第百五話:苦悩の八月
キィとサビを浮かせた蝶番が鳴き声を上げて、扉が開く。
室内は暗く、今しがた開いた扉の隙間から差し込む光が一条あるだけだ。
……起きた様子はないが、もう少しちゃんと確認しておくか。
変化、と小さくつぶやいて、視覚を暗闇に最適化、聴覚を若干強化する。
穏やかな寝息とその主が居ることに、一安心して扉をそっと閉め直して、一階に戻る。
『ったく、最高な一日だ。はぁ~……クソ』
ソファーに身を投げながらぼやき、紙巻煙草に火を点ける。
ため息の代わりに肺に溜まっていく煙に、ほんの少し苛立ちが収まる。
ポジティブに行こう。実際、トラブルの割には被害は少ねぇ。むしろ、得たものの方が多い。
以前の襲撃は、結局バッハシュタイン家の政敵の仕業と言う結論になったが、今回のユスティが直接襲撃されたことから、それが間違いだったと言わざるをえない。もう一つの推測であった、ユスティ――と言うよりも、死刑囚と言う異能者に対して、敵意を持ってる奴が居るのだろう。
現状、死刑囚は、ある種の兵器として国に保護されている状態だ。殺害ないし監禁に成功した所で、国からの追跡される羽目になる。今代になって、制御可能な代物になりつつあるとなれば、尚更だ。
逆に言えば、この状態からもう一度大きな被害を引き起こせば、もはや国も死刑囚の兵器運用を諦める方向にグッと傾くだろう。つまり、敵の狙いは必然、"死刑囚の暴走"にある。それは今回の襲撃タイミングからも明らかだ。
ヤツの隣には、親しくしているライエンハイトの嬢ちゃんが居た。恐らくは彼女を――できれば、死刑囚の手で――殺害することで、暴走を引き起こす予定だったのだろう。
実際、封印は破れかけた訳だから、そうなってもおかしくなかった。
『ったく、こいつは完全にユスティのお手柄だな』
そして、俺のミスだ。短くなった紙巻煙草を手のひらに押しつけて消し、再び黙考に浸る。
敵は俺達について随分、詳しいらしい。ライエンハイトと居る時に襲った事自体は、詳しく調査せずともそう言う案は出ただろう。俺とユスティの関係も、これだけ時間が経てば分かるだろう。
だが、 ユスティが働き蟻作戦参加した後――正確には、血を嗅いだことで暴走状態に近づいた今日を狙ったことについては、あまりにもタイミングが良すぎる。
作戦中も様子を見ていたとしか、考えられない。
敵の勢力が学校に忍んでると言うのは非常に不味い。ただの学校ならともかく、ここは貴族向けの軍事学校。そんな所に配下を忍ばせることができるという事は、そんじょそこらの地位や権力じゃまず不可能だ。
そして、それを証明するかのように、今回の襲撃者たちは以前とは比べ物にならない程の練度だった。特に俺が戦ったのは相当な手練だった。俺はあの場で出せる全力だったが、奴さんは実力の五割も出していなかったように感じる。
「対して、こっちはどうだ。えぇ?」
人脈はどれもガキを通したもので、ないも同然。味方は大体庇護対象で、内一つは取扱が難しいド級の爆弾。しかも、その爆弾の導線には、火が付いてる疑惑すらある。
まぁ、俺も人のことは言えない。俺自身の経験に加えて、喰った奴らの知識を利用して、何とかやって来たが、それも正直限界に近い。
前者は所詮は二十余年程度のものな上、戦闘外で頭使った立ち回りなど経験がない。。
後者は朧気な上、感覚としてはよく出来た手引書のような物だ。勉強やカンペ代わりには使えるが、それにも限界がある。
戦闘能力にしたって、こちらから襲撃するならともかく、誰かを守るには向いてない能力。そもそも、下手すりゃ、国外からもわんさかお客さんが来る爆弾を超えた何か。
‥‥改めて思い返せば、得体の知れない敵の規模の大きさ、自身の窮状を思い知らされる。何もかも投げ出して自分の身を守ることだけ考えられば、どれだけ楽だろうか。
いかん、結局ネガティブになってる。
ポジティブに行こう、ポジティブに。まだ、手はある。ある筈だ。手遅れにはなっていない。
『時間はまだ残されてる。あの時とは違う。俺はまだ当事者だ』
自分に言い聞かせるように呟き、再び俺は思考の海に深く沈んで行った。