01
月のない空の下――
激しい戦いを続けていた竜騎士アルスラヴィンは、突如天から響き渡った停戦を告げる声に、《稲妻》の縄を束ねた。
レイプト――大地の炎によって鍛えられた、細くしなやかな鋼の縒り縄と、竜の牙より研ぎ出された刃を持つ縄鏢。
だが戦いの相手、黒いマントに身を包んだ闇の王子は、黒い剣を大上段に構え、ラヴィンに破滅をもたらす為の呪文を唱え始めた。
「やめろ、シャーン! ……戦いは終わったんだ」
ラヴィンの呼びかけもむなしく、シャーンの剣に魔力が満ちてゆく。
「くっ……。やむを得ん!」
苦悩に顔をゆがめたラヴィンが名高い武器を振るった。
「《稲妻》よ! その名のごとくあれ!」
細縄の先に付けられた小さな刃が、縒り戻しを回転させながら蒼白い輝きを放って闇を切り裂き、シャーンの体を貫くと、唸りをあげて反転、更にその背中に突き立った。
ラヴィンは両手に握りしめた縄を通して、己が全霊をその刃に注ぎ込む。時が流れを遅らせ、鼓動と荒い息の音が世界を支配した。
そして……ゆっくりと……暗黒の王子の煤色の衣装、夜よりもなお暗い闇色の髪さえもが、明滅する微光を発し始める。
シャーンの唇が苦痛と怒りに醜くゆがみ、自身が通るべく開けられた地獄の門から呪いの言葉を引き出した。
《冥府の鍵》
闇の眷族にさえ常には発音できぬ言葉で構成された死の呪縛!
恐怖、憎悪、絶望――
凝縮され、鋭い武器と化した暗黒が逃れ得ぬ宿命となってラヴィンを襲う。
ラヴィンは最期の力を振りしぼって右手を挙げ、宙に図形を描いて短い呪文を唱えた。闇の王子の身体が青焔をあげて燃え上がり、断末魔の叫びが谺する――
「あなた……!」
アルスラヴィンの妻アイカは不安におののきながら良人のいない寝台に身を起こした。
「夢……?」
そうであって欲しい!
アイカは両手で顔をおおい、夢が現実の遠い谺でない事を祈った。
魔法の横行するウェリアの地にあって、なお《魔法の国》と呼ばれるアズルの王家の出である彼女には僅かながら予見や遠見の能力がある。
アイカは寝台から降りると、ローブを羽織って露台へ出た。
冬を間近に控えた夜気は冷たく、彼女の身を震わせる。
空には薄い雲がひろがり、月の影はなかった。
今夜は新月なのだ。
それに思い到った時、アイカははっと身を強張らせ、手摺をつかんだ手から血の気が引いていった。
夢の光景――
闇の中ではっきりしなかったとはいえ、あの戦いは月香樹の木立で行われていたように思える。それに遠く星の様に瞬いていたのは、高い岩壁に掘り抜かれた住居に灯された明かりに違いない。
アイカは実際に行った事はなかったが、ラヴィンからその様子を聞いている。そう、あれは《月の谷》だ。
そこは《闇》への通路を懐に抱く《魔の山》と境を接する土地。遠い昔にかの地に移り住んだ妖精の末裔といわれる一族の領地。
だが、その地の守りの要である《月の雫》と呼ばれる魔石の魔力は、新月に半減する。
彼女の夫は今、その《月の谷》に滞在しているはずなのだ。
「まさか……。ああ、どうか私の考えが間違っていますように」
暁の星が輝き始めた東の空に背を向け、室内へ戻った。
(王宮に行ってウェイデル様に目通りを願おう)
王の顧問にして王国最高の魔術師である彼になら、力になってもらう事ができるかもしれない。
白い絹のブラウス。アズルの民特有の鮮やかな青い瞳に合わせた膝下丈のキュロットスカートに茶色の幅広ベルトを締め、共布のヴェストには銀の飾りボタンが並んでいる。長い黒髪を編み上げ、乗馬用の長靴と手袋、灰青色のフード付きマントを身につけたアイカは切っ先以外が片刃のアズルの小剣を差して外へ出た。
馬具を付けられ、門前に引き出された愛馬が鼻を鳴らし、前肢で土を掻く。
庭師兼厩番のマロイから手綱を受け取って、銀灰色のたてがみと霜が散ったように見える銀灰と白のまだらの毛を撫でてやった。
「母上!」
鞍にまたがろうとしたアイカは思わぬ声に館を振り返る。
「母上! ……僕も行きます」
アイカの小さな息子が玄関から走り出て、母親の足に抱きついた。
「ラヴァス……」
「フリームの鳴き声が聞こえたから。窓から厩を見たら扉が開いてたし。きっとマロイが鞍を置いてるんだと思って」
彼女が問いを発さぬうちにラヴァスは答えた。
一人息子であるラヴァスアークは、いつも七歳の子供とは思えぬ大人びた振る舞いをする。アイカはラヴァスが成されなかった質問への解答を避けたのではないかと疑い、口にされなかった事への不安を深めた。
(この子も同じ夢をみたのかもしれない)
白いシャツ。瑠璃玉をはめた銀のカフス。アイカのとよく似たヴェスト。青い半ズボンに締めたベルトに儀礼用の短剣をさげ、踝を覆う靴に羽飾り付きの青い帽子。漆黒の髪にはきちんと櫛がいれられ、登城の用意はすっかり整っている。
(どうしてこの子はこんな風に大人のやり方で物事を進めてゆくのかしら? まるで、守ってくれる者が誰もいないみたいに)
またしても過った不吉な考えを振り払い、アイカはラヴァスの傍らに片膝を立て、父親譲りの黒い瞳や利かん気そうな唇を覗き込んだ。
わかったわ。いっしょに行きましょう」
若い母親は息子を鞍壺へと抱き上げ、マロイに助けられて自身も鞍にまたがった。
「留守をお願いね、マロイ。帰りはいつになるかわからないから食事の支度はしなくていいとエセルに伝えてちょうだい」
「はい、奥様。どうぞお気をつけになってください」
門を開け、見送るマロイのいつになく心配気な表情にラヴァスが微笑いかけた。
「大丈夫だよ、マロイ。母上には僕がついてる」
暁がその名を次なる名称に譲る頃、フリームは王宮の門前で荒い息を吐き、汗をしたたらせた。
「竜騎士アルスラヴィンの妻アイカと息子のラヴァスアークです。ウェイデル様にお取り次ぎを」
番兵が誰何するより早く、アイカはその用向きを告げる。
と、城内から騎馬の兵士が手を振りながら二人を目指して駆け寄ってきた。
「アイカ様! ラヴァス!」
「……ジョッグ!」
館を出て以来、思いつめたようにおし黙っていたラヴァスの顔に驚きと笑みが同時に浮かんだ。それは顔なじみの老兵であり、ラヴァスを孫のように可愛がってくれている人物だった。彼は一旦門の外まで走り出てから馬首を巡らせ、栗毛の馬にフリームと轡を並べさせた。
「おはようございます、隊長殿」
ラヴァスは帽子の傾きを直し、鯱張って敬礼する。
その様子に一旦は破顔した古強者も負けじと仰々しく敬礼を返した。
「おはようございます、アイカ様。小さな竜騎士殿」
「おはよう、隊長さん。お元気そうね」
「おかげさまで、奥様。……ところで竜騎士殿」
ジョッグは綻んだ口元を隠すように顎髭を撫でながら眼を細めてラヴァスを見やった。
「赤子のように母君の膝の間に座っておられるとは、御自慢の竜は一体どうなされたのかな?」
「残念ながらちょっと翼を傷めてね。
……それはそうと、急いでやって来たのには何か理由があったんじゃあないんですか?」
「相変わらず口の減らない……」
フンと鼻を鳴らして呟いたジョッグは咳払いをひとつして姿勢を正した。
「ウェイデル様がお待ちです。こちらへどうぞ」
※露台
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