第六十七話:悪夢の終わり、夢の始まり
人じゃないのに人物やら民間人やら言ってるのには目を瞑って頂きたい(汗)
『起きたまえ、ズィンダー君』
夢うつつだった僕にそんな声が掛けられる。
ほんの少しの間、覚めない頭で現状を把握を試みる。
教室。殆どの人物の目線は下を向き、唯一教卓に手を置く教師だけは僕の方を向いていた。
ここでようやく意識が覚醒、自分の迂闊さに周囲に聞こえぬよう小さく舌を打つ。
近代戦史の教師マルクは授業を妨害したものに何らかの罰を加える、それが居眠りであった場合は、
『二年前に突如として姿を表した戦史にも残るであろう人物について、自分の知っていることを説明したまえ』
特定の語句もしくは人物の説明だ。無論、教科書やノートを開くことは許されない。
『はい、分かりました』
それでも慌てた様子を見せないように答え、舌で唇を湿らせて僕はゆっくりと椅子から腰を上げた。
『先生の仰ったように二年前、後に"無貌の者"、"殺意持ちし隣人"と呼ばれる事になる、黒の外套に黒髪の姿を主とした自らを"変化士"と名乗る人物が一つの妖精族の村を壊滅させました。彼は"変化士"という異能名に違わずあらゆる生物に"変化"する事が出来、"無貌の者"という通り名はこの能力から命名されました』
ここで一呼吸。頭のなかで文脈を整え、急がずはっきりと口から出していく。
『彼は、去年の九月末に各国ギルドの連合により討伐されるまで、累計五万人とも噂される妖精族を主とした多数の兵士と民間人を殺害したとされていますが、五万人の全てを彼自身が手を下した訳ではなく、先ほど説明した能力によって兵士達の間に潜り込み、撹乱する事で生まれた被害も含まれています』
と、言葉を切り、終了の意を目で伝える。
『ズィンダー君一つ質問だ、"無貌の者"の本名は?』
冷ややかな目で質問してくる教師に対し僅かに動揺しつつ、どもり気味に答える。
『現在においても本名は不明です。強いていうならば、数年前に人界に残された鬼族の兵士らから届いた伝令に記された"悪夢"と称されている怪物と酷似した外見をとった事があるため、これを名前とする動きがあるぐらいです』
返答し終えるも教師はすぐには口を開かず、沈黙が教室を包む。
カチコチカチコチ……。秒針がたっぷり十回ほど鳴り、ようやく
『よろしい、席につきなさい』
そう不愉快げに一言、僕も指示に従い無言で腰を下ろす。
『では続きを……』
と、その時タイミングを測ったように、ゴーン、ゴーン……と町の時計塔がくぐもった声で今日最後の授業の終わりを知らせた。
『続きは次の授業に行う』
罰の悪い顔でそう告げて退出する。
途端、教室にガチャガチャと筆記用具を片付ける音が鳴る、放課後へと大仰に言ってしまえば自由へと一刻も早くと音は連鳴る。
この後部活に精を出す人もいれば、教室で同級生とのおしゃべりを楽しもうとする人も、そそくさと家へと帰る人もいるのだろう。
ただ一人、僕だけは檻の中でその時を待っている。
ただ独り、僕のみが囚人服を着てその時を待っている。
『よぉ、ズィンダーちゃん』
正当なる罪を裁く、不当な断罪者が来る、その時を。
『おらよっ』
掛け声は軽薄。そこには抵抗や躊躇などというものは微塵を感じられない。あるのはただただ暗い愉悦だけ。
『うえぇ……』
衝撃は重厚。力の入らない体が地面にまかれた自らの吐瀉物を巻き取るように転がり、そしてまたその水かさを増す。
『うわ、アドルフの奴また吐きやがったよこいつ』
『ほんとだ、これじゃもうこの先通れねぇじゃん……っち、汚ねぇな』
嫌悪感を隠さない声でアドルフが髪を掴み無理やり僕に顔を上げさせる。
けれど痛みの感覚も、現実感もおぼろ、度重なる暴力に怒りすらも擦り切れ摩耗しきっている。
そうでなければとうの昔に精神を止んでいたはずだ、精神が適応したと言った方がいいのかもしれない。
それが進化なのか、退化なのか僕には分からない。
『おれたちはさぁこう見えて優しいからさ、今なら土下座するだけで許してあげるよ?』
――しかし、精神の適応にも限界があることだけは分かっている。
『こと……わる』
"罪"と言う名の譲れないものがあった。他ならぬ罪人の身だからこそ罪には誰よりも真正面から向き合ってきたという自負が僕にはあった。
『断るって、言って、るんだ』
だから何時まで経っても学習しない、何時まで経っても適応しない。
謂れの無い罪は認めず理由のない謝罪はしない、そして受けるべき罰を受け如何なる理由があろうとも許されようとは思わない。
それが罪人の義務だ。
『……どうやら、まだやられたりないらしいな』
憤りに満ちた声に少しだけ胸がすっとするが、
『げほっ!』
無造作に踏みつけられすぐにそんな気分も踏みにじられる。
『あんまり、調子、こくな、よっと!』
何度も叩き付けられる足裏、バウンドで地面と僅かに離れたところを再度踏みつけられる。
『おい、俺らにもやらせろよ』
下卑た声と共に叩き付けられる足数が増える。鈍い音が止むことはなくただただ早く飽きないかなと諦観混じりの思いを馳せる。
そんな中一つの低い男の声が裏路地に響いた。
『いい加減にしたらどうだ?』
声は決して大きくない、けれど激昂していた青年を静止させるほどの冷たさを含んでいた。
『あぁ? なんか言ったか?』
『これは失礼、"いい加減"では意味が伝わらなかったか? もう止めておけ、そう言ったつもりだったのだが』
険を含むアドルフの言葉にも冷笑と余裕を持って佇む様は只者ならぬ雰囲気を放っていた。
腫れた瞼を押し開けば、地面すれすれをたなびく赤銅色の外套、同じく赤銅色の重靴が視界に入る。
『おい、色男その整った面崩されかぁねぇだろ? それとも、こいつが誰だか知らねぇのか? だったら教え……』
『知っているともそこの彼の事情はね、それを踏まえた上でもう一度だけ言う、彼の体から足を上げたまえ』
最初に言葉でどうにかしようとした辺り男の雰囲気は感じ取っているのか、ここまで言われても仲間内でごしょごしょと話し合うだけで殴りかかろうとする気配はない。
『っち、面倒くせぇ!』
されどおめおめと引くのは彼らのプライドが許さなかったのか、三人の内の一人トムと呼ばれる男が拳を作り男へと襲いかかる。
『それはこっちの台詞なんだがな』
『うるせぇ!』
つまらなそうにぼやく男にトムの右腕が弧を描き振るわれる、が。
『我流:導楽独楽』
『ぬぉっ?!』
男の手がトムが振るった右腕、その服を三本の指でつかみ、コマでも回すようにトムの体位をひっくり返す。
空回した腕に振り回されトムの体勢が大きく崩れ、男の方へと背中から緩やかに倒れていく。
男はその横をまわり、無造作に顔面に足を掛けそのままトムを後頭部から地面に叩きつけた。
何一つ言葉を発することなくトムは白目をむき舌をだらし無く口から垂らす。
赤い液体が地面の溝を伝い、じわじわと錆鉄の臭いが漂い始める。
男はその一切に気を取られる事なく、徐々に掠れていく赤い足跡を地面に残してゆく。
『て、てめぇ!』
激昂したように振舞っているものの震える声は怯えを隠しきれてない。
かく言う僕自身、助けてもらっている側でありながらその容赦の無さに恐怖を感じずにいられない。
喧騒から離れた暗い路地に男の靴音だけが淡々と響く、近づいてくる。
["土人形の腕"!]
その恐怖に耐え切れずアドルフが叫声を上げて地面に手をつき魔力とともに概念を注ぎ込む。
地に注がれる概念は人型の"腕"。
胎内から出てくる赤子を想起させる動きで生気なき土塊は肘から先だけの出来損ないの"腕"となり、不気味なほど滑らかに有機的に何度も拳を握る。
『この狭い路地なら避ける場所はねぇだろ、ん?』
腕の完成に打って変わってアドルフが勝ち誇ったような声で笑う。
『おいアドルフ、学校ならともかく町での魔術はヤバイって!』
『大丈夫だチャールズ、今の状況なら正当防衛で言い逃れできる』
焦るチャールズを見てそれは更に助長され、アドルフが余裕を完全に取り戻し優越感に浸るのが分かる。
……悔しいけど、確かにアドルフの言うとおり衛兵に突き出されても文句は言えない……それに、暴行されているのは他の誰でもない僕だ。厳しく問い詰められる事はあっても、大目に見てもらえることはないだろう。
僕がそう思い知らず知らずのうちに奥歯を噛むと同時、淀みなく続いていた足音が止む。
代わりに腕から鳴る、石が擦れ合う耳障りな音が路地に満ちる、せせら笑う。
『どうした? さっきからその生意気な口が動いてねぇぞ?』
アドルフはそう言い切った途端、堪え切れなかったのか『けひひ』と下卑た笑いが漏れる。しかしお陰で足に掛かる力が抜け肺に空気を入れることに成功する。
『に……げぶぇ!』
精一杯声を振り絞り『逃げて』そう一言を言おうとした僕に薄汚れた靴が再びめり込む。
『何遠慮しちゃってんの、ちゃんと言えよ助けて下さいってよぉ!』
綺麗事を口にしたのが気に触ったのか、目の前の男も忘れアドルフが何度も僕を踏みつける。
今のうちに逃げてくれ……! とそれだけを念じる。僕にこれ以上余計な物を背負わせるなと、身勝手に願う。
『はぁ……』
願いは通じず、男が自分の存在を誇示するように大きくため息をつく。
『すまないがそこの鳥頭、ちょっとこっちを向いて頂きたい。まさか、その出来損ないの腕で何をするつもりだったのかまで忘れたわけじゃないだろう?』
手を二度ほど打ち付けて音を鳴らし気取った言い方で薄く笑う。
お手本通りの挑発にアドルフが乗らないはずがなく、
『スカしてんじゃねぇぞ!』
血走った目で土塊の腕を疾走らせた。
路地を半分に割るようにして走る"腕"は見かけは人のそれであっても、速さは人とは比べ物にならない。
大人三人分ほどあった男との間合いを一気に詰め、その魔手は呆気無く男を握り潰さんとする――した。
["見えざる善意"]
男の涼やかな一言で"腕"は糸が切れた人形のように崩れ、男の周りを囲うように土の山が出来る。
砂埃が舞い男は煙そうに顔の前で手をパタパタと仰ぐ。
ポツリと顔に当たる冷たい雫に上を見上げてみれば、青ざめた顔をしたアドルフが口をパクパクと動かしている。
[ト、"纏い……"]
その脇でチャールズが風を纏った燕を呼ぼうとした瞬間、凄まじい殺気が男から溢れ出る。
ひっ、小さい悲鳴がチャールズの口から零れた時には
『あがぁ……!』
男の拳が鳩尾に深々と突き刺さっていた。
なんだ今のは!? 知覚できない動きに混乱し目を瞬かせる。
殺気に当てられて一瞬意識を失った? いくら僕が弱っているとはいえ、そんな馬鹿な事がある筈ない。
確かに男はフィルムのコマ落としのようにチャールズへ近づいたんだ、でもどうやって?
混乱する僕を尻目に男はチャールズから離れ、僕の方へと近づいてくる。
男は躊躇いなく僕の吐いた水溜りに足を踏み入れ声を掛けて来る。
『立てるか?』
男の声に何か言おうするものの口が上手く動かず意味のない呻き声になってしまう。
と、立てないと判断した男が右脇から手を入れ、僕に肩を貸す形でゆっくりと立ち上がる。
『ひとまず君の家へ行くぞ、私もその方が都合が良い。が、その前に……』
そう言いながら男は首を後ろの方に向ける。
『そこの鳥頭、他の何を忘れようとお前の勝手だが──次は無い、これだけは忘れるな』
アドルフの悲鳴とも返事とも着かない声を最後に路地裏から音は消えた。
『大分マシになったな……』
あれから一時間ほど、体のそこかしこにあった大小の傷のほぼ全てが――忌々しい事に――塞がっていた。忌々しいなんて思う事自体、おこがましいのかもしれないけれど。
それにしても今日は治りが早い……まぁ骨折も火傷もしてなかったらこんなものか、か。
『ふっ』
"骨折も火傷もなかったから"自身の麻痺した感覚に思わず鼻が鳴る。
脳裏で何時かの魔術の火が揺らめき、とっくに治ったはずの左足がズキズキと痛む気がした。
『すまないな、お湯まで借りてしまって』
そうして怪我の具合を見ていると男が風呂から上がってくる。
声に振り向いて見る男の顔は殆ど歳の差は感じない。全体的に中性的ではあるものの、同年代(恐らく、だが)とは思えない鋭い目つきのお陰ではっきりと男だと分かる。
アドルフが言ってた通り、随分と整った顔をしてる……失礼なことを思えば、少し作り物めいて見えるぐらいに。
『とんでもないです、こちらこそ助けて頂いて本当にありがとうございました』
『お礼の言葉はありがたいのだが、残念ながら私は何の利点も無いことはしない。つまり、君を助けたのにもちょっとした下心があるのだよ、ん……』
と男は所在無さげに人差し指を軽く振り、罰が悪そうな顔でこちらをちらちらと見る。
な、なに、僕に何をしろと? 今までとは違った様相に動揺しつつ頭を巡らせ、すぐに『あっ……』という間の抜けた声と共に思い当たる。
『失礼しましたまだ名前を言ってなかったですね、僕の名前はテオドール。テオドール=ズィンダー=ユスティです』
少し間の抜けた態度に多少緊張が和らいだのか口の動きは程々に滑らか、お陰で口内の切り傷がズキズキと痛む。
男が気恥ずかし気な表情で立てた人差し指でこめかみの辺りをポリポリと掻きながら口を開く。
『では、ユスティと呼べば良いのかな?』
当然のように男が僕のことを性で呼ぶ、最も僕から縁遠い"ユスティ"という性で。
『わ、悪いんですが性で呼ぶのは……ごめんなさい』
生まれて初めて呼ばれた性に動揺を隠し切れず声がわずかに震える、背中をダラダラと冷たい汗が流れ吐き気が込み上がる。
『……理由は聞かないほうが良さそうだ』
過度に気遣わない言葉がありがたい。おそらく今は心温かい言葉は自分を責め立てる声にしか聞こえないだろうから。
『では、多少馴れ馴れしいかもしれないがテオドールと呼んでも?』
『え、ええ大丈夫です』
"ズィンダー"の方で呼ばないことに少し狼狽しつつ返答する。
『ありがとうテオドール。私はレウス=フリート。名前で呼んでくれるとありがたい』
『分かりました。それで、レウスさんは僕に何の御用が?』
大きく回り道をして本題へと立ち戻る、窓から見た外はすでに日が暮れようとしている用事によっては差し障りが出てくる時間だ。
『部屋を一つ借してもらいたい』
僕の問にレウスが簡潔な答えを返してくる、今までの会話で最初のイメージが抜け落ちてきてるお陰か、何も考えず疑問は口から出る。
『部屋、ですか? それでしたら別に僕に頼まなくても』
尋ねると再びレウスが渋い顔を浮かべるがそれも数瞬のことで慎重な面持ちで答え始めた。
『私はその"記憶喪失"と言うやつでね。幸いお金は結構な額を持っていたから今までは宿住まいで何とかしてきたが、いつまでもそうしてる訳にはいかない。が、定住したくても身元を証明するものがなくてね』
成る程、それが本当なら確かに僕の家は最適だ。
正直、記憶喪失云々は胡散臭いが嘘を付いている雰囲気も無い。それにこちらは恩がある身だ、恩人の頼みは断れない。
内心で結論をつけ了承の意を伝えようと口を開く、
『……分かりました。だけど、少し条件を』
だがしかし、それは結論とは大きくずれ、
『なんだ? ああ、家賃なら払うから安心してくれ』
自分でも想像だにしない言葉にすりかわる。
『いえ、僕に――レウスさんの武術を教えて下さい』
今回、少々詰め込み過ぎた感がありますが章の始まりと言う事でご勘弁を。