03
「ラヴァス。……おい、ラヴァス!」
「え……?」
振り向いたラヴァスの眼にサイガの明るい灰色の瞳が映った。のび過ぎた前髪が微風に舞う。陽にさらされ、白っぽいまだらのまじった金の髪。
「いつまで呆けてる? 宴はとっくに終わったぞ」
「サイガ……。僕は……」
「フゥッ。どうやら緊急事態がおまえさんの魔力を拡大しているみたいだな。おかげでヘイズの奴もいたく御満悦だ」
「え? でも……」
「もちろん竜は魔力そのものを喰らうわけじゃあない。それなら魔法使いはみんな竜騎士になってる。だが、そいつも要因のひとつではあるのさ」
ヘイズがゴロゴロと咽喉を鳴らし、とりたてて心話を使った訳ではないのだが、『珍しい御馳走をどうも有り難う』と言っているような気がした。
「だが、俺達は竜と違って夢や精気だけを食って生きていく訳にはいかないからな。飯の時間だ」
サイガはラヴァスをひょいと抱き上げて彼と向かい合わせに座り直させると、鞍袋から食料を取り出し、二人の間に並べた。
それを見てようやくラヴァスは朝食を食べていなかった事に気付く。
「しっかり食えよ。でないと俺が全部食っちまうぞ」
言葉を終えるやいなやサイガは革の水袋を傾けて喉をうるおし、腰の鞘から短剣を抜いて、穀粒のまざった固く重いパンや乾酪を切り分けては、猛然と腹におさめ始めた。
「ち、ちょっと、待ってよ!」
ラヴァスも負けじと短剣を抜き、手近にあった薫製肉に取り組み始める。
「……おっと、おまえのはこっちだ」
サイガはのばされたラヴァスの手から水袋をひったくり、別の、やや小ぶりな革袋を手渡した。
「水で割ってあるとはいえ、お子様が葡萄酒をやるにはちょっとばかり日が高過ぎる。寝る前に一杯やらせてやるから、それまで冷ました香草茶で我慢しておけ」
「お昼寝の前じゃダメなんですか?」
「ハッ。食ってすぐ昼寝すると牛になっちまうぞ」
「……なんなんです、それ?」
「なんだ、知らないのか?
俺が爺様といっしょに草地へ羊や山羊の番をしに行ってた頃よく言われたもんだ。『弁当を食ってすぐに寝ると牛になっちまうぞ』ってな」
「どうして?」
「馬鹿馬鹿しいと思うだろう?」
黙って頷くラヴァスより、悪戯っぽくニヤついているサイガの方が子供っぽく見える。
「……が、こいつにはちゃんと理由があるのさ。
昔、魔法の力が今よりももっと強く働いていた頃、ヘルギウォルドという性質の悪い魔法使いの王がいてな。自分の牧童達が草場で昼寝するのをよく思わなかったんだな。で、昼飯を食った後すぐに寝ちまった奴が牛になるように呪いをかけたんだ。ところがたまたまそれがセゲディンの夜だったもんで……」
「セゲディンの夜って?」
「恐ろしく魔法の力が強められたり、妙な方向に働いたりするんで竜でさえじっとして魔力を使わないっていう、百年に一度めぐってくる特別な夜だ」
「それなのにヘルギウォルドは魔法を使った?」
「うっかり忘れていたのか、自分の魔法によほど自信があったんだろうよ。が、そいつはやはりうまく働かなくてヘルギウォルド自身が牛になっちまった」
「それがどうして……」
「話は最後まで聞け。おまえさんの回転が速いのは認めるが、先走り過ぎるのが悪いクセだ」
「……すみません」
素直に謝るラヴァスにサイガは笑って片目をつむってみせた。
「ま、先読みするのは悪くないさ。ただ、考えもなしにそいつをひけらかすと、猜疑心の強い奴には妙な警戒心を抱かせるし、察しの悪い連中には反感を与えるだけだからな。
それでだな……セゲディンの夜ってのは《扉の開く夜》とも呼ばれている」
一瞬考え込んだ後浮かべたラヴァスの表情の意味を察したサイガは言葉を切った。困った奴、といった表情をしたいようなのだが、なぜかうれしそうだ。
「……フン、どういう種類の扉かわかったようだな?」
ラヴァスは少し顔を赤くして、申し訳なさそうに耳の後ろの辺りを掻いた。
「ええ。なんとなく」
「違った世界、別の時代へ通じる扉。そいつがウェリアのいたる所で開き、あるいは今にも開かんとする状態で現れるといわれている。
で、どうやらそういった扉のいくつかがヘルギウォルドの城の近くで異なった時代へ通じていたらしい。その時流れ出した魔法の力が何かのはずみで働く事があるそうだ。
爺様の話では弁当を食ってすぐに眠り込んだ男が、目の前で牛になるのを見たと親父、つまり俺の曾爺様が言っていたと言うんだ」
「本当なんですか?」
「サァな」
肩をすくめたサイガは小さく噯気をすると弁当の残りを仕舞い始めた。
「ヘルギウォルド王についちゃ他にも眉唾ものの話がいくつも伝わっているし、こいつも子供にいう事をきかせる為のよくある作り話かもしれん」
「どこを治めていたんです?」
「ん? ああ、ヘルギウォルドの国は鉄床山の麓、今のダネイン、キエラの辺りだと言われているが確かな事はわからん。何しろ王国が出来るずっと以前の話だからな」
「ラディアン王が即位宣言をしたのは……獅子の時代青楯の……えっと……」
「……十二年だな、確か。三千年ぐらい前だ。もっともその頃は今ほど大きくもなく、《竜使いの王国》と呼ばれていた」
「アンシャルもそう書いていましたね」
「アンシャル? ……まさか、《王国史》を読んだのか? 三十巻もある歴史書だぞ!」
「まだ初めの方の巻だけですけど……」
ラヴァスははにかんだようにちょっと肩をすくめてみせた。
「あきれたな」
サイガは溜め息をついて、首を振った。
「他には何を読んだ?」
「《魔詩の韻律》とコリッグの《地誌》を少し。それに妖精の古詩をいくつかとラスティの歌謡、あとはアズルの説話集……かな?」
「やれやれ……。おまえさんの言葉使いが大人びているのは王宮に出入りしているのだけが理由じゃないようだな。俺の家は貧しくて字を習ったのは自分で稼げるようになってからだが、絵草紙から始めたもんだ」
「でも……」
「なぜかは知らんが、おまえさんは早く大人になろうとあせってるように見える。別に、悪い事じゃないさ。
だが、いくら嫌だと言っても、いつかは大人にならなきゃならん。子供でいられる間はそいつを大切にするべきだ、と俺は思うだけだ」
『お話が弾んでいるところを申し訳ないんだけど……』
ヘイズが二人の心に触れてきた。
『さっきの《異世界への扉》の話で思い出した事があるの』
「なんだ?」
『ここから西へ少し迂回した所に月の谷の近くへ通じる《竜の捷径》があるはず』
「はず?」
『サイガ、あなたも知っているように《竜の捷径》は少しずつ位置を変えているうえに突然消えてしまう事もあるわ。それに私も話に聞いただけで、まだ通った事のない捷径なのよ』
「ヘイズ、訊いてもいい?」
『なぁに、ラヴァス?』
「《竜の捷径》って何?」
『早く言えば近道よ。空の抜け穴。それを通れば今夜中に月の谷に着けるはず。《妖精の小径》とか《鏡の隧道》みたいなものね。ただし、あんなに穏やかじゃないわ』
「おだやかじゃない?」
「ああ。俺も聞いた話だから確かな事は言えないがとにかく凄まじいらしい」
「すさまじい?」
「なんていうか、その……。ラヴィンは一度通った事があるらしいんだが、嵐の直中へ突っ込んで行くよりもっと酷いらしい。腹の中のものをみんな吐き戻しちまったとか」
「父上が……!」
「ああ。あまり詳しくは話してくれなかったが」
「行こう、ヘイズ!」
『え?』
「どんなものかわからないなら通ってみるよりないでしょう? それに僕は……」
「わかった。俺も気が急いているのにかわりはない。ヘイズ、頼む」
『入口まではまだ時間がかかるわ。気分を落ち着ける為に何か弾いてくださらない?』
「俺もそうしようと思ってたところさ」
サイガは鞍袋からファセッタを取り出した。先端部のつまみを回して緩めていた弦を巻き取り、調律を始める。
ファセッタは半球形の胴と細長い首を持つ小さな楽器で、特殊な弦を使っている為、見た目より低い音を出す。
それはサイガの豊かな歌声とピッタリ合っていて、玄人はだしの技巧で奏でられる流行り歌やもの哀しい恋歌は、時に悪戯好きの王宮の兵士から祝儀を投げつけられる仕儀ともなった。
そんな時、おどけた仕種で深々と一礼したサイガはそれを拾い、非番の兵士達とそろって酒場へ繰り出した事も一度ならずある。
一般に竜は音楽を好み、為に竜騎士はその道にも秀でているのが普通である。初代竜騎士であったとされる王国の始祖ラディアン王は横笛の名手と伝えられている。
が、アルスラヴィンには音楽の才がなく、ヴァルガスや父が常々それを残念がっているのをラヴァスは知っていた。
調律を終えたサイガが静かでやさしい曲を爪弾き始め、ほどなくそれに低いハミングが加わった。ヴァーヴズヘイズは半ば眼を閉じてそれに聴き入り、ラヴァスは真に心が安らぐのを感じた。あたたかでふんわりしたものが漂ってくる。
やがて曲は単調で、それでいてなぜか心魅かれる旋律に移り、サイガの唇が歌詞を紡ぎ始めた。
流れの間に間に消えてゆく
水泡ほどの この命
誰に捧げて散らせよう
遠い故郷 花の野辺 朝露光る その中に
我を待ちわび 立つ乙女
微笑み永遠に守らずや
※噯気(げっぷ)
少しでもこの作品に好感を持っていただけたら、下の★をクリックしていただけると嬉しいです。感想大歓迎。