06
「まるで叙事詩だ。……英雄の死を悼んで雨が降る」
「誰っ……?」
物思いにふけっていたラヴァスの真後ろで音楽的な声が響き、振り向くと、一目で谷の民ではないとわかる見知らぬ男。
だが、ややクセのある黒髪や黒い瞳、元々の色か日焼けによるものかさえ判然としない淡褐色の肌は、高くも低くもない背丈やありふれた旅装束同様、男の出自を明かしはしない。
「私はスヴィーウル。ただの歌うたい。しがない吟遊詩人さ」
ラヴァスはその名に聞き覚えがあるような気がした。多分、城で寝泊まりを許される程度には有名なのだろう。
「……この雨は、ヴァルガスが呼んだんだ」
「竜騎士の死を悼む為にって言うのかい? どうやって?」
「竜が風と炎で出来ているのは知ってるでしょう? 雨雲が熱い空気の柱に魅かれる事も?
……ヴァルガスは風と炎に呼びかけて雨雲を呼んだんです。そして、空の涙に身をさらしているんだ。竜の眼は、涙を流すようにはできていないから」
ォオオオ――――ンンン……
ふいにヴァルガスが首をもたげて咆哮し、躯を震わせた。青みがかった銀色の鱗から霧のように雨滴がこぼれる。
「ヴァルガスっ!」
叫ぶなりラヴァスは駆け出していた。ヴァルガスは翼を拡げ、いまにも飛び立たんとしているように見える。
「ヴァルガスっ! ……待って! わぁっ!」
降りしきる雨の中。ぬかるみに足をとられて不様に倒れ込んだラヴァスは脇腹の辺りに痛みを感じた。
「痛っ……。レイプトが……」
刃と反対の端につけられたレイプトの小さな三叉の鉤が、地面に押しつけられてシャツを裂き、血をにじませていた。形見として身につけた時、専用の鞘が付いたラヴィンのベルトが大きすぎ、ただ束ねてベルトに結んであったせいだ。
が、ラヴァスは痛みも忘れてレイプトの刃に見入った。常態でのそれは乳白色に濁った水晶のように見える。しかし、今は蒼白い輝きを放って雨さえも寄せつけず、ラヴァスの手の中で冷やかな霊気を帯びていた。
『ラヴァス……?』
「ヴァルガス……?」
翼をたたみ、ゆっくりと向きを変えた銀竜が、巨大な翡翠色の瞳でラヴァスを見おろしていた。
『……いっちゃうの?』
声に出さずに訊く。泣き声をあげずに話す自信がなかったからだ。
ラヴァスは物心ついて以来、人前で泣く事をひどく厭っていた。《王国》で生まれ育ったにもかかわらず、彼の気質はアズルの民のそれに似ている。
『私には現世に留まっている理由が失くなった』
『父上が……』
心話を使ってさえ、言葉を続ける事ができない。あふれだしそうな感情の波を抑えつけておく為だけにすべての努力を要した。
『そうだ。自らの好奇心と冒険欲のみにつき動かされてウェリアの隅々まで飛び巡るのは、卵から孵ったばかりの幼竜のみ。
私は千年近い歳を重ね、たどるべきすべての周期を終えた。ラヴィンが現れなければ、一色旬以上前に還帰していただろう。だが……』
ヴァルガスは逡巡するようにゆっくりと目蓋を閉じ、低く咽喉を鳴らした。長い尻尾の先端がゆっくりとラヴァスに近づき、ラヴァスは戸惑いながらおずおずと手を伸ばして、そっとそれに触れる。
――――!
戦慄が身内を走り、魂を痺れさせた。
ふたつの魂にとってかけがえのない存在の喪失が、かつてない程に高まったラヴァスの感情が、彼らの間にあった壁を突き崩す。
今初めてヴァルガスはラヴァスを理解し、幼いが故により鮮やかな魂の色を、感性の強烈な輝きを、哀しみや恐怖や戸惑いを乗り越えてゆくしなやかな闘志を知った。
今初めてラヴァスはヴァルガスの《黄金と炎の夢》を理解し、熱い情熱への餓えを知った。
それは竜と竜騎士の間にのみ起こり得る共感。
ラヴァスはヴァルガスの尾をかき抱き、やわらかな頬をすり寄せた。喜びと、いまだあふれ落ちそうな涙をこらえる為に全身を震わせながら。
『レイプトが私を呼んだのはこれを教える為だったのだな』
ヴァルガスの言葉にラヴァスは輝き続けるレイプトに眼を落とし、心を傾けた。なんとはなし、父と竜の魂の調べが感じられたような気がしたが、その意味を理解する事はできなかった。
『ラヴァス、私は故郷の《炎の国》へと帰る事にした。そなたが成長し、必要なすべての魔法を身につけたなら……』
「逢いに行くよ!」
叫んだ拍子に涙がこぼれたが、雨にまぎれて流れ去った。
「きっと逢いにいく。どんな事をしてでも《炎の衝立》を越えて探しにいくよ。
だから……待ってて! 消えてしまったりしないで……。
僕が行くまで還帰したりしないって、絶対そんな事はしないって……誓って!」
『誓おう。未来の竜騎士よ』
ヴァルガスは天を振りあおぎ、高く長く咆哮した。
『ラヴィンを悼んで降る、この銀の雨にかけて。
新たな目覚めを祝って雲間に射すであろう金色の陽光にかけて』
「銀の雨と金色の陽光にかけて……」
頷くようなヴァルガスの思惟が伝わってくる。ラヴァスはびしょ濡れになった髪を掻きあげ、振り向いて叫んだ。
「唄を、詩人さん。ヴァルガスに唄を聴かせてあげて!」
「え、えっ?」
目の前で起きている事を理解していたのかどうか? ただ黙って回廊からその場を見やっていたスヴィーウルは、ラヴァスの呼びかけに驚いて声をあげた。
「哀しみを癒し、希望を奏でるのが詩人の務めでしょう?
大地と水と風と炎に呼びかけて!
僕達の誓いが、果たされますようにって」
戸惑いながらもスヴィーウルは慌てて貸し与えられていた居室へ竪琴を取りに戻り、素早く調律すると最初に挽歌を、次に大地の再生の歌をうたった。
寄せてはかえす不変の、だが常に新しい波を讃え、きらめく風の調べを憧れに満ちた声音で紡ぎだした。
灯されたばかりの炎の可憐な美しさを、燃え上がる時の感動を、燃え盛る情熱を、山吹色の燠火のやさしい温もりを響き渡らせた。
いつしか雨はあがり、傾きかけた太陽が雲のヴェールの向こうから世界を染め始めている。
無言のままラヴァスは詩人の歌に感謝を捧げ、豊かな才能に感嘆の吐息をもらした。
ヴァルガスはゴロゴロと咽喉を鳴らして礼をのべ、ラヴァスは名残惜しげにゆっくりとその傍を離れていった。
竜の銀色の翼が拡げられ、風を起こす。
城の裏側の露台でヘイズが咆哮をあげ、竜騎士を乗せて滑空してくる。ラヴァスは安堵したようなサイガの思惟が滑り込んでくるのを感じた。
彼らは見守ってくれていたのだ。
胸に響いてきたサイガの呪文に声を合わせ、唱呪する。
ヴァルガスの力強い後足が大地を蹴り、魔法の風に乗って軽々と飛び立った。
西空で一条の陽光が雲を割り、天空と大地とを繋ぐ金色の橋が現出する。
それはヴァルガスを故郷へと導く道標に見えた。
その後、吟遊詩人スヴィーウルが作ったとされる《ヴァルガスとアルスラヴィンの譚詩曲》にはラヴァスアークの名は登場しない。
英雄の悲劇的な死の色彩が薄められるとの判断なのか、こうして、その譚詩曲があまりにも有名になってしまってみると、幼いラヴァスの将来を慮っての事だったのかもしれぬとの憶測も囁かれるが、その真偽は定かではない。
……その恐れを知らぬ咆哮
かの音高き雄叫び再び聴かるる事なく
勇猛なる巨竜の頭は哀しみの底に沈み
輝く銀の鱗は降る雨のごとくこぼたれた
闘いの歓喜も
狂おしき熱情も
友の死と共に去り逝き
ただ冷たき哀しみのうちに
炎の国へとはばたく
力無き翼の最後の飛翔―――― !
遙か西の方
炎の衝立と呼ばれし高き峰々を越え
生を受けし故郷へと……
※一色旬(十二年)
「銀の雨」完結です。来週からは「暗黒の輪」の直後の話「月隠にむかって」をUPしていきます。
少しでもこの作品に好感を持っていただけたら、下の★をクリックしていただけると嬉しいです。感想大歓迎。