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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

思想犯

掲載日:2026/04/25

金がなかった。


都心からは少し離れたアパートの中、俺は5畳半の部屋にうずくまりながら、金のことばかり考えていた。金が要る。


なぜここまで金がないのか。俺は特に豪遊をする質ではない。だが事実、今俺の財布には、いつしかのレシートが入っているだけで、渋沢栄一どころか、北里柴三郎すら、俺と目を合わせてくれないのだ。俺は、俺の生き方が間違っていたと認めざる得ないだろう。


俺は畳の上で寝返りを打ち、脱ぎ捨てられたままのコートを見やる。あれを最後に着たのはいつだっただろうか。俺が仕事を首になった時、つまり、5か月前のことか。


俺には金もないが、仕事もなかった。働かなくてはならない。そう毎日のように思うが、結局はいつも通り、現実に目を背け、行動は起こさないのだった。


ああ、金が欲しい!いっそ人から盗んでしまおうか。


「人から盗む」。その言葉はあくまで独り言で、あくまで俺の独りよがりのはずだった。だが、その言葉は驚くほど俺の頭にこびりつき、2,3回ほど脳内を反復したかと思うと、ついには俺の上半身を起こさせるという快挙を成し遂げた。


そうだ、金がないのなら盗めばいい。俺は生まれてから32年間、いわゆる犯罪と言うものには手を染めたことはない。しかし、人間は生きていれば、1度や2度何かしらの罪を犯している。だが俺はどうだ!俺は生まれてからこの方、万引きも、いじめも、未成年喫煙も、何一つ犯していない!つまり、俺にはほかの人間と比べて、罪を犯せる”隙間”が残っている。


こんなものが暴論以外の何物でもないことは俺にも分かっていた。だが、この暴論を紙の上に書き起こし、茶封筒に入れてノーベル賞へ送ったならば、文学賞受賞は固いと思わせるほど、俺にとっては画期的な考えだった。


何かをなすと決めたら、あとは迅速に物事は進む。俺は、あごに手を当て、どこに盗みに入るべきかを考え始めた。いくら俺が貧民とはいえ、同じ貧民から金を盗るのは気が引ける。ここはやはり、金持ちから盗むのが最適だろう。


そこで俺の脳内に浮かんだのは、「上村」という苗字と、キツネ目をした一人の男だった。上村...そうだ、上村こそがふさわしい!


「上村」。俺が実際に会ったわけではないが、あいつは保険会社に勤めているらしい。なぜ会ったこともないのに、俺が奴のことを知っているのか。それは、彼の悪い噂が風を通じて俺のもとまで届くからだ。


何でも、上村は保険会社のノルマを達成するために、かなりあくどい方法で商売をしているらしい。例えば、記憶があやふやな老人に対して、全く必要性のない保険を契約させる。中には、同じ保険を二重に契約させられた人もいるらしい。そして、その罪悪感を紛らわせるためか、保険会社のカレンダーや、ティッシュなんかを押し付けていく。老人を標的にした許されがたい行為。何という悪行、許しておけない。


俺はキッチンの戸棚の中に思いをはせた。すっかりコーティングのはがれてしまったフライパン。蓋にひびの入った鍋。そして...研げばあの頃の輝きを取り戻す包丁。


凶器は決まった。次は、どうやって上村から金を盗むかだ。残念なことに、俺は上村の家を知らない。ならば、あいつの職場に直接乗り込むしかないだろう。あいつが働く保険屋。確か国道沿いの、ガソリンスタンドの横だったか。


俺は包丁を持ち、その保険屋に乗り込む。そして一直線に窓口に向かい、こう言う。「上村はいるか。話したいことがある」。俺の質問を受けた職員は怪訝な顔をするかもしれない。だが、まさか俺が奴から金を盗もうとしているとは見抜けないはずだ。


職員は、「ええ、おります。今呼んできます」と言い、店の奥へ入っていく。職員は、店の奥でこの辺の住所票を見ながら今日はどの老人を標的にしようか考え、ほくそ笑んでいる上村にこう伝える。


「上村さんに御用のある方が、カウンターまでいらっしゃってるんですが...」


上村は住所票から顔を上げ、自分の記憶の網を引き揚げる。しかし、今日私に特に予定は入っていなかったはずだ...老人を騙すこと以外は、という結論に至る。


上村は仕方なく椅子から腰を上げ、カウンターまで出て来る。そこには、黒のパーカーを着て、無精ひげを生やした一人の男が椅子に座っている。上村は違和感を感じながらも、自らも椅子をひいて、スーツに折り目が付かないよう気を付けながら座り込む。


「ええと、今日はどのようなご用件で?」


「お前は今まで老人を食い物にし、自らの私腹を肥やしてきたな。俺は貴様の罪を清算しに来たのだ」


上村はムッとした表情をし、こう言うに違いない。


「お客様...どこからそんな根も葉もないうわさをお聞きになったのかは知りませんが、私はあくまで、お客様の要望に応えて契約を行ったまでです。ちゃんと契約書にもハンコをいただいておりますよ?」


「だまして押させたハンコなど、クソの役にも立ちやしない」


上村は深いため息をつき、苛立ちからか机の上を指で軽くたたき始める。


「まずは...お客様の名前を聞かせていただいても?」


「俺は...貴様に天誅を下すものだ」


天誅。そう、これは天誅だ!気が変わった。ただこいつから金を盗るだけでは面白くない。それでは、騙された老人たちの気も晴れないだろう。


俺は鼠小僧という義賊の話を思い出す。江戸時代、鼠小僧は金持ちの家に盗みに入っては、貧困にあえぐ民衆に金を配ったという。何という見上げた行動だろう!この俺も、現代の鼠小僧にならなくてはなるまい。


この正義感は決して、俺の脳内から瞬間的に出てきたものではない。むしろ、俺は昔から”そう”でありたいと思っていたのだ。しかし、貧困が俺のそんな考えを忘れさせていた。いまこそ、その”正義”を取り戻すべきだ!


「天誅とはどういう...」


上村は困惑した表情で、俺のことを見ている。俺は静かに立ち上がると、懐に隠していた包丁を、上村に突き立てる。


「なっ...!」


「こういうことだ」


上村は一呼吸の間の後、自分に何が起こっているのかを理解する。そして、情けない悲鳴を上げるだろう。その悲鳴を聞きつけ、周りの同僚たちも異変に気付き始める。


「な...何が目的だ?」


「目的は...貴様が今までだまし取った契約金の返還だ。おっと、俺の指示があるまで誰も動かないでくれ、さもなくば...」


上村は唇を震わし、目で同僚たちに頼むから動かないでくれと合図する。俺はそれを見届けると、冷静に、落ち着いた声で奥の職員に命令する。


「そうだな...とりあえず、ありったけの金をカバンに詰めて持ってきてくれ。なんせ、こいつがどれだけ金をだまし取ったか見当もつかないのでな」


突き立てられた包丁は光輝き、キッチンへ籠っていたころよりも鋭さを増している。しばらくすると、女性職員が、金がこれでもかと入ったボストンバックを持ってくる。俺はカバンについたチャックの隙間からそれを確認すると、上村にこう言う。


「確かに金はもらった。もうここに用はない...だが、上村、お前は俺とくるんだ」


死刑宣告。少なくとも、上村はそう思うに違いない。しかし、いくら同僚に助けを求めても、駆け寄ったり、俺を蹴り飛ばそうとする者はいない。当たり前だ。人を己の利益のために騙す人間を、誰が信じるだろうか。誰が助けてやろうと思うだろうか。すべては、自業自得なのだ。


俺は包丁を突き立てたまま、路地裏まで上村を連れていく。上村は両手を上げ、壁に背を向ける形で、おれと向かい合う。


「お前は自分がやったことを分かっているのか?」


「す...すまなかったと...思っている...ちゃんとだました分の金は返す...だから、どうか命だけは...」


「違う!貴様がするべきは謝罪ではない!貴様がすべきは、その命を持って罪を

償うことだ!弁解は罪悪と知れ!」


そして、包丁はずぶずぶと上村の胸を貫いていく。血が奴のシャツを、丁度コーヒーを本にこぼした要領で、赤く、赤く染めていく。上村は悲鳴を上げる。しかしそれは決して謝罪の悲鳴ではなく、自らの運命を憎む悲鳴だ。最期まで奴は、謝罪をすることは無いだろう。


俺は上村が死んだことを確認すると、包丁を近くの川に投げ捨て、何事もなかったかのように人ごみへ紛れる。途中で無線に何かを叫ぶ警官とすれ違うが、俺を引き留めるやつは不自然なほど誰もいない。ああ、皆分かっているのだ。俺が正しいことをしていると分かっている。だから、誰も俺をとどめない。世界は俺の罪を認めている!


俺は自分が分かる範囲で、上村に不当な契約を結ばされた家に、金を返しに行く。基本的にはポストへ、ポストが無ければ、換気をするため開けられた窓から投げ込む。そのほとんどの金を投げ込み、カバンの底を手でなぞって初めて俺は安堵感と達成感を味わう。やり遂げた。俺はやり遂げた。俺は正義をやってやったのだ!


そのままの足で、俺は近所の交番に向かう。無論、自首をするためだ。いくら世界が俺の罪に目を瞑っていようが、それが罪を許される理由にならないことを、俺は知っている。「罪と罰」を書いたのはドストエフスキーだったか。とにかく、俺はその時、彼の気持ちを理解できるだろう。


強盗殺人。いくら正義のためとはいえ、この不名誉な肩書は受け入れるしかあるまい。無期懲役か、もしくは死刑。だが、そんな量刑など、俺にとってはどうでもいいことだ。歴史上、正義のために死ねた者がどれだけいるだろう。俺は幸福だ。俺は幸福だ!


量刑を言い渡された後、俺は判事から「最後に言いたいことは?」と問われる。少しの考えるそぶりもなく、口を大きく開け、まるでこうなることが分かっていたかのように、俺は言って見せる。


「判事!私はあなたの決断を誇りに思います!確かに私は罪を犯しました!だが、私が殺した彼もまた、許されざる罪人だった!生前の彼を知る者は、おそらく一度はこう思ったはずです。ああ、あいつを殺してやりたい...と。思うこと自体は罪ではない。けれど、それを行動に起こさないのは、実に卑怯だと私は思うのです!怠慢だ!傲慢だ!自分へのだまし討ちだ!その点、私は実際に行動した。この手で、悪を討った!判事、私が言いたいことは...私が言いたいことはですね、思っても行動しない奴は馬鹿だということです!私のように、考えと行動が一致して初めて、人は人であると私は思うのです!これを聞いている老若男女の皆さん!私のように人殺しであれとは言いません!ただ私は、想像だけで生きる”思想犯”にならないでほしいのです...」


しかし結局のところ、俺も一人の思想犯なのだ。少なくとも、キッチンの包丁はいまだ光を失ったままなのだから。


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