第六十八話:徐々に変わりゆく日常
サブタイトルは日常と書いていつもと読んでいただきたい。
『ふっ、ふっ』
早朝、少しずつ早くなって行く日の出に季節の移り変わりを感じつつ、いつものランニングコース最後の角を僕は曲がる。
残りは真っ直ぐ坂を登るだけ。つばを飲み込み乾いた喉を湿らせて一気に空気を肺に詰め込む、ラストスパート。
すり減った靴で強く地面を蹴るとそれに応じた力が返ってくる。打てば響く、というやつだ。
加速とともに風は強く吹き付け押し止めようとする、多くを望むなと言わんばかりに。
いままでなら少々速度を緩めるところ、だが今日は不思議とまだ行けるような気がした。
だから、行った。
『はぁっ、はぁっ』
坂を登り終え僕が家の前で荒く呼吸を繰り返していると、ギィィと錆び付いてきた蝶番が悲鳴を上げて扉がゆっくりと開いた。
『おはようテオドール、今日も精が出るな』
寝ぐせ一つない髪を風に少しだけ揺らしながらレウスさんが挨拶を掛けてくる、手に乾いたタオルを持って。
二週間前から加わった新たな"いつもの"だ、侮蔑や嫌悪を含まない声を聞ける数少ない機会でもある。
『はぁっはぁっ、おはようございます、レウスさん』
最初に会話した時から思ってたけど、不思議とレウスさんは話しやすいんだよな。
挨拶を返しながら少しだけあの路地での出来事が頭を過る。
『新聞を先に読んでも良いかな?』
ポストから取り出した折畳まれた新聞を軽く掲げながらレウスさんが聞いてくる。
『どうぞって、いつも先に読んでいいって言ってるじゃないですか』
冗談混じりに咎めると、
『そう言っても、家主に何も聞かない訳にもいかないさ』
返答とともにタオルが飛んでくる。肩をすくめながらそれを受け取り、お礼の言葉を放つ。
『礼には及ばない、私は……』
『利点が無いことはしない、タオルと引き換えに新聞を貰っただけさ。耳タコですよレウスさん』
今度肩をすくたのはレウスさんの方だった。
『今日の一面記事は何、なん、です?』
ランニング後のストレッチをしながらレウスさんに聞いてみる。
『"月攫い"またも出没す、だとさ。なんなんだ? この"月攫い"っていうのは?』
レウスさんの問いかけに少しだけストレッチの手が止まる、というのも"月攫い"はこの町どころかこの国全体に響きわたっている名前だからだ。
けど思い返してみればレウスさんは記憶喪失、なんだよな。正直、今でも胡散臭いとは思ってるけれど。
『"月攫い"っていうのは、なんて言えばいいのか……現象とも言えるし、犯人の二つ名とも言えるかもしれません』
自分でも回りくどい言い方だなとは思いつつもそうとしか言葉が作れない。なんとももどかしい。
『どういうことだ?』
案の定聞き返されたので、頭を捻りつつ言葉を出していく。
『一年ぐらいまえからこの国では月に一人以上、と言っても多くて三人ぐらいの失踪者が出ているんです。決まって年が僕と同じくらいの学生が』
『ふむ、おどろおどろしく言うものだから何かと思ったが、それは唯の家出か何かなのではないかね?』
言葉を選んでるので口調がどうにも怪談調になっていたらしい、あながち間違いでもない気はするがその受け取り方はあまり本意ではない。
ので『まぁその可能性も無くはないんですが』と口を濁しつつ、言葉をある程度纏めておく。
『実は未だ一人として見つかった学生が居ないんですよ、動いてる姿どころか死体でさえも、です』
僕の言葉にレウスさんが訝しげに眉を傾け、無言で続きを促してくる。
『最初はレウスさんの言ったとおりただの家出かと思われていたのですが、年四回行われる町ごとの報告会で同じような事が他の町で起こってることが分かり、最初の失踪から三ヶ月後にようやく連続誘拐ないし殺人事件として取りざたされたんです』
言葉を切って改めてレウスさんの方へ体を向ける、無論言葉を整えるための動作だ。
『そうして本格的に捜査が始まってのはいいんですが、さっき言ったとおり死体も痕跡も出てこない。そうなってくると今度は国のあちこちで起こってることが逆に事件の関連性に疑問が生じ始めて、最近では神隠しの一種だ、なんて言われる始末なんです。僕個人としてはあまりそういうのは信用してないので、やはり何らかの事件だと思いますけどね』
と、最後に自分の意見で締めて立ち上がる。あとで新聞を読むことを考えるとそろそろ朝食を作り始めなければ学校に間に合わない。
『なるほど、いや丁寧でわかり易かったよありがとうテオドール』
そう言って、一瞬何事か考えるような表情を浮かべるレウスさんが妙に印象に残った。
『まぁ頑張ってくれ、テオドール』
行ってきますと家に吠えると、そんな適当な声に背中を押した。
適当、か……つい最近までは自分の声が響くだけだったのに、声が返ってくる事にも二週間ほど経てばすぐにこうか。
我儘な自分に嫌気を差しつつ学校への通学路をテクテクと歩いて行く。
日が昇り温暖な光が道を照らす、これで時折吹く風さえ無ければ芝にでも寝転んで寝てしまいたいほどだ。
だけど現実問題学校には行かなければならない、どれほど憂鬱であろうともだ。
そうして早朝に一息で登った坂をため息をつきながら下っていくと、坂の終端の丁字路に女子の制服に身を包んだ一つの人影が視界に入る。
『げっ……』
思わず声に出し、慌てて今朝の朝刊の日付を思い出す。つい先程の記憶だおというのに焦っているお陰でなかなか思い出せない。
『二月二十九日、月末だ……!』
自分の言葉に顔から血の気が無くなっていくのを感じる。慌てて全力で坂を下り、何度も足をもつれさせながらなんとか坂を下りきる。
『ご、ごめん……』
息を切らせながら謝る僕を彼女はいつもと変わらぬ刺々しい目付きで睨み、
『パパとママが家に来なさいって、この前のテスト結果を忘れないようにとも言ってたわ、それじゃ』
とだけ言ってすぐに金色の髪を揺らしながら駆け足で学校の方へと向かって行く。
ほろ苦い思いと深い罪悪感に駆られながら僕はトボトボと足を動かし始めた。
生物学の時間、僕はぼんやりと外を見つめていた。
ふと焦点をずらせば、そこにはほのかに赤みがさした顔色が良い他には変哲もない顔。
『教科書の第三項をー……それじゃあ、ライエンハイト頼んだ』
『はい』
澄んだ声が耳に届き、思わず声のした方向を向いてしまう。幸い、彼女に気づかれはしなかったようで今朝のあの目線を浴びずに済んだ。
『私達"鬼人"は古来より他の種族からは"吸血鬼"として恐れられてきた。しかし、名前に反して実際には私達にとって他種族の血は極めて有害である事を正しく理解しておく必要がある。鬼人には他種族の言う血液を精製する器官がなく、またそれを通す管もないからである。私達にとっての血とは二つの魔臓で生成される魔液であり、俗に言われる吸血行為は正確には吸魔行為というのが正しく、私達が行為には及ぶ際には血管ではなく魔管に牙を差しこむように注意しなければならない』
声が静かに響き渡り、ライエンハイトが着席する音でようやく教師が口を開く。
『おう、ありがと。まぁお前らには改めて言うまでもないことだから、テストに出すとしたら図三に載ってある各種族の魔管の位置だ。良く覚えておけよー』
ところでこれは余談なんだが、と教師が話を続ける。余談の面白さに定評があるゼルフ=トーレ教師なだけに生徒が興味深げに耳を傾ける。
『俺がまだ若い頃の話だ、今でこそ言われることは少なくなったが当時、鬼人はその血の気の無さから馬鹿にされることが多くてな、"死に損ない"なんて言われて馬鹿にされていたのさ。俺達から言わせりゃあ赤い顔してる奴らこそ気味が悪い、けど数じゃ相手のほうが上だから何も言えない、もう悔しくてたまらなくてな。必死こいて勉強して学年一位になった時にこう言ってやったのさ、死に損な以下の"死体野郎"共ってな』
と、こんな感じに良くも悪くもフランクな教師の為、評価は真っ二つに分かれるのだが概ね生徒からは人気であり、同じ教職員からは冷ややかな目線を送られているらしい。
僕はどちらかと言うと苦手なタイプだったのだが、彼女の態度がそれに拍車をかける。
『それでな? この……』
『先生、そろそろ話を戻さないと時間が』
『おおう、いつも悪いなロザリエ。っと、悪いつい名前で呼んじまった、気に触ったか?』
『いえ、大丈夫です』
ニヤニヤとした笑みを周囲の生徒が浮かばせる中、僕だけが渋い顔でその様子を見ている。
自分の気持ちはわかってる、叶わないこともわかってる。
それでも変な論理感や醜い嫉妬が湧き上がらずには居られない。
だから今日も勘違いだと自分自身に言い聞かせる、穿った見方だと決め付ける。
そうでもしてないと、自分の醜さに耐えれそうになかった。
『かはっ……』
背中から強かに地面へと叩き付けられ、肺から空気が押し出される。
過度の集中と運動を課されていた体は慌てて呼吸を繰り返そうとするが、遅れてきた痛みに何度も咽てしまう。
その苦しさに涙を浮かべつつも、それでも少しずつ酸素を取り込み呼吸は徐々に落ち着きを取り戻していく。
不意に黒い人影が滲んだ視界を覆った。影は手をひらひらと動かし砂埃を軽く払うと低い声で僕に言葉を投げかけてきた。
『まだ"力の動き"が分かってないなテオドール』
声とともに差し伸べられる手を取り、仰向けの体勢から一気に立ち上がる。
『怪我は?』
立ち上がったのを確認し数歩下がった後、人影――レウスさんが尋ねてくる。
『特に大きなものは……しかし、面目ないです』
頭を下げるとレウスさんはくるりとこちらに背を向け、ゆっくり遠退きながら話し出す。
『謝る必要はない。私自身、理屈でなく体が覚えてる部分が大きいお陰で上手く説明もできない、君はそのことに怒っても良いくらいだ。だが……』
と、レウスさんの目線が少し下がる。視線の先は僕の手、正確に言えば"手袋"に向けられている。
『その手袋は致命的だ。力を受けるとき、直に受けるのと布越しに受けるのとでは一瞬のズレがある。模擬戦ならともかく実戦ではそのズレは致命的だ、ハッキリと言わせて貰うがその手袋をつけている限り私の技を習得する事は不可能、互いに時間の無駄だ』
厳しい指摘に何も言えずじっと自分の手元を見る。
手を包む革手袋は黒塗り、複雑な刺繍を施されたそれを外した事は殆どない、そしてこれからもこの手を人目に晒すつもりはない。
『虫のいい話だとは分かってます、けど……』
だから、僕にはそうして頭を下げることしか出来ない。
『まぁ私は家に居候させてもらってる身だ、これ以上は言うまい。だが一つ忠告しておくと私の技も所詮は我流、要は素人の付け焼刃だ。変な癖をつけて自分で自分の首を締めることにもなりかね無いことを肝に銘じておけ』
『……すいません』
ハッキリと伝えるレウスさんに対して、僕は言葉を濁し気まずげに目を逸らす。逸らした先には時計塔、坂の上にあるこの家からはその長針までよく見える、六時十八分だった。
『っそういえば!』
『はぁ……どうした?』
露骨な話題転換にレウスさんはため息をつくもののそれを指摘しようとはしない。
その事に内心で感謝しつつ話を続ける。
『実は月末の夕食はライエンハイトの家で食べる事になってるんですが、レウスさんにも来て貰いたいんです』
『私が?』
『はい、一応おじさん達に報告しておかないと、面倒が起こるかもしれませんから』
『確かに保護者代わりの方々に挨拶なしと言うわけにもいかないか、気を利かせてもらってすまないなテオドール』
レウスさんの言葉に『いえ』と首を横に振り家の方へ足を向ける、まだ時間はあるが早めに支度をしておいたほうがいいだろう。