04
それは《何か》としか言い様がなかった。
天空にある何か。それとも空がなくなっている場所。
青く輝く空がそこだけ切り取られたように消失しているのは知覚できるのだが、代わりにそこを占めているものを……何と言ったらいいのだろう。それは確かにそこにある。が、それを見る事ができない。覆われているとか、人の眼では空と区別がつかないとかいうのではなく、まさしく消失しているのだ。
空の一部に丸い穴があき、眼はそれを見ているのだが、心がそれを否定してしまう。残った空の縁にぐるりと紐を通して幌馬車の幌を閉じるように絞り込んでしまったように感じる。
つまり、人の眼には何も存在していないように映る。
「見えるか?」
「いいえ。見ようとすればする程、目の前全部がぼやけてきて……」
ラヴァスはにじんできた涙をぬぐった。
「俺もだ。ただ何かがある、いや、何かがない、という事しかわからん。おまえはどうだ、ヘイズ?」
『何ひとつ映さない白銀の鏡』
「なんだって?」
『私の眼には恐ろしい速さで回転している円盤のように見えるわ。虹色の輝きを発しながら大きくなったり縮んだりしている』
サイガは旋回を続けているヘイズの背の上で唸った。心が警鐘を鳴らしている。あれは人間の通るべき場所ではないと。
「サイガ……?」
肩ごしに呼びかけるラヴァスの声も不安気に震えている。
『用意はいい?』
ヘイズの問いにハッとしたラヴァスは鞍をギュッとつかみ、サイガの体が背中にピッタリくっつくのを感じた。
その直後、ヘイズは一気に高みを目指し、クルリと回転して急降下に移った。風の唸りが障壁を越え、眼前から世界が消失した。視界いっぱいに《竜の捷径》が広がったのだ。
『ヘイズ……』
声に出せずに心話で話した。
『何かしら、ラヴァス?』
『《竜の捷径》って突然消えてしまう事もある、って言ってなかった?』
『そう言ったわ』
『もしかして僕達が通ってる間に失くなっちゃうなんて事……』
『もう遅いわ』
「わァ――――っ!」
ラヴァスの叫びは彼らの耳には届かなかった。ヘイズの咆哮も、サイガの絶叫も。
渦巻く気流
轟音
錯綜する光と影
押し寄せる――無
ヘイズが独楽のように回り、吐き出された炎が霧散する。二人の胃が裏返り、あふれた吐瀉物でさえ衣類を汚す前に消失した。
彼らの眼は周囲を捉えていたが、彼らにはそれを見分ける事ができなかった。彼らの耳は音を捉えていたが、聞き分ける事ができなかった。
この場に役立つ呪文を唱えようとしたが、言葉を思い出す事ができなかった。
五感のすべてが彼らを裏切り……
「うっ、う……」
乾いた砂が両手の下に感じられ、木の葉を大地へと誘う力がラヴァスの身体をしっかりと繋ぎ留めているのがわかる。
無理に絞り出した胃液が黄色い染みを作り、異臭を放っている。口内に広がる苦く酸っぱい味でさえ今は歓迎したい気分だ。彼はそれらのすべてを知覚し、言葉に置き換える事ができる。たったそれだけの事がどれ程すばらしいか。
《竜の捷径》を抜け出した彼らは一も二もなくヘイズに着地を命じ、転げるように鞍を降りたのだった。
やっとのこと眩暈と吐き気のおさまりを感じたラヴァスは立ち上がって周囲を見回す余裕を得た。
《氷の山脈》を渡ってくる冷たい北西風に削られた鋭い岩。石英を多量に含んだ灰色の砂。
落雷か、それとも幼竜や火蜥蜴、あるいは妖魔の悪戯によるものか? 所々に玻璃の池や奇怪な硝子の彫像が散らばり、風景のすべてが遠い太陽が描くにしてはあまりにも濃い影を落としている。
サイガがうがいをする音が響き、間もなくラヴァスの眼前に水袋が差し出された。
「ほら」
チャポンという水音をたてて、それを受け取る。
「ありがとう」
一口含んで口をゆすぎ、吐き出した茶が新たな模様を作って大地に染み込んでいくのを見つめてから、喉をうるおした。
「ふうっ……」
「大丈夫か?」
尋ねるサイガの顔色もいつになく青い。ラヴァスは唇の片端を上げて幼い子供には似合わぬ不敵な笑みを浮かべてみせた。
「あなたと同じぐらいには」
「こいつ……」
一呼吸後、サイガはフッと笑ってラヴァスの頭を軽く小突き、クルリと背を向けてヘイズの顎に触れる。心話は常に身体的な接触があった方が楽だ。
「あとどのくらいだ?」
『北東へ三ラスタといったところかしら? もっと近いかもしれないわ』
「おまえにも、ここがどこかわかっているわけじゃあないって事か」
『正確にはね。どのみち《月の谷》を見逃すはずはないんだから、たいした事じゃないわ』
「任せる」
サイガは再び鞍にまたがり、毛布とマントをひっぱり出した。マントをはおり、毛布をラヴァスに放って寄越す。
「そいつを身体に巻付けてろ。上空はもっと寒いぞ」
ラヴァスは寒さで鳥肌だっている事にすら気付いていなかった自分にあきれた。わずかの間にずいぶん北まで来てしまったのだ。
「いいよ。ヘイズ」
ラヴァスの声を合図にヘイズは翼をいっぱいに拡げ、午後の日差しに金緑の鱗をきらめかせた。
大地を揺るがせて助走し、何度か羽ばたいてフワリと浮き上がる。
サイガが印を結び、唱呪して突風を呼んだ。竜はその風を捕まえて軽々と高みに舞い上がる。それはラヴァスにとって、否、すべての竜騎士にとってもっとも昂揚する瞬間!
そして多分、竜にとってすら。
ヘイズは地面から立ち昇り、とりどりの色彩にゆらめく熱気の柱を見分け、翼に捉えて次々とそれらを乗り換えてゆく。
そう、竜の一族は色彩によって空気の温度を知る。凍て付く氷原であろうと、煮えたぎる火の山の中であろうと鱗におおわれた皮膚が寒暖を感じる事はなく、冴え冴えとした青紫や赤金色に輝く透き通った空気の流れとして知覚する。
ヴァーヴズヘイズが僅かに身を傾け、見る間に高度が下がっていった。ゆるい曲線を描きながら向かう先に、灰色の荒野に突然現れた緑の亀裂。
「《月の谷》だ!」
危なっかしいほど鞍から身を乗り出したラヴァスの肩にサイガの手がかかり、引き戻された。
「落ち着け、ラヴァス。ここは谷の西端だ。《月の城》までは、まだ少しかかる」
《月の谷》は《王国》の北端から誰の所領でもない荒野を挟んで十ラスタ余りに位置する。平らにのばした粘土を三夜月形の型でくり抜いたような形。広さは中央部で幅およそ一ラスタ、東西約十ラスタ。深さはほぼ一様に六十ヴァズマール。
突然、肌を刺すピリピリとした感覚と共に彼らの身体がほの青い光を発し、声をあげる間もなく消えた。
「今のは……?」
「谷を覆う結界だ。大丈夫、俺達には何の害もない」
サイガは言葉とは裏腹に不安気な表情を浮かべていた。とりつくろうようにマントを脱ぎ始める。
「毛布をとれよ。ここじゃあ、そんなものは必要ない」
これほど北の地にあるというのに谷は雪を知らず、白い幹と銀緑の葉の月香樹――魔除の力を持つ香木におおわれている。
多くの人々は谷の両側面の固い岩壁を掘り抜いて住まい、山羊に似たミュリアと呼ばれる獣を飼って暮らしていた。
ミュリアからは乳や肉の他、薬になる角や織物になる毛がとれる。その薬や織物は《王国》や《帝国》、自由都市でも珍重され、非常な高値で取り引きされていた。
そして、中央にそびえ建つ、谷で唯一の大建築物が《月の城》である。はるかな昔、現在の世の人々が《超えたる者》と呼ぶ、滅び去った一族の一人が築いたと言われている。
「サイガ、あれ……」
真先に感じたのは繊細な硝子細工のようなその城の美しさ。さながら銀緑の海に差す一条の月光。そこには常の建物に見られる対称性も直線も力強さもなく、完璧な調和をかもす和音に優る不協和音のような美しさだけがある。
「《月の城》だ。よく見ておけラヴァス。あれが世界で最も美しいと言われる城だ」
あまりにも美し過ぎるものを見た人々が吐息をつくように、ヘイズが溜め息にも似た切ない咆哮をもらした。
「ミルディン様……」
突然、サイガの身体がビクリと震え、眼が焦点を失った。
「サイガ……?」
振り返ったラヴァスの腕にサイガの手が触れ、透き通ったきらめきを伴う心話が伝わってくる。
『……ですから、そのまま西の露台に降りてください。出迎えの者達を吹き飛ばさないように気をつけて』
『相変わらず手厳しい。それとも戴冠式に参じられなかった事への腹いせですか?』
『そのお話はまたあとで。あなたの竜が城を通り過ぎてしまうわ』
「おっと、話は聞いていたな、ヘイズ? そうっと降りてくれよ」
『難しい注文ね』
指示された露台は大きくはあったが恐ろしく華奢に見え、ラヴァスはヘイズが降り立つと同時に崩れ落ちるのではないかと心配した。
ヘイズの着地を穏やかにする為にサイガが風を操るのを感じる。そして着地。ラヴァスは今までこれほど静かに降り立った竜を見た事がなかった。
二人が鞍から降りると、月光を編んで作られたような美しい人々が姿を現した。
真珠色の肌、白銀か淡い金の髪。瞳は銀色か金色がかった青か緑か紫、でなければそれらの中間の色。皆一様にほっそりとして背が高く、輝く衣装をまとい、月光石を身につけている。
頭頂で束ねた金髪を腰まで垂らし、金色がかったすみれ色の瞳をした女官が進み出、他の者達は膝を折って後ろに控えた。
ラヴァスはベルトに挟んであった帽子をひっぱり出し、あわててかぶり直す。
「《月の城》へようこそ、竜騎士サイガ様。お連れのお方。ご苦労様でした、ヴァーヴズヘイズ」
「また会えてうれしいよ、ミラータ」
サイガは挨拶が終わるのすら待ちきれないように踏み出し、ミラータと呼ばれた女官に耳打ちした。
「いつになく結界が弱まっているようだが、ミルディン様に何か……?」
「その事でご相談なさりたいとミルディン様が……」
ミラータも早口でささやき返す。
「遠い所を旅してこられてお疲れでしょうが、すぐに大聖堂へ足を運んでくださいますか?」
「大聖堂? 一体……」
ミラータの言葉にサイガの不安が増したようだ。だが、それ以上の問答を続けて時間を無駄にはしなかった。
「わかった。案内してくれ」
「ではこちらへ」
ミラータを先頭に彼らは城中へ踏み入った。音ひとつたてぬ軽やかな足運びながら、女官達の歩みは速く、サイガに手をつかまれたラヴァスは引きずられるように通路を進んでいく。
城の大部分は半透明な水晶のようなものでできており、ほのかな光を発している。天井や壁のそこここに目立たないが奇妙な彫刻があり、月香樹から採った魔除の香が薫かれていた。
うねうねと曲線を描く廊下を渡り、聖水をたたえた水盤や月の女神の像を祀った控えの間で、彼らは大聖堂の大扉を前にした。
※三ラスタ(約三十六キロメートル)
※六十ヴァズマール(約九十メートル)
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