第六十九話:晩餐
午後七時半。夜の闇を月明かりが薄め、近頃普及し始めた街灯の淡い光が退ける。
そうして生まれた無味乾燥な白の円を辿るように坂を下ればライエンハイト邸に到着だ。
元々普通の屋敷とは違い色合いが落ち着いていることもあり、邸宅は闇に溶けこむようになっている。
『はぁ……』
憂鬱だ。などと言うのは小父さんたちに対して失礼だ、けれどそう思わずにはいられない。小父さん達が嫌いなわけではない。
小父さんも小母さんも僕に対してとても良くしてくれている、感謝してもし切れないほどに、謝っても謝りきれないほどに。
だからこそ、これ以上迷惑を掛けたくない――そんな気持ちがこの憂鬱を生んでいるのだとしたらどれほどよかったろうか。
僕は怖いのだ。
何が? 責められるのが。誰に? 彼女に。何のことを? 彼女の家系を没落させたことを。
結局僕はそういう奴だ、我が身が可愛くてしょうがない。
『テオドール、ぐずぐずしてない方が良いんじゃないのか?』
言葉遣いとは裏腹にこちらを慮る声に沈みかけた意識が引き戻される。
『そう、ですよね……』
暗い心内もあり自然と口調は苦々しく重々しい、呼び鈴を鳴らそうと動かす手は空気が粘ついてるかというほどに緩慢だ
邸宅の呼び鈴は室内にしか響かないもの、近所迷惑にはならないものの鳴らす身としては多少の不安を覚える。
幸い、すぐに反応は起き、玄関から邸宅までの道を魔力で出来た幾つもの篝火が照らす。
最後の一対が邸宅の扉を照らすと扉がゆっくりと開かれ、邸宅の主人が姿を表す。
装いは比較的カジュアルな紺色基調、背格好は高く細身なれど華奢ではない。
こちらに向かってくる足取りは落ち着いたもので、かといって待つ時間を感じさせるものではない。
十七年間生きた中でおよそここまで"高貴"という言葉が似つかわしい人物を僕は見たことはない、短い人生といわれればそれだけかもしれないがそれでも今はこれ以上の気品に満ちた人物がこの世にいるとは思えない。
『お帰り、テオ』
開口一番、元々細い目を一層細くして小父さんが迎えの言葉を掛けてくれる。
未だにこの言葉を聞くたび胸にこみ上げるものがある、良くも、悪くも。
『ただいま、小父さん』
『さぁ、入りなさい。妻も君に会うのを楽しみにしてるからね』
閂が抜かれ閉ざされていた邸内への扉が開く、いつもの様に僕は足を踏み出し、いつもと違うことに気づいて足を止める。
『っと、小父さん。その前に紹介したい人がいるんだけど……』
そう言って後ろを見ると、すでにそこにレウスさんの姿はない。逃げた? などと失礼な考えが一瞬、頭を過る。
『お初にお目にかかります、ライエンハイト卿。突然の訪問、それもこのような私的な夜となってしまい申し訳ない』
そんな間の抜けた考えを切り捨てるようをはっきりとした声は真横から届いた。ぎょっとして隣を振り向けばそこには何時の間にか、何時からかレウスさんが立っていた。
『どうも、こんばんは』
小父さんが見知らぬ人物の登場にも笑みを絶やすこと無く応える、がその笑顔は相手との間に一線を引いた警戒したもの。
『いきなりの訪問、申し訳ございません。二週間ほど前から、テオドール様の家で執事として住み込みで働かせて貰っています。レウス=フリートと言うものです、どうぞよろしくお願い致します、ライエンハイト卿』
レウスさんの言葉に微かに小父さんは訝しげにするものの、すぐに元の表情に戻る。
『そうですか。どうやら私のことはご存知のようですが一応、第26代ライエンハイト家当主、ヨアヒム=ライエンハイトです、どうぞ宜しく』
『我ながら仰々しいですね』と小父さんが照れたように笑みを浮かべる。
一先ず、レウスさんの紹介は成功した……かな? これで小父さんは人の好き嫌いが激しいから少し不安だ。
『ですがテオ、そういう時は私に頼ってくれれば紹介しましたのに』
などと油断していると矛先がこちらに向けられる。僕が他人行儀な態度をとる度にわざとらしく小父さんは今見たく拗ねたように口を尖らせてくれる。
頼れる大人で子供の気持ちを気遣ってくれる良い人だと思う。だからこそ彼女に申し訳が立たない。
『自分の家のことなので小父さんに頼る訳には』
『はぁ……もしもの時は遠慮をしないでくださいね』
諦めたようにこの言葉で締めるのも日常、だ。いつだってこの人(小父さん)は僕の意思を気遣いつつも強制て来る事はない。
『と、すいませんね外で長々と、どうぞ宜しければフリートさんもご一緒に。なに、遠慮は要りません、何分今日は妻が張り切って多く作り過ぎてしまいまして、出来れば人は多ければ多いほど良いんです』
『……では、お言葉に甘えて』
晩餐は豪勢な料理に彩られた卓と打って変わって粛々と進んでいく。席は五つ、空席が一つ。
彼女が居るべき席にはただ空があるだけだ――僕が追い出した、追い出してしまった、のだろう。
罪の意識に苛まれつつも、彼女が居ないことに安堵を覚えている自分が確かに居る。我が身可愛がりもここまでいけば呆れるほか無い。
『すいません、テオ』
僕が空席を気にしてるのが分ったのだろう、小父さんが眉尻を下げて言葉を掛けてくる。それが尚更僕を、いや、彼女を傷つけているとは知らずに。
『いえ、当然の反応だと思います、僕の所為で彼女は……』
脳裏に幼少の頃の記憶が浮かぶ、教室の中独りで立つ僕と、何人もの子供に囲まれ苛められている彼女の姿が。
そのうえ僕は……いや、止めようこうやって同情に似た気持ちを抱くのこそ、彼女に対する侮辱だ。
『ほらほら、テオも貴方も暗い顔しない! 大体、せっかく人が作ってあげた料理を前にしてみーんな仏頂面なんだから、作った身としては浮かばれないんだけど?』
やれやれと小母さんが冗談交じりに嘆息する。肩で切りそろえた若干癖っ毛の金髪が揺れ、ほのかに花の甘い香りが漂う。
相変わらず四十代後半とは思えない、まぁ鬼人自体六十になるまで衰えが出にくい種族ではあるんだけど。
『ははは、いやすいません。そうですね、せっかく初めて訪れるお客様もいるのに、こう暗くてはいけませんね』
『そうよ、全く。どう? フリートさん料理はお口にあったかしら』
『はい。この通り、黙々と食べてしまう程に』
そう言うレウスさんの皿は肉や野菜は勿論、かかっていたソースまでもが綺麗に無くなっている。
『あら、食べるのが速いのね。ちょっと量が足りなかったかしら?』
『いえ、丁度満腹です。しかし、こう言ってはなんですが本職で無いのにここまで美味しい料理が作れるとは……執事の私としては複雑な気分です』
『ふふふ、夫を支えて何十年。幾ら執事の方でも料理の腕で負けるつもりはないわ、それがテオと同じぐらいの子なら尚更、ね』
『お見逸れいたしました、ライエンハイト婦人』
芝居がかった動きでレウスさんが頭を下げる。
『いけませんよフィーネ、将来ある若人から自身を奪っては』
それに乗じてわざとらしく咎めるような表情と口調を小父さんが作り、
『あら、私だってまだまだ若人よ?』
目尻を下げて小母さんがおどける。
『小母さん、それはさすがに……』
と僕が苦笑をを浮かべると、
『さすがに……なにかしら?』
おどけた素振りに何故かコチラの肝が冷える様な迫力を称える笑みを浮かべる。
始めこそ静謐だった晩餐がどこか軽みのある雰囲気へと変わっていく。
思えば小父さんと小母さんの自然な笑顔を見るのも、見せるのも大分久しい。
これもレウスさんのお陰、なのかもしれないな……。
変化を起こす彼をありがく思い、変化を起こせる彼に嫉妬する。
嫉妬する自分は確かに醜かったが不思議とそれを許せる自分が微かに、でも間違いなく居た。すぐにそんなものは消されてしまったが――確かに、居たのだ。
『ところでテオ』
晩餐も終わり、食後の紅茶(レウスさんだけはコーヒーだったが)を飲んでいる所でおじさんが話を掛けてきた。
ところで、と語りかけて入るものの、話の流れは丁度一段落したところ、ならばこれは場の雰囲気を変える"ところで"だ。
まぁ、大体言われることはわかってるんだけど。うんざりとした声が胸中で響く。なにせ二年前からずっと言われ続けているいることなのだから。
『やはり……兵士になろうという気持ちは変わりませんか?』
『変わりません』
きっぱりと、ともすれば冷淡とも言われかねないよほどに突っぱねる。
『"邪鬼と無邪気の森"での事件については話しましたよね?』
今では重層結界にて人間に奪われた森の名を小父さんは告げる。
そして――
『"第一次人魔大戦"を終わらせた切っ掛けになった事件……』
鬼族と妖精族の国境を股がって起きた事件は、幾つもの初めてを作り出した歴史的大事件。
初めて魔界の領土が"恒久的に"占領された事件であり、"深略"と呼ばれる言葉が生まれた発端でもあり、
『"門"を使った小競り合いとは違い、血で血を洗う凄惨な"第二次人魔大戦"の始まりとなった事件、ですよね』
"小競り合いとは違い"、"血で血を洗う"、"凄惨な"の部分をやたらと強調する、おどろおどろしい話し方が却ってコミカルな印象を抱かせる、茶化したようなと言うべきかもしれない。
『……分かるでしょう。私としては親友の忘れた形見である君をそんな場所に行ってほしくない』
そんな僕の態度に睨めつけるような視線を送りつつも、小父さんは冷静な態度で諭してくる。
『気持ちはありがたく思います、でも決めたことですから。それに……』
幾度と無く聞かされた言葉、鬱陶しいと思った事は今日だけではない。
そんな積み重ねた思いからか、苛めという抑圧から開放されたからか、普段なら抑えられたはずの言葉を口から漏らしてしまう。
『戦場なんかで僕が死ねないのは、小父さんたちもご存知でしょう?』
言い切った後で自分の過ちに気づく。小父さんも小母さんも、怒りと悲しみと半分半分に混ぜこざになったような表情でこちらを見ている。
何も言えないというよりは何から言うべきかといった表情、僕自身も言ってしまった以上後には引けないという馬鹿な自尊心を支えに何食わぬ表情を必死で作る。
誰も口を開かぬ中、置き時計の振り子が右に左に揺れ動く。
すると、声は意外な方向から飛んできた。
『謝れ、テオドール』
不意の声に、その方を向けばレウスさんが暗い光を讃えてじっとこちらを見つめていた。
『謝るんだ、お前が今行った戦場"なんか"で死んだ――どこかの誰かの為に死んだ兵士達に、最後までどこかの誰かを想っていた人達に、謝れ』
碧眼のはずの瞳は反射のせいか、昏く底の見えない黒に変わっていた。
微かに伺える感情は怒り。瞳と同じどす黒い、怒り。
感情に反して声は平坦にして平静そのもの、だからこそ恐ろしく、故に重い。
『……確かに私が聞いたお前の"異能"が本当ならば、戦場では死なないだろう』
少しの間と共に瞳が再び碧眼へと戻っていた。無論それは最初からただの錯覚だったのだろうが。
『だが……いや、もう分かるな?』
そう言ってレウスさんが目を伏せ、手に持ったカップを口元へ運ぶ。
何を言うべきかは最初から告げられていたとおりだ、あとは声にするだけだ、心の底から。
『ごめんなさい』
席をたち、背筋を伸ばして腰を折る。自分の愚かさと過ちを、恥じる。
『テオドール、席に戻りなさい』
小父さんは何も言わない、咎めない、許さない。人の心根など分からない、だから小父さんは昔から謝罪を聞くだけで何も言うことはない。許すも咎めるも、最後に決めるのは自分だからと。
自分を許すには時間がかかりそうだった。