えている、逃げ出している。
ならば、もうひと押し。今まで押さえ付けられた異能に役だってもらうとしよう。
『"自白強要"執行』
<音声認証:自由刑"ディレクトリ内、自白強要"発動準備>
手袋に掛かった右手を引き、黒の獣の首輪から左手を解き放つ。
ひやりとした空気を握々と吸う左手に虚空の小槌を掴ませ断罪の音打ち鳴らす、かくして罪人は黙秘を自由を奪われる。
『だから今、小父さん達に吐いてきた一番大きな嘘を打ち明けます』
今までの口の重さがそれこそ嘘のように消え、胸の澱に溜まっていた汚泥の様なそれを吐き出していく。
異能に縋らなければ踏み切れない、そんな自分を内心で唾棄する。
『一番大きな、嘘……?』
小父さんが呆然と呟き、小母さんが同じく信じられないような目でこちらを見る。
レウスさんは僅かに眉を傾け、彼女はハッとした表情でこちらを見つめていた。
『はい。今でも忘れることの出来ない、十年前の四月二十五日。僕の八歳の誕生日……僕が父を殺した日です』
父と口にした瞬間、脳裏にノイズ掛かった映像が流れ、全身が濃い現実感を伴った幻痛を訴える。
『……殺したなんて言わないでください、あれは事故で――』
『違います。父の死は断じて事故などではありません』
再び痛みとともに映像が走る、先程のよりも鮮明な絵で。現在と過去を行き来するような錯覚に溺れながら、僕は誰へともなく言葉を紡いでいく。
『事故ですよテオ、あれは君が運悪くもう一つの異能の解放条件を満たしてしまった、そういう事故なのです』
『それが嘘なのです。あの日、僕は願ってこの両手を黒の獣に差し出した』
徐々に過去の映像で現在が塗り替えられていく、そうなる前にと口を開いて僕は――
◇◆◇◆◇◆
『あー……あったか~い』
気づけば僕はあの日の夕方、今は無きユスティ家の屋敷の居間でロザリエと二人並んで暖炉の前に座っていた。
二人して全身をぐっしょりと濡らし上等な絨毯には点々とここに来るまでの軌跡が刻まれていた。
確か、外で遊んでいたら突然の雨に降られたのだ。今であれば舌打ちの一つでも打つだけだろうが、当時の僕は悲鳴のような歓声のような高い声で笑いながら彼女の手を取り屋敷へと逃げ込んだのだ。
『うん、テオの手、温かい』
そんな淡々とした声がすぐ隣で聞こえ、不意にギュッと暖炉にかざした手を握られる。
冷たかった、と言うことは必然僕の手のほうが温かいのだろう。
『けど、暖炉の方が温かいよ』
僕がその先を思う前に当時の僕が口を開いていた。当たり前だ、別に僕は十年前にタイムスリップした訳ではない、夢という形で追想しているに過ぎないのだから。出来る事といえば、ただこの光景を見て過去に思いを馳せるだけだ。
『そんなのは分かってる、わたしは君よりも頭がいい』
むっとした表情でロザリエが口をとがらせる。ああ、確かにそうだった今も昔も彼女には運動も勉強も勝てなかった。
だけど、なんとなく違和感を感じるなと頭を捻っていると、当時の僕が彼女に負けず劣らずのむっとした顔で反論する。
『ふん、頭いいのにこんな簡単なことはわからないんだなローザ』
随分とこまっしゃくれた子供だなぁ、とため息をついているとここでようやく自分の手にあの手袋がはめられていないことに気付く。
それもその筈、か……。この頃の僕はただの"死刑囚"であり、今のように処刑衝動や殺人衝動もそのための異能も持っていない。
だけど、今は僕は死刑囚であり司刑囚。どちらの衝動も持ち合わせ、その為の異能も両手に宿っている。
素肌を見せる僕の手から目を離し、手元を見やれば禍々しい黒の獣が目を逸らすなと言わんばかりにこちらを睨んだ。
『もう良い、わたし帰る。誕生日、祝ってあげないから』
意識を現実に……いや、過去なのだが。ともかく目の前に戻してみれば、いよいよ険悪な雰囲気となりロザリエがすくっと立ち上がる。
『帰れ帰れ、そんなむっとして不細工な奴に祝われたくないからな!』
必死に口を噤ませようとするが、一向に体は言うことを聞いてくれない。
最低にも程がある言動に自己嫌悪で比喩無く死にたくなってくる。
女性に向かって不細工は無いだろう、不細工は。大体、ロザリエが不細工だったらお前なんぞただの廃棄品だ、テオドール。
『ッ……!』
案の定、ロザリエが目に涙を溜めてまだ雨の降り注ぐ外へと飛び出していく。
馬鹿な僕はその光景をただ呆然と眺め、やがてオロオロと落ち着きなく部屋の中をうろつき回る。
そうして十周ほど回った頃だろうか、あの人が部屋の中へと入ってきたのは。
『何をしているんだ? テオ』
声を掛けられた途端、僕はビクンと背を震わせ恐る恐ると言った感じで声の方向を向く。
『と、父さん』
『答えなさい、テオ。お前はそんな格好で何をしているんだ? ヨアヒムの娘は?』
あの人の問いに幼い僕はチラチラと顔色をうかがうばかりで、何も答えようとしない。
そんな僕の態度に無表情であの人は腕を振り上げる。
『"人狼願望"』
思わず全身に鳥肌が立つほど凍えた声が目の前の肉親から吐き捨てられると、腕に横断するように一筋のヒビが入る。
途端、浅そうな傷跡からは見る見る間に赤紫色の、鬼人族の血、魔液が流れだしていく。
だが、それは決して自然な動きではなく、作為的。腕の丁度中間、右肘ほどまで覆うように流れていく。
"鉄血魔術"――魔力の素となるその液体は、極めて同質の魔力によって互いを強固に結び付け合う事でこの世のあらゆる名剣と切り結べる剣を、あらゆる魔剣を弾く盾を作り出す、他の種族の二倍の魔液を持つ鬼人族以外には扱うことの出来ない秘術。
鍛鉄の刃と化した五爪は暖炉の火に照らされ美しくも凶々しい魔性とでもいうべき魅力を放つ。
僕がそれに完全に魅入られていた、その瞬間――刃が閃いた。
そして、場面が暗転する。
何時の間にか僕は真っ暗な空間の中で独り佇んでいた。
寝起きの様な曖昧な意識でキョロキョロと周囲を見回していると、どこからともなく映写機の回るジーという音が聞こえ始める。
暗闇のスクリーンに映る、五、四、三……最後の一が消えた瞬間、最初に映るのは哀しい瞳をした壮年の男。
男はすぅ、撮影主との方へと手を伸ばすと、画面がグラグラと揺れ始める。頭を撫でられているのだ、と不思議と理解できた。
しばらくはそんな映像が続いた、キャッチボールをする男、食事を摂る男、暗い食卓で独り泣きながら酒を呑む男。
目の前が急ににじみだす。泣いているのだと、気づくのに数秒掛かる。
なんでこんなにも悲しいのか、なんでこうも胸が締め付けられるのか、なんでこうも救われた気持ちになるのか、それは分からなかった。
やがて、男が頭を抱えて苦しみだす所でブツリと映像が途絶える。
数秒にも数時間にも感じる時間が流れ、再び映写機の音が聞こえ出す。
男は拳を振りかざしていた、男は焼けた鉄の棒を掲げていた。男は赤紫の剣を突きつけていた。
どれもが撮影主に向かってのものだった、演技というにはあまりに迫真、あまりに狂気的なその画に僕は情けなくも恐れおののき、腰を抜かしていた。
ガチガチと歯を打ち鳴らさ、冷や汗で服はじっとり濡れる。気が遠くなっていきのと同時、意識が浮上しているようにも感じる。
矛盾した感覚に嘔吐しかけた、次の瞬間――
――僕はあの時へと戻っていた。
先程から相次ぐ場面の転換に頭が追いついてこない。
目を瞬かせて(実際は出来ていないのだろうが)、落ち着きを取り戻していくとどうにも幼い自分が床に倒れているらしいという事に気付く。
と言うのも、視線が低すぎるのだソファーの下に落ちた硬貨までしっかりと見える程に。
早く、早く顔を上げろ! 自分に向けてと言うこともあり、苛立ちを隠さず叱咤する。その度に、これは過去の事でどうしようもない事なのだと自分を諌める羽目になる。
『う、うう、あ』
やがて、過去の僕がうめき声を上げながらゆっくりと体を仰向ける。
拳が振り下ろされる、何度も、何度も、何度も。
心も体も磨耗しきっていたのもあったのだろう、かろうじてその感情を、意思を押しとどめていた防波堤は既に崩れかかっては居たのだ。
そしてこの日、唯一心を許せた彼女が僕の元へと去ってしまった、他でもない自分のせいで、切っ掛けは大したことはなくとも去ってしまった。
最後のひと押しだったのだ、それが。呆気無く防波堤は崩れ、その意志は今まで貯めていた分途方も無い濁流となって止まることを知らなかった。
だから……殺した? 本当にそうなのか? 何故かそんな疑問が浮かび、かすかなノイズで空間に走るもすぐに元に戻る。
この期に及んでまだ認めたくないのか、この死刑囚が。少しでも真実を疑ってしまった自分を口汚く罵る。
お前にはあったんだろ? あの男を殺そうという意思が! ――殺意が!
殺したいと思って殺したんだ、殺したいと思わなければ司刑囚は開放されないんだ!
司刑囚が開放される条件は"故意による自らが悪と思ったものの断罪"。
運悪く? 偶然? 悲劇? 馬鹿な! これから起こるのはなるべくしてなったただの殺人だ、僕は見捨てられるのが怖くて嘘をついたんだ!
その挙句、嘘をついてるから一定の距離をおく? おいおい、何の冗談だよテオドール。
どれだけ自分勝手に生きれば気が済むんだよ、ぺちゃくちゃ息を吐くように嘘をついて、殺した相手の親友に縋り付き、あげく自分を庇ったお陰で一族全体が没落と来た!
死刑囚の罪悪感は何処に行った? ティーパックと一緒にゴミ箱にポイか? 糞食らえだ、ゴミクズ野郎。
『フー! フー!』
ほら、馬鹿でガキなお前が立ち上がったぞ。切り傷だらけだった口は見る見る間に治っていきやがる、忌々しい。
昔のaお前は気付いていないが、今のお前は気づいているだろう? ドアの隙間から見える彼女に。
見られていたんだよ一部始終は、お前が今からする行いを見て彼女はこれから何年悪夢にうなされるんだろうなぁ!
この、死刑囚が!
『うわ゛ぁぁぁぁ――』
◇◆◇◆◇◆
『――あ゛ぁぁぁぁ!!』
吐血しそうな叫び声と共に大きく机を打ち鳴らす、近くにいるはずのあの男をぶち殺し、僕は、僕は……!
『テオ、大丈夫?』
『ひぃっ、触るな!』
唐突に肩に置かれた手を退ける、今のは首を狙っていた、隣にいるのは僕を殺す気だ、殺さねば殺さねば殺さねば――!
『あ、ああ、ああ?』
同じ言葉を何度も繰り返す、ここが何処で、今は何をしていたのか、隣にいるのが誰なのか混乱の最中にいる頭でたっぷりと時間を掛けて整理していく。
『ここは、小父さんの屋敷』
『そう』
優しい声が心臓の動悸をゆっくりと静ませていく。
『今は、あの日のことを話していた?』
『そう』
どうやら、僕の意識が見ていたものをそのままじゃないにしろずっと話していたらしい。
……"自白強要"を受けた罪人がどうなるのか、身を持って知ることが出来たな、二度と受けたくないが。
『隣にいるのは……ローザ?』
『そう、あなたが挙動不審だったから、ボクが監視していた』
途端、ぶっきらぼうな声に戻る彼女に僕は苦笑を浮かべて礼を口にする。
『うん、ありがとうローザ』
僕のブツブツとした呟きに一々相槌を打ってくれた彼女にぼーっとしたままペコリと頭を下げる。
『礼はいらない、それよりもローザと呼ぶのを止めて』
『うん、分かったよローザ』
適当に相槌を打つ、まだ頭がハッキリとしない。
『わかってない、止めて』
『分かったてば、ローザ』
やっとこさ意識が固まってきた、僕は半分以上確信犯的に相槌を打つ。
『次は打つ』
『かかって来いよローザっと!』
宣言通りまっすぐに放たれた拳を後ろに身を逸らして回避する。目の前を拳が横切った時はさすがに肝が冷えた。
『避けるのは卑怯』
と、ジト目でこちらを見上げてくる。ブスッとした顔にこちらとしてはだらし無く顔が緩みそうになる。
『どう考えても、ソッチのほうが卑怯だよな……』
『何? ボクの何が卑怯なの?』
ロザリエが一層目を細めてこちらを睨んで来る、さすがにこれ以上からかうとただじゃ済まなさそうなので、ひとつ昔の要領で躱すこと試みる。
『何でもない、ほら避けないから殴るなら早く殴ってくれ』
わざとらしく肩をすくめ、チョンチョンと右の頬を指さす。こうやってしょうがないから譲って上げようという形にすれば……。
『ふん、もう良い』
この通り、冷静ぶりつつ元の席へと帰っていく。昔は背が小さいことがコンプレックスな事もあってか、変な所で大人ぶりたがったが……今も何だな。
『ふふふ……』
ロザリエに見えていないことを良い事にニヤニヤと気持ち悪く笑っていると、小母さんが弓なりに目を細めて僕と彼女を見ていた。
『どうしたんですか? 小母さん』
温かい視線をこそばゆくも嬉しく思いつつ、尋ねてみる。
『ふふ、久しぶりにテオのそんな顔が見れて嬉しいの。いやねぇ、年甲斐も無く、顔が緩んじゃうわ』
そう言ってまた微笑う小母さんの目尻には小さいな水の玉が溜まっていた。涙をながすのは嫌いのだと、聞いた覚えがあった。
彼女も泣き顔を見せるのを嫌っていた、下手をすれば僕のほうが泣いた回数は多いのではないかと思える。
やはり、親子なんだなと当たり前なことを思いつつ、茶化すように僕は口を言った。
『何を言うんですか小母さん、僕の方こそそんなに綺麗な笑顔が見れて……』
『テオ、人妻を口説こうとするのはいただけませんね。特に、夫がいる前では……刺されちゃいますよ?』
僕の言葉に小父さんも乗っかってくる、後半はちょっと底冷えする様な感覚を覚えつつ、僕は減らず口を重ねる。
『口説こうだなんて、僕は本当のことを言ったまでです』
『まったく、随分と彼に影響を受けているようですね、テオ』
やれやれと首を振り被りながら、責めるような視線をレウスさんに送る。送られた本人は心外だと、顔の前で手を横にふる。
少し焦ったような表情が面白く自然と笑いがこぼれる、ともあれ小父さんの言葉に一つ訂正を加える。
『"悪"の一文字が抜けてますよ、小父さん』
『これは一本取られましたね』
口元を手で隠し小父さんが眉尻を下げた目をレウスさんに向ける。
『先程からひどい言われようだ。テオドールあとで覚えておけ、この借りは必ず返すからな』
レウスさんがぶすりと面白くなさそうに一つ息を吐き、じろりとこちらを睨んで来る。
『また、ギブ・アンド・テイクですか?』
『それが信条なものでね。さて、私は先に失礼させてもらうよ、どうにも場違いだったようだ』
仕返しというように皮肉めいた言葉を一人つぶやきレウスさんが席を立つ。
『本当は君にも幾つか言いたいことはあったのですが、すいません無駄足にさせてしまって』
『そう思っていただけるなら、ワインを一本頂きたい、特上のやつをね』
小父さんの言葉にこれ幸いと一つ指を立てるレウスさん、どうにも小物臭が漂う有り様だった。
『ははは、分かりました。フィーネ』
『はいはい、フリートさん少し待っていてくださいね、付け合せも一緒に持っていきますので』
『いや、お気遣いなく。ワインだけで充分で……行ってしまったな』
鷹揚に笑う小父さんとそれに合わせ席を立ちトトトと調理場の方へと向かう小母さん、レウスさんはその光景を見て気まずげにポリポリと頬掻いていた。遠慮するぐらいなら冗談でも要求しなければいいのに、そうクスリと笑うとまたひと睨みされる。
『フリートさん、どうにも貴方は女性には少々弱いようですね』
『これもギブ・アンド・テイクです、奥方のような女性は見るだけで癒されますから』
揶揄するような言葉を軽口でサッと受け流す……どうにもあの姿に見覚えがあるが、あまりに気にしない事にしよう。
『やれやれ、この師あってのあの弟子、ですね』
『その言葉、聞き捨てならないな……』
『テオ……ズィンダー、聞きたいことがある』
『っと!』
レウスさんと小父さんの言い合いに耳を傾けている僕にいきなり横から声を掛けられる、首を向けてみればロザリエが何時の間にかこちらのすぐ隣に立っていた。
『き、聞きたいことって?』
思わぬ近さにどぎまぎしながら聞き返すと、ロザリエが『少し耳を貸して欲しい』と答える。
答えるロザリエは表情は何時もどおりに無感情なそれに見えるが、抱え込んでるのであろう怒りと恐怖と困惑が綯い交ぜになって蒼い瞳に影を落としてた。
『分かった、聞かせてくれ』
彼女の気持ちも知らず動揺していた自分を恥じながら、これからの言葉には動じぬよう覚悟を決めて了承する。
すぅ、と彼女が口元を耳へと近づけてくる、生温かいかかりバクバクと心臓が五月蝿くなる。
が、次の言葉でそれもすぐ静まった。
『もう、嘘はついてない?』
一言だけの問いに僕は全身を凍らせ、ついていないと、ついていないはずだと首を振る。
絶対に嘘をついていないはずなのに、なんでこうも嫌な心地になるのだ、何故冷や汗が流れる?
また、混乱しかける僕を見て彼女が『ごめん、気にしないで』とだけ告げて、ご馳走さまでしたと自分の部屋へと帰っていく。
『すぅー……はぁー……』
大きく息を吐いて吸う、それを何度か繰り返して徐々に自分を落ち着かせていく。最後の締めに、グラスに入った水をゆっくりとあおる。
『ぷはっ』
そしてまた、息を吸って額ににじんだ汗を服で拭う。
そうしていると何時の間にか周囲にレウスさんや小母さんの姿はなく、机の真向かいに一人小父さんが微笑を浮かべて座っていた。
『落ち着きましたか?』
『え、あ、はい。どうにか、あの』
なんとなくバツが悪くうまく口が回らない、けれど一つ聞きたいことがあった。出来れば一対一で、となればこのあまり無いチャンスを無駄にはしたくない。
『どうしました?』
『……怒って、ないんですか?』
数拍の間。小父さんの言葉を待ち望む一方で、このまま何も言って欲しくない、逃げ出してしまいたいと恐怖で震える。
なんでもしますからと、許しを請いたい。僕は悪くないと、開き直りたい。どうか見捨てないでくださいと、慈悲に縋りたい。
内心で幾度も無様な醜態を晒す中、小父さんがおもむろに口を開く。
『怒っていますし悲しんでもいます、友にも、テオにも。でもそれ以上に今は喜びたい、友の、私の義息がこんなにも大きく成長した事を』
一瞬、何を言われたのか分らなかった。ばかみたいに口を開いたまま呆然とし、頭の中で何度も何度も言葉を反芻してようやく意味を理解する。
『あ、うっう、ぅぅぅあぁ……!』
謝罪か感謝か、何かを言おうとした、言葉にならなかった。涙が止めどなく溢れ、何も考えることが出来ない。
許されたわけではない、救われたわけでもない。だけど、ずっと背負っていた何か重いものがすっと涙と一緒に溶けて行くような気がした。
しばらくのあいだ、僕はそうして子供のようにただただ泣いていた。
『今日は色々とお騒がせしました』
表門の前でペコリと頭を下げる。夜風が泣き跡に当って少し寒い。
『いえいえ、それよりも帰る時はあたりに気を払ってください。最近は何かと物騒ですから』
『大丈夫ですよ、そこの坂道を上げってすぐなんですから』
『そういう考えが危ないんですよ? しかし……』
『なんですか?』
『彼は貴方に随分と"良い"影響与えてくれたようです。正直、初めて会った時はあまり良くは思ってなかったのですがね』
小父さんの顔にばつが悪そうな苦笑が浮かぶ、あまり人に悪感情を見せる事が無いだけにちょっと戸惑ってしまう。
『嫉妬もあったのでしょう、私が十年近く悩んできた問題を彼はものの数ヶ月であっさり解決してしまいましたから』
連れ連れと続く言葉は意識してだろう、あまり感情が見られない。そのことが一層自らを嘲笑う独白を悲壮なものにしていた。
『無論、彼には感謝してもしきれません。君を変えてくれたことを、成長の為の足がかりとなってくれた事を。自分でも分かるでしょう、テオ?』
不自然な高い声で小父さんが語りかけてくる、作られた笑顔が一際強く胸を締め付けてくる。
『はい』
『テオ、私が思うに彼には良くも悪くも他者を"変化"させる才能がある。
それでいて本人は表面はどうあれ根っこは絶対にぶれない、これは本当に稀有な才能です』
羨望の目で遥か遠く、夜に輝く月を見つめるその姿が――無性にイラッとする。例え本人であれ、家族が馬鹿にされるのは不快で堪らない。
『それに比べて私は……義息が何か抱え込んでる事にすら気付けない、親として恥ずかしい限りです』
顔に手を当てて力無く小父さんが首を横に振る。レウスさんが僕に対してあれだけ怒ったのも、今ならうなずける気がした。
『確かに、そうかもしれません』
声を荒げないよう意識したのが幸をせいし、冷淡な声が作られる。怒る時はこちらの方が恐いからね。
『でも……小父さんにはまだロザリエが、娘がいるじゃないですか』
『駄目です、もう遅いんですよ、テオ。娘は、本当にいい子に育ちました。
決して私たちの迷惑になるような事をしない……何があっても頼らず、自分で何とかするそんな子に……』
いやいやいやいや、小父さん小父さん、
『それは違う』
『違う?』
『小父さんも知ってるでしょう、彼女が僕のことを嫌いなのは』
自分の言葉で胸がえぐられる、無性に血を吐きたくなるがどの内臓を損傷が認められない、残念。
『……嫌い、とは一概には言えない気がしますけどね』
僕の言葉にここでようやくおじさんの顔に明かりが少し戻る。表情は何故かどう言うべきかと困惑した様な苦笑いではあったが。
『でも少なくとも好かれてはいないでしょう』
今日二度目の自刃、僕は被虐趣味者では無いので全くご褒美にならない。そもそもマゾヒストも自分でやっては楽しくないのでは? 僕はよく知らないが。
『ええ、そう、ですかね?』
『そうなんです。嫌われてるのにはもちろん今日お話した事もあります。
でも一番大きい理由は小父さんが言っていた僕のことで十年も悩んでいたからだと、僕は思いますよ』
『……? すいませんが、少し意味が』
どうにも言い方が回りくどかったなと少し反省、数秒をかけて話を整理してから口を開く。
『ここ十年、僕は本当に良くしてもらいました、何度でも言いますが感謝しても感謝しきれない程です。
けれど、誰であれ注げる愛情も、時間も無限ではありません。
僕に気をかけて貰っていた分、彼女とは触れ合う機会が少なかったのではありませんか?』
だからこそ、彼女は"いい子"に育ったのだと思う。元々大人しい子ではあったが、それでも時々は(主に僕主導で)悪さをしていた。
『……ふっ、どうやらとうに私は親失格だったようです』
相も変わらず自嘲気味の小父さんに最後のひと押しと、言葉を重ねる。
『僕は今からでも遅くないと思いますよ、どれだけ時間がたっても僕と貴方の義息であり、彼女は貴方の娘なんですから』
――義父さん、と。照れくさい、でも本当で当たり前の事を告げる。彼女の父に、僕の義父に。
『くくく、ははは! 親が子に教わるとはこの事です。情けなくもありますが、嬉しくもある』
憑き物が落ちたように義父さんが笑う、愉快そうに抑えた面の目元、月光でキラリと光るものが浮かんでいた。
『いやはや、グチグチと恥ずかしいところを見られてしまいました。どうか、妻と娘には内緒にしておいてください』
道化のように唇に当てられる人差し指に対し、僕も同じくおどけた声で応える。
『これで借り一つ、ちゃんと返しくださいよ? 家の流派は|借りたら返せ、借したらは返させろ《ギブ・アンド・テイク》が極意ですから』
『はは! やれやれ、彼をまた呼びつけおく必要がありそうです』
『どうするつもりで?』
『義息に余計な信条を吹き込むなと説教、義息を育てくれたことに感謝を』
と、その端正な顔でウインク一つ、年甲斐もなく似合うから困る。参ったもんだ、義父さんにも。
だから、という訳ではないが少し意地の悪い追求をしてみよう。
『しかし、僕がこうなったのも元をたどれば義父さんがレウスさんに何度も相談したからでは?』
僕の言葉にどう応えるかと笑っていると、義父さんが目をパチクリさせて首を傾げる。その演技がどうに入っているものでビックリするが、こちらは本人から聞いているのだ誤魔化せるはずがない。
『惚けても無駄ですよ、義父さん』
『いやいや、惚けるも何も私は――――』
『え?』
義父さんの言葉に一瞬耳を疑い、声の震えを感じながらも、もう一度聞き返す。
『ですから、私が彼と会ったのは――二度目です。前に君と一緒に来て以来ですよ?』
当方そろそr中間テストなるものがありまして、次の更新も間が開くかと思います。
申し明けありませんが、お待ちいただければと思います。