第七十話:学舎の鐘は天国への扉を開く
あの日の晩餐以後、レウスさんの様子が少しおかしい。
夜な夜な町を出回るようになったのだ。
今までは良いか悪いかはともかく好んで外に出ることは無かったのに、だ。
それはあれから一月ほど経った今でも続いている。
本人曰く『私もさすがにそろそろ働かないとお金がね』との事だが、果たして夜になると出て行く職業と言われると該当するものは少ない、それも半数以上は非合法のもの、そもそも職業といえるかどうかも怪しい。
『かと言って、詮索するわけにもいかないしな……』
呟いた僕の頭で水滴が一つ弾ける。
雨だった。
『うわ、良かったあと少しでびしょ濡れだった』
窓から覗く景色は灰色、その上を細い破線が無数に横断する。あっという間に道路には水溜りが、水溜りには波紋が出来る。
『幸運だったな』
なんとなしに口から出た言葉にガサガサと新聞を開きつつレウスさんが応える。
期待してなかった応えに少々たじろぐ。無論、知らぬ人でもないので動揺はすぐに過ぎ去り疑問が残る。
『――おはよう御座います、レウスさん。何時からそこに?』
『さてね、明確な時間は答えようがないが、君が卵を割る所は見ていたと言っておこう』
視線を落とす、そこには程よく焼けた卵がゼラチン質の瞳でこちらを見つめていた。目玉焼きは半熟に限る。
『起きてたんなら、声をかけてくださいよ』
『いやすまん、何分ちょっと気になる記事を見かけたのものでね』
『へぇ、どんな記――』
どんな記事ですか、と尋ねようとして声に詰まる。参った、ウィンナーを補充しておくのを忘れてた。
『すいません、今日はウィンナー売り切れですレウスさん』
『学校に行ってる間に買っておこうか?』
『あー、じゃあお願いします』
『なに、ついつい何時もの習慣で新聞を先に見たからね、これで貸し借りなしだ』
あくまで義理堅いというかなんというか、変な所で頑固だなレウスさんは。
苦笑を浮かべているとチーンとベルの小気味いい音が響いた。どうやらトーストが完成したらしい、香ばしい香りにお腹が一つ鳴る。
◇◆◇◆◇◆
今日も夕方の鐘が学校の終わりを告げた。
教師への礼もそこそこに教科書をそそくさと片づけ、帰路へと急ぐ。
なにせ、もう一々絡んでくる三人組はいない。これにてめでたく学校で話しかけてくる人物は居なくなったという訳だ。
廊下につながる扉は横開き、取っ手に掛かる手は今日も黒の手袋に包まれている。白の糸で刺繍された黒の獣がこちらを睨んだような気がした。
頭を振ってそんな幻想を振り払い、ガラガラと扉を笑わせて、ジメジメとした教室の空気を吐き出し、廊下の心底冷え湿った空気を吸込む。
廊下を心持ち速い歩調で進み、ちらりと外を覗く。運良く今は雨が降っていない、傘は持ってきているものの駆け足で帰れるタイミングは今しかない。
廊下の角を曲がり人がいない事を確認すれば、早足は駆け足へと発展。音を立てぬよう足と膝を使って階段を飛び降りてゆく。
無事咎められること無く玄関に到着、やや歪んだ自分の靴箱に手をかける。
画鋲も、剃刀も、虫の死骸も、首を切り取られた人形もましてや意味深な手紙などあろう筈もなく、そこには薄汚れた靴があった。
安堵に軽く笑みを浮かべつつ伸ばそうとした手をはたと止める。
『……レポートを出すの忘れてた』
文字通り手持ちぶたさといった風に手を二度三度空を掴んだ後に顔に当て、うんざりだ、参ったなと誰にもでなくアピールする。
提出は今日の午後五時まで、現在時刻は四時ちょっと過ぎ。急がずともよいが後にも回せない、一番煩わしくなる残り時間だ。
気付かなかった事にして帰りたい所だが、よりにもよって提出先はゼルフ教師。憂鬱さが増すがそれを上回ってこのまま帰る気が失せる。
自分が逃げ帰ってる様な気がするからだ。天邪鬼と言うか、負けず嫌いと言うか、どちらでも良いがそんな気性が自分にあったことに驚く。
ふと気がつけば上からはガヤガヤと喧騒の気配、巻き込まれないようそそくさと移動する――どうやら、負けず嫌いの線は薄そうだ。
見上げた視線の先、表札に書かれた文字は実験準備室。
生物教師の彼――内心であれば、もう少し汚く言わせてもらってもいいだろう――あいつは授業が無ければ常にここにいる。
職員室でなくてなぜ此処なのか、本人曰く『あそこは未だに苦手、教会に実家、そして職員室、説教は餓鬼の頃に聞き飽きた』だそうだ。
他の教師からしたらいい迷惑だ、何か要件があればここまで来ざるを得ない。一方生徒からは好評だ、理由は言わずともわかるだろう、職員室が好きな生徒なんていない。
愚にもつかない思考を切り捨て放り捨て、ノックを四回、『良いぞ』というぶっきらぼうな声を聞き、味気ない白の扉を開く。
『失礼します』
『ん……ああ、テオドールか。どうした珍しいな』
そう、この男も僕をテオドールと呼ぶ数少ない内の一人だ。身勝手とは分かりつつも、ズィンダーと呼んで欲しい自分がいる、一方的な敵意はどうにも心地が悪い。
『レポートの提出に』
『おうおう、真面目だねぇ感心感心。ご褒美にコーヒーを一杯やろう、ほれそこに座れ』
断ろうとした時にはすでにカップにコーヒーが注ぐ途中、ほのかに湯気が漂い特有のほろ苦い香りが部屋に広がる。
だがあいにく、僕は紅茶派だ。お子様な僕はたっぷり砂糖とミルクを入れなきゃまだ飲めない。
『砂糖とミルクは? 幾つずつだ?』
『……じゃあ、砂糖を一つ』
変な意地が僕の言葉を苛む、ブラックでと言わなかったのが不幸中の幸いか? どうにも、この黒々とした液体に角砂糖一つでは割に合わない、いや、割合が合わないというべきか。
『どうした? 飲まないのか、ああもしかして猫舌か?』
『いえ、頂きます』
少しでも冷めろと、何度か息を吹きかける。湯気が舞い顔を撫でた。熱く苦い液体が舌を焼き、喉へと逃げ去る。
『どうだ、一応それなりの機械を使ってるんだが』
『すいません、あんまりいい舌持って居ないんです。ただ美味しいとしか、僕には』
『かかか、まっ! 俺もよく分らねぇんだけどな。けど、それっぽい物使うと美味く感じるんでな、安い給料でこんな余計なもんを買ってるわけよ』
『それも、ですか?』
親しげな話し方に釣られ。目についた中、明らかに仕事に関係無さそうな白い入れ物をつい指さしてしまう。貼られた紙には"ドーラン(藍)"と書かれてある、藍とカッコ書きされている割には他の色は見つからないが。
『んん? あー……いや、これは実験に使う薬品、の代わりだな如何せん専門の薬品は高くてな』
『なるほど』
しかし、ドーランなんて何の実験に使うのかなどと思いつつ、コーヒーを啜っているとリズムに乗って四つ扉を叩く音が部屋に響いた。
不味い、他の生徒と合うのは面倒だ。幸いコーヒーは少し冷えていた、カップを傾け中身を一気に飲み下す。
『良いぞ』
『失礼します』『っと、他の方が来たみたいなので――』
『っ……!』
次の言葉は告げれず、そのまま足を止めずすれ違いざま閉じかけた扉から滑りこむようにして廊下へ出る。
視界の端にわずかに映った、金色の髪だけが記憶に残る。顔は見なかった、見たらあれが誰だか分かってしまう、そうなったらまたどす黒いがあふれるだろう。
『勘弁してくれ……』
部屋から離れて一人大きくため息をつけば、外は再び雨模様。しとしと、ぽつぽつ、ぱらぱら、ざーざー……。
それだけでもうんざりだと言うのに。
聞こえる、声が。薄汚れた笑い声と、許しを請う弱々しい声が。昔は無視出来ていた――そう、はるか昔は。
『ほんと、勘弁してくれ……!』
悩む余地はなかった、動かずには居られなかった。
断じて正義感ではない、義務感でもない、怒りでもない。そんな立派な心根は"今は"持っていない、持たされいない。
逆らえないのだこの衝動には。人形が人形遣いに、奴隷が主人に、剣が人に――逆らえないように。
年を追うごとに、日が昇る度に、両手の疼きが酷くなる。
何もかもが罪深い、何もかもを裁かねばならぬと左手が泣き喚き、
何もかもが罪深い、何もかもを殺さねばならぬと右手が怒り喚く。
両手をキツくキツく握り締める、歯を食いしばり黒の獣を睨みつけ必死に衝動に耐える。
壁に寄りかかりながら進む、階段を半ば転げるように下り。ふらふら、ふらふらと声の元へと進む。
声が段々と近づいてくる、視界がだんだん暗くなってゆく。もはや、今自分が何を見ているかも分からない。
笑う声がすぐそばで聞こえた気がした。
『そこで、何を、やってる!』
脂汗を流しながら暗闇に指を向ける。
『ちっ、ズィンダーかよ』
違わず彼らはそこに居たらしく、反応からしてどうやら僕は彼らの視界に入る場所に居るらしいと分かる。
『おい――ぜ、また――男が来たら』
とうとう声まで掠れてきた、不味い。
『――』
ドタバタと足音がひどく遠い場所で聞こえる。聞こえぬ声が去りゆく様な気配がある。
黒々とした衝動がどんどん己を塗りつぶしゆく、右の拳が徐々に開かれが左の手袋に震える指がかかる。
手錠を、枷を、首輪を誰か僕にくれ! いっそ殺せ、殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ――!
殺せ? 殺す? 嫌だ、それだけ嫌だ。どうか救い僕にくれるな、あんな天国僕は味わいたくない。
『――――!』
声にならない叫びを僕は聞いた、僕が吠えた?
肉がちぎれる音が舌、舌を噛み切る音を聞く僕、僕が噛みちぎった舌が肉?
血が溢れ出す、赤くて赤い真っ赤で真紅な血。鬼人にあるまじき血。
ああ痛い。痛くて痛くて心地良い。幸せだ、幸福だ、満足だ。
天国を思わせる白が意識を塗りつぶして僕は――――。
なんと今回は二本立て! ……すいません、分割しただけです。