任意
「シフィリスは大人しくなったと聞いたよ。薬は朝晩の食事に混ぜているそうだ」
阿婆擦れに関しては騎士たちの心の安寧のためにも薬に頼るしか無かった。一応はまだ成人したての女性であるため、最も安全性の高い物を処方している。アイツなら何を投与されても平気そうではあるが。
「それにしてもドープは何故あんなに怒っているんだろうね。無法者が相手ならともかく、リアンには寧ろ積極的に既成事実を作らせようとする親も多いのに」
思わず眉を寄せてしまう。自分に擦り寄る令嬢たちとその親に煩わされ、徹底的に避けるようになった過日を思い出したから。「大変だねえ」とか笑わないで下さいよ! 兄上だってユーストマが生まれるまでは悩まされていた仲間なのに。
「……娘に色仕掛けを勧める恥知らず共はさておき、ドープが荒れるのも仕方ないかと。相手が誰であろうと娘が婚姻前に純潔を散らしたら親は穏やかではいられないのでは? 男親は特に」
実際は全くそんな事実は無いんだけどな。勘違いするような言い方をした俺のせいだけど。
「最初に報告を受けた時は驚いたよ」
「まさか本気にした訳じゃ……」
もし俺がそんな酷いヤツだと思われてるならけっこう落ち込むな。
「勿論、違うのは分かっているよ。私が驚いたのは意図的に誤解させるような発言をしたことだよ」
言葉だけでなく軽く首を振り否定の意を伝えてくれる兄上を見ながら少し安心する。
「そんなにあの男に腹が立ったのかな?」
「はい、全てが今更すぎて」
娘のことであんなに取り乱すならもっと向き合うべきだったし、阿婆擦れ母娘を監視しておくべきだった。結果として彼女は無事だったが、それでヤツの所業を割り引く気にはならない。
「ドープの愚かさには私も驚いているよ。何もせずに逃げ出して、それでいていつか丸く収まる日を妄想していたなんて信じがたいね」
ヤツに言わせれば俺のようなヤツには分からないらしいが、分かってやる必要性があるとも思えなかった。いつか推察できる日が来るとしても、間違っても共感できるようにはなりたくない。
「ドープは考え無しに流され過ぎた。ふしだら母娘の罪は言うまでもない。今の状況は彼ら自身が招いたことだけど、コンフィデント一門やモデスト男爵がその煽りを喰らわずに済んだのは不幸中の幸いだね」
心底ほっとした顔で言う兄上に頷く。一歩間違えたら俺はアルシーア嬢に死を授ける羽目に陥っていた。それを考えたらドープを苦悩させる程度では生温い。
「彼らは寧ろ被害者ですからね。もし連座させられるような事態になっていたら、あの三人はたとえ一億回死んだとしても罪を贖えないでしょう。
特に男爵は余裕が無い中でも娘と孫を調べて取り返しのつかないことにならないよう気を付けていました。今回のことも、あの二人が裏組織に接触したと知ってすぐに騎士団に報せに来ましたし」
「そうだね。君も調べていたが、男爵が通報したこと自体は評価できる」
にべも無いことを言えば彼の通報は無意味ではある。あの母娘が接触したのが偶々 騎士を潜入させていた組織だったお陰もあり、殆どの情報が筒抜けだった。ヤツらが急に襲撃場所を変更しなければ、馬車が襲われた直後に捕らえられた程だったのだ。
男爵があの二人と共に暮らしていたなら外部からは探りにくい情報も手に入っただろうが、既に娘と孫は男爵家の籍から抜けている。その範囲で充分に頑張っただろう。
本来なら法律上は他人となったあの二人のせいで彼が責めを負う謂れは無いが、謀反であれば例外だ。そんなことにならなくて本当に良かった。
「しかしガーナーリアはどうして〝ああ〟なったのかな」
遠くを見つめながら疑問を吐き出す兄上の顔に少し憂いが浮かんでいる。
「モデスト男爵は常に忙しかったが、暇を見つけては領地から妻や娘に手紙を書き、出来る範囲で贈り物もしていた。決して家族を蔑ろにしていた訳ではない。彼の細君だって気性は激しくとも真面目で礼儀作法も他家の夫人と遜色なかったと聞く。
家庭環境は特別に悪くもない。なのに何がいけなかったんだろう。娘のシフィリスは母親があれだから仕方ない気もするが」
何がって、そりゃ尻軽の名前を考えるのが面倒だからとシフィリスとガーナーリアなんて巫山戯た名付けをしたどっかの馬鹿……じゃなくて、まあ普通に考えて
「抑えつけ過ぎたのでは?」
「そう思うかい?」
「はい。幸か不幸かガーナーリアはそれで萎縮するタイプではなかったのでしょう。彼女の母は結婚生活への不満を募らせていたせいで、娘への態度は厳しいを通り越して激し過ぎたようですし」
どんなに親が教育熱心だろうと子が親への不信感を募らせていては心がついていかない。そこで割り切って自分のために頑張る者もいるだろうが、ガーナーリアはそのタイプではなかったのだろう。
男爵の血が流れているお陰で外見は母より良く、男受けするタイプになったのも あの母娘には良くなかった。結果、長じて母を侮るようになってしまったらしい。
俺の意見を聞いた兄上はまた何かを考えている。ただでさえ忙しい兄上を更に悩ませているだなんて、害毒共の罪に加算してやりたくなる。
「あのような者はどうやって出来上がるのか考えているんだよ。今回は偶々上手くいった。罪なき者たちは無事だ。
だが〝次〟があれば? 今度こそは取り返しのつかない悲劇が起きるかもしれない。何が人をおかしくさせるのか知りたいと思ったんだよ。三年前の事件でも思ったことだけど」
兄上は未だにあの件を引きずっているのかもしれない。俺はああいう異常者を逸早く察知し事件を未然に防ぐなど、端から無理だと諦めている。でも兄上は違うんだな。
「この先模索し続けても答は得られないかもしれない。類似の犯罪を防ぐことも無理なのかも。でもその積み重ねが何代も先の民を助ける可能性があるなら、それを放棄したくないんだよ。
老輩からは青臭い夢想家だと嗤われそうだけどね」
兄上は既に国を背負っているんだな。あのクズは現在、遥か遠い未来まで見据えて玉座に座っているのだろうか。
ふと兄上が気分を変えるように手元の書類を脇に避け、頬杖をついて息を吐く。幼い頃にはよく見た姿だが、長じてからは家族での集まりでも殆どしなくなったそれ。普段していると、うっかり公的な場でもその癖が出そうなので控えているらしい。今はかなり気が緩んでいらっしゃるようだ。
「ところで昨日の謁見で話した通り、次期コンフィデント侯爵の継承の準備が調った」
「もう? 早いですね」
今日は水曜なんだけど。僅か二日で目処が立つなんて流石は兄上だ。
「リアンが以前から頑張っていたお陰だよ」
「リーアが協力してくれていましたから。アイリも入学以降は色々と気を付けてくれたので」
「優秀な弟妹を持って私は幸せだよ。アルシーア・コンフィデント次期侯爵に関しては、制裁無しに片付く筈だ。よほど巧妙に何かを隠していない限りは」
まず無いだろうな。侯爵家の調査はもう半年以上かけている。襲撃の少し前には内部に人員も送り込んだ。ここまで何も出ていないのに今更出たら逆に感心する。
「来週にも正式に告知できる」
「これで一安心ですね」
「安心するのは早いんじゃないか? 若く美しい女侯爵への婿入りを企む者は多いだろうからね。資産を食い潰しかねない連中も消えることだし」
徐ろに立ち上がった兄上がこちらに近付き悪戯っぽく笑いながら耳元に口を寄せる。
「いい加減に本腰を入れて彼女を口説き落としたらどうだい?」
何も言えない。俺だって呑気に様子見なんてしている場合じゃないのは分かっているが、あまり急激に攻めて彼女を追いつめたくない。そもそも無事だったとは言え、襲撃に遭っただけでも大変なのに。おまけにその後に起きた諸々の非日常に押し流されて冷静な判断なんて出来るのか? 後になって、あの時はうっかり頷いたけど、やっぱり嫌だと思われたら立ち直れないだろう。
そして俺自身が勢いに任せて強引に迫らないとは言い切れない。だって日毎にどころか見ている瞬間毎に想いが募る。これを抑えて相手の意思を優先できる自信が無い。強制なんてしたくないのに、相手の意思に任せるなんて言いながら彼女を強引に手に入れようとしかねない。
「君が慎重になる気持ちも分かるよ。悪い例を知っているからね。でも、あまりにも弱腰だと却って相手を傷付ける場合もあるんだよ。私自身の経験だけど」
兄上が? 婚約を結んで以降、ずっと仲良くやって来たんじゃないのか?
「夫婦のことは夫婦にしか分からないと言うだろう? 紆余曲折が無い夫婦なんて存在するのか疑問だよ」
ソファーに移動し少し苦く微笑む兄上を信じられない思いで見る。
「私たちは婚姻前に一波乱あったんだよ。いや、我々の親を見ていたら私たちの間にあったことなんて波乱とも言えないだろうけどね」
そうだろうな。あれと同じようなレベルになっていたら、俺たちだって何か気付くだろう。
「その時に思い知ったよ。相手の意思を尊重するのは大事だけど、慎重すぎると相手を拒絶しているように受け取られかねない、と」
それを乗り越えて今の兄夫婦があるんだな。
「リアンは自分を律しようとするあまり、少し冷静さを欠いている気がするね。そう思いつめないで相手をよく見ると良いよ」
仰ることは分かりますが、彼女が絡むとどうしても冷静になれないんですよ。