第六十六話:紅の終末詩
サー……
熱い雨が私に降り注ぎ、雨粒が肌で弾ける。その度にぼやけた意識が揺り起こされ、頭痛や吐き気と共にあの晩の記憶が思い起こされる。否が応でも。
あの晩から何日経ったのだろうか? 日付の感覚が曖昧だ。
分かるのは、ここが魔界ではなく人界で、アイゼルの兵舎の一室であること。そして、ここに入ってから出た記憶が無いと言うことだ。
ふと、曇った鏡に目を向ける。
「なんて様だ……」
頬はこけ、目には隈、筋肉もやや衰えてるように見える。
そんな自分の姿を確認したとたん、へこんだお腹が悲鳴をあげる。
自分の体ながら現金なものだ、精神面など気にも掛けてくれやしない。
せせら笑いつつも、キュッと蛇口を捻りシャワーを止める。
手すりに掛けたタオルで体を拭き、私は空き巣に荒らされたような私室に足を向けた。
しわくちゃな服の中でもましなもの見繕い、廊下へと続く扉に手を掛ける。
淀んだ空気が外に流れ身震いする程の冷気と取って代わる。
廊下の窓から差す陽光が目に痛い、床が軋む音が耳障りだ。それでも何か食べないことには部屋に戻る訳にも行かない。
何を見るでもなくふらふらと歩を進め、階段を手すりにもたれ掛かるようにして降りていく。
一階の床に足を着けた途端、食堂から芳ばしい匂いが鼻孔をくすぐる。
「何時もなら……」
絶対に行かないな、そう内心で台詞を続ける。
何時も食堂の飯は不味い不味いってぼやいてたからな……”あいつ”は。
「ッ……!」
頭を貫く一際大きな痛みに思わず壁に寄りかかる。
「くくく……」
何をしてるんだ私は、被虐趣味に目覚めたか?
もう良いだろ、忘れろ、せめて割り切れ、もう夢見る少女じゃないんだから、別れなんて幾度も経験した大人なんだから。
痛みに呻く代わりに自らに言い聞かせ、再び足を前に動かす。
廊下の突き当たりを左に曲がり、外の渡り廊下を足早に抜け、服の裾を引っ張り冷えたドアノブをひねる。
厨房の音を除けば食堂は静かなもので、兵士の話し声は微々たるものだった。
人がまばらな事からも、今は早朝なのかなどど時刻の見当をつける。
二つの日替わり定食の内、胃に優しそうな方の食券を手にし食堂の人に渡す。
食券と引き替えた番号札を確認しつつ窓際の席に着き、そのままぼんやりと外を眺めていると、自分の番号を呼ぶ声が背後で響いた。
やや駆け足で声の方へと急ぎ、定食を受け取り元の席へと足を向ける。
「師匠!!」
と、いうところで今一番聞きたくない声が耳に届く。
無視するわけにも行かない、止む無く足先を声の方向へと向ける。
「……何だ、レオナルド」
「あ、いや、その……」
知らず知らずの内に睨みつけでもしていたのか、レオナルドがおどおどと言葉を詰まらせる。
──そんな動作の一つ一つが無性に苛つく。
「立って話をするのもなんだ、私はあの席にいるからお前もさっさと定食選んで来い」
「は、はい」
そんな内心とは正反対の言葉をレオナルドに掛け、私は改めて足を元の席へと向けた。
「師匠、魔界から帰ってきてどれくらい経つか分かりますか?」
粗方食事を終えた私はその言葉に正直に首を振り、水を一口
飲む。
「そうですか……帰ってきてからもう一週間程になります。記憶には無いかと思いますがその間の師匠の様子は……無礼を承知で言わせていただきますが、酷いの一言に尽きました」
「どんな様子だったんだ?」
「人界に帰ってくる少し前から心ここにあらずといった様子で、声を掛けられても返事もろくに出来ないと言った状態でした」
全く記憶にない。思い出そうとしても頭痛に邪魔される。
「こちらに帰ってからは連日酒場で浴びるように酒を飲んでいました。時には暴力沙汰になるようなことも……と言っても師匠の方から手を出した事は殆どありませんでした。その後は酒瓶を手に部屋に入ったきり三日程経ち、今に至ります」
言われてみれば鏡を見たとき、体のそこかしこに青じみができていたような気もする。 まぁ……それは良い。問題は私から手を出したことが”殆ど”無かったと言う事、少なくとも一回以上は私から手を出したことがあったという事だ。
自分がやった事ながら呆れてしまう。
「それで? 私は誰に手を出したんだ?」
「それは……」
レオナルドが急に言葉を濁す、不審に思い目線をそちらに向ける。
と、レオナルドがびくりと肩を震わせる、その顔はよく見れば少し腫れ上がっているように見えた。
なるほど、得心がいった……
「お前だなレオナルド? 多分、ジャンも」
「……はい」
「お前等の所為でル──っ痛! く、組長は云々とか喚いてたんじゃないのか?」
「そ、その通りですが……思い出されたのですか?」
思い出していなくとも分かる、レオナルド達に暴力を振るうなどあの件以外には考えられない。
私自身、その場にいれば同じ事を──彼の事を知っているからこそ余計に──手を下しただろうに。
彼らと私には実際に手を出したか否かと言う違いしかありはしない。
「いいや、私が言いそうな事を適当に予想してみただけさ。しかし、迷惑を掛けて済まなかったレオナルド」
「いえ、組長と……ルフトさんと師匠の関係を軽く見てた僕達の行動が軽率でした」
「……レオナルド。勝手は承知で頼むが、少し一人にしてくれないか? まだ、完全には踏ん切りがついていないんだ」
彼のことも、お前らの事も。
「……分かりました。自分も師匠のことを知らせに行かないといけませんから」
「知らせに行く? どう言うことだ?」
「師匠の事を心配してる人は師匠が思ってるより多いって事ですよ。今日出てこなかったら、扉が蹴破られてたかも分かりません……自分が言う事じゃありませんが、自殺を疑ったりもしたんですから、少しで良いですからその辺の事も考えてください」
「……ああ、わかった」
まだ寒い早春の風に顔をしかめつつ、首都アイゼルを宛もなくうろつく。
何度か足を運んだことがあるパン屋や、来た初日に入った酒場……たった三ヶ月で人はこんなにも思い出の足跡を残す。
ここが街で無くて本当に良かった。
──あそこは思い出が多すぎる。
そんな使い古された言い回しが今は重い。
近い内にシュヴェルト達に伝えなければならない事、その内容を考えると胸に刺すような痛みがはしる。
正確に言えば、真実を伝えれないことが何よりも辛い。
決してシュヴェルトさん達の事を思ったわけではなく、自分一人だけがあの晩の事を、あの憎しみを抱え続けなければいけないことが辛い。
打ち明けてしまえと、洗いざらい話してしまえと弱い心が言う。
けれど、それだけはできない。
どんなに弱い自分でも、あの男を裏切る事だけはしてはいけない。
何よりも自分は弱いと、仇に囲まれた中でも一人では生きていけなかったと泣いた彼を裏切る訳には行かない。
例えそれが、無意味で、無価値で、ただの自己満足だとしても──絶対に。
「おっと、これは運がいい」
いい加減体に悪いなと兵舎に帰ろうとした道すがら、後ろから軽めの声を掛けられる。
「……オーダイさん。どうした、何か私に用事が?」
「ええ、しかし……噂に聞いてた通りかなり弱ってるご様子で」
「ああ、だから用件があるなら手早くお願いしたい」
あくまで軽い調子に我知らず声に険がこもる。
「……イレーナさん。ルフトさんからもしもの時に貴女に渡す様頼まれた物があります」
──ドクン。
不意の一言に一際強く心臓が脈を打ち、強烈な吐き気が体を襲う。
「うぅぐ……!」
「やはりまだ……渡すのはもう少し落ち着いてからにしますか?」
「いい、大丈夫だ……! それで、その物とは……?」
「……これです」
そう言ってオーダイが手に持っていた袋を突き出す。
中には見覚えのある箱があった。それもその筈、私はこの箱を手に取ったことがある。
魔界へと赴く前夜。
優れたコーヒーの様に、黒く、熱く、純粋で、甘い一夜の記憶。
今となっては、苦く辛い記憶。
「どうしました? 受け取らないんてすか?」
オーダイにろくに返事もせぬまま、魅入られる様にして突き出された箱を受け取る。
「では、これで」
「ああ……」
その後私は心配した近隣の住民に声を掛けられるまでただじっと箱を見つめていた。
「ふぅ……」
ガチャリ──と、錠の落ちる音と共に肺にたまった空気を絞り出す。
足を一歩一歩地を確かめるように動かし、酒の空き瓶が占領する机につく。
適当にスペースを作り出しポケットに入れた箱を腫物に触るように慎重に机に置く。
「すぅー……はぁー……」
目を瞑り、深い呼吸を繰り返す。そうやって動悸を落ち着け、私は箱へと手を伸ばした。
「……手紙?」
箱の中には折りたたまれた真新しい手紙と布でできた小さな袋が入っていた。
袋の中身も気にはなるが……まずは、手紙からか。
◆◇◆◇◆◇
イレーナ。お前がこの手紙を見ている時、俺はお前の隣には居ないだろう。
予定通り故郷に帰ったのか、或いは戦死したのか……この文章を書いてる時点ではわからないが。大体、こんな小恥ずかしい手紙を、書いた本人の隣で読むなんてよっぽど性悪だし。
とにかく、ひとまず俺が人界にいないという体で書かせてもらうが、そうなるとまず一番最初に謝罪をさせて貰いたい。
迷惑をかけて本当に悪い。よく考えてみればギルド云々を置いていても、葬儀やらなんやらで迷惑をかける事になる。
と言う訳で、この手紙と一緒にあった小袋、中にはちょっとしたお前への追加の詫び代が入ってる。戦闘には一切役に立たないがお前が国に帰った時に少しは役立つかもしれない、必要なかったら、或いは必要がなくなったら捨てるのも勿体ないから質屋にでも売り払ってくれ。
さて、俺としても汚い字を晒したくないし、長々と文章を書くのも面倒くさい、お前も読むのが苦痛だろうからこれぐらいで筆を置かせてもらう。
親愛なる──
◆◇◆◇◆◇
「……親愛なる我が相棒へ、ルフト=ゼーレより」
手紙の結びが思わず口から零れ、胸がずきりと痛む。
痛みを振り払うように酒をグラスに注ぎ、
「ん、ん……ふぅ」
一気に飲み干す。直接酒瓶から飲みたいところだが、口紅が付いたら面倒なことになる。
[生まれ出ろ、摂理外の火よ"点火"]
指先に生まれる小粒大の火。
小さくともそれは何度も読み返しくしゃくしゃになってしまった手紙をあっという間に焼き尽くす。
悔いはある。別に残しておいたところであの人は私を非難したりはしなかっただろう。
だからと言って、この手紙を残して置く訳にはいかない。これは私なりのけじめであり、前へ進むために必要なことだ。
決別として手紙は燃やした、ならばもう一つの忘れ形見も捨て去らなければ。
手紙の通りにするつもりは無い、身勝手だがあれが人の手に渡るのには抵抗がある。
手紙のそばにあった小袋に手を入れ中のものを取り出す。
小さいながらも上品に飾られた宝石箱は三年前から何一つ変わっていない。おかげで痛みがついこの間の事のように思い出される。
「涙は流し尽くしたと思ってたのにな……と」
過去に浸るようにゆっくりと箱に手をかけ、蓋を開く。
中には一つ、小さな紅い石がついた指輪がはめられている。
そっと手に取り、今まで通りに左手の薬指につけようとして、すぐに頭を振って右手へと付け直す。
「ここで握りつぶせないのが弱さなのかもな……」
自嘲の言葉を吐き、箱の奥にひっそりと見える、かつてもう一つの指輪がはめられていた穴を見つめる。
--彼は三年前のあの日指輪をどうしたのだろうか?
今までに何度も考えた問い、答えが出たことのない問い、それも今日で最後だ。
今週の末、私は姓を変え、家を出る。
血なまぐさい戦場から離れ、穏やかな日常の中で時を刻み、この手が枯れ細るまでもうこの町を出ることは……恐らく、無い。
筋肉のついた腕は徐々に女性らしい肉付きに、固く厚い手のひらは繊細で柔らかく変わっていく事だろう。
「退屈で幸福な人生だな……」
掠れるようにして出た声は自分でも驚くほどに乾き──死んでいた。
これにて第三章終了! いやはや長かった。
ちなみにサブタイは終末詩と書いてエピローグと読んでいただきたいです。