奥様へのお願い
落ち着いて暫くすると全ての使用人が退出した。まだ明るい時間帯のティールームだから大丈夫だろう。幾ら俺でも、こんな時間に こんな場所で襲わない。
カフェでのアレは別だ。
そして、シアとの婚姻後にどうしてもやりたいことがあったのを思い出し、今がまさに好機だと気付く。
「奥様、お茶のお代わりは如何ですか?」
「え、リアン様? どうしたんですか?」
戸惑うだろうとは分かっていた。茶を淹れるのは俺の趣味なんだ、言ってなかったけど。
カフェでも茶葉が大丈夫だと分かって試そうかと思ったが無理だった。あんな邪な精神状態ではマトモな茶が淹れられる筈も無いので、見送って良かったと思う。
きっかけはローワンの茶だった。余りにも彼と他の者が淹れた茶が違う。同じ茶葉で水だって同じ。なのに何がここまで違うのか、甚だ疑問だった。
勿論、他の者が淹れた茶が駄目な訳ではない。寧ろ、世間では素晴らしいと言われる筈。王宮は、それだけの技術を有する者が集まる場所なのだから。
ローワン直々に指導してもらい、何度も練習した。それでも納得いかなくて、彼が茶を淹れる様子をじっくりと観察した。
見れば見る程に彼の細やかさが分かる。
単にマニュアル通りにして淹れただけでは辿り着ける筈も無い。これを皆が出来るとは思えないし、当然ながら それを目指せとも思わない。
と言うか、まず無理だろう。
でも俺は仕事ではなく、趣味として楽しみながら続けられた。加えて、練習には勿体ない程の品質の茶葉が手に入る。お陰で彼には遠く及ばないが、それなりに満足できるレベルには到達したと思う。
シアならきっと、いまいちな場合は言葉を選びながらも伝えてくれる。最初は無理でも、いつか彼女の好みに合う茶を淹れられるようになろう。
「新たな侯爵閣下に、お茶を淹れて差し上げようかと」
「それなら、リアン様だってトライアンフ侯爵閣下になられるのに」
俺の言葉に笑いながら返してくれる。まあ、そうなんだけど。
「うん、名前負けしないように頑張る」
「名前負けも何も、リアン様の戦功から宰相閣下が思い付かれたのでしょう?」
「あの人、そういうのが好きだから。いや、数年後ならともかく、まだ十六だしな。
え、この青二才が? とか思われそうで」
凱旋という御大層な家名を引っ提げて、こんなクソガキが現れるとは、と内心で嗤われそうだ。別に本気で心配している訳ではない、寧ろ侮ってくれた方が都合が良いし。
でも、シアがどう思っているのかだけは気になる。
「お年を召した方なら、そうかもしれませんね。
でも、私も家名に負けそうだと思うことはありますが、代々受け継がれた記号のようなものだと割り切っています。
リアン様も、段々とそのお名前に相応しいお年頃になって、ずっと先の世代では、子孫が普通に受け継いでくれますよ」
「そうなるかな」
「はい。それにリアン様は年齢にそぐわない迫力があるので、きっと大丈夫ですよ。
正直言って、私も最初はリアン様がこれ程にお強いとは思わなかったんですが、今ではそのお名前に相応しい方だと信じています」
「ありがとう、シア」
もう可愛い。そろそろ可愛いの過剰摂取で、どこかに変調をきたすかも。やり場の無い愛しさに抗えず、額に唇を落とす。
いや、どこかに触れていないと叫び出しそうなんだ。だから、そんな真っ赤な顔で唇を尖らせないで欲しい。
マジで襲いそうになるから。
「取り敢えず、騙されたと思って一度飲んでみてくれないか?
ローワンのお墨付きだから」
「それって凄くないですか?」
「ローワンは何だかんだ言って俺に甘いから、多少は割り引く必要はあるけど」
幼い頃より、生い立ちのせいか何かと気遣われていた。兄上が立太子なさると決まった際、細君に俺がいつか戦場に赴くことを嘆き、ひっそりと涙を流す姿を見てしまったこともある。
その時、誰よりも強くなって、どんな戦場からも自分の足で戻ってみせようと心に決めた。決して何かに乗せられたり、袋詰めにされた状態ではなく。
実を言うと俺としては、兄上が立太子なさることを喜んでいた。武芸の才では三年の差を飛び越えてしまう程には、俺は身体能力に恵まれている。
そして、兄上とは比べ物にならない程に心が狭い。民を守ると言っても、その価値が無いと判断した相手は簡単に切り捨ててしまえる。
一瞬の迷いで国が奪われる戦場ではそれも重要な資質だが、国を統べる者としては失格だ。最終的に諦めるにしても、それまでに何とか掬い上げようと試行錯誤するか否かには、大きな違いがある。たとえ目に見える結果が同じでも。
兄上の器の大きさは明らかに義母上譲り。二人共に結局はクズを見捨てられない所もそっくりだ。
多少の甘さは周囲が諌めれば、きっと素晴らしい王になられる。俺はその剣でいたい。ずっとそう思っていた。
最愛の女性と共に暮らすことになった今、それが少し揺らいでいるが、平和を守りたい思いは同じ。妻子が安心して暮らせる環境を整えたい。
つまりは、今まで以上に諜報に勤しむってことだな! 戦になる前に何とか敵を無力化しよう。うん、何も問題ない。
「どうぞ」
「ありがとうございます。良い香り。これ、私の好きな茶葉ですね」
「少しでも美味しいと思って欲しいから」
湯が沸くまでに少し物思いに耽ったが、それ以降は集中していた。俺に出来ることなんてあまり無いけど、少しずつでも幸せだと思ってもらえる日々を積み重ねよう。
ほんの些細なことだけど、これはその第一歩。
いつもは彼女の美しい所作に見惚れるだけなのに、口元にカップを運ぶのを見るだけで緊張する。誰かに茶を淹れて、ここまで反応が心配になったことは今までにあっただろうか。
「美味しい! え、あの、いまいちだった場合、どう言おうかと悩んでいたのに!
リアン様、今すぐにでも侍女になれますよ!」
「……せめて侍従にしてくれないか?」
こんな可愛げの無い大男が侍女って、冗談にもならない。
「侍従! そうですね、リアン様なら、きっと格好いいですよ」
「ありがとう。シアの侍従も良いな。
ところで、可愛い奥様にお願いしてもよろしいですか?」
「何でしょう? 私に出来ることなら何でも仰って下さい」
何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも 何でも
駄目だ、煩悩が俺の意識を乗っ取りそうになった。一旦落ち着こう。
それにしても本当にこの子は迂闊だな! 自ら穴を掘って全力で埋まろうとしている。危なっかしいにも程があるだろう。
だがそれも含めてシアだ。俺以外にはこんなことを言わない筈だし、もうこれで良いと思う。
「何でも、ねえ。二言は無い?」
「はい、何でも。お気兼ねなく、どうぞ」
「じゃあ『リアン様』じゃなく『リアン』と呼んで、敬語も無しにして欲しい」
「無理です!」
「言質は取ったから、シアに拒否権はありません」
だって俺たちは、もう王子と令嬢ではない。これからは二人揃って侯爵になる。お互いに対等な存在だ。そもそも夫婦は対等であるべきなんだが。
よくよく考えみると、寧ろ領地を持たない俺の方が一段落ちるのか? 騎士団でのポストを入れても、やっぱり領地の有無は大きい。
とにかく、いつまでも俺だけが敬称を付けられて敬語を使われるのは、絶・対・に! おかしなこと。だからこそのお願いだ。
「でも」
「シアはリアン様と呼ぶのに一日で慣れただろ? 呼び捨てもすぐに慣れるって」
「やってみます」
「やってみる、だよ」
唇を軽く摘んで訂正しておいた。手触り良すぎだろ。今は十二月なんですが、荒れないんですかね?
指先で軽く押してみたら、こんなに小さいのに弾力は確りしている。啄んだ時も、やめ時を逃しそうになったよな。
ああ、本当に気持ち良い。
「リアン様、ちょっと、リアン様……ねえ、リアン様、もうっ、リアン!」
「うん?」
「いつまでそれ、やっているんです……やっているの?」
「あまりに手触りが良くて、つい」
唇だけで飽き足らず耳朶を触っていると、堪りかねたのかシアに止められた。シアの反応が可愛いから癖になる。
「シア、お願い聞いてくれてありがとう。
もう一回、リアンって呼んで?」
「うっ……はい、リアン」
照れながらもちゃんと呼んでくれる。こんなに可愛い子が俺の奥さんって、恵まれ過ぎではないか。
「ありがとう。もう一度お願いしても良い?」
「リアン、お茶のお代わりをお願いしても良い?」
上目遣いでお願いするって、君は俺をどうしたいの?
「勿論です、奥様」
「っありがとうございます、旦那様」
立ち上がる時に少し抱き締めさせてもらった。こうやって小出しに発散させないと襲いかかりそうで怖い。いや、触れるから余計に駄目なのか?
でも、こんなに可愛い妻を前にして、一切触れないなんて出来るか? どう考えても無理だろう。
卒業まで残り半年か、長いな。
忍耐を強いられるのは辛いのに、それと同時に抑えきれない程の幸せも感じられるのだから、途轍もなく感情が忙しい。
でもやっぱり幸せが一番大きいな。