05
ラヴァスが驚くのも無理はない。
その扉とは多種多様な幻獣や精霊を浮き彫りし、月の位相を表す月光石を像眼された直径十ヴァズマール程もある翡翠の円盤。だが、それが嵌め込まれているのは壁ではなく、東西南北に座を占める四体の翡翠の獣に護られた床の上だった。
「どうぞ、こちらへ」
ミラータはサイガとラヴァスだけを扉の上へ伴い、あとの者達はそれを囲んだ。ミラータが帯から細い鎖のついた小さな銀の笛を抜き、唇にあてがう。
音ではなく、光が彼らを包んだ。
虹色の光彩が世界を飲み込んだ次の瞬間、ラヴァスはヒヤリとした冷気を感じ、そこが既に大聖堂の中であるのを知った。彼らは中央に小部屋程の大きさの光球が輝く、鍾乳洞を想わせる伽藍の片隅で、控えの間にあったのとそっくり同じ円盤の上に立っている。
導かれるままに円盤を降り、中心部の光球へと近づく。
輝く、熱のない球体。
ミラータはその直前で足を止め、片膝をついた。
「ミルディン様、サイガ様達をお連れ致しました」
ほんの一瞬、光がゆらぎ、球体が透けたかと思うと、両耳の脇から垂れる二房を残して長い銀髪を結い上げ、王位を示す額飾りを戴いた女王が現れた。まだ少女といってもいいような年齢に見えるが、頬には生気がなく、濃い疲労がありありと見て取れる。
「よく……本当によくきてくれました、サイガ」
サイガは女王の前にひざまづき、差し出された手を取って指輪に接吻した。
「お久しぶりです、ミルディン様……いや、陛下とお呼びするべきですかね?」
「どうぞ、今まで通りミルディンとお呼びになって。私にはその尊称に相応しいだけの力はありませんわ」
ミルディンは力無く微笑むとラヴァスの方を見やった。
「ところで、そちらの、可愛らしいお連れを紹介してはいただけませんの?」
「これは失礼。彼は我が友、竜騎士アルスラヴィンの嫡子……」
「……ラヴァスアークと申します。この美しい国を訪れ、陛下に拝する光栄に浴せました事を幸せに存じます」
ラヴァスは帽子をとり、騎士のする正式の礼をした。このような時でなければ、多少ぎこちない様子があたたかな笑いを誘っただろう。
「ラヴァスアーク……。 そう。あなたがラヴィンの……」
ミルディンは銀青の瞳でしばしラヴァスを見つめた。目蓋を伏せて小さな溜め息をつくと、決意したように話しかける。
「ラヴァスアーク。ひとつ、訊かせてください。あなたはなぜここへやって来たのですか?」
ラヴァスはハッと息をのみ、一鼓動の間ギュッと眼を閉じて、拳を握りしめる。再び目蓋が開かれた時、彼の口調は驚くほど平静だった。
「夢をみたんです。……多分、母がみた夢を覗いてしまったんだと……。
父が死の呪いを受けた夢でした。この《月の谷》で闇の王子の一人と闘い、その命を奪ったのと引き替えに。
それで何かしないではいられなくて……」
「その夢をみたのは、いつ?」
「今朝方、夜の明ける少し前です。……僕達は《竜の捷道》を通って来たんです」
「まだ訊かれていない事にまで答えるのですね」
ミルディンの言葉にラヴァスは項の辺りがムズムズするのを感じた。サイガに注意されたばかりなのに。
「わかりました。今ここにあなたがこうしているのも月の女神のお導きでしょう。
ラヴァス?」
「はい?」
「あなたなら運命から眼をそらさず、受け入れる事ができると信じます。……二人共こちらへ」
ミルディンは彼らに背を向けると素早く印を結び、光球の中へと消えた。後に続いた二人が眼にしたのは、支えもなく空中で回転する三本の銀輪とその中心に輝く《月の雫》――月そのもののように輝く、ふた抱えもありそうな球体。
そして、まるで見えない寝台に横たわるかのように宙に浮かんだアルスラヴィンの姿。
「父上……!」
駆け寄ろうとしたラヴァスは目に見えない、弾力性のあるものに押し戻された。
「結界……?」
「その通りです。先程あなた方が通り抜けたのは《月の雫》を護る為のもの。そして、今あなたが手を触れているのは……」
「時の罠……?」
思わず口を挟んだサイガの表情は絶望と希望の入り混じった複雑なものだった。
「ご存じでしたか」
「実際に見たのはこれが初めてだ。ではやはりラヴァスの夢は……」
「女神がその眼と耳を貸し与えられたのです」
沈黙、そして――
サイガはゆっくりと頷き、状況を把握した事を示した。
「……一周期前、母が身罷り、私が王位を継ぎました。
けれど私にはまだ充分な準備ができていず、谷の結界の弱まる新月をついて襲ってきた魔族軍の侵入を防ぎきれませんでした。常の小競り合いを続けている下位の妖魔ではなく、闇の王族が谷へ攻め入ってきたのは藍日以来の事です。でも、それは言い訳にはなりませんわね。
ごめんなさい、ラヴァスアーク。
新たな責任に不安を感じていた私は……私の戴冠の祝いに出席してくれたラヴィンを引き留めてしまった……。ラヴィンのおかげで谷は守られました。けれど……」
そこでミルディンは言葉を続けられなくなり、唇を噛んだ。
「父上は……?」
「生きている」
眉間にしわを寄せてラヴィンを見つめるサイガの声は心なしか震えを帯びているようだ。
「だが、このままでは死んだも同じだ。ミルディン様の魔法でラヴィンの時間は死の一歩手前で止まっている。が、闇の王子の死の呪縛から逃れた者はまだ一人もいない。結界を解けばたちまち死が襲ってくるだろう」
「そんな……」
かすかな、かすかなあえぎ。
「私が時を稼いでいるうちに助けが得られはしないものかと、はかない希望をつないできましたが……もはや限界です。現在この谷で《時の罠》を維持できるのは私だけ……。
ですが……それも、もう……」
サイガはミルディンが立っているのもやっとの状態なのに気付いた。髪の毛一本の負担が増えただけで簡単に崩折れるだろう。
「ウェイデル……ウェイデル様がいてくれれば……。僕なんかじゃなく、ウェイデル様がきていれば……」
「いや、おそらくだめだろう」
サイガの言葉に、気休めはない。
「確かに奴さんの魔力は絶大だが、それは物を動かすとか、火や冷気を操るとかいった攻撃系に関してだ。心話や遠見と同じように、時間を操る魔法も得意じゃないはずだ」
「……私がいたらないばかりに……。本当に申し訳な……っ」
「ミルディン様っ!」
ふいにミルディンの力が限界に達し、サイガの腕の中へ倒れ込んだ。
瞬間、《月の雫》の光輝が薄れ、谷を満たしていた霊気が弱まる。
「《時の罠》が……!」
時を封じていた空間が、砂に染み込んでゆく水のように急速に縮まり、消失した。
ゆっくりとアルスラヴィンの瞳が開き、そこに見いだすものに気付いていたかのように、ラヴァスの方へ首を傾ける。
「父上っ!」
一刹那、ラヴァスは父の思念を感じ……
「父上――――っ!」
鳴動――
ラヴァスの絶叫に呼応するように、大地でも大気でもないものを揺さぶる音なき音が幾重にも谺し、感応者の魂を絶望と哀しみに染めた。それは常人には感じ得ぬ魔法の振動。
ラヴァスにはそれが心の絆によってラヴィンの死を知った竜の叫びであるとわかった。
羽根が舞落ちるように床へ降りたラヴィンの亡骸を前にへたりこみ、涙が頬を伝っているのにも気付かず、震える唇で言葉を紡ぎ出そうとする。
「ヴァルガス……。ヴァルガスが……」
ヴァルガスが、ウェリア一の巨竜、アルスラヴィンの無二の友である竜が泣いている。狂おしいほどの哀しみに引き裂かれて。
「父上……」
遠く、稲妻の閃きが感じられ、雷鳴がすべてをかき消した。
銀の矢が大地を貫く。
重い灰色の雲から放たれる哀しみの矢。
ヴァルガスは半ばひろげた翼と長い首とを力無く地面に預け、眼を閉じたまま身動きもせずに冷たい雨に打たれている。そのヴァルガスの心の嗚咽に引きずられるように、ラヴァスは庭園へと続く回廊にさまよい出たのだった。
「何も……できなかった……」
食い縛った歯の間から絞り出すように呟いたラヴァスに、苦々しげなサイガの声が応える。
「ウェリアの誰にも、何もできはしなかったさ」
「だけど……!」
語気を荒らげたラヴァスの肩にサイガの手がそっと置かれた。
「おまえも俺も、できる限りの事をやったんだ。みんなができるだけの事をやった。ラヴィンも最期におまえの姿を見、おまえの心に触れられて喜んでいたんじゃないのか?
それに……」
フッとサイガの口元に哀しげな笑みが浮かぶ。
「おまえはミルディン様を解放する為に月の女神が使わしたんじゃあないかと、俺は思う」
ミルディンはまだ意識を回復してはいなかったが、《時の罠》による負担から解き放たれて安らいでいるようだった。谷の結界も常の力を取り戻している。
※十ヴァズマール(約十五メートル)
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