わたくし、この腐った国に「見切り」をつけますわ ~婚約破棄の断罪劇は、あなた方を沈めるための舞台でしたの~
机の上には、三年分の「証拠」が、きれいに並んでいた。
国庫からの横領を記した裏帳簿。隣国との、民を売り渡すような密約の書簡。そして、そのすべてに記された、王太子ジェラールの署名。
わたくし――アデライド・モンフォール公爵令嬢は、燭台の灯りの下で、その一枚一枚を、指先でそっとなぞった。
集めるのに、三年かかった。
婚約者である王太子の隣で、従順な婚約者の顔をしながら。にこやかに微笑みながら。彼が酔って漏らす言葉を、彼が無造作に放り出す書類を、一つも見逃さずに。
「……これだけ揃えば、十分ですわね」
ぽつりと呟いたとき、書庫の扉が、音もなく開いた。
「本当に、やるのか」
月のない夜だった。闇の中から進み出てきたのは、漆黒の外套をまとった男――クレマン・ド・ヴァロワ。この国の宰相補佐にして、わたくしのただ一人の共犯者。
「ええ」
わたくしは、振り返らずに答えた。
「もう、見切りをつけましたの。この国に」
クレマンは、わたくしの隣に立ち、机の上の証拠の山を見下ろした。
「これを公にすれば、王家は揺らぐ。下手をすれば、内乱だ。……君の家も、無事では済まない」
「存じておりますわ」
「それでも、やるのか」
わたくしは、ようやく彼を振り返った。
「クレマン。あなたは、どうなの。あなたこそ、宰相補佐の地位を捨てることになりますのよ」
彼は、ふっと、口の端を緩めた。氷のようなその顔に、わずかな熱が滲む。
「とうに、捨てる覚悟はできている。――君と、同じだ」
その言葉に、わたくしは、小さく頷いた。
この三年、この腐りきった宮廷の中で、まともだったのは、彼ただ一人。
誰もが王太子に媚び、不正に目をつぶり、保身に走る中で。クレマンだけが、静かに、わたくしと同じものを見ていた。
「では、始めましょうか」
わたくしは、証拠の束を、そっと胸に抱いた。
「半年がかりの、大舞台ですわ。――あの方々を、沈めるための」
*
計画は、こうだ。
ただ証拠をばら撒くだけでは、握りつぶされて終わる。王家には、それだけの力がある。証人は消され、書類は焼かれ、わたくしは「妄言を吐く狂女」として葬られるだろう。
だから、舞台が要る。
誰もが見ている、衆人環視の場。揉み消すことの、できない場所。
――そう。王太子自身が、自分の口で、わたくしを断罪する場こそが。
わたくしは、この半年、わざと「悪役令嬢」を演じてきた。
王太子が新しく寵愛し始めた、男爵令嬢リーズ。彼女に、あえて冷たく当たり、噂が立つように仕向けた。「モンフォール公爵令嬢が、リーズ嬢をいじめている」と。
王太子が、その噂に飛びつくように。婚約破棄を、人前で、高らかに宣言したくなるように。
すべては、彼を舞台へ上げるための、撒き餌だった。
「リーズ嬢も、よく踊ってくれましたわね」
わたくしは、苦笑した。彼女もまた、わたくしを陥れようと必死だった。けれど、それすらも、計画の一部。
彼女が王太子に「証拠」を吹き込めば吹き込むほど、断罪の舞台は、確実に整っていくのだから。
「準備は、整いました」
わたくしは、クレマンを見上げた。
「明日の建国祭。すべてが、終わりますわ」
――そう、思っていた。
このときのわたくしは、まだ、知らなかった。
敵もまた、こちらの動きに、気づき始めていたことを。
*
建国祭の、当日。
わたくしが会場へ向かおうと、屋敷の馬車に乗り込んだ、その直後だった。
馬車の扉が、外から、乱暴に開けられた。
「モンフォール公爵令嬢。少々、お時間をいただきます」
近衛の制服を着た男たち。けれど、その目つきは、明らかに堅気のものではなかった。
「……どういう、おつもり?」
「あなたには、王太子殿下侮辱の嫌疑がかかっております。建国祭への出席は、お控えいただく」
ぞわり、と背筋が冷えた。
気づかれている。わたくしが、今夜、何かを企てていることに。
断罪の舞台に、上がらせない気だ。わたくしを会場から遠ざけ、その間に――おそらく、証拠も、処分するつもりだろう。
(しまった……!)
屋敷には、証拠の写しを隠してある。けれど、本物は、今夜の舞台で出すために、別の場所に。
男たちが、わたくしの腕を掴もうと、手を伸ばす。
その、瞬間だった。
「――その手を、離せ」
低い声とともに、男たちの一人が、地に伏した。
クレマンだった。漆黒の外套を翻し、いつのまにか、馬車の傍に立っていた。
「クレマン!? なぜ、ここに」
「嫌な予感がした。それだけだ」
彼は、残る男たちを鋭く睨みつけながら、わたくしの手を取った。
「アデライド。読まれていた。今夜の会場は、もう、敵の手の内だ。このまま乗り込めば、二人とも捕らえられる」
わたくしは、唇を噛んだ。
半年の計画が。あと一歩のところで。
「……どう、なさるおつもり?」
クレマンは、一瞬だけ、考えるように目を伏せ――それから、わたくしの目を、まっすぐに見た。
「舞台を、変える」
*
会場に、乗り込むのは、悪手。
ならば、と、クレマンは言った。
「証拠は、会場で出さずとも良い。――もっと、確実な相手に、届ければいい」
「確実な、相手?」
「隣国の、特使だ」
クレマンの瞳が、鋭く光った。
「今夜の建国祭には、隣国レーヴェンからの特使が、来賓として招かれている。あの密約は、レーヴェンを欺くものでもあった。つまり――この証拠は、レーヴェンにとっても、見逃せぬものだ」
わたくしは、息を呑んだ。
そうか。
国内で揉み消されるなら、国外の目に、晒せばいい。
「特使に証拠を渡せば、レーヴェンは、王家に正式な抗議をする。密約は、国際問題となり――もはや、王家には、揉み消す術がなくなる」
「……けれど、特使は、会場の中。会場には、入れませんわ」
「入る必要はない」
クレマンは、ふっと笑った。
「特使は、毎晩、会場のバルコニーで、一人、葉巻を吸う。これは、宰相補佐として、彼の警護に関わってきた私だからこそ、知る習慣だ。――裏の回廊から、そこへ出られる」
わたくしは、彼を見つめた。
ああ。
この人は、わたくしが追い詰められたその瞬間にすら、別の道を、見つけ出してくる。
「行きましょう」
わたくしは、証拠の束を抱え直した。
「裏の回廊から、バルコニーへ。――特使に、この国の腐敗を、お見せしますわ」
*
裏の回廊は、暗く、長かった。
追っ手の足音が、背後から迫ってくる。クレマンがわたくしの手を引き、灯りのない通路を、駆け抜けていく。
「アデライド、こちらだ!」
角を曲がり、階段を駆け上がる。心臓が、痛いほど鳴っていた。
けれど、不思議と、恐怖はなかった。
だって、隣に、彼がいる。
わたくしの企みを、わたくしの覚悟を、ただ一人、丸ごと理解してくれている人が。
やがて、回廊の果てに、ひとつの扉が見えた。その向こうから、葉巻の、かすかな香り。
バルコニーだ。
わたくしたちは、最後の力で、その扉を押し開けた。
月明かりの下。手すりにもたれ、葉巻をくゆらせていた壮年の男が、ゆっくりと、振り返る。
隣国レーヴェンの特使、その人だった。
「……これは。追われているお二人が、私に何の用かな」
わたくしは、息を整え、まっすぐに彼の前へ進み出た。
そして、抱えていた証拠の束を、差し出した。
「特使閣下。お楽しみのところ、失礼いたします」
わたくしは、微笑んだ。あらん限りの、優雅さで。
「この国が、あなた方レーヴェンと交わした『友好』が、いかに薄汚いものだったか。――その答え合わせを、なさいませんこと?」
特使の眉が、ぴくりと動いた。
彼は、葉巻を置き、わたくしの差し出した書簡を、一枚、手に取った。
そして、その内容に目を走らせるにつれ――その顔から、穏やかな笑みが、消えていった。
*
その後のことは、あっという間だった。
レーヴェンの特使は、密約の証拠を手に、その夜のうちに、正式な抗議を申し入れた。
国際問題となった以上、王家に、揉み消す術はなかった。横領も、密約も、すべてが白日の下に晒された。
王太子ジェラールは、廃嫡。リーズ嬢と、その背後にいた一派も、すべて捕らえられた。
建国祭の華やかな夜は、王家にとって、終わりの始まりとなったのだった。
――そして、わたくしは。
すべてが片づいたあと、王宮の一室に、呼び出された。
憔悴しきった国王陛下が、わたくしに、すがるように言った。
「アデライド・モンフォール。そなたの、忠義に感謝する。……どうか、これからも、この国のために、力を貸してはくれぬか。新たな王太子の補佐として……」
わたくしは、深く、頭を下げた。
そして、ゆっくりと、顔を上げて――微笑んだ。
「お断りいたしますわ」
陛下が、目を見開いた。
「わたくし、この国に、見切りをつけましたの」
わたくしは、はっきりと、告げた。
「三年。わたくしは、この目で見てまいりました。腐敗に目をつぶる宮廷を。保身に走る貴族たちを。そして、確かめもせず、婚約者を断罪しようとした、王太子を」
わたくしは、傍らに立つクレマンを、見上げた。彼もまた、宰相補佐の職を辞す、と、すでに申し出ていた。
「わたくしが証拠を集め、舞台を整え、この国を正したのは。この国を、愛していたからでは、ございません。――ただ、けじめを、つけたかっただけですの」
腐ったものを、腐ったまま放置はしない。きちんと暴いて、終わらせる。それが、わたくしの矜持。
けれど。
暴いたあとの、この国に。
わたくしの、居場所は、ない。
「わたくしは、この人と、国を出ます」
わたくしは、クレマンの手を取った。
「わたくしを、ただの駒としか見なかった国に。わたくしの価値を、最後まで理解しなかった人々に。――もう、何も、差し上げるものは、ございませんの」
国王陛下は、言葉を、失っていた。
わたくしは、最後に、もう一度だけ、優雅に礼をした。
「どうぞ、ごきげんよう。二度と、お会いすることも、ございませんでしょうけれど」
*
王宮を出ると、夜が、白み始めていた。
長い、長い夜が、ようやく終わったのだ。
「……いいのか」
隣を歩くクレマンが、ぽつりと言った。
「君は、この国を、救ったのに。何の見返りも、受け取らずに」
「見返りなら、いただきましたわ」
わたくしは、彼を見上げて、笑った。
「あなたという、共犯者を。――それで、十分すぎるほどですの」
クレマンが、足を止めた。
そして、めずらしく、ほんの少しだけ、照れたように、目を逸らした。
「……アデライド。一つ、白状する」
「なんですの?」
「私が、君の計画に乗ったのは。正義のためでも、けじめのためでも、ない」
彼は、わたくしの手を、強く握った。
「君が、欲しかった。この腐った国の中で、ただ一人、まっすぐに前を見ていた、君が。――君と共に、この国を出る。それが、私の、本当の目的だった」
わたくしは。
不意打ちの告白に、思わず、頬が熱くなった。
まあ。あの、氷のようなクレマンが。
「では、わたくしも、白状いたしますわ」
わたくしは、彼の手を、握り返した。
「わたくしが、共犯者にあなたを選んだのも。――同じ理由ですの」
二人の間に、しばしの沈黙が落ちて。
それから、どちらからともなく、笑い出した。
朝日が、昇り始めていた。
腐った国に、別れを告げる、新しい朝が。
「さあ、参りましょう、クレマン」
わたくしは、彼の腕を取って、歩き出した。
「わたくしたちの、新しい国へ」
*
――後日談を、少しだけ。
わたくしたちが去ったあと、かの国がどうなったかは、風の噂に聞くばかり。
新たな王太子は凡庸で、宮廷の腐敗は、結局、根本から正されることはなかったという。隣国レーヴェンとの関係も、こじれたまま。国力は、年々、衰えていったとか。
ある日、わたくしたちの新しい住まいに、一通の手紙が届いた。
差出人は、かの国の、新しい宰相。
『どうか、お戻りください。あなた方の、お力が必要なのです。望むものは、何でも差し上げます』
わたくしは、その手紙を、クレマンに見せた。
彼は、ちらりと目を通すと、暖炉の火に、くべた。
「見切りをつけた国に、戻る義理はない」
ぱちり、と火の粉が爆ぜる。
わたくしは、その横顔を見て、くすりと笑った。
「ねえ、クレマン。お返事は、どういたしましょう?」
彼は、少し考えて、それから、わたくしの額に、そっと唇を寄せた。
「『見切りに、追加注文は受けつけておりません』――とでも、書いておけ」
わたくしは、声をあげて、笑った。
ええ、本当に。
わたくしの見切りは、もう、とっくに、ついておりますの。




