一変
何だか疲れが残っている気がする。
昨晩、話が終わった後に義母上が予め呼んでいた兄上が入室し、すぐに酒盛りが始まった。二人はさっさと酔っ払って気持ち良く寝たから良いだろうけど、俺は兄上が持ち込んだ書類を片付けるという余計な作業まで請け負わされ、少しばかり うんざりだ。
これだからあの二人とは飲みたくない。結局、酒の席では最後まで生き残ったヤツが貧乏くじを引かされる。普段は大好きな兄上だが、嬉しそうに部屋を訪れた瞬間は意識を刈り取ってやろうかと思った程には逃げたかった。
あー、差し込む陽光が黄色く見える……仕方ない、今朝の鍛錬は控えたが、更に昼には仮眠をとるか。正直言うと朝食も食べたくないが、それでは仕事にならない。
何か食欲が湧くようなことは無いかな。
「おっ、ぉはようございます! 殿下」
お、ちょうど良い所に。お陰で色々な意味で意欲が湧いたよ。しかもやや裏返った声に紅潮した頬、ほんの少し逸らされた目が俺に都合の良い真実を告げる。
そっか、昨夜の記憶はあるんだな。良かった良かった。
「おはよう。でもその挨拶は駄目だな」
「どうして、ですか?」
焦った顔も可愛いな。全く、何でこんなに愛おしい相手を逃がすことなんて考えていたのか、我ながら理解不能。抱き寄せたい程の想いを堪えつつ、一歩詰め寄る。ああ、一瞬にして硬直してしまうのも面白、いや、愛くるしい。
大丈夫、今はまだ触れないから。だから耳元で囁く程度のことは許して欲しいな。
「言っただろう? リアンと呼んでくれって。なあ、シア?」
「っ失礼します!」
あ、逃げた。まあ今は仕方ない、急に変わった俺の態度に混乱しているだろうし。暫く顔を合わせないで済むように、少し食堂に行く時間を遅くしようか。
「呆れた。貴方は一体どなたですの?」
やや眉を顰め小首を傾げる様子はさながら一幅の絵画だな。今日も妹は元気そうで何より。
「ん? リーア、兄の顔を忘れるなんて、若いのに気の毒なことだな。良い医師を手配しようか?」
「はー、全く口の減らないお兄様ですこと。でも本来の調子を取り戻されたようで安心しましたわ」
「そもそもリアン兄様には最初からアルシーア義姉様を逃がすつもりなんて これっぽっちも無かったのはバレバレでしたわよ」
笑いながら言うアイリに首を傾げる。今はもう遠慮しないけど、昨日までの俺はちゃんと彼女に選択肢を与えるつもりだったのだから。
「何の根拠も無しに言っているのではありませんわ。
お兄様、どうして彼女が〝ここ〟に居るんですの?」
「どういうことだ? 俺が招いた相手なのだから城の客室に滞在させるのは普通だろう?」
俺の私室に寝泊まりさせている訳でもあるまいし、何か問題が?
「この正殿の二階にある客室は親族を宿泊させるためのものですの。ここは私たちの居室に近い場所なのですから当然ですわね。それ以外の客人には東翼棟に部屋が用意してありますのよ。お兄様だってよくご存知の筈ですわ」
「そうね、私たちにその違いを説明して下さったのは他でもないリアン兄様なのだから」
「それは確かにそうだが、彼女を最も安全な場所に匿いたかったから」
だが本当にそうだろうか? あちらの客室だって騎士宿舎の近くにあるのだから安全性は担保されている。彼女に万が一が起きないように、もしも俺の対策に不安があった場合は、兄上か義母上が更に厳しく監視させるだろう。
安全性の問題のみなのか? 今になって振り返ると、ここに連れて来た時点で俺に〝そういう〟つもりが全く無かったとは言い切れない。たとえ無意識であろうと、いや、無意識だからこそ本音が出たのでは?
言われてみればそうか。
口ではどんな綺麗事を言おうが、結局のところ俺は絶対に逃がす気なんて無かったのだろうな。ただ、自分がクズの二の舞を演じることを恐れて必死に取り繕っていただけで、ほんの少しでも彼女の心が傾いたら、これ幸いと捕まえるつもりだった気がする。
それを周りは全部お見通しだったってワケか。だから全力で囲い込もうとしたんだな。何だ、すっきりした。
「あーあ、悪いお顔。今からでも遅くないからお義姉様を逃がして差し上げようかしら?」
「そうね、もし彼女がそれを望むなら私も協力するわ」
ふーん、そっか。じゃあ俺はそんなコトを望まれないように気を付けないと。
「考えてみたら家族が彼女の味方なのは安心だな」
「まあ! 随分と余裕がありますのね」
「お兄様、油断大敵って言葉、ご存知かしら?」
リーア、そんなに心配しなくても大丈夫だよ、逃げ道を塞ぐのは得意なんだ。でも加減を間違えると彼女が可哀想だから出来る限り自重するつもりだけど。
自重……出来るよな?
「遅いじゃないですか。もうお腹空いちゃいました」
「……ああ、待たせてすまなかった」
やや口を尖らせ気味に訴えるアルシーア嬢に一瞬 反応が遅れた。
しかし、俺との朝食は気まずいだろうから少し時間をずらしたのに強者だな、そういう所も好ましい。それにしても後ろに控えるスタウト嬢が無表情ながらも、何となく笑いを堪えているように見えるのは気のせいなのか?
「今朝は鍛錬所に行かなかったそうだが体調は大丈夫なのか?」
「はい、お陰さまで」
確かに必死に堪えた俺のお陰だよなあ、でないと こうやって食堂に足を運ぶことすら出来たかどうか分からないし。俺、本当に偉い。よく我慢した。
「ところで、貴女の午後の予定は変更だ」
「そうなのですか?」
女性騎士の聞き取りは一切必要が無くなったから。阿婆擦れ共の供述がとれたら、その真偽を判定するためにアルシーア嬢に質問する予定だったのだが、それが消え去った。娘のみならず母親までマトモに話す気が無いのがよく分かったからな。
「なので出来ることなら自由に過ごしてもらいたかったのだが」
「何か別の予定が?」
うん、俺もさっき妹たちと話した時に聞いたんだけどね。ちょっとばかり気の毒だけど、まあ頑張れ。
「義姉上がお茶に誘っている。偶々、彼女の予定も無くなったらしくて」
あ、やっぱり固まった。出来れば助けてあげたいけど、残念ながらそうはいかない。どうせ彼女が爵位を継いだら王太子夫妻との謁見の機会は増える。ならまだ令嬢として多少のことは大目に見てもらえる間に慣れた方が良いだろう。
それに、いずれは親族として接するだろうしな。
「だけど、妹たちが学園から戻った後に、彼女たちを含めた女性四人での茶会だから」
いきなりサシは辛いだろうと妹たちが頑張って時間をずらしてくれたらしい。本当に良い仕事するね、もし何かおねだりされたら聞いてあげよう。まあ言われなくてもアイリの留学の根回しは進めているけど。
アルシーア嬢も妹たちと一緒だと聞いて少しは緊張が解れたらしい、良かった。夕方までずっとこれだと流石に身が保たないだろうから。
「ところで明日は午前から出かけたいのだが、大丈夫だろうか?」
「えっ? 出かけ、る?」
何だその反応、まさかとぼけて有耶無耶にするつもりか? それは少しばかり狡いと思うんだが。でも その泳ぎまくった目が君の意図を邪魔しているけど。
「そ、俺とデートする約束。えーっ、覚えてないのぉ? ひょっとして忘れちゃったの?」
「は? あ、えっと、予定、変更、とか、は?」
ああ、やっぱり逃げたいんだ? でも後ろで君が最も信頼する侍女が物凄い圧を込めて見ているよ、不穏な気配に気付かないのか? 多分だけど、逃げない方が身のためじゃないかな。
それに、俺って、そうやってあからさまに逃げられると何としても追い回して捕まえたくなる性分だから、ちょっとオススメしないぞ。勿論、君に本気で嫌がられたら流石に諦めるだろうけど。
「ええー、何でー? もしかして俺、嫌われちゃったのー? ショックだな〜」
「嫌いな訳ないじゃないですか! と言うか、どうしたんですか? さっきから口調がおかしいですよ」
君を混乱させてとぼける余裕を奪いたかったのだけど、それは言わない方が良いよな。じゃあ告げるのは複数ある理由の中の一つだけにしよう。
「何だか貴女に警戒されているようだから、もう少し親しみやすい口調を心がけたんだが」
「おかし過ぎて却って警戒しますよ」
ああ、もう困った顔が愛らしいな。それからスタウト嬢、傍目にも分かるくらいに呆れ返るのはやめてくれないか? 俺自身にも、普段よりずっと知能が心許ない状態だって自覚はあるから大丈夫。うん、問題ない。多分、だけど。