二日目:どういう遊びですか?
アパートに戻ると、ベッドの下から大型のリュックを出した。帰省する時に使うもので、三歳の優美がゆうゆうと入れるほどの容量がある。
勉強道具一式とノートパソコンを入れたあと、スーツケースから着替えを取り出した。詰められるだけ詰めようとしたが、彩希の家で洗濯機を使わせてもらえば良いと思い直した。とりあえず三日分のTシャツと下着、靴下を入れる。ジーンズとハーフパンツ、外で優美と遊ぶためにジャージも入れた。外出用の襟付きシャツを二枚詰めた。洗面道具を入れるのを忘れていたと気づき、コンビニのビニール袋にタオル、シャンプー、ボディーソープ、洗顔フォームを入れて口を結んでからリュックに入れ、ファスナーを閉じた。
冷蔵庫以外のプラグを抜き、給湯器の電源も切って光熱費を節約する。やり残しはないかを確認したあと、部屋を出てきっちり鍵を閉めた。自転車に跨り、彩希の家へ向かった。
暮色が町並みを包み始める時刻に差し掛かっている。都電沿いの道に出ると、霞がかった西の空に夕日が漂っていた。電車が浩太を追い越し、仕事終わりの人たちを最寄り駅まで運んでゆく。
気づけば道順を覚えていて、すんなり平沼家についた。
「ただいま、なのか?」
浩太からすればよその家だが、優美にしてみればお父さんが帰ってきたと思うだろう。帰りの挨拶をした方がいいのかと考える。
とりあえず、玄関のドアを開けて中に入った。
「わー」
リビングのドア越しから優美の楽しそうな声が聞こえてきた。昼寝がすんで彩希と遊んでいるのかもしれない。
「ただいまー」
母娘の触れ合いに当てられて、浩太はリビングに入ってとりあえずそう言った。
彩希が、うつぶせになった優美の両脚を持ってずるずる引きずっている光景が目に入った。
なにをしているのか理解できない浩太。
「……虐待?」
と物騒な文言を吐いてしまう。
「ちがうちがう」
首を振って強く否定する彩希。
さらに言葉を続ける。
「この子がいきなり床に寝そべっちゃって、引っ張ってって言うの」
「おとーさーん」
優美が笑顔を向ける。どうやら彩希の言ったことは本当のようだ。
「どういう遊びなんだ?」
三歳児の好みがわからない浩太。
「床を滑るのが楽しいみたい」
苦笑いを浮かべるあたり、彩希もよくわかっていないようだ。
「おとーさーん、やってー」
優美はまだ引っ張ってほしいらしい。
「じゃあ、ご飯支度するから。お父さん、ほら」
と彩希に促される。彼女は少し疲れたらしく、額にうっすら汗が滲んでいた。荷物を取りに行っている間に短パンに穿き替えて両脚が露わになっている。
浩太は彩希と入れ替わって優美の両脚を持つ。
「ひっぱってー」
「よ、よーし」
浩太は戸惑いながら中腰になる。顔を擦らないように、優美の身体が床となるべく平行になるよう心掛ける。意外と神経を使いそうだった。
後ろに気をつけながら、ゆっくり優美を引っ張る。
「わーい」
優美が声をあげる。
「楽しい、のか?」
優美の顔が見えずに困惑する浩太。ひとまず優美がやめてと言うまでは続けようと思った。
しかし、十分ぐらい経つと、脚と腰に張りを感じ始めた。優美が軽いとはいえ、中腰の姿勢を保ったまま引っ張るのは負荷がかかる。おまけに優美に怪我をさせないように気を遣うため、余計に疲れが出るのかもしれない。
「大変でしょ」
と、キッチンから彩希の声が聞こえてきた。
「こんなに軽いのになぁ」
浩太は優美を引っ張りながら苦笑する。
すると、彩希がキッチンから出てきた。
「飯の支度はいいのか?」
「うん、いまオーブンでローストチキン作ってるから」
「クリスマスじゃあるまいし」
「いいじゃない。美味しいんだから」
彩希はソファに腰かけると、脚を組んでテレビを点けた。
「すとっぷー」
ようやく優美は飽きたようだ。
浩太は優美の両脚をゆっくり床につけた。すぐに優美が立つ。
「おとーさんのばんだよー」
「俺もやるの?」
「あおむけになってー」
「こ、こうか?」
と言いながら、浩太は仰向けに寝転がり、優美に向かって手を伸ばした。すると、優美は浩太の左手首を両手でつかんだ。
「むー」
優美が引っ張り始める。
「がんばれがんばれー」
と彩希が応援する。
「お」
身体が滑り出した。フローリングの床がきれいに磨かれているとはいえ、優美は思いのほか力があるのかもしれない。
「うおー」
一生懸命引っ張る優美。力の入れ具合からすると、綱引きのように身体を傾けて引っ張っているようだった。
「おお、すごいすごい」
浩太も優美を応援する。すると、優美は方向を変えてソファに進路を向けた。
「あっと」
テーブルの動く音がした。彩希がどかしたようだ。
優美は彩希のところに浩太を引っ張っていく。だが、カーペットに乗り上げると、止まってしまった。さすがに三歳児では摩擦に勝てないらしかった。
「うんしょ、うんしょ」
と優美が何度も勢いをつけて引っ張ろうとする。
――ちょっと手伝ってやるか。
と、浩太は思い、足の裏を床につけて押した。優美に気づかれないよう、ちょっとずつ力を入れて、引っ張らせた。
「わー」
ようやく身体がカーペットの上を滑り始めた。
ソファの近くまで引っ張られると、優美が浩太の手を横に動かした。
「ん?」
手のひらに何かが触れる感覚があった。浩太は顎を上げて自分の手を見た。
「マッサージだよー。もみもみー」
優美が無邪気に言う。
しかし、浩太は気が気でなかった。自分の掌が彩希の露出したふくらはぎに触れていたのだから。しかも優美が押し付けているので払いのけたくてもできない状況だった。手を振ってしまうと優美を転ばせてしまうかもしれない。柔らかみのあるいい脚だ、と思ったが、一瞬でかき消した。
――手ぇすら握ったことねえんだぞ。
なのに、ふくらはぎを揉むのは行き過ぎている気がした。
逆さになった視界の中で、優美が浩太の指を動かして彩希のふくらはぎを揉むのが見えた。
「なに、お父さん。マッサージ?」
と、なぜか彩希は朗らかな声をあげる。
「ひ、平沼、あの――」
「彩希でしょ、浩太。ねえ、優美。お父さんいつもこうしてたっけ?」
やんわり言う彩希。
「しているよー。おかーさん、おつかれさまって」
と、優美はとことこと足を動かすと、浩太の身体にのぼった。胸に顔を埋めるようにしてうつぶせになる。
浩太は彩希から手を離した。感触がまだ掌に残っている。
「ごめん、彩希」
謝らないといけないと思った。
「浩太ってウブね」
彩希は浩太を見下ろしながら微笑する。
「いや、さすがに脚触るのはまずいだろ。俺たちつき合ってもないのに」
「胸やお尻を触ったわけじゃないし、そんなにキョどらなくていいでしょ。それに、子どもいたずらじゃない。ん? いたずらじゃないね。親切って感じかな」
彩希は指先を顎に押し当てて宙に目を向けた。もう一度浩太を見下ろしてから言葉を続ける。
「わたしたち家族なんだし、気にしなくていいでしょ」
「つーか、よくよく考えてみると、いろんな段階すっ飛ばしてないか?」
「恋人関係、結婚、出産。たしかにそうね」
「なのに家族ねぇ」
腑に落ちないことが山ほど湧いてきた気がする。
「ぎゅーしてー」
腹の上にいる優美が顔を埋めながら声をあげる。
浩太は、優美に両腕を回して抱いてやった。
「理屈はどうだっていいじゃない。こうして優美がいるんだし、ちゃんと遊んであげれば」
彩希はあっけらかんと言う。
と、そのとき、ポケットのスマホから通知音が鳴った。
取り出そうと思ったが、優美のぬくもりが心地よく、手を離す気になれなかった。
優美の甘えたい気持ちに寄り添いたいと思った。
――父親の自覚ってやつか?
未婚のはずなのに、子どもをいたわる気持ちが湧いてくるのが不思議だった。
「あ、わたしにも来た」
彩希がテーブルに置いてあったスマホを手に取る。
「サークルかな?」
ほぼ同じタイミングなので、それしか考えられなかった。
「明乃さんから。えーっと、明日、西武池袋の別館で古本市があるから暇な人は十時に集合だって」
「あの人、法科大学院受けるんじゃなかったっけ? よくそんな暇あるな」
「要領いいからじゃない。たしか明乃さん、成績もほとんど優みたいだし。とりあえず、わたしと浩太は行くって返信しておくから」
「ちょっと待て。優美はどうするんだ?」
「連れて行けばいいでしょ。優美も早いうちからいろんな人に触れた方がいいわ」
彩希は独自の教育論を言うと、スマホを操作して明乃に返信した。
「どう言えばいいんだろうなぁ」
未来から娘が来ました、と説明しても信じるわけがないので、彩希を止めようとした。
けれど、嬉しそうに目を細める彩希を見ると、喉が動かなくなった。彩希は自慢の娘を紹介する機会に恵まれたと感じたかのようで、それを止めると彼女の気分を損ねる気がした。
浩太は顎を下げると、優美と目が合った。
「おでかけー?」
なんとなく会話の内容を理解したらしい。
「あ、ああ。明日、お父さんのお友だちも一緒に遊んでくれるからな」
そう言うしかなかった。
「やったー」
優美はもぞもぞ動くと、浩太の腕の中から抜け出た。すぐ床に足をつけると、彩希の傍に近寄る。
浩太は上体を起こし、床に胡坐をかいて二人に目を向けた。
優美が笑顔になって彩希を見上げていた。
「よーし、ほらほら」
彩希は優美を抱っこして膝の上に乗せた。
優美は彩希に縋りつくように身体を寄せる。甘えるような仕草に彩希が応えて優美の背中に手を回すと、目を細めて暖かな微笑を浮かべた。
その光景に、浩太の目が留まった。ドラマのワンシーンを観ているようでもあり、嘘偽りのない母娘の何気ない触れ合いにも見えた。彩希から漏れた微笑に不自然なものは一切なく、腕の中にいる娘を慈しむ母親の顔だった。
「絵になるよなぁ」
と、浩太は陳腐な言葉しか口にできなかった。
そして、このシーンを目に焼き付けられる幸せに授かったような気がした。




