第百三話:悪果の八月
『……以上により、第八号における二名は合格と判断できる、とぉ』
報告書を書き終え、解放感から思わずペンを放る。季節のお陰で未だに明るいが、もう時刻は七時近く。おかげで夏季自主訓練期間の今は、教員室にも俺ひとりきりだ。
さて、この報告書を早くバルチェ翁に出さないとな……の前に、ちょっと一服と。
潰れた紙巻煙草に口に咥えて火を点ける。中毒を引き起こす煙を吸い込むと、『あ゛ー疲れた』と煙に勝るとも劣らない汚い声が喉から響く。
トン、と自前の灰皿に灰を落とし、咥えた煙草を親指と人差指で支えながら、書き上げたばかりの報告書を見直す。
担当場所は八号、担当者にはルフト=ゼーレ、誤字はない。配置学生はテオドール=ズィンダー=ユスティとロザリエ=ライエンハイト、綴りミスってないよな? ライエンハイトはよく間違いそうになるんだよなぁ。
試験中の様子などはつらつらと流し見、一番重要な評価の項目で目を留める。両名とも無事、一名ずつ奴隷を殺害。
『カッ、カカ』
自嘲に似た笑いが漏れる。嘘をつくな、嘘を。ユスティは言わずもがな、ライエンハイトだって青ざめた顔をしてたじゃねぇか。……しかも、ユスティはそれに気付いてた様子がない。
あれで人の機微は敏いアイツが人を――中でも最も大切であろうライエンハイトを――気遣う余裕が無いってのは、どう考えても危険だ。
異能はその所持者の精神との繋がりが強い。中でもユスティはとびっきり、人格に影響を与えるほどだ――良くも悪くも。
まだユスティには話してはいないが、実はユスティ家が過去に所蔵していた、"災鬼の書"と仰々しく呼ばれる歴代死刑囚について記載された書物は、ティアナの嬢さまの生家――バッハシュタイン家が所蔵している。
俺はそれを読んだ。一から十まで念入りに、概要なら空で言えるほどにまで読み込んだ。もちろん、嬢さまに許可をとってのお話だ。そして、同時にユスティに読ませる許可も貰った。
それももう随分の前の話だ、機会を伺っていたらいつの間にやら一ヶ月以上。話していたら、もしかすると今回の暴走は防げたかもしれない。
『だが……いくら仮説とはいえ、あれはショックがでかすぎるよなぁ……』
十中八九は大丈夫だとは思う。思うのだが……最悪のケースを想像すると、どうにも踏ん切りが付かない。なにせ、同年代より大人びては居るが、ユスティはまだ二十にもなってないのだ。
改めて思い返すと、段々と不安と焦りが募ってくる。まだ半分以上残った煙草を、灰皿にグリグリと押し付け、書類片手に立ち上がる。
『チッ、過保護なのかねぇ俺は……!』
自分の言葉とは裏腹にバルチェ翁の元へ歩む足は急ぎのものだ。
『ホント、なんで今日に限って当日提出なんだか……!』
焦りからついつい愚痴も出てくる。報告書自体は毎日書いているのだが、今日に限っては中間試験の評価が含まれることもあり、常ならば翌日の朝までが期限な所、当日の提出を求めてきたのだ。
しかも、ユスティ達が巣穴から出てきた最後の組だった所為で、報告書もほとんど真っ白。
全部しょうがないことだと理解もしてるし納得もしてる。だからと言って、イライラせずに要られるかどうかは別だ。
お陰でノックの音も、意図せずゴンゴンと手荒なものになる。明日頭が冷えたら謝ろうと、頭の隅で考えつつ儀礼的に挨拶をする。
『ゼーレです、入ります』
『はい、どうぞ』
返事が来るのとほとんど同時に、『失礼します』と扉を開きスタスタと奥の机に座るバルチェ翁の前まで進む。
『本日の報告書になります、ご確認を』
『ご苦労さま。いや、急かしてすいませんねぇ。どうやら急いでるご様子、詳細な報告は明日で構いませんから、どうぞお帰りなさってください』
『……申し訳ありませんが、お言葉に甘えさせていただきます。では』
バタンと扉を閉めた瞬間、全力で教官室にダッシュする。荷物を手早く纏めて、教官専用の出口から外へと飛び出す――と、小さな影が風を切って飛んで来る。
大丈夫だ、距離はある、ギリギリで躱せる筈ッ! 上体を浅く反らし、右に体ごと振り向くことで見立て通り、紙一重の所で飛来物を躱す――と、蛇が頭をもたげるように軌道がグニャリと変化する。
まーた、結縁願望か。これだから魔術ってやつはよォ! 嫉妬混じりの文句はさておき、飛来物は弧を描き俺の背中側から腹部を貫く軌道を取る。そもギリギリ躱したものだ、回避は愚か弾くことさえ間に合いそうにない。
とは言え、アレクシスを相手にした時とは条件が違う――"変化:生鱗鎧"。
鱗鎧と言えば、金属の小片を皮鎧などに縫い付けた物だが、この変化はそんな比喩ではなく、そのまんま表皮を変化し、幾重もの鱗で覆うものだ。
必要なのは防刃性能と耐貫通性能。"核"に魂ごと保存された無数の姿形の記憶――形憶から魚人の鱗メインに据えたものを引き出し、自分の形憶と混ぜ合わせる。
核に記された形憶の"変化"は、体中を駆け巡るあらゆる電気信号よりも早く、いまや何で構成されているかすら定かではない、無形の肉に影響を与える。
ガッ、と骨に響く音は氷をピックで割ったものに似ていた。この感触、この音、何よりこの痛み! 投げられたのはツルハシかよ!?
道具としての鱗鎧と同じく、魚人の鱗は防刃性能と耐貫通性能を兼ね備えてはいても、衝撃に対しての防御効果は期待できない。
つまり、かなり痛い。声に出すほどではないが、こんなに痛いのは昨日、足の小指に本を落とした時以来だ。
阿呆な感想を抱いていると、アッサリと襲撃者が向かい側、北校舎近くの花壇の影からその姿を現す。
体格からして性別は男、右手にぶら下げた剣も広く普及している店売りのもの、服はそこらの店で買える運動用の服で、頭には目出し帽。
身分がバレそうなものは全部ポイか……よっぽど、自分のことが知られるのが嫌と見える。
それだけに最初の一投はあったにせよ、こうも真正面から挑んでくるのは腑に落ちない。特に人気がないとはいえ、あんな不審者ルックだ。警備員もまだ帰ってはいないだろうに……。
『が、考える時間はなさそうだな』
前後に足を開き、ゆるいスプリントの姿勢を取ると、先まで額があった場所を鋭い風が吹き抜ける。
風の来た先を見れば、男が革手袋に包まれた左手の指先をこちらに向けている。魔術に疎い俺でも二射目までそう間もないことは理解できる。
『人を指さしちゃいけないってママから習わなかったか?』
言葉とともに地面を蹴れば、パスッと風弾が放たれる音がすぐ側で響く。
ハッと息を呑む男。しかし、その反応とは裏腹に決断、行動は迅速だった。
『"重蹄脚"からのッ――万変流格闘術:"突風"』
"突風"は加速の勢いを乗せた双掌打突。突き飛ばされて男が後方に大きく吹き飛ぶが、一方でその手ごたえは軽い。
自分から吹っ飛んだ、それだけなら驚かないが……あのタイミングで間に合うのか。会心とは言わずとも当てる自信はあったんだけどなぁ……これだから魔術ってやつは。感嘆が混じえ、本日二度目となる言葉を思う。
俺に接近されてあの敵は即座に魔術を点から面に、射撃から放射に変更、緊急的な加速装置にしたんだろう。
それは良い、同じことをやられた経験はある。問題は――――対応の速さ。
"重蹄脚"の存在を相手は知らない、それは反応から明らかだ。にも関わらず、こうもあっさりと対応された。
『カカ、爺に知られたらどやされるぜ』
ほっと息を吐き、構える。まったく、適当に相手して逃げるつもりだったんだがなぁ、どうにも今日は厄日らしい。
スクリと薄暗い夜闇の向こうで人影が立ち上がる、と同時にまたもこちらに向けて何かを投擲してくる。
こちらもボサッとしている訳ではない、即座にすれ違う形で投擲物を避けつつ距離を詰める。
俺の動きを見て男は投擲に使った左手を戻す動きで空を扇ぐ。それに応じる形で生じるのは魔術ではなく、あくまで風だ。
"概念"の混じりっけが一切ない、ただの風――突風だ。それ故に害意は薄く、それ自体に手傷を追わせる要素はない。そして、それ故に避けにくい。
そんな、改めて意気込むまでもなく風だもんなぁ、そりゃ避けにくいわな。昔の人も魔族も一番怖いのは自然と仰ってる。
だからこそ、対策も古典的でシンプルだ、嵐は通り過ぎるのを待つのみってね!
踏み出した足が地面につくのと同時、足裏から棘を生やし地面に根を張る。
急な停止に体がつんのめった瞬間、くすぐるような冷たい風を前触れに、風の奔流が俺を飲み込む。
その暴威たるや凄まじく、目を開くことなど論外で、耳は風の轟きで半ば麻痺、巻き上がった小石が肌を裂き、にじみ出た血さえすぐに彼方へと吹き飛ばされる。
まるで嵐のまっただ中にいるみてぇだ、錨刺してなかったら、どこまで吹き飛ばされたことやら……!
そう思う間、時間にして一秒も立たずに風は止み、閉じた目蓋を開く。夜目が切れたのか、先よりも暗くなったように思える視界、それが輪をかけて暗くなる。
その原因が、飛びかかって来た男の影だと理解するのに、刹那の時も要さない。だからこそ、俺の頭から回避という手段は消えた。
薄青色の夜空とぼやけた月を背にした男、右手の剣を背に回し、その左手が再び空を薙いだ。頭に過るのは先の暴風、正解だと言わんばかりにと冷たい風が頬を撫でる。
あの勢いで地面に叩きつけられるのはキツイ……! 自然と地面に張った根が、より深くより頑丈に俺を地面に縫い止める。
――だがしかし、風はそれだけで止む。あとに残るのは錨ではなく、錘となった根と棘のみ。してやられた、そう俺が気付いたのは接近と先攻の権利を許した後で、相手がその権利を行使し斬撃をする前だった。
着地の勢い、衝撃を殺すための屈伸、そのどちらもを利用した背から弧を描くように振るわれる斬撃。その軌道にブレはなく、真正面から見る俺からしたら、その剣閃は直線としか映らない。
即死こそ免れるだろうが……失血死は間違いねぇな。普通なら、と最後に付け足し、頭の隅で行われた被害予測が終了する。
頭が判断をする間もなく、肉体がその身に染み付いた動き実行する。
クイ、と手首を返す演出を合図に、体内に埋め込んだ武器を左の袖から射出、左手で包み込むように受け取り、得物をクルリと手の中で持ち替え、逆手に構える。
金属の打ち合う耳障りな音がすぐ側で鳴り、飛んだ火花が顔に小さな火傷を作る。
手首をひねり外側に相手の刃を滑らせ、かすかにこちらに傾いた体を右手で掴む。いまや二本の大樹と化した両足を軸に、つんのめった影響で前屈みになった体を、一気に仰け反らせる!
『万変流格闘術:"崖風"ッ!』
万変流が利用する敵の勢いはほぼ皆無、おまけに使える腕は一つ。無理と無茶と強引を掛け合わせたようなその技は、案の定というべきか途中ですっぽ抜け不完全に終わる。
腕から重量、手から感觸が抜け落ちた瞬間、足裏の根を体内に戻して振り向く。男はと言えば、いとも簡単に受け身を取り、剣を振って刃に付いた砂を払っている。
立ち位置が逆になっている点以外は、ほぼ最初の状態と変わらない……こともないか。
譲られてから数年、未だに馴染まない武器を握りなおして思う。行光――師匠から貰った(恐らく)業物だが、あいにく俺には合っていないらしく、ほとんど使っていない。
さて、どうするか……。逡巡とも言えぬほんのわずかな時が流れ――万変流は捨てよう、そう決断する。
とにもかくにも慣れない武器はポイだ。取り出した瞬間を逆再生するようにして、袖にしまい、体に収める。
敵から魔術の予兆を感じつつ、動くことなく俺は偽りの呪言を吐く。
『変化――"人狼願望"』
雑巾を絞った時のように、俺の体から魔液が染み出し、すぐに"変化"する。
人狼の持つ砦亀を甲羅諸とも噛み砕く顎門に、鬼の鋼皮さえも裂く獣爪。盛り上がった上半身の筋肉は険しい山脈を、その重さを支える強靭な足腰は研ぎ澄まされた刃を思わせる。
……そして、おまけとして、無駄な体毛と飾りの耳。いや、どちらも人狼であれば大切な部位なのだが……このれはあくまで"願望"、端的に言って魔液で精巧に似せた被り物をしている状態だ。……と言っても、俺の場合はまたちょっと違うが、耳は形だけで聴力は変わらないなど、性能は一緒だ。
もちろん、本来の変化ならばそこまでの再現も可能だが……重ねて言うがこの"変化"は人狼になるものではない。ややしいことに、鉄血魔術である"人狼願望"を再現するための"変化"のために、その言わば"劣化"とでも言うべき部分も再現されている。
大体、そうでなくとも、本来の人狼の体は、厄介な肉体構造をしてやがる。いつもなら"変化"でその部分を補ってるんが、今回はそうもいかない。加えて、柔軟な体が必要不可欠な、万変流は実質使用不可能だ。
……ま、それでもこの"変化"が使えるだけで、鉄血魔術っていうのは――鬼人って種族は良い。他の種族なら精々が傷を治すか、地面から木を生やすかぐらいだからな。
変化が出来ると何が助かるって――
『刃物が怖くなる』
わざわざ赤紫に着色した爪を震えば、ガツと薪を割るような音と衝撃が伝わってくる。
本物の人狼と違い、白目が多く残る双眸には薄闇の中でうっすらと光る緑の魔術光を捉える。
あの魔術光、そして今までの傾向からして、風魔術なのは間違いないな。そんで、痛みはないが手元が軽い……爪が折れたな。感触的には風嘴じゃない、無声で切れ味が鈍ってることも込みで考えれば、風切り雀だろうな。
爪を修復する間に軽く分析。元と寸分違わぬ長さに戻った爪を、再び盾のように前に構え、一気に間合いを詰める。
すぐさま、男が先と同じ風の魔術が放つものの、魔力の充填が不十分だったのだろう、今度はこちらの爪を折るには至らない。男もそれは予期していたのだろう、特に動揺することもなく、左手を突き出し、剣を持つ右手をダラリと脱力させた妙な構えを取る。
最初に思い浮かぶのは、あの暴風。しかしすぐに、いや、と否定する。いま防いだのも、飛びかかってきたのも、その前のものと比べて、大きく威力が下がっていた。
連発は不可能と見て良い……と思うのは早計だな。俺にそう印象付けるための、パフォーマンスだった可能性がある。そして、それは決して低い確率じゃない。
だが、もう遅いな。もう敵の姿は目前で、相手の動きに合わせてどうこうという時間はもう過ぎてる。
『だから、後はもう……!』
加速するだけだ。そう心のなかで付け加えると、冷たい風が三度そよぐ。嵐の前の不穏な気配を振り払うように、俺は圧縮めた肉体を解き放つ。
深く、深く、大地に狼の足あとが刻まれるのと同時、強く、強く、哮る風が狼を退けようと吹き荒れる。
見る見る間に速度が削がれ、視界は目蓋の帳に隔てられ、聴覚は咆哮に支配される。カッ、結局また引っ掛けられた訳だ。
『だが、思い通りには運ばないッ!』
本家大本の人狼には、とても及ばない咆哮。それに応じて振るわれるのもまた紛い物の獣爪。
されど、その一撃は嵐を切り裂き、霧散させる。紛い物だからこそ、自然ではなく人が作ったからこそできる技もある。
人それをイカサマというってな。修復した右の爪、よくよく見ればその先端が微妙に色が変わっている――刃金を表す鈍色に。
行光――この短剣(正確には短刀だが)は、刃物としても優秀だが、何より術具として類まれなる性能を誇っている。
斬撃による魔力吸収。確かに俺は短剣を使いこなせないが、だからと言って使わないとは言っていない。変化を使えば、爪の一つに刃物を仕込むなど造作も無い。
これには男も虚を突かれたらしく、その目がかすかに揺れる。その隙を逃さず放つ、左の獣爪。軌道は一直線の貫手、距離はやや遠いが問題はないだろう。
そう思った瞬間――視界が暗転する。ビリっと肌を電気が流れたような感覚。これは、まさか――ッ!
『重層結界……!』
悲鳴のような声を漏らし、閉じた目蓋をこじ開ける。左の爪が少し突き出た所で止まっており、鋭い風とともに男が下ろしていた剣が木の葉のように巻き上がり、俺へと迫ってくる!
オォ、と我知らずに吠え、左の爪で頭を庇う。爪に刃が食い込む強烈な音と衝撃。受け止めたことに安堵する暇もなく、左腕を動かし刃を振り払う。
前に出ていた足を後ろに回し、半歩距離を開ける。対して男は、今まで見たく引き下がることなく、剣を構える。
剣を持つ手は頭上、切っ先は左膝、左手は切っ先の背に当てられている。剣を斜めに構えた、防御主体の構えに見えるが……さて、どんなものやら。
なんにしろ、引き下がる気はないことは明らか。だが、妙だな少し退けば、俺は結界外に放逐、しかもこの前のユスティみたく気絶のおまけ付きだ。そりゃ、むざむざそうさせる気はないが、少なくともその素振りさえ見せれば主導権を握ることもできるというのに。
変に企てて、体勢が崩れるのを嫌ったのか? ……ま、気にしても仕様がないか。
しかし、ちょこまかと仕込んでるもんだ。初めの内に"重層結錨"を投げて重層結界を展開。自分はそれに位相を合わせた調整鍵を持っておき、タイミングを図って人の目がない重層結界に引きずり込む。
土壇場で防御兼ねる足止めとしての応用もしてくるし……勘弁してくれよ、全く!
左の爪を修復、そしてすぐさま踏み込み薙ぐ。男は踏み込みに応じるステップで爪の範囲から逃れ、一瞬左を剣から放し、風魔術を放つ。
右の爪でそれをガード、その隙を突いて男が切り上げを放つ。刃に込める力は三つ、踏み込み、腕力、そして左手から放つ風魔術。
風の後押しは凄まじく、その軌道を読むのは容易いが躱すのは至難を極める――それが連撃ともなったら、尚更だ。
一撃目は仰け反って躱し、返す刃の二撃目は爪で弾き、三撃目の魔術による風の刃は仕込んだ行光で消し、風の刃を追う形の四撃目に先の衝撃が抜けない右爪が弾かれ、体が回る。
その隙を突く五撃目は、回転の勢いも乗せた強烈な一刀――さて、そろそろ反撃だ。
回転を止めないように膝を折り、上半身を無理やり捻り、相手よりも速度を上げ、放つは足払い。小さく飛んで避けられるものの、相手の勢いを止めることに成功する。
回転を止めないのは一撃目と同じ、今度は逆に膝を伸ばし、掬い上げるようなハイキック。それを相手は風で押しとどめる。だが、甘い。止められた右足を膝から先だけを動かし、鞭のようにしなる脚撃。
二撃目を阻まれ、三撃目が振るわれるまでの間はほんの一瞬だったはずだが、足先から伝わってくるのはチッと何かを掠めたような感覚だけ。
どんな魔術を使ったのか、男はギリギリこちらの攻撃範囲の外に逃れており、デコピンのような動作で風弾を放ってくる。
『おいおい、あと二回は俺の番だろ?』
体を右に捻り、風弾を左肩に掠めさせつつも躱す。男が次の動きに入る前に、右足の踏み込みとともに、捻った溜めを開放。
横の捻りを縦に変える、凶気を纏った右爪が大地を抉る――その瞬間、"圧縮"を開放する。
しょせん手の範囲内での圧縮である、その加速は脚全体を圧縮して放つ重蹄脚などとは比べ物にならない。
――しかし、こと接近戦においてはそのわずかな加速が大きな違いを生む。
弧の軌道で進んでいた爪が直角に跳ね上がる。風を裂き、空を払い、天高く舞い上がる軌道はまるでツバメ――イレーナ、お前の技を借りるぞッ!
『イレーナ流:"燕尾斬"が変写"五羽燕尾"!』
急浮上した五つの爪が、寸での所で間に合った男の剣を弾き飛ばす。衝撃にたたらを踏む男に対して、俺はさらに一歩踏み込む。
ここまでで四撃、あと一撃でトントンだ――"重量変化"。もういっちょ、イレーナの真似と行きますか!
『イレーナ流:"川蝉落刃"が変写"川蝉墜翼"』
"重量変化"により振り上げた爪に集めた重みと、踏み込みの勢いを乗せた、地面に叩き伏せるような裏拳。
踏み込み、重量変化のタイミングは完璧。勝った、そんな確信が胸を過る。
そんな俺を嘲笑うように、拳撃が起こした風の音に紛れ、掠れた声が鼓膜を引っ掻く。なんて言っているのかは理解できない、だがその声が何を成そうとしているのかは理解するのは容易だった。
次の瞬間、ドラを叩いたような音が結界内に響き渡った。眼下で男は両手を祈るように掲げている。その間には一飾り気のない、無骨で無感情な鉄血の盾。
おいおい、嘘だろう。全力の拳が受け止めらたことに少なからず動揺する。しかしそれでも、次の動作までに遅延はない。
肘から先だけを動かし、扉をノックするように裏拳を即座に三度打ち付ける。小刻みに鳴る金属の音はまるでドラムロールのようだ。
そうして防がせ。足止めした所で左のハイキックを放つ。これを敵は屈んで回避、俺は構わず足の動きに合わせて体を回し、右の踵で足元を薙ぐ。
俺の足払いを男はわずかに跳んで躱す。そこにすかさず左の爪を――いや、待て、それは不味い!
男の手には先の鉄血、しかし呪言を唱えた様子はない。そりゃそうだろうな、こいつ魔術を解いてなかった……!
男の盾は両手に挟まれるように生成されている。手の間隔に合わせて盾の大きさが変動するのだろう。それはつまり、手を閉じれば魔力消費を抑えつつ、盾を展開し続けることが可能という事……!
などと、気付いた所でもう遅い。反射的に放った左爪を男の盾が受け止める。中空にいる男にその際の衝撃を殺す術はなく、結果的に俺から見て右へと吹き飛ばされる――調整鍵を持ったまま。それが何を意味するのか、答えはすぐに思い知らされる。
初めに俺を襲ったのは目を焼く閃光と衝撃、脳天から爪先まで駆け抜ける雷のような衝撃だ。
次に五感が混沌の渦に叩き込まれる。足元の大地は飴細工、触れる空気は刃金、滴る汗は猛火。体中の神経をあべこべに繋がれたかのよう、それでいて猛烈な嘔吐感だけはしっかりと理解できる。
ゴポリと気泡が弾ける感覚、喉をせり上がる熱、そしてビチャビチャと汚い水音――ここ最近で間違いなく、最悪の気分だ。
『だ、がァ……!』
まだ意識はある。口を拭うことすらせずに周囲を見渡す。先までの戦闘が全て悪い夢か何かだったかのように、周囲には人っ子一人居らず、物音一つしない。ただ、夏の夜に月が輝くばかりだった。
とりあえず、結界を解かねぇと……。元の身体に変化しつつ、ズルズルと重い体を引きずり、夜目を効かせて、二本の"重層結錨"を停止させる。
『当たり前だが奴さんは居ない、と。参ったな、良いところなしじゃねぇか』
誰に向けるでもなく呟き、まだ震える手で煙草を取り出し、口に咥える。
この様じゃあマッチを点けるのも一苦労しそうだな。心中でため息、手先を火蜥蜴に変化させて、煙草に火を点ける。
『フー……あっちも気付けば終わってるみたいだし、どうにもきな臭くなって来やがった』
夜闇に浮かぶ小さな火種、吐き出す煙は苦い。……あいつとはまた戦うことになりそうだな。と言うか、あんなのが敵に二人も三人も居られたらたまったもんじゃない。
『ハァ……やだやだ。早く帰ろう、お腹を空かせた子が待ってる』