第百一話:好転の七月
前には斜陽。いくら七月とはいえ、七時をすぎれば太陽だって傾く。問題なし。
右にはローザ。僕が原因で、一人になればいつクラスメイト達が襲ってくるか分からない。問題なし。
上には煙。香ばしい匂いが鼻先を漂う。今日のご飯はお肉にしよう、そう決心すると思わずお腹がなるがこれとて生理現象。問題なし。
左には男。馴れ馴れしく僕の肩に腕を回し、空いた手で何処で買ったか分からない串焼きを持っている。酔っぱらいだろうか? いいや違う、その男の顔には見覚えが会った。僕が見覚えのあるとすれば、義父母以外には学生か教師しか居ない。この場合は前者だった。
この時点で大いに問題があると言えるが、百歩譲って無しとしよう。であっても、見逃せないことが一つある。
『なんで殺されかけた相手にそう馴れ馴れしくできるんですか、貴方は』
『ん、もぐ、元は、んぐ平民だから、ね。あーやっぱあそこの串は旨いわ。あ、やんねぇからな』
『要りませんし、理由になってませんよ。あと、食べながら喋らないでくださいよ』
『あー悪い、じゃあ食べるのに集中するわ』
『話せよ』
思わず真顔で言うと、言われた当人は意にも介さずに肉を貪り、その代わりその隣に居る少女がビクッと体を弾ませる。
子供でもあやすようにニヘラとぎこちなく笑ってみるが、一層怯えるばかりで効果を発揮した様子はない。
隣に居るローザもこの男と少女に合流したっきり不機嫌そうに黙ったままで何の助けもしてくれない。
誰でもいいから助けて欲しいよ……せめて、今の状況の説明だけでもいいから、お願いするから。……なんて嘆いてもしょうがないか。
『分かった、食べながらでもいいから話してください。とりあえず、名前は?』
『アレクシス。アレクシス=アダルベルトだ。アレクって呼んでくれ』
食べ終わったのか、それとも最初から冗談だったのかは分からないが、食べるのを止めてアレクシスが答える。
しかし、アダルベルトね……情報に疎い僕でも知ってるぐらい有名な貴族じゃないか。……あまりいい噂では無いけど。
『で、こっちの小さいのがイルムヒルト=アダルベルト。俺はイルって呼んでる』
『双子だったんですか? にしては……』
『似てない、のは当たり前だ、双子どころか血の繋がりすらないからな。養子だ、よーし』
投げやりにアレクシスが答える。今までに何度も同じことを聞かれてるのだろうな。でもまぁ、この答えで一つ疑問が溶けた。
『なるほど。平民って言ってたのが引っかかってたんですけど、そういう事ですか』
『そそ。ってか、反応薄いなーお前』
不満気な顔とは裏腹に声は明るい。僕の方も、アレクシスの馴れ馴れしい態度に、いつの間にやら慣れてくる。
『お決まりの反応をするには出自も、これまで人生もひねくれてる物ですから』
などと、肩を竦める。それを見てアレクシスが珍しいものでも見たかのように、目をまん丸にした後にキシシと笑う。
『言われてみれば、そうだわな。なんだお前、いつの間にか面白いやつになってんな』
『褒め言葉として受け取っておきます。あと、僕の名前はお前じゃない、テオドールです』
自分でも不思議なくらい抵抗なく、この馴れ馴れしくもどこか人懐っこい男に名を名乗る。
またもキシシと楽しげに笑った後、ニィと意地の悪い笑みに変えて、アレクシスが問うてくる。
『罪人じゃなくて?』
『なんだったら、剥奪された司法の方でも構いませんよ』
僕の答えに本格的に大笑いしてアレクシスが――僕から隠れるように――傍らに居た少女、イルムヒルトに声をかける。
そのことで僕に自分が見られているのが感じたらしく、ヒッと息を呑んでいよいよアレクシスの影に隠れる。
さっきからアレクシスがなにか言う度、服の端を掴んで止めようとしていたのは分かってたけど……いやまぁ、こうやって話してくるアレクシスのほうが異常なのは分かるけどさ。
『ワリィな、この通りイルはビビリでな。ったく、ほれ服を掴むな、歩きづらいからよー。まったく参るぜ、俺がお前に話しかけようとした時も終始こんなかんじで。アレに話しかけちゃダメだのなんだの』
最後の一言に僕が怒ると(あるいは殺されるとでも)思ったのだろう、イルムヒルトが何事か呟き、その姿がアレクシスと共に忽然と消える。
やっぱり魔術って良いよなー、などとその光景に妙に感心していると、ヒョコリとアレクシスがいきなり姿を現す。正確には、居たのが見えるようになったというべきだろうけど。
『コラコラ、俺まで勝手に消すな。だから言ったろ、一人で帰ってても良いって』
そのアレクシスと言えば、面倒くさそうに付いてきた犬でも追い払うようにシッシッと背後に向かって手を振る。
さすがに見かねて、筋違いだと思いつつも口を挟もうとした所で、冷やかな声が響いた。
『心配してくれてる女の子に対して、その態度は酷くないかな、アレクシス君』
ローザだ。見た目こそ落ち着いたものだが、その端々から矛先から外れている筈の僕も萎縮してしまうような怒りを漂わせている。
それはアレクシスも感じ取っているようで、気まずげに髪をガシガシと掻く。
『……悪かったよ、イル。だけど、俺はまだコイツに用があるんだ、帰るんなら一人で帰れ』
『だったら、その用事っていうのを早く終わらせたらどうかな』
『ハァ……さっきから突っかかってくるな、アンタ。なんか俺がアンタに迷惑かけたか?』
『ハイハイ、落ち着いてくれよ、二人とも。周りを見てみろ、みんな君らに釘付けだぞ。それとも何だ、君らは俳優でも目指してるのか? だとしたら迫真の演技だ、今からでもオーディションに行って来ればいい。だけど、僕まで巻き込むのはやめてくれ』
明るいとはいえ今は夜だ。普通の声の大きさでもよく通るし、大通りでわざわざ足を止めて話す僕らには、幾つもの好奇の視線が向けられていた。
二人とも言われて気付いたらしく、罰の悪い顔をしてひとまずは足を動かし始める。それでも互いに目を合わせようとしない辺り、あまり相性が良くないのかもしれない。
まったく、少しはマシな雰囲気になったら、これだ。胃が痛いよ、まったく。
◆◇◆◇◆◇
結局、少し先に進んだ所にある喫茶店に入ることになった。誰も口を開こうとしないので、僕が提案し、僕が同意し、僕が店を決めた。僕はもう帰りたいよ。
店内の空気は魔術で程よく……いや、少し肌寒い。温かい飲み物を出すからかな、店前の看板には紅茶が売りとなってたし。
席についてすぐにメニューをパラっと開いて、呼び鈴を鳴らす。店員が僕の顔を見て、露骨に嫌な顔をするが、構わずに注文を告げる。
飲めるか分からないが、とりあえず紅茶とコーヒーを二つずつ頼み、まずは尋ねてみることにした。
『とりあえず聞くけどさ、僕に何の用事が?』
『……訊きたいことがあったんだよ。その目の色のことでよ』
それだけ言って、また口を噤む。先までの沈黙と違い、意図したものだ。あまり口外するべきではない話だと、彼も思っているのだろう。
半信半疑なだけかもしれないけど……どっちにしても明言は避けたい。許可は得てるとは言っても、あまり目立った真似をするのは偉い人達の反感を買いそうだ。
かと言って、ここまでの事で分かるに彼はなかなか敏い。知らぬ存ぜぬは通るまい。もちろん、嘘はつけないが……あとでしらを切れる程度にぼかすのが吉かな。
『学級闘争の時のことですか? んーまぁ、戦闘中ですから、目の色が変わってるところはあるかもしれませんね』
……我ながら白々しい。アレクシス、ローザはもちろんのこと、イルムヒルトさんにまで、なんとも表現しにくい微妙な表情でこちらを見てくる。無理やり言葉にするならば、『うわ、こいつマジか……?』だろうか。
誰もが何か言おうとするのだが、イルムヒルトさんは論外として、アレクシスとローザの二人までもが、何を言えばいいものとか躊躇っていた。
居た堪れない空気。優しさが今日ほど胸に来ることはなかった、悪い意味で。ともあれ、この空気ならば強引に流しても、不信には思われないよね。そういう事にして、怪我の功名ってことにしよう。
『そうだ、僕らも一つ尋ねたいことがあったんですけど……』
『お、おう、何でも聞いていいぞ!』
『なんで、二人だけで襲ってきたんですか?』
『ん? あー……なるほど。テオドール、お前は一つ勘違いをしてる。俺があいつらの計画とタイミングが被ったのは、偶然だ』
『偶然? っと、ありがとうございます』
オウム返しに尋ねた所で、飲み物が到着。アレクシスが『おう』と頷きながらコーヒーに、ローザがムスリとしたまま紅茶に。イルムヒルトさんが手を出すのを少し待ったが、こちらの顔を伺うばかりなので、しょうがなく好きな紅茶を自分の前に。
砂糖やミルクを入れて飲みやすくした所で、話を続ける。
『あち、あちち! 偶然っつーのもだな、実はつい昨日まで、お前らがこの前起こした騒動のこと知らなかったんだよ。なーんかつまらそうな気配がしたからな。それこそ教官が出るのに続いて出たぐらいのもんだ』
……言われてみれば、たしかにアレクシスの顔を見た覚えもなければ、聞いた覚えもない。これまで感じた人柄からしても、あの中に居るイメージは湧いてこない。
だけど、と内心のつぶやきから先の言葉を作る。
『イルムヒルトさんは、あの場に居ましたよね』
『――ッ!』
僕の言葉に顔を青ざめさせる少女。失敗したなと思う、こうなることは予想できた。そう反省する僕を見て、ローザとアレクシスの二人共が気味の悪いものでも見たような、目の前のものを信じられないような顔をする。
そんな顔しなくとも、そう思い口にしたようした時、気付く。口元に浮かんだ確かな笑みに、醜い下衆の顔をした自分に。
――――――あ、え? その事実に戦慄する。頭が真っ白になり、胸の内ですら言葉が作れない。
『どうしたんだ、色男。寒いのか? 顔色悪いぜ』
愕然とする僕に、アレクシスが見かねたように声を掛けてくる。ただし、その当人は先と違い、敵意一歩間近の警戒した空気を伴っている。ヘラっとした笑みは、今日の学級闘争で見た時のそれだ。
『ちょっとね。入って来た時も思ってたけど、ちょっと魔術が効きすぎてる。ま、その分、温かい紅茶を美味しく飲める』
相手の調子に合わせ、軽く笑いながら紅茶を一口。味こそ分からなかったが、内から染みるような温かさに、落ち着きを取り戻す。
元の通りとは言わないが、場の空気がなんとか緊張が抜ける。隣のローザはまだ心配げに見ているが、変に話題にのぼらせるよりここは無視した方がいいだろう。
『すいません。えっと、それで? イルムヒルトさんから、話を聞いてなかったってことですか? 仲が悪いようには見えませんけど』
『ヘヘ、まぁ仲が良いからこそ、だな。腐れ縁でな、長い付き合いがあるもんで、俺もこいつも互いの性格をよく知ってる』
『あぁ、一時間も付き合ってない僕でも想像はつきます。あのいざこざの話を聞いたら、貴方は面白そうだとしゃしゃり出てきそうだ』
ひでぇ言い様だ、とアレクシスが苦笑する。僕もまたそれに合わせて笑い、紅茶をまた一口。唇を湿らせ、先の淀みを流すように言葉を交わし合う。
『それで、イルムヒルトさんが心配して黙っていたと。まるでお母さんと子供じゃないですか』
『ヘッ、そりゃお前もそうだろ。聞いたぜ? あの後、追い詰められて調整鍵を放り捨てたらしいじゃねーか』
『ぬぐッ……!』
言葉に詰まる僕を見て、ニヤニヤしながらアレクシスが美味しそうにコーヒーを啜る。その間にどうにか話を逸そうと画策するが、いい案は全く思いつかない。
そんな僕とアレクシスの間を縫うように、いつもに増して冷ややかな声が鳴る。
『それに関してはまだ怒ってるからね、ボク』
『…………』
『聞き流さない!』
『いったー!』
素知らぬ顔をした僕の腕をローザがつねる。たまらず飛び跳ねる僕。アレクシスが『また始まった、いいぞやれやれ』と言うような顔でこちらを見てる。なんと、イルムヒルトさんまでもが、チラチラと興味津々にこちらの様子を伺っている。気付いてないつもりだろうけど、気付いてるからね。
『大体テオはいつもそうだよ。僕に何も言わずに……』
そう、また始まった、だ。説教を右から左へと聞き流しながら回想する。大丈夫、こうやって本格的に説教してる間は、神経がそっちに説教に集中していて、こちらの態度に気付かれないのは、自ら被験者に志願した実験で証明済みだ。
調整鍵を放り投げた後、気を失った僕とローザは保健室で目を覚ました。保健室には僕の他にも、ベットに横になったアレクシスとそれに付き添うイルムヒルトさん、不機嫌そうにベッドに腰掛けたレームブルックが居た。僕とローザはベッド数の関係上、大型のベッドに横に離れて寝ていた。
先に起きたのが僕だったのはいま思っても幸いだった、隣を見て何も言わずに歩いて椅子を取りに向かったのは良判断だっただろう。
しかし、保健室にまで行くことになるのは極一部でベッド数の事情も理解できるが、にしても誰かの悪意を感じずに入られなかった。ちなみにこの場合の誰かとは、主に我が家に住んでいるろくでなしを指す。
その途中、ベッドを囲んでいたカーテンを開く音で、僕に気付いたレームブルックに睨まれはしたものの、特に絡まれること無くベッドに引き返すことが出来た。
そうして、数分は待っただろうか、ローザが薄っすらとまぶたを開き、ボーっとした目で辺りを伺う。
寝覚めがあまりに良くないのは変わってないな、とか、寝顔も可愛いかったけどこの表情も良いな、とか呑気に思っているとと、僕に焦点を合わせた彼女がカッと目を見開いた。
あー、寝顔を見られたのが恥ずかしかったのか。そう思い、目覚めの挨拶と一緒に軽く謝ろうとする僕に先んじて、彼女は第一声を叩きつけてきた。
『捨てなくても、位相を変えれば良かっただろう!』
どうやら夢でも僕に怒っていたらしく、同じ事言うけどだの、二回目になるけどだのの枕詞の後に続く説教は全く聞き覚えのない話だった。見に覚えがあったのと、否定しても油に火を注ぐだけだと分かっていたのとの二つの理由から何も言わなかったが。
ともあれ、そんなことがあったために、ローザがこうなるのを見越して、アレクシスは調整鍵の件を持ち出したに違いない。
いつか絶対仕返ししてやる、と心に決めた所で音が鳴り止む、どうやら説教が止まったらしい。
『分かった?』
『分かってるさ。事前に伝える、勝手な行動はしない、無茶もしない、人の話はちゃんと聞く、だろう? 耳タコだよ、ローザ』
『テオが耳に出来るなら、僕は口に出来そうだよ。同じことをボクに何回言わせるつもりだい?』
大仰に参ったとジェスチャーする僕に、ローザがこれまた露骨に肩落としてハァとため息を吐く。
『ク、ククク! ほらな? お前らこそお母さんと子供じゃねーの』
と、耐えかねたようにアレクシスが茶化す。自分が乗せられたことに気付いたローザが、その端正な顔を面白くなさ気に歪める。僕もきっと同じような表情をしていたと思う。
ともあれ、と。一区切り付いた所で、流れを変えるためにもヌルくなった紅茶に手を伸ばす。が、流れは確実にアレクシスにあったらしく、そのタイミングがローザと完璧に重なる。
それを見たアレクシスにまたケタケタと笑われ、お互いに気恥ずかしくなって目をそらす。カップを戻す訳にもいかないので、わざとゆっくりとカップを口元に運ぶ。さぞかし不格好だったことだろう。
不貞腐れる僕の耳にかすかに声が届く。笑う声だ。コロコロと転がすような可愛い笑い声。
一瞬、ローザかと思って隣を見るが、先の僕と同じように不貞腐れたような顔を見るまでもなく、彼女にこんな可愛い笑い声は無理だな、目を外す。その代わり、なぜか痛い視線を感じるが。
もちろん、アレクシスでもない。こんな男からあんな声が聞こえてきたら、耳の疾患か心の病を疑う。あいにく、どちらの気配もない。
以上、有史以来、魔族どころか人族も慣れ親しんだであろう、消去法から考えるとこの声の主は――イルムヒルトさん以外にはありえそうもなかった。
『オイオイ、なんつー顔してんだよ。ラッパの音でも出ると思ってたのか?』
『い、いや、あんまり突然だったので。にしても、また可愛らしい声してますね』
動揺からつい思ったことが口に出る。イルムヒルトさんが顔を赤らめて下を向き、気のせいか横から鋭い視線を感じる。が、いまはそんなことよりアレクシスである。見た感じ彼女とは違うみたいだけど、さすがにいまのは気分を悪くするか……?
そんな考えは次のアレクシスの言葉で杞憂に終わることになった。
『おもしれぇ声だろ?』
その代わり、新たな火種が加えられたが。とある人物から険悪な空気が漏れだす、位置にして隣に居る彼女だ。
ハァ……あーハァ……。ため息、ひたすらにため息しか出ない。幸福が逃げていくのを実感しつつ、とりあえず火消しに動く。
『いや……いくらなんでもデリカシーが無いですよ、アレクシス』
『わーってる。別に馬鹿にしてる訳じゃねぇよ、むしろ俺は良い声だと思ってる。つーか、大多数はそうだと思うぞ。お前だって別にお世辞とか皮肉で言ったわけじゃねぇだろ?』
そりゃあ……と想像した反応との差に戸惑い、曖昧に頷く。と、その態度が気に入らなかったのか、少しむっとした表情でアレクシスが話を続ける。
『こいつは平民の時にゃぁ、酒場で歌って小金稼いでたんだぜ? つまり、酔っぱらいがカカアの面を思い出しても、躊躇わず金を出せるぐらいには、こいつの声が良かったってわけだ。気にしてるのと言えば、当人ぐらいのもんさ』
話を聞いて想像してみる、あの笑い声から察する少女の歌声を。……良いな、良い。貧困な想像力、声に関する情報だってわずかでしか無いが、良いイメージしか浮かばない。
ただ、しかし、とも思う。結局、それは他人の意見だ、本人が気にしているなら、例えそれが好意からでも触れないであげるべきだと。
そして、それを口にしたのは僕じゃなかった。
『結局、彼女がどう思うかじゃないか。気遣いを欠いて良い理由にはならないよ、アレクシス』
『……それも、分かってる。ま、こんな所で議論してもしょうがねぇ話だ。ただまぁ、悪かったよ、空気悪くしたな』
『い、いや、別に……』
『なにうろたえてるの。素直に謝られてバツが悪くなった? アレクシスも悪かった所はあるけど、ローザももう子供じゃないんだし、女性なんだから、もう少し穏やかに痛いッ! ほら、そうやって誤魔化すのが痛いッ!』
顔を真っ赤にしてローザが僕の腕をつね、その度に僕がハネる。その光景にアレクシスとイルムヒルトさんどころか、店の人まで呆然とこちらを見て、クスッと店の誰かが笑い声を鳴らしたかと思えば、アレクシスが大きく笑い出し、イルムヒルトさんが必死に堪えようとして失敗し、またコロコロと可愛らしい笑い声を鳴らす。
そうなれば、誰もがもう笑いを抑えきれなかった。クスクスと生まれた頃から馴染み深い忍び笑い、でも今度のは悪意がない心地いい声。その声を聞いたら、僕も何だか可笑しくなってきて、痛い痛いとの悲鳴に笑いが混じるのを避けられない。
唯一笑ってないのは彼女だけ。周りの様子にようやく気付き、クッと更に赤くなった顔を伏せる。それ見てまた皆が笑い、彼女がやけくそ気味によりいっそう強く僕の腕をつねる。
『いや、はは、笑ってないでツゥ! 止めて、くださいよ!』
『ヘッ、笑いながらよく言うぜ。それになーんか俺も偉そうに言われて腹がたったからな、手を出さないだけありがたく思えよ』
『ローザも、どうせならキスマークにしてくださいよ。それなら、多少痛くても……』
『バカ!』
一喝して、それきり彼女が顔を俯かせて固まる。……これからは困ったときにはこうするとしよう。僕自身もなかなかダメージを負うけど。
『ヘッ、訂正するよ。どっちかって言うと兄妹だな、お前らは。しかも、兄貴は性悪だ』
『ずいぶんと口の悪いお子さんだ。教育はしっかりお願いしますよ、イルムヒルトさん』
売り言葉に買い言葉と、間髪入れずに軽口を返す。完全に反射的な行動だったため、言い終えてやっと応えを求める相手に忌避されてたのを思い出す。
しくじった、僕はなにを気安く声を掛けてるんだ。自分の迂闊さに舌打ちしつつ、どうやって会話を繋げがたものかと頭を抱える。
『……はい、すいません』
静々と返って来た小さな声は、そんな杞憂を吹き飛ばす。目を見張って声の方を向けば、やはり顔を伏せられるが、それでも言葉を返してくれたのには間違いない。それだけだけど……なんか、嬉しいな。
『おいおい、俺に味方は居ないのか?』
大げさな身振り手振りで嘆くアレクシスに、
『えッ、味方が居ると思ってたんですか?』
惚けた顔で僕が応える。これ以後も終始そんな感じで、僕は隣に居るローザを忘れていたフシすらある。きっと、アレクシスもそうだったと思う。
僕とアレクシスは飽きずに軽口を叩き合い、笑いあった。なかなか落ちない夏の陽も、待ちきれずに地平線に消えていき、呆れた顔をした星と月がその姿を見せる。そうなって、ようやく僕らは時間の経過に気づき、アレクシスはカラカラと、僕はハハハとぎこちなく笑った。この笑いの差はきっと、隣の女性の性格の違いによるものだろう。
『それじゃあ、またな』
『ええ、また』
そう再会を含む別れの挨拶を交わした僕は、とりあえずズカズカと先を進むローザにどうやったら機嫌がなおるかを考えることにした。