第百六話:受難の九月
『あー寒みぃ』
季節は早秋となり、焼け付く様な熱さは失せ、町を歩けば長袖を着る者の方が多くなり始めた。
夏季自主訓練期間が今日で終わりだという事もあり、ギリギリまで実家や遠方で稽古をしていた者が戻ってきているようで、何となしに忙しい雰囲気だ。
そんな雰囲気とは反対に、俺はと言えば今日は明日からの学校に向けて、英気を養う予定……。
『だったんだけどなぁ……』
ぼやきながら手にした紙に目を落とす、内容は――緊急の連絡あり、至急学内の我が部屋まで来られたし――差出人はバルチェ翁だ。
大方、明日から始まる学校についての話だろう。もしくは――敵さんが業を煮やしたか、だ。
あの襲撃の後、すぐにこちらもバッハシュタイン嬢を伝手に、死刑囚の擁護派と情報を連携し、警戒を強めた。
その甲斐あってかどうか、敵さんは再び息を潜めた。とは言え、もう楽観視はできない。
何らかの策を練っている、そう考えるのが適当。例え後手にならざるを得ないとしても、せめて警戒だけはしておくべきだった。
だからこそ、俺は学生も含めて、学内の人間の誰も信用しない事を決めていた。特に英雄とも称され軍とのパイプも太い、あのバルチェ翁は充分警戒に値する。
と言っても、バルチェ翁は現役時代はほぼ戦場、退役後は軍事特別顧問で死刑囚との関わりは非常に薄い。候補としては微妙だな。
などと、滔々と考えにふけるうち、いつの間にか校門を潜り抜けていた。
ウォームアップをしている学生達を横目に、顧問室のある中校舎へと向かう。
校舎内には人気はなく、物音一つしない。だからと言って、誰もいないと考えるのは早計だよな。
『"變化:臨死"』
左胸に手を当てて吐いた言霊と共に、鼓動が静寂へと溶けていく。
手足の先から感覚が喪失していき、視界は徐々に暗くなっていく。そうした感覚喪失の果てに、魂を感知する第六感が覚醒させる。
校舎内にある反応は一つだけ。しかも、位置からして、これはバルチェ翁だろう。
『だが、これは……怒気、か?』
そっと手を戻して、独りごちる。鎮魂時の感覚はかなり曖昧だが、感知した魂は並々ならぬ怒気を孕んでいた。
嫌な胸騒ぎに自然と歩みが早くなり、校舎内を反響する靴音は二重、三重になって行く。
そうして、顧問室の前にたどり着いた所で、一つ息をついて気を鎮めてから、扉をノックする。
『招集に応じ参上致しました、ルフト=ゼーレです』
『どうぞ、入ってください』
『ハッ! 失礼致します』
室内からの返事に応じて、声とともに入室する。
バルチェ翁は普段座っている奥の机ではなく、応接用のソファーに腰を下ろし、その前の机に置かれた書状を睨むように、俯いていた。
室内を包む重苦しい空気に口を開きあぐねて居ると、『どうぞ、座ってください』と翁が着席を促す。
それに頭を軽く下げ、促されるままに翁とは机を挟んで反対側のソファーに着く。
着席した俺に、翁は無言で机に置かれた書状を回し、こちらへと差し出してくる。
読め、と言うことだろう。念のため『拝見いたします』と声をかけた上で、書状を手に取った。
――読み終えた。理解した。訳が分からなかった。
『……無礼を承知で訪ねますが、これは正規の書状でしょうか』
書面から顔を上げて尋ねると、無言で翁は頷く。
当たり前だ。こんな書状を偽造できるはずがないし、した所で意味がない。
こんな、学徒出兵の命令書なぞ。
脳裏に、故郷の景色がフラッシュバックする。ドロリ、ともう枯れ切ったはずの澱が溢れ出てくる。
気が付けば、俺は書状を鷲掴み、翁の顔を睨むように見つめていた。
『明日、その旨を学生に伝えて、準備を始めます。貴方もそのつもりで、今後のスケジュールを組見直してください』
淡々と喋る翁に、口汚い言葉を吐くのを寸での所で堪え、そのまま無言で部屋を出る。
翁に訊くこと、確認しておくことは幾らでもあったが、あのままあの部屋に居たらどうにかなりそうだった。
窓に映る自身の顔は、妖精族と戦っていた時に腐るほど見たそれに近しくなっていた。
『"變化:寂静"』
吐き捨てるように呟いた言霊が、荒れ狂った精神を鎮める。感情は抑制され、理性だけが体を動かす。
出兵……今の俺にとっては、都合が良い話かも知れない。戦地でないこの町と人魔大戦と言う混沌の場では、切れるカードも変わってくる。
前に考えた、当面の問題を解決する手段もある。もっとも、実行には、現場での情報も必要な上、ある種の犠牲が伴う……ユスティが同意するかが、問題だな。
ま、何にせよ差し当たってやるべきことは、情報の連携。そして、計画の立案。
それまで"寂静"は維持しておいた方が良いな。あの年での戦場送りは、どうしても俺がまだこんな身体じゃなかった時、そして――魔界に戻ってきた時のことを思い出す。